映画・テレビ

死の傑作が遠からず/「僕の初恋をキミに捧ぐ」

思い出すのはいささかうっとおしいですが、僕は、程度の重い小児喘息でありました。

―――――

経験から言いますけども、何かの発作で苦しむひとが、前向きに「頑張れ、自分。負けるな、自分」などと己れを励ますことが出来るのは、三日三晩が限度です。

―――――

それを過ぎると、ただ、(この苦しみを終わらせて…)と、願う以外になくなります。

―――――

横隔膜が痛くなるほど激しい咳を繰り返し、苦しいのでふとんに伏せるわけにいかず、結局、椅子に座ったまま、机に突っ伏して何十時間も過ごすことになる。

―――――

当然、眠れないので、意識がモウロウとしてきます。

―――――

繰り返される咳の発作と呼吸困難。

―――――

食事なんか取れません。

―――――

このまま、死んじゃうんじゃないのか?…

―――――

と、そう考えたことも何度もあります。

―――――

しかし、「こんなに苦しむくらいなら、死んでしまいたい…」などとは、いっぺんも思ったことがなかったな…。

―――――

僕が小学校に上がる頃の話しです。

―――――

「僕の初恋をキミに捧ぐ」

―――――

僕は8才のとき、最低の約束をした…

―――――

守れない約束を。

―――――

幼い頃から心臓の病を抱える少年・逞(岡田将生)。

―――――

その彼の恋人になる少女・繭(井上真央)。

―――――

ふたりは、大人になったら結婚しようと誓い合う。

―――――

二十歳まで生きられない、とされる逞と、彼に対してひたすら「一途」な繭の恋愛は、順調に育まれていきますが…

―――――

僕たちふたりの恋愛にはタイムリミットがある。

―――――

とは、逞の台詞。

―――――

ふたりの想いの結末は…

―――――

えー、実は、原作を読みまして。

―――――

ふーん…

―――――

平板に流れそうな話しを、ずいぶん繊細に描いてある…。

―――――

ってんで、興味を持って、映画を観に行ったのでございます。

―――――

結果。

―――――

いやー、久々に、心すなおに「凡庸」と言える一本です。

―――――

主演の二人の魅力を除いて、観るべきところは、ほとんど無いす。

―――――

見るひとが見れば、逞の恋のライバル・鈴谷昴役の細田よしひこくんが気になる、かな?
ま、それは余談。

―――――

つまらなかったのに書く気になったのは、以下のような理由による。

―――――

ご存知の通り、近年の日本映画界における「僕は(あたしは)死んじゃうけど、君の(あなたの)こと、最期まで愛してる」式『愛と死を見つめて』ジャンルの躍進には、本当にめざましいものがあり、「どんな終わり方をするか、容易に予想のつくもの」に、なぜ、これほど人が集まるのか、いい加減、この辺で少し触れておいてもよさそうな、そんな気がするのです。

―――――

なにしろ、あーた、「たかだか死んじゃう、っていう“だけ”」の話を語らんとして、実録あり、ケータイ小説あり、マンガあり…

―――――

「死んじゃうひと」も、N澤MみさんをはじめとしてM浦H馬くん、A倉N々さん、O沢Tかおさん、T村M和さん…と、性別・年代、多岐に渡る。

―――――

なぜに、みんな、死に急ぐ?

―――――

いや、多くは「感動しましたぁー!」という声援に支えられているようなので、水を差すのもなンだし、簡単にチャチャは入れますまい(あ、いやいや、そう言っといて、こうして入れるのでありますけども)。

―――――

言いたいのは、2つのことです。おっと、

―――――

正確に言いましょう。

―――――

この流行りには、2つの「日本社会からの要請」が込められている…縮めるなら、2つの視点が隠されている、と思います。

―――――

まずひとつは、「●●くん(●●さん)が好きっ!」という誰にもありがちな、実に素朴な情緒の揺れ動きから解き起こして、一気に人の「死」までを理解しようとする、一見謎めいた欲求です。

―――――

これには明白な解答が付けられる。わりに平凡な解答です。

―――――

死のことが解れば、「人生」についての理解が深まると思ってる。

―――――

「生き方マニュアル」のようなものが、手に入ると、どうやら信じたいのです(ん? 誰が?)

―――――

この観察は、俗流の精神分析から、導き出せる。

―――――

異性に対する憧れが「性」に対する欲求へと高まるとき、そこに日常的な昼間の世界、つまり「生の日々」を突き抜けようとする夜への欲求、「死への欲動」が働いている…というのが、フロイト式精神分析。

―――――

そう聞かされても、驚きはないでしょう?

―――――

あなたが、僕と同じ、日本人だからです。

―――――

西欧にはショックを与えたフロイトの考えが、日本人にとってはさして意外なものでない気がするのは、故なきことではありません。

―――――

我が国では、「あの瞬間」、かの絶頂の瞬間を「逝く」と表現するわけで、聖なる営みに死の影が漂うことは、素直に性を受け止める人には、驚きではないのです。

―――――

他方、英米文化圏では、同じ瞬間を「I'm Coming」と表現し、これはアキラかに、日頃は地上の不浄と離れている「神の世界」、天上との合一を暗示するひと言です。つまりですね、

―――――

英米の女性は、あの瞬間、もはやベッドの上にはおらず昇天しており、「I'm Coming」と口にしているのは、天より降りてきた聖なる意識であるのです。

―――――

(実際には「イってない」のに、演技をする女性がいます。聖なる「儀式」が演じられているわけですね)

―――――

この美しき性の高まりに「死の影が差している」なんて言われたら、衝撃を受けて、当然です。

―――――

その衝撃も過去の話し。

―――――

「愛すること」を追いつめていくと、その究極には「死への欲望」が見えてくる。

―――――

「死」は退屈な日常をぶち破り、我々をものの見事に浄化する「感動のエンターティンメント」を喚起するのだ

―――――

…と、いう思想が、少なくとも日本映画の世界においては、もはや常識のようになってしまっておりますが、日本にもともと「逝く」という表現にまつわる性的風習が在ったにせよ、それを思想的に分析した――フロイト的考え方が輸入された――歴史は浅く、日本精神分析学会が発足するのは、1955年のことです。

―――――

で、

―――――

思うのですが、近年の日本では、この考えを逆にたどり、

―――――

死を見つめていくと、「愛のなんたるか」が理解できる

―――――

、という思考に傾いている気がします。

―――――

なぜ、そんな風になっているのか?

―――――

逆説めきますが、「愛」についての解釈が安定していないからじゃないでしょか。

―――――

これが、本日言いたい、第2点。

―――――

「愛」についても「死」についても分からないので、両者を共に、その起源からたどってみれば、2つが2つながらにして、「白日のもとに」明らかになるではないか、と思ってる。そう期待してる。

―――――

「僕の初恋…」でも、無情な死の宣告が、二人の主人公の「愛情の深まり」をもたらす「契機」として、紹介される。

―――――

彼を好く彼女は、愛をもって、二人を引き裂く死を乗り越えようと試みる。

―――――

「愛」が「死」と同等の価値を持つとき、初めて「愛情についての認識」が輝きだす、というのですから、これはもう、「“愛”とはなんなのかが、『日常的なレベル』にあっては、さっぱり分かっていないのだ…」と、結論付けるよりありません。

(などと書くと、当然の如く、「そう言うおまえは、分かっているのか?」という指摘を受けそうです。ご遠慮なく。そして、どうぞ、あなただけの愛を見つけてください)

―――――

なんだか煙に巻くようなことばかり、書いていますね。

―――――

さらに煙に巻くようなことを述べますが、英米文化圏的意味の「愛」とは、本来、極めて不安定な概念であり、そう簡単に解らなくて当然です。

―――――

アチラの方は、パートナーを残して出かけるときも、外出先から電話するときも、ひじょーに頻繁に「I love you.」と口にしているでしょう?

―――――

そう言わなければ崩れてしまうほど、「愛」というものが足場の不安定なものだからです。

―――――

日本に昔から在った「愛」の字は、もともと御仏の「慈愛」から派生していたものであり、男女の性愛を表していたわけではありません。

―――――

明治になって、「LOVE」という言葉が入ってきたとき、「愛」の字を当てたのは、ニシ・アマネあたりではないか、と想像しますが、導入から百数十年を経た今、

―――――

若い世代を中心に支持される、あちこちに氾濫する「愛と死の物語」には、もともとよく解らない崩れやすい「愛という観念」を、我流で更新しようとする意図が込められている。

―――――

それは、「死」というものを覆い隠し、結果として「生」の輝く場をもふさいでしまった英米的現代観からの脱却を図ろうとする日本の試行錯誤のように見えるのですが…

―――――

それをお手軽に、

―――――

「感動してよ!」
「感動したよ!」

―――――

というやり取りにまとめて済ましているだけではなぁ…

―――――

「死」と「愛」がポップに消費されて、「鬱屈した若さ」もまた消費されるのみで、再び晴れ晴れとした、そして同時にどんよりした、何もさらけださない「日常」がやって来て、それまで。

―――――

…ということになるのではないか、と危惧する僕です。

―――――

いや。
お手軽な消費財としての「愛」や「死」を漫然と売るのが現代芸能なら、そういうはっきりした停滞を打ち破るのもまた、優れた芸能の力であり、

―――――

僕は、アクティブに「待とう」と思います。

(だから、こうして、書きました)

―――――

氾濫する「愛と死の物語」は、一面で、俳優たちの魅力的な存在感(つまり「生命力」ですね)を新たに開発する役をも担っており、

―――――

彼ら彼女らを最高のかたちで演出できる人々も、遠からず現れることでしょう。

―――――

そのとき、観客は言うに違いない。

―――――

「傑作ね! やっと、来たぁ(Coming)って感じじゃない!」

―――――

と。

―――――

Jack

|

なぜ、「あの曲」を!/「パイレーツ・ロック」

あー!
もう!

―――――

なんで「あの曲」なんだ!

―――――

なんで、あんな曲でシメるんだよ!

―――――

…と、急に言っても、分かりませんね。

―――――

失礼。

―――――

「パイレーツ・ロック」です。

―――――

原題は「The Boat That Rocked」

―――――

舞台は1966年の大海原。

―――――

英国国営放送BBCラジオが、大衆音楽を不良の温床と規定し、1日わずか45分間しか掛けない頃、海の上から、つまり船上から、24時間ロック放送を続ける、ものすごい聴取率の海賊音楽ラジオ局が在った!
(実話だそうです。いかにもイギリスらしく、妙にナットク)

―――――

お話は、トンでるママの差し金でこの船に乗り込むことになった高校中退の少年カール(トム・スターリッジ)がやって来るところから始まります。

―――――

彼が知り合う破天荒なDJたち。

―――――

おデブさんなのに何故か女性の支持率圧倒的なデイブ(「キンキー・ブーツ」「ホット・ファズ」のニック・フロスト)。

―――――

“伯爵”とあだ名される本名不明の髭もじゃ米国人(フィリップ・シーモア・ホフマン)。

―――――

伝説的なカリスマ、ギャヴィン(リス・エヴァンス)。

―――――

ほかにも「やたら美男子」だとか「性格悪い」だとか「気のいいレズビアン」だとか、乗員みな個性的なヤツばかり。

―――――

そして、「スティル・クレイジー」以来このテの映画には必ず出てくる、船のオーナー役、ビル・ナイ(お忘れでしょうが、「パイレーツ・オブ・カリビアン」シリーズのタコ髭のお化け海賊です)。

―――――

カールが次第に船に馴染む頃、英国政府の大臣(ケネス・ブラナー)は、この放送局をなんとかして取り締まるべく、動き出しておりました…

―――――

かなり楽しく出来上がってる映画ですが、興業的には、やや、苦戦しているようで。

―――――

ひとつには、取り上げているものの「主眼」が、そしてまたひとつには、その「描き方」が、ひとの興趣をそそらないのかもしんない。

―――――

これ、いま書いた通り、最も活気ある時期のロックンロールが主題でして、ロックの名曲がガンガン掛かりますけれど、「ヘアスプレー」のようなミュージカルではありません。

―――――

例えば、キャメロン・クロウ監督の「あの頃ペニー・レインと」は、ロック文化が衰退していく様を背景にした、切ない青春ストーリーだったんですが、いやこれはそういうものとも、おもむきが異なります。

―――――

言うなれば、純然たる「音楽映画」。

―――――

テーマは「ロック・カルチャーそのもの」です。

―――――

ちゃんと主人公の少年を軸にしたドラマがあり、その点からはストレートプレイなんですが、それでも「音楽を巡る愉しさ」を描くことが大目的なので、例えるならあのジョニー・キャッシュの伝記映画「ウォーク・ザ・ライン/君へつづく道」より、実は「ビートルズがやって来る ヤァ!ヤァ!ヤァ!」のような純然たる音楽映画に近いのです。
売りにくい感じでしょう?

―――――

この映画で掛かる全曲(50曲くらいあるそうですが)のタイトルが全部分かるひと、いるかなぁ…

―――――

僕も半分以上は分かったと思うんですけど、肝心な、ある場面で――DJの1人が後生大事に抱える1の枚LPを、もう1人が「くだらんレコードだ」と言って捨てる――、誰の何ていうアルバムなのか、分からなかった! くそー、面白そうなギャグなのに…

―――――

これは嬉しいことですが、こういう映画が新鮮な視点でロックを掛けると、古い曲が活き活きと聞こえますね。

―――――

ん?

―――――

いや、違うな、

―――――

それぞれの曲が持っている本質的でフレッシュな息吹きが、「時代の空気を再生しよう」とする映画の試みによって、自ら包み込んでいた躍動感を思い出し、(変な言い方ですが)自律的に己れの持つワクワク感を鮮やかに蘇らせるのだ。

―――――

それぞれの曲は活き活きと「させられる」のでなく、自分たちがいつまでも活き活きとした活気を失わないことを、自ら「思い出す」のです。
(そうそう。その方が正しい言い方だ)

―――――

DJたちが掛ける曲(♪ 針がおりる瞬間の 胸の鼓動焼きつけろ)、ストーンズを始めとして、文字通り、きら星の如しです。

―――――

キンクスでしょ、マーサ&バンデラスでしょ、ビーチボーイズ、プロコルハルム…

―――――

シブイところで、ヴァン・モリソンのいたゼムの「ヒア・カムズ・ザ・ナイト」とかね、

―――――

いーですね♪

―――――

いいじゃない、
いかしてるよ♪

―――――

ですが、観てるうちに、だんだん、ひとつのことが気になってきます。

―――――

これだけいっぱい掛けておいて、最後の最後――フィナーレは、どんな曲にするつもりだろう?

―――――

それがさぁ…

―――――

「あの曲」なんだよ!

―――――

あー!
もう!

―――――

なんであの曲なんだ!

―――――

ファンの間では悪名高い、ダっセぇ曲なんだぞ。

―――――

やや唐突な感じのするクライマックスは、感動的なラストを盛り上げるための布石だと「許す」として、シメにあの曲を持ってきたのは、気に入らんなー。

―――――

あれひとつで、「資料で知っていた現実」を思い出しちゃう。

―――――

60年代というのは、この映画が描くほど「ハッピー」な時代ではなかったのじゃなかったっけ。

―――――

親子の断絶。

―――――

政治への期待と絶望。

―――――

麻薬。

―――――

終わらない、性。

―――――

そして、なによりも先の見えない思春期特有の、不満の鬱積。

―――――

オーラスのたった1曲(80年代という、ある意味「不気味な時代」を代表するナンバーです)で、気分がスッと醒めちゃいました。

―――――

醒めちゃったが為に、「なぜ、この映画を製作したのか」なんていうツマランことに、想いを馳せたりしちゃったよ。
納得いかねぇ。

―――――

「ラブ・アクチュアリー」の監督でもあるリチャード・カーティスの演出意図が、「音楽の愉しさをフィルムの中に焼き付ける」ことにあるのは解る。

―――――

それは、よーく、わかった。

―――――

しかし、ラストで、そんな「主張っぽさ」を前面に出してこなくとも、ドラマを通じて、ロックの素晴らしさ――鬱屈、裏切り、絶望の季節を通り過ぎて、産み出されたときには在ったかもしれない矛盾を、時の経過と共に乗り越えて、ただ残った「身体の音楽」の素晴らしさ――は、充分に伝わってたんじゃないのかな…。

―――――

「みんな、いまでも、いつだって、ロックを聴いてる」という理屈っぽい締めくくりに、がっかりというより、どこかシャクにさわる「大人の余裕」を感じて、「ロックがそんな余裕と共に“大人たちの文化”として取られちゃったら、子どもたちの居場所は、ますます狭くなっちまうんじゃないのかい?」という疑問を感じて、そのせいで、それまでの2時間強の愉しい時間にさえ、留保を付けたくなったりして、「ちぇっ」と思いながら劇場を出たのでした。

―――――

(いや、愉しかったんですけどね、僕はなんで「大人と子どもの関係」について、ピリピリしたりするのかな。

そういうことを気にしない人に、この映画をお薦めします)

―――――

Jack

|

過渡の男/「ワイルド・スピード MAX」

本日は、ヴィン・ディーゼルという男について。

―――――

先ほど「笑っていいとも!」を見てましたら、テレホンショッキングのゲストで出た大杉漣さんが、「57才で車の免許を取った」、とお話しされてました。

―――――

そうかぁ…

―――――

60近くなっても、頑張れば取れるのかぁ…

―――――

ちょっと希望が湧いちゃうなぁ!…

―――――

実はですね、

―――――

わたくし、クルマがかなり好きなのに、免許を持っていないんです。

―――――

好きなのに乗れないから、単なる野次馬的関心ですね。

―――――

なんで、免許を取ってないのか?

―――――

いやー、話せば長いんだよ、

―――――

いろいろ事情があったのよ。

―――――

ま、それはともかく

―――――

乗れないくせに、ちょっとしたことを申しましょう。

―――――

先日F1の日本グランプリが行われたあとのラジオの番組で、ピストン西沢さんが

―――――

「最高度の機械を“人間”が動かしてるんだよなぁ!」

―――――

と、

―――――

そこにロマンがあるんだよなぁ! と…

―――――

いささか興奮気味に語っておられましたが、はっきり言って、そうゆう20世紀サルトルもどき的文学調ヒューマニズムは、この場合はどうでもよろしい。

―――――

では一体なにが、僕にとっての関心の対象なのかと言いますと、

―――――

わたくしですね、

―――――

昔から機械と人間の関係、ひいては「機械が人間社会に及ぼす影響」なんかに激しく興味を持っておりまして…

―――――

「機械」というのは、もとより人間の生み出すものですから、つまり、人間が自ら作り出したシステムによって(それを制御するのでなく)、逆に働きかけられて、それまで安閑と持っていた旧式な「人間らしさ」に大なり小なり変革を迫られ、「変わらざるを得なくなる」という事態に目を引かれてしまうのです。

―――――

F1は、そのことが究極的に示されるショーだと思っています。

―――――

分かりにくいですか?

―――――

では、あなたにも身近な例を引きましょう。

―――――

古いところでは、「12時間計測の機械時計」がそうですね。

―――――

機械時計は、部屋の中に「時間という考え方」を持ち込みました。

―――――

我々は、機械式時計がもし発明されていなければ、おそらく現在とは根本的に異なる時間センスのもとに暮らしているはずです。

―――――

海外旅行の楽しみなども、「持ち込まれた時間の観念」と、大きな関わりを持っている。はい。

―――――

さて、ほかには何か?

―――――

「電話」がそうでしょ。

―――――

あれは明らかに、手紙と電信しかなかった時代に比べて、人間の生活を変えました。

―――――

生活が変わる、ということは、人間が基幹としている「精神性」にも、ただならぬ揺さぶりをかけられるということです。

―――――

もっと言いましょう。

―――――

人間の暮らしと「昔からあったはずの人間らしさ」を変えたもの。

―――――

テレビがそうでしょ。

―――――

パソコンがそう。

―――――

ケータイがそう。

―――――

かつてのウォークマンや今のiPodがそう。

―――――

そうしたものが登場するたび、我々が日頃疑ってかかることのない「人間らしさ」は振動させられ、「ちょっと」か「大きく」かは分かりませんが、機械との関係において、それ以前に信じていた姿から内面的に(いや、もしかしたら外見も)、変質しているのです。

―――――

変身する醍醐味。

―――――

腕時計ひとつ、携帯電話ひとつ変えただけで私たちは、「ファッションを変えた」つもりになる。

―――――

その最たるものが、自動車です。

―――――

残念ながら日本では変わりつつありますが、「クルマを持つ」ということは、多くの国で「ステイタス」です。

―――――

この「ステイタス」には、ふた通りの意味がありまして、ひとつにはメルセデスやBMW、あるいはレクサスに乗る、つまりは「ハイクラスの人間である」というしるし。

―――――

そしてもうひとつが、シェヴィやGT-Rを乗りこなす「俺は世間に迎合なんかしないぜ!」という若き反逆のしるしです。

―――――

この2つが重なるとき、そこには「社会のルールを逸脱することによって、凡人たちより上に立った!」という者がいる。

―――――

クルマというのは、カウンターカルチャーの最も先鋭的な“旗印”ともなり得たのです。

―――――

…と、過去形で言いましたが、やはり自動車に乗ることが、スタイリッシュな「社会への反抗」として衝撃的だったのは、ジェームス・ディーンの時代までさかのぼらねばならないでしょう。

―――――

いつしか世の中は、低燃費ローコストのミニバンや軽乗用車で溢れ、「なにをしたいか自分でも分からないが、とにかく既成社会のいろんな仕組みに向けて、不屈の雄叫びをあげたい!」、と思っている若者を――(そういう若者の数自体が減っているかもしれませんが)――魅了するようなクルマが減りました。

―――――

原題「Fast & Furious」、邦題「ワイルド・スピード」のシリーズは、そんな若者の想いを取り込もうとして、作られている。

―――――

基本となるのは、

―――――

公道を猛烈な勢いで疾走する改造車、

―――――

ネット社会に巣食うワルの異分子、

―――――

お堅い警察やFBIをものともしないロック文化、

―――――

男と女と酒、

―――――

などです。

―――――

そう。

―――――

核となるのは「男と女と酒」の部分。

―――――

新しい話題じゃない。

―――――

あの斬新なスパイ映画「トリプルX」のように、新しい話題のほうに目を向けていたなれば、これは「新しい映画」となったでしょうが、この作品の場合は、新しく装っただけの保守的なロマンティシズムが幅をきかせておりますです。

―――――

「ワイルド・スピード MAX」

―――――

第一作目で若者たちの暴走グループに潜入した捜査官ブライアン(ポール・ウォーカー)は今やFBIに籍を置き、麻薬組織を追っている。

―――――

一方、グループのリーダー的存在だったドミニクは国外に逃れ、相変わらずの無軌道ぶり。

―――――

そんな二人がひとつの事件をきっかけに、運命的な再会を果たします。

―――――

アメリカに戻るドミニクの目的は何か。

―――――

ブライアンは彼を逮捕しなければならないのか?

―――――

もう一度、互いの意地とプライドを賭けたバトルが始まる。

―――――

…と、書くと、しらけたりしませんか?

―――――

この映画、冒頭の派手なカーアクションで魅せたと思ったら、あとが良くない。

―――――

復讐に燃える男と、その男に奇妙な友情を抱くもうひとりの男、という設定は、上手に描いてくれないと、古臭い浪花節そのもので、ドラマが鼻白むほど退屈です。

―――――

よく出来た脚本とは言えない。

―――――

こういう映画――クルマとインターネットと髪の長いいいオンナとロックと反抗精神――つまり、実体はアンチ・ニューエイジな「男の子趣味」――に現代的なリアリティを与えるには、「新しい文化」の中で得た“肉体”を持つ、「新しいヒーロー」が必要です。

―――――

かつて、そのような役を担ったのは、シュワルツェネッガーだった。

―――――

あの大迫力、

―――――

ショットガンを持って立つだけで新時代のシンボルたり得た「世紀末の金剛像」、

―――――

進化する時代の様相をあれほど的確に捉えた「肉体性の魅力」は、いったん溶鉱炉の中へと姿を消し、以前よりかなり小粒な――見方によっては、前よりも小回りの利く――外見を伴って、Google検索に代表される新しいカルチャーをフォローしきれないハリウッドの「期待の星」として、戻ってきました。
それが、つまりは、

―――――

ヴィン・ディーゼルという男であり、彼の立ち位置だと思うんですね。

―――――

この映画でドミニク役を勤める彼にとって、最新の改造車を操り、裏社会に潜む麻薬組織と対決するなぞ、軽いものです。

―――――

「軽い」というのは、ヒーローになることが、彼にとって容易だと言っているだけでなく、

―――――

彼が体現するカルチャーの質そのものが、機械の如き現代社会の中に埋もれて、相対的「比重」が軽くなってしまっている、と…

―――――

スカッとしに入った劇場で、ただただ「うーん…」と唸らされた2時間から、そういう連想が浮かんだわけです。

―――――

この映画の作り手たちは、観客の中にある言葉にしにくい関心事が「いつの時代にも変わらぬロマン」などでなく、「機械に追い詰められつつある人間の、現在なりの生き方」であることを解っていない。

―――――

作り手は解っていないが、ディーゼルという男は、身体で「それ」を表現してる。

―――――

機械と人間の対峙――機械との関係を通して変わる人間の本質――が、人々にとって「気になる話題」である限り、

―――――

ディーゼルは「軽い比重のヒーロー」をしばらくの間、演じ続けていくでしょう。

―――――

誰か、そのせめぎ合いの本質を体で表せる「本物」が現れるまで。そう。

―――――

(つまり、ワルいけれどもこの人の存在は、過渡的なものではないでしょか)

―――――

Jack

|

空洞/「しんぼる」

やー、やっと観られた!

―――――

「しんぼる」です。

―――――

観たかった。

―――――

いろいろ都合で劇場に行けず、「まぁ大人気のようだし、もうしばらく放っといても、上映はしてるだろう…」と、高をくくっていましたら…

―――――

ん?
なんだ?

―――――

あれあれ、
「大人気」ってわけでもないのか…

―――――

yahooのレビュー見ました。

―――――

そうか…
賛否両論、ていうやつか…

―――――

いかんな、どうやら、早く観に行かないと、終わっちゃうな。

―――――

…てんで、観てきました!

―――――

結果…

―――――

やー! 僕は、「賛」のほうですね!

―――――

「賛」の上に「大絶」を付けたいです。

―――――

かーなり面白いじゃないの。

―――――

取り上げたテーマの「料理の仕方」が、たいへんエレガントで、見せ方も、要所要所でとても巧い!とうなること、しきりでした。

―――――

その「テーマ」について、いろいろと言いたくなる映画でもあるんですが、あー、言っちゃうと、「ネタバレ」ってことになるんだろうな…

(しかし、「ネタバレ、ネタバレ」って、いつから言い出したんでしょう? そんなにうるさいこと言ってたら、淀川センセや植草甚一さんの映画解説なんて、まったく成り立たないことになるし、内容にチビッと触れるだけでもピリピリと目くじら立てるなんて、「映画を巡る環境」を楽しんでないね。どうかしてます、ほんと)

―――――

メキシコの田舎に住む、とあるプロレスラーとその家族のお話。

―――――

特にどうということもない日常が、淡々と綴られます。
今日は試合のある日です。

―――――

一方、

―――――

なんの関係があるのか、まったく説明の入らぬ場面。

―――――

真っ白な壁で四方を仕切られた大きな部屋。

―――――

天井は遥か見えないほど高く、上空からは太陽が照らす如く、明るい光が差している…。

―――――

この部屋に、パジャマ姿の男(松本人志)が閉じ込められている。

―――――

観ていくと分かりますが、この映画、「なぜ閉じ込められたか」を問うことには(まるで人生のように)意味がない。

―――――

男は、なんとかして部屋から出ようと試みますが…

―――――

さて、メキシコのお話と、この部屋のエピソードは、どういう脈絡で一本の映画にまとめられているのでしょうか?

―――――

あのですね…

―――――

この作品の中身について、どう触れたらいいかな、えーと…

―――――

あの…「世界観」ていう言い方があるでしょう?

―――――

恋愛映画でもアクション映画でも、「この作品の世界観は…」なんて言う。

―――――

もっと分かりやすい例を引くなら、「ハリーポッター」のようなファンタジーや「ウルヴァリン」のようなSF。

―――――

「世界観」の描き方が決定的な意味を持ちます。

―――――

で、

―――――

これは、松本人志という人が、「おれは“世界”というものを、こういうものだと認識してます」と表明している、一種のプライベート・フィルムです。

―――――

その認識というのは、ひとくちに言って、「世界とは、なんとも、おかしい」というものです。

―――――

もちろん、この「おかしい」には二重の意味が込められてる。

―――――

「おかしい」という単語に、「笑える」という意味と、「狂っている」というもうひとつの意味が、重ね合わされています。

(実際に笑えるかどうかは、別問題です。
コメディ映画としての角度からは、飛びすぎてて、僕は笑えませんでした)

―――――

「笑っちゃう」ということと「狂っている」ということが並立するような、そんな映画的テクストとは、どのようなスタイルを取るものか。

―――――

今まで何人もの監督がこの問いに挑戦し、その中には、キューブリックの「博士の異常な愛情」のような大傑作や、スピルバーグの「1941」のような意欲の空回りした不発の作品や、いろいろとありますが、

―――――

そうした様々なメタ・フュシカ(形而上学)的「世界への興味」を提示してきた映画群の中にあって、この「しんぼる」という作品がユニークなのは、

―――――

「まず“世界”なるものを成立せしめている枠組みには、狂っているなりにルールがある」

―――――

という観点を見せてくれるところでしょう。

―――――

閉ざされた部屋からの脱出を試みる男は、「あるシンボル」以外に何もないその部屋が、一定の規則に支配されているのに気づく。

―――――

彼は、その「支配の規則」にたちまち、順応していってしまいます。

―――――

そうすることが、「脱出」の鍵になるのではないかと考えて。

―――――

メタフィジーク(哲学)的でありながら、現実に生きる「子どもから大人へと、今まさに変化しつつある人々」が、いかにも取りそうな態度の「暗喩」になっているでしょう?

―――――

支配の規則に気づき、それに乗っかり、さらに利用しさえすることで、彼はなんとかして状況を逆手に取り、「知らぬ間に与えられていたテリトリー」の“利用者”の立場に立とうとする。

―――――

誰もが、社会人になるとき、経験しそうなことですね。

―――――

ひとが社会人になる、ということを一面から捉えるなら、それは様々な新体験への感想を持つに留まっていた思春期を「脱出」し、自分の人生の「主役になろう」とする時期だ、と言えます。

―――――

観客であることから主役になることへの「立場」の移行。

―――――

しかし、移行したところで、彼/彼女に「世の習い」のすべてが解るわけではありません。

―――――

ありませんが、それでも人は、たいていのことについて、「解っているフリ」をしなくちゃならない。

―――――

脱出の努力を重ねるうちに、人は知らぬ間に、そうした如何にもうさんくさい立場を選ばされてしまうのです。

―――――

映画は、その辺りのことについて、一見ミニマルに、実は非常に巨視的に描いています。

―――――

『〈主人〉は、構造の本質的欠如の場所に自分がいることに気づくと、自分がその剰余――構造からこぼれ落ちる謎のX――を掌握しているかのように行動する』

スラヴォイ・ジジェク「汝の症候を楽しめ」:鈴木晶 訳

―――――

僕が「ああ、これは、ものすごく面白いなぁ…」と思った最大の要点は、

―――――

追い詰められた末の狂気がどこへたどり着くかを「じっ…」と見つめていくと、結局、「2001年 宇宙の旅」のボウマン船長のような“役割”がある、という推論に行き着くんだな…というトコです。

―――――

狂ったコンピュータ「HAL」が支配する宇宙船を脱出しようと必死になるその果てに、ボウマンは、巨大な秘密があるのに気づく。

―――――

もちろん想像の域を出ませんがこの映画、「2001年…」から大きくインスパイアを受けている、と見ましたです。

―――――

繰り返しますが、中途半端に終わるかに見えるこの映画には、きちんとした結論があります。

―――――

「世界は、なんとも、おかしい」

―――――

松本監督が芯からの芸術家だと思うのは、「おかしいから、こう生きるべきだ」とは言ってない点です。

―――――

かつてトリュフォーが言った如く、「芸術家は何かの提言をするのでなく、ただ、見せるだけ」が仕事です。

―――――

こういう映画を観て、「1800円かえせ!」とか言ってる連中の気が知れない。

―――――

わざといたずらにペダンチックに書きますが、松本人志という監督は、「極めて充実した空洞」のような作品を作ってみせた。

―――――

「充実した空洞」

―――――

というのが、モチーフとして優れて現代先進国的であることを述べて、今回は終わりましょう。

―――――

その辺りについて、つまり充実した空洞について、もう少し突っ込んでみたい人は、この映画を観たあとに、「2001年…」と同じくキューブリックの「アイズ・ワイド・シャット」なんかを観るといいです。

―――――

(“なんにもない”っていうことに凄味を見るか、腹を立てるか…、なんとなく若いひとのほうが怒っちゃいそうな気もしますね。日本も含めた先進諸国が「若くない」ってことの、ある種の証しでもあります。

いま、若いひとには面白くない時代が続いているのかもしれない、ということが、ひとつ気がかりではありますが)

―――――

Jack

|

夢見るように語らせて/「ココ・アヴァン・シャネル」

フランス語で「Directeur」、ディレクトゥールと言うと、部長・局長・所長・支配人…などの意味になります。

―――――

「映画監督」と言いたい場合には「Realisateur」、レアリザトゥールと言います。

―――――

「Realiser」、レアリゼという動詞が「実現すること」、ひいては「夢想を現前化させること」を意味していますので、レアリザトゥールという呼び名は、それだけでロマンティックなニュアンスを持っています。

―――――

フランス人が映画というものをどう観ているか、ちょっと「感じさせる」お話しじゃないでしょか。

―――――

ちなみに女性監督のことは「Realisatrice」、レアリザトリスと言うのですが、まさしくこのレアリザトリスの敬称がふさわしいと思うのは、

―――――

「ココ・アヴァン・シャネル」

―――――

のアンヌ・フォンテーヌ監督です。

―――――

19世紀の終わり。
20世紀の始まりの予感がある頃。

―――――

孤児院にひと組の姉妹が預けられる。

―――――

妹の名前はガブリエル。

―――――

「ココになる前の(アヴァン)シャネル」。

―――――

長じてお針子をしながら姉と共に酒場で歌う歌手となった彼女は、陽気な軍人バルザンと出会います。

―――――

なんとしてでも貧乏から抜け出して、パリに出る。

―――――

そう決意する彼女は、バルザンのもとへ、「押しかけ愛人」として住み込みますが…

―――――

これはねぇ…

―――――

フランス映画に常に革新の息吹きを感じていたい「作家主義びいき」の人なら、複雑な想いで観るだろうなぁ…

―――――

僕?
僕はすっかりお気に入りです。

―――――

どうかすると「保守的」と言ってもいい語り口が、この映画に関しては魅力的です。

―――――

全編、「女による女の見方」が光っている、と感じました。

―――――

日々の貧しい暮らしに追われるココ(オドレイ・トトゥ)を、顔に下から光を当てて、やつれた疲れ果てた表情で表現する残酷さ…

―――――

彼女が初めてパリ社交界の女性たちを目の当たりにする際の高揚を、彼女目線で移動するカメラであらわす手法…

―――――

その目は飾りの多い帽子やコルセット付きのドレスを追っていく…

―――――

だが、やがて女性を締め付ける格好に疑問を持ち、ファッションへの才気を「社会への反抗」として伸ばしていく様をゆっくり繊細に捉える脚本…

―――――

オドレイ・トトゥが次第に魅力を拓いてく。

―――――

極めつけは、海を初めて見た直後の描写です。

―――――

ネイビーブルーのジャンパーに縞々シャツの漁師を見るココ。

―――――

次のシーンでは、もうジャンパーや縞シャツを着こなしてる!

―――――

そうした衣服に関する細部の表現に加えて、彼女の生きざまに絡む「男」の描き方もうまい。

―――――

特に人生享楽派のバルザンを演じるブノワ・ポールブールドがいい。

―――――

ココの奇行に手を焼き、厄介者扱いしながら、いざ彼女が別の男に入れ込んでいくと焼きもちを妬くという…

―――――

男性観察も堂に入ったものです。

―――――

しいてケチをつけるなら、後半から登場するカペルなる青年との恋愛の描き方が平凡かな?

―――――

それでも、それは、これだけ贅を尽くした映画の傷とは言えないと思います。

―――――

フランス映画も、こんな風に「愛すべき人生」を描けるほどに「揺り戻し」たか…

―――――

ここに至るまでに在った、幾つもの「ポスト(脱)・ヌーヴェルヴァーグ」の映画たちを連想しました。

―――――

ヌーヴェルヴァーグというものをどう位置付けるかが、ひと頃のフランス映画界にとって、最大の難題でありました。

―――――

一時代を飾ったポスト・ヌーヴェルヴァーグのフランス映画たちは、ベネックスの「ディーバ」にせよカラックスの「ポンヌフの恋人」にせよ、みんなどこか「メタ恋愛劇」といったおもむきのものでした。

―――――

同じくベネックスの「ロザリンとライオン」なんて、まさしくメタ恋愛劇だったし、パトリス・ルコントの「橋の上の娘」なんてメタ恋愛劇そのものです。

―――――

「メタ」恋愛劇って、なんのことかと言いますと、恋や愛について謳う前に、「まず、“愛する”とはどういうことだ?」という「大前提」を疑うことが介在していたのです。

―――――

「すべてを疑って、小間切れの要素に分解する」というのがヌーヴェルバーグの映画作家たちに多く見られた態度です。

―――――

60年代から70年代にかけてというのは、あちこちで既製の価値観が崩壊し、若者が独自の視点で何事かを創ろうとした時期です。

―――――

フランスの若い映画監督(自ら「映画作家」と名乗りました)は、まずいったん、あらゆる物語を「出来事の総和」と捉え、その観点から出来事ひとつひとつを小間切れにして自由につなぐ、という手段に打って出た。

―――――

そうすることで、あらゆる出来事について、「これって、つまり何のことなんでしょう?」という「議題」に仕立てることをやってのけた。

―――――

その若さは、いま観ても、鮮烈です。

―――――

しかしながら、ここに、ある問題点を見るとすると、作家たちが「あとに残るような“方法論”を提示しなかった」、ということになるでしょか。

―――――

小間切れにされた議題たちは、それぞれがひとつひとつ、たいへん魅力的なパズルのピースを構成していたのですが、それらを発表する作家たちが主に「即興性」を重んじていたこともあり、手法として映画界に定着するものではありませんでした。

―――――

困ったことに、魅力的な即興性を発揮したヌーヴェルヴァーグの映画たちは、それまでの、「どちらかと言うと観客の持つ常識に対して優しく進行する」オールドスタイルの映画群を、蹴散らしてしまいました――(それは映画の歴史に向けてオマージュを捧げようとした若い映画監督たちにとっては、本意でなかったはずなのですが)――。

―――――

ヌーヴェルヴァーグがフランス映画を駄目にした、と言ったのは故・淀川長治さんですが、駄目にしたかどうかはともかく、「まず疑うことありき」といった考え方の衝撃は、たしかにフランス映画から「物語ることのカタルシス」を奪ってしまったと言えるかもしれません。

―――――

「語る」という行為は、それが疑問のかたちで綴られた場合には、観客にとって「何かを投げかけられた」ものにはなるかもしれないが、「描写の奥深さにウットリした」とか、「痛快さにウサを晴らした」とかいったものにはなりにくいからです。

―――――

(この点、ヌーヴェルヴァーグの映画作家たちが表現に関して鋭かったのは、彼らが激動の時代に在って、マンネリに陥りつつあった伝統的な「物語る」やり方をいさぎよく捨て、「ロマン」や「痛快さ」を達成するためにこそ小間切れの即興性を選んでいったことでしょう。たとえそれが何事かの方法論を打ち立てる、といった「建設的な」やり方でなかったにしても、です。エニウェイ、いずれにせよ)

―――――

ヌーヴェルヴァーグの「負の遺産」とでも呼ぶべきものを受け継がざるをえなかったフランスの監督・脚本家たちは、愛や恋や怒りや悲しみや憂いやまどろみや、要するに「人生についてのストーリー」を再び「とうとうと流れる物語」として語れるようになる日を、いろいろ努力しながら待ち焦がれていたはずなのです。

―――――

で、

―――――

この「ココ・アヴァン・シャネル」は、もうそれが出来てる。

―――――

このことは、マリオン・コティヤール主演の「エディット・ピアフ 愛の讃歌」でも感じたことでありますが、この映画を観て、「ああ、本当にフランス映画も新しい時代に入ったな」と確信いたしましたです。

―――――

かつてゴダールは、自らを「ジャン=リュック・シネマ・ゴダール」と名乗り、ただひたすら「映画だけが尊敬すべきものである」という態度を採った。

―――――

彼が尊敬するのは「出来事としての映画」であって、物語ではありません。

―――――

しかし、どうやら時代は、謂わば「思潮としてのシネマ」という出来事の季節から、レアリザトゥール・レアリザトリスのつむぐ「フィルムに焼き付けた物語」のほうへと移行したようです。

―――――

これは歓迎すべきことでしょうか?

―――――

両者共存を望むのが、いちばん穏やかな希望でしょうが、それはおそらく意味がない。

―――――

今年で79才になるゴダールや81才になるジャック・リヴェット、さらには89才になるエリック・ロメールがこの先どんな映画を発表するのか、

―――――

僕は、この「レアリザトリス」アントワーヌ監督の映画を観て、よけい楽しみになった気がしています。

―――――

(「物語という名の夢の現前化」という行為が再び輝きを増してきた「新古典主義」と言ってもいいフランスの状況下に、いまや御大となった彼らがどんな「出来事」を見ているのか、知りたいと思うんです)

―――――

Jack

|

お修辞の時間/「ウルヴァリン:X-MEN ZERO」

ものすごくよく出来た、とっても面白い映画なんですけど、「?」ていう…

―――――

おすぎさんも指摘していることですが、面白いけど「暗い」。

―――――

なんで暗いのか、
また、「なぜ暗いのが気になるのか」が、妙に気になる。

―――――

今日は、そのお話しをいたします。

―――――

初めにちょっと回り道して、別の映画の話題から。

―――――

スティーヴ・マックィーンが主演して1966年に公開された西部劇に、「ネバダ・スミス」というのがあります。

―――――

「荒野の七人」が60年、「大脱走」が63年ですから、マックィーンはもう新しいスターになっていたと言っていいでしょう。

―――――

このあと、「華麗なる賭け」やら「ブリット」やらを経て、「ゲッタウェイ」の円熟期へ進んでいくことになる。

―――――

「ネバダ・スミス」は、そうした流れの中にある一本です。

―――――

で、なんでそれを先に取り上げるかと言うと、

―――――

この映画は、マックィーン扮する主人公の復讐劇なんですね。

―――――

幸せに暮らしていた家族を荒くれ者の一団に惨殺された彼が、何年もかかって、自らお尋ね者にまでなりながら、散り散りに逃げた悪党たちを一人一人見つけ出し、殺していく、という…

―――――

暗い?

―――――

はい、暗いんです。
はっきり言って。

―――――

しかし、このあらすじからもお分かりの通り、この映画は観客の「エモーション」に強く訴える作品として構想されておりまして、

―――――

初見のときの僕は(テレビ放映でしたが)、「なんて、カッコいいんだ!」と唸ったものです。

―――――

「独りあてどなくさまよいながら復讐のために生きる青年」、という像が、とてもスタイリッシュに見えたのです。

―――――

アウトローのカッコよさ。

―――――

ところで我々は「いちばん言いたいこと」を説得力を持って相手の内に浸透させるために、「修辞」を用いる生き物です。

―――――

「ネバダ・スミス」が映像という修辞をもって観客に共感・賛意を求めたのは、青年期特有の内なる暗さ・愚かしさ・苦しみと向き合いもがく若者の姿だったろうと思います。

―――――

誰にも思い当たるふしのある、心の底の影…
しかし、

―――――

十数年後、レンタルビデオ店で「ネバダ・スミス」を見つけた僕は、嬉しくなって、すぐ借りて、その晩のうちに視たのですが…

―――――

はぁ…
あれはサミシイ体験だった…

―――――

久しぶりの再会…
だが、そこには、少年の日に心躍らせてくれた「カッコいいマックィーン」の姿はなかった。

―――――

時代を経て、「映像化の工夫」が古くなり過ぎていたのです。

―――――

例えば、主人公が夜の牛飼い小屋で、ナイフ一本で柵の上に仁王立ちして、悪役と対決する場面がありますが、

―――――

ただならぬ雰囲気を感じ取り興奮する牛たち。

―――――

落ちたらヒヅメに押し潰される。

―――――

シュッシュッと、空を切るナイフ。

―――――

暗闇の中での男と男の差しの勝負。

―――――

そうした要素が全く盛り上がらなかった…。

―――――

平板なカメラワーク。

―――――

貧弱なサウンド。

―――――

迫力あるはずの決闘場面が、のどかなシロウト映画に見えるほど単調で、修辞の力を失った画面はただ、「発想の陰鬱さ」を伝えてくれただけでした。

―――――

「メッセージの暗さ」だけがそこには残り、もともと在ったであろう「惚れ惚れするようなスタイル」はカビが生えていたのです…。

―――――

と、ここまで言ってから、今日の映画、

―――――

「ウルヴァリン:X-MEN ZERO」

―――――

数世紀を生き続けるミュータント兄弟。

―――――

弟ローガン(ヒュー・ジャックマン)と兄ビクター(リーヴ・シュレイバー)。

―――――

幼少時からダークな宿命を背負った二人は、他のミュータントたちと共にアメリカの特殊部隊に参加しますが、その残忍な任務遂行に嫌気の差したローガンだけは、止める隊長を振り切り、独り、部隊を抜ける。

―――――

愛する女を見つけ、片田舎で静かに暮らし始めたローガンの耳に、兄の仲間殺しの噂が入る。

―――――

なんのために?

―――――

考えている暇もなかった。

―――――

やがて最愛のひとケイラにも、ビクターの魔の手が…

―――――

これは後悔と苦渋と、復讐の物語です。

―――――

「ダークナイト」や「ボーン・スプレマシー」といった、謂わば「暗さが売り」の映画を観て、十二分にその魅力を感じ取る僕ですが、この映画には映像とサウンドの修辞を超えた――つまり、スタイルをもって飾りきれない――独特の懐疑的「内容」がある気がします。

―――――

その「内容」とは?

―――――

はい、わりと簡単でして、それはSF小説を読み慣れてきた読者ならお馴染みのテーマ――「根源的に異なる者同士が“隣人”として共存しあうことは不可能なのか」という――、最初から議論の対象にさえならないことが分かっている悲しき反復のテーマです。

―――――

残念ながら、これは単純化して言うことの出来ない話なのです。

―――――

そのままアクション映画の形へ起こして飾ることの出来ないテーマなので、映画は思い切った「変換」を行っている。

―――――

なぜ変換されたのかが、ちらちらと見えるので、「ああ、本来描きたかった内容に、修辞(映像化のテクニック)が追い付かなかった結果だな」と思わせるというわけです。

―――――

詳しく見ましょう。
まず、

―――――

変換された、もともとのテーマですね。

―――――

「異なる者たちが隣人となれるか」って、どういうことだ?

―――――

それは徹底して理性的に問い詰めていくなら、宗教や文明の「異質」がもたらす破壊的な局面を「知」というものをもって人類が乗り越えられるか――そのとき「知」そのものも何事か従来からの姿より変質を遂げるのか?(この「変容」についての問いかけこそ、SFが得意とするもの)――、という極めてシビアな論題のはずですが、

―――――

情緒的に流して捉えてしまうなら、単に違う時代に違う場所で思春期を送った二人が、いつか分かり合えるだろうか、という狭い範囲の「世代間ギャップ」の話題に過ぎなくなってしまう、そんなものです。

―――――

この映画は、正編「X-MEN」シリーズに在った「異なる者たちが共存の可能性を探り合う」という内容を、「呪われた運命の兄弟が陰謀に操られながら確執する」というメロドラマのレベルへと格下げしてしまった。

―――――

格下げしたことで、話はグンと分かりやすくなりましたが、もともとシビアだったテーマを情緒的な愛憎劇に置き換えたことで、「無意味な闘いに翻弄される男たち」という、どうにもやるせない「情念として悲しい暗さ」を持つ映画になってしまいました。

―――――

派手な爆破のシーンがあろうと、高揚感たっぷりのアクションシーンがあろうと、目立っているのは、「発想の陰鬱さ」です。

―――――

「ダークナイト」や「ボーン・スプレマシー」と違うのは、暗さと正面から向き合うのでなく、「付きまとう“結論”の困難さ」を振り払いたくて、つまり「なんとか前向きな方向へとエネルギーを向けたくて」、様々なアクション、CGを駆使してある――脚本も、その線に沿って書かれている――という点です。

―――――

で、そのような「暗さを払拭しようとした努力」――それすなわち「映像という名の修辞」です――が完璧ではないので、観ている最中、隠そうとした悲惨さがフと見えて――(なぜなら、おそらくは作り手の側に「懐疑」があるから)――、それが妙に気になったというわけです。

―――――

ふむ。

―――――

この映画を十五年後に見直したら、果たして僕はどう思う?

―――――

映画にとっての映像化の技術や音響効果は、これからも進歩を続けていくことでしょう。

―――――

最新のエフェクトで溢れたこの「ウルヴァリン」も、やがてはスタイルが古くなる日が来るはずです。

―――――

そのとき、提示の仕方として、カビの生えた表現を超えるものとして残る「内実」が、ただ陰気なだけの、暗いだけのものに見えたりしないか。

―――――

…暗さに「甘いロマン」を見る目というのは、風化しやすい視線じゃないか。

―――――

最初に挙げた「ネバダ・スミス」が、いい例です。

―――――

暗さを見つめるなら、徹底して厳しくないとね。

―――――

さいわい、映画は厳しい結論を提示して終わる。

―――――

そのシビアさが、この「暗さを振り払おうとして、払いきれない」映画にとっての「救い」である気がして、改めて正編のシリーズでも見ようかという気にさせるのです。

―――――

アメリカ映画の中で、「陰気な思考とどう向き合うかは」、ここしばらくのトレンドですね。

―――――

(また誰か新しい才能が出てきてドカーンと振りほどいてくれるまで、糸は絡まり続けるでありやしょう)

―――――

Jack

|

小劇場的転移術/「キラー・ヴァージンロード」

ウケてるお客さんも多かったから、たぶん監督第一作としては、失敗じゃぁないんでしょう。

―――――

僕はと言えば、「流れの中でのバランスの悪さ」を感じたなぁ。

―――――

ただし、そのバランスの悪さをひとくちに「欠点」とは呼べないのですが…
んん?

―――――

けなしてるのか、どうなんだ?

―――――

例によって、仔細に見ていきましょう。

―――――

俳優・岸谷五朗さんの監督・脚本(共同)一発目です。

―――――

とても、演劇的発想の映画です。

―――――

と言いましても、例えばベルイマンやルキノ・ヴィスコンティのような荘厳なオペラを連想させる、といったものでなく、

―――――

うんと大衆的な「小劇場」のニュアンスが満載です。

―――――

小劇場で演じられる芝居というのは、実際にはとても下世話な猥雑なものでありながら、演じている側の人たちは難しい(高尚な)演劇理論を持っていたりするでしょう?

―――――

演劇人というのは、こむずかしい理論を振りかざして論争するのが大好きだったりいたします。

―――――

下町人情を描くドタバタ喜劇が、実はスーザン・ソンタグの理屈を下地にしていたり…。

―――――

そういったテイストの映画とお思い下さい。

―――――

わたくしの年長の友に、小劇団の座長をしている方がおりますが(ずいぶん前のことになりますけど、ボカ、エキストラで出演してしまったこともあるんだな)、以下、演劇の空間で起きる出来事、「主従の転移」について、述べましょう。

―――――

演劇というのは、基本的にはプロローグからエンディングまでの「日常から独立した時間の流れ」を扱います。

―――――

なに、映画だってそうなんですが、演劇の場合は「観客のライブの反応」が劇の進行――異空間であるはずの場の時間の流れ――に、その時々、場面、場面で影響を及ぼしていく点が違ってる。

―――――

舞台上に笑いや拍手を送る間、空間は自然に客席と舞台とが一体化し、その場の支配者の座は観客へと移る。

―――――

一方、ほんの数秒笑いが止むのを待つ間、舞台の上は時間が止まり、俳優たちは「客席の反応を受け取る聴衆」の立場へと移行する。

―――――

演劇的異空間の時間の流れは、ざっと言いましても「混沌」としており、映画のそれより、はるかに複雑な構造を持っています。

―――――

この複雑な構造を映画の中に、グイッと強引に押し込もうとしたのがこの、

―――――

「キラー・ヴァージンロード」

はい。

―――――

上野樹里が殺人犯!

―――――

小さいときからグズでドジで、「どんじりビリ子」の渾名を持つ主人公。

―――――

やっと巡ってきた結婚のチャンスを前に(結婚相手がEXILEのMAKIDAI)、ひとを殺してしまいます。

―――――

「せめて結婚式だけは!」

―――――

挙げたい彼女は死体を隠すことを決意しますが、そんなビリ子の前に「訳あって、どーしても死にたい!」女(木村佳乃)が現れて…

―――――

彼女らに次から次へと絡んでくるのは、

―――――

変態オタクのマンションの管理人(寺脇康文)、

なぜか付きまとう暴走族のリーダー(中尾明慶)、

アイドルマニアの青年(小出恵介)、

幻の蝶を探すペンション・オーナー(北村一輝)、

ひたすら追ってくる警官(田中圭)…

―――――

等々、ささ、登場人物華やかなり。

―――――

過去の映画の記憶も散りばめて、二人の女の奇妙なロードムービー、スタートです。

―――――

えーと…

―――――

観ていると、映画にとって「クローズアップ」というものが、どういう意味を持っているのか、改めて知らされたりいたします。

―――――

これは、監督初体験のひとが僕らをハッとさせてくれた、興味深い一点です。

―――――

クローズアップというのは「これからしばらくの間、このひとを中心に展開しますよ。このひとが主役へと交代しますよ」という「合図のカット」なんですね。

―――――

テレビでクローズアップを見慣れていても、そういうことには気付かなかった。

―――――

岸谷監督の手法はたいへん面白いことに、アップという手段がなぜか、ありきたりに見えず鮮烈です。

―――――

演劇では、どんな端役であれ、あるひとりの役者さんがセリフを発している間、ほかの人たちは黙って待っているでしょう?

―――――

つまり、ほぼすべての役者さんに、「主役になる時間」が与えられているわけです。

―――――

これと同じ要領を、監督は、映画の中に持ち込んでる。

―――――

しかし、これは群像劇ではない。あくまで主人公二人の珍道中を軸にしているはずなので…、

―――――

そのなかに寺脇康文、小出恵介、中尾明慶、田中圭…といった人たちが「主役を張る場面」が挿入されると、なにか違和感がありますね。

―――――

それと、もうひとつ。

―――――

上野樹里さんにはまことにお気の毒ですが、どう控え目に言っても、木村佳乃さんのほうが目立ってると思うなぁ。

―――――

この映画では、殺人を犯してしまい死体を隠そうとする上野樹里の前に、自殺しようとして死ねない木村佳乃が現れる…といった具合に、骨子として「罪を犯した者へ当たるスポットライトの移動 = 転移」が起きています。

(監督が意識してかしないでか、自殺が「罪」として描写されてます。キリスト教的概念の展開です)

―――――

この一事からも分かる通り、「ああ…なんか、背後にややこしい“理論構築”がありそうだな」と思わせる。

―――――

たぶん監督は、実際にはそれほど考え込んでいないのかもしれませんが、だとしたら、ぜひ、とことんまで考え込むべきだった。

―――――

観てるとですね、あー、これは西欧人がヒチコックの描写を評して言う「罪の転移」が起きてるな、とか…

―――――

オタク・カルチャーというものを、一種の「背任行為の愉しみ」と見る視線があるな、とか…

―――――

そういった理屈っぽさが幾つも感じ取れるのですが、それが「大理論」の中にきちっと統制されているとは言い難い。

―――――

そのへんの「整理不十分」な感じというのも、とても小劇場的だと思う。

―――――

罪を犯した二人の逃避行を、その罪が「悪も正義も超越した華やかさ」をもたらす様子と共に、サイケデリックに描いてく。

―――――

…のが、本作の大目標のはずなのですが、次々挿入される派手で力技の「笑いの場面」が入るたび、この映画は興味の対象を「その場面で主役をとる役者」の人間臭さへと移していくので、その横滑りのせいで、ときおり主人公・上野樹里を真ん中に据えた物語が置き去りにされる印象です。

―――――

こういう「いろんなことが未整理」の映画の中で思いっきり「ぶっ飛べる」のは、自分自身について、ひいては自らの演技について、ある種、割り切った人たちではないだろか?

―――――

だからこそ、寺脇康文や木村佳乃というベテランが目立ってる。

―――――

上野さんは(彼女だって、芸歴は決して短くないですが)、自分の演技スタイルを「自然体」で行くのか「のだめカンタービレ」でピタッとはまったような「天然ボケ」スタイルで行くのか、ちと迷ってる印象です。迷わせてしまった脚本も、責任あると思うなぁ。

―――――

で、結論としてつまらないのか。

―――――

いえいえ。

―――――

監督にも演者にも、今後の可能性を感じる一本です。

―――――

バランスが悪かろうと強引にまとめたこの作品に触れることで、岸谷五朗というひとが、いまどきの日本のテレビ・映画の世界にどんな不満を抱いているのか、ちょっと共感を寄せたくなる映画です。

―――――

「小劇場的」と言った理由は、果たして伝わりましたでしょうか。

―――――

妙な屁理屈こねてる感じ…
ほかの興味への横滑り…
「主役」の乱立…

―――――

などなどは結局、小演劇にとっての「完成されてない魅力」であり、混乱を交えたハイテンションぶりは、決して「欠点」に終わるわけではないのですから。

―――――

(こういうことを「整理整頓」して言おうとする僕に、疑問を感じますですか?)

―――――

Jack

|

どうぞ、ひと言/「BALLAD 名もなき恋のうた」

うーん…

―――――

内容について言う前に、少し連想の輪を広げましょう。

―――――

「なかなか話しの通じにくい素直な人」をご存知でないですか?

―――――

もンのすごくいいひとで、下品にひねった冗談なんか言おうものなら、ポカンとされて、言ったこちらが、かえって赤くなる、という…

―――――

で、どんなときにも、もう根っからの性質としてニコニコしてるわけなんです。

―――――

ひとがたくさんの仕事を抱えて困ったりしてると、進んで助けの手を差しのべてくれる…

―――――

ところが、いざ任せてみると「愚直」と言いますか、書類の束を一枚ずつ仕分けするような、のんびりとした仕事ぶりで…

―――――

ご当人に悪気はないんですよ。

―――――

あまりにも悪気がないんで、一緒になって仕事をやっていくには、もう、こちらも相手の素朴さに取り込まれる以外、ありません。

―――――

そういう、周りを感化する素直さに満ちた人。

―――――

あなたも今までに、そんな人に1人くらい出会ったことないですか?

―――――

…と、そんな人物のことを連想させる一本です。

―――――

「BALLAD 名もなき恋のうた」

―――――

今回も山崎貴監督が、脚本まで書いて、VFXも手掛けています。

―――――

川上真一(武井証)はちょっと「ビビり」の弱っちい小学生。

―――――

最近、不思議な夢を見ます。

―――――

美しい着物姿の女のひとが、湖のほとりで、なにやら一心に祈っているのです。

―――――

実は、それは夢でもなんでもなく、遠い時代を隔てた不思議な交流でありました。

―――――

ある日、大きなクヌギの木の根元で寝込んでしまった真一は、夢見た光景 = 戦国時代に来てしまったことに気付きます。

―――――

そこで真一は、めっぽう強い武将、鬼の又兵衛(草なぎ剛)と彼を密かに慕う廉姫(新垣結衣)と出会うのですが…

―――――

傲慢な大名、高虎(大沢たかお)が、廉姫を嫁に欲しいと言い出して…

―――――

再び、うーん…

―――――

これを「映画」として楽しめるのは、普段、あまり劇場なぞに足を運ばない人ではないかなぁ…

―――――

まず、哀感たっぷりのラブロマンスを描く「技量」が、1964生まれのこの、僕と同年代の監督には、だいぶ不足してると感じます。それについては、あとでもう少し触れましょう。

―――――

第二に、草なぎくんは、ミスキャストではないかなぁ。

―――――

めっぽう強いが女に弱い、というひじょーに典型的な役柄ですが、「鬼」にゃ見えないよ、「鬼」には。

―――――

ほかにも挙げるとすれば、全般的に間延びした展開と主人公三人も含めた各キャラクターの「味」の薄さ(というか、登場する各人に対する性格付けの、ぎこちなさ)。

―――――

「タイムスリップ」という設定を活かしきれない平凡な構成。

―――――

いろいろと文句をつけたいところは、多いです。

―――――

この映画の原作だという「クレヨンしんちゃん 劇場版」を観ておりませんが、原作が漫画だったときの「ALWAYS」と比べて、実写化するに当たっての換骨奪胎の仕方が、今回はあまり上手と言えないようです。

―――――

が、

―――――

そういう、こちらの「文句を言いたい気分」てやつを打ち消してしまう不思議な魅力も、たしかにある。

―――――

新垣結衣、草なぎ剛という二人の俳優の表情…

―――――

どこか「おっとり」した、映画全体のニュアンス…

―――――

いろいろ言いましたが、この映画には、結局のところ「難癖」を打ち消してしまう「個性」がある。

―――――

その個性の正体とは…

―――――

作品全体を通して、観客を不安にさせるような「嫌味」がまったくない!…ということで。

―――――

きっと、監督は、いいひとなんでしょうねぇ…

(はて、どうなんだろう?)

―――――

あまりに「のどか」な展開なので、呆気にとられているうちに、終盤の合戦場面に来ています。

―――――

巧いんだか下手くそなんだか、わたくしのようなあまり素直とは言えない観客からすると、得体の知れない「おおらかさ」で、いっぱいです。

―――――

それでも敢えていじわるく言うなれば、山崎監督が「ALWAYS 三丁目の夕日」正・続に続いて放つ「人間を信じましょう」キャンペーンの一環です。

―――――

この映画も含めて、三作すべて、実質的な「ファンタジーである」と言えますが――いまどき、あっけらかんと「人間て素敵でしょう?」と謳っているのですから、これらがファンタジー以外のなにものでもないことの証しなのですが――、本作ではタイムスリップなどという余計な知的要素 = 考えさせる「ひねり」が加わった分、「感動的な素直さ」が欠けてしまったのではないか?

―――――

山崎監督の目指しているところは、あまりにも明解です。

―――――

相田みつをさんが色紙に書いたようなことを、映像に起こそうというのです。

―――――

この映画が主張する内容は――そう。はっきりとした「主張」を持った映画なのですが――、それをどんなに疑問に感じる「知性」がなにを言おうと、まったく受け付けない「頑迷な正直さ」に満ちています。

―――――

なんとなれば、実直、誠実、無垢、純真…といったものを、現在への強いアンチテーゼとして打ち出そうというのが山崎ワールドの意図なのですから、そこにどんな苛立たしい疑問を持とうと、最初から反論したい側に「勝ち目」のないことは、分かっています。

―――――

つまり、山崎監督の映画に触れているあいだは、僕もあなたも、完全に「いいひと」になるか、劇場を出るかする以外、選択肢はないのです。

(苛立つとすれば、ここですね。映画というものが本質的には「逃れられない暴力装置であること」への無頓着さ)

―――――

しかし、です、

―――――

やれやれ、やっと、付け入る隙について話せるよ。

―――――

さっきもちらっと触れましたが、今回に関しては、「タイムスリップ」などという余計なひねりが掛かっているので、観る側に「ん?」と考えさせる「余地」を与えてしまってる。

―――――

これは、どう見ても、計算違いというものではないでしょか。

―――――

それと――ここが、肝心な点ですが――、もし、登場するすべての人物が「いいひと」ならば、そこに「愛の哀感」を持ち込むのは間違っている。

―――――

愛情の在り方というのは、この映画で描かれるほど垂直的なものではないでしょう。

―――――

「いいひと」のまま「愛の深み」を描こうとするのは、明らかに相反しておりますが、この監督には、相反するものを強引に結び付けてしまうだけの力量が、まだない、と見ましたです。

―――――

どうやら愛の地獄を見たことがないらしいこの監督の「人間」と「漫画やアニメというサブカルチャー」に対する信じがたい純情な理解の仕方に絶望的な断絶を感じながら、僕は劇場を出たわけですが…

―――――

それでもどこかしら魅力のあるこの映画に向かって、何を言う?

―――――

ここまで解説したあとで持ち出しても、まったくの迫力不足なんですが、それでもこのセリフしか、ありません。

―――――

仕事場の同僚でもなんでもないからね、

―――――

こういうときは、好き勝手にものが言えて、ほんとに楽だ。

要するに、

―――――

この監督、あほちゃうか!?

―――――

以上、長々と言った末の結論でした。
はは…。

―――――

Jack

|

目的/「サブウェイ123 激突」

「サブウェイ123 激突」

―――――

原作を大幅に改変しちゃって、かえって「なぜ今つくるのか」疑問符だらけの映画になっちまった…。

―――――

えー、この作品については、わたくし、特権的にものを言える立場にあります。

―――――

ジョン・ゴーディの原作小説は、ほとんど「座右の書」と呼んでいいほど、何回繰り返し読んだか分からないし、その映画化・1974年のロバート・ショウ、ウォルター・マッソー主演の「サブウェイ・パニック」は、劇場で最低4回以上、テレビ放映では5〜6回視てますので、この作品の「専門家」として、もの申す資格があるのです。

―――――

今回のリメイク、出来映えは、はっきり言って、くだらない。

―――――

「L.A.コンフィデンシャル」や「ペイバック」、「ミスティック・リバー」の脚本家ブライアン・ヘルゲランドが起こしたストーリーは、ユーモアに欠けて「がさつ」だし、原作にも映画オリジナル版にもあった「大都市のナマの息吹き」を捉えていない。

―――――

デンゼル・ワシントンとジョン・トラボルタという二大名優のやり取りは、平板で退屈だし、要するにこの映画、トニー・スコット監督の映像センスを別にすれば、観るべきところは、ほとんどないです。

―――――

…というわけで、今回は、つまらない映画のことなど置いといて、素晴らしい原作小説の醍醐味について、記します。

―――――

(なお、現在、小学館文庫から、今回の映画化に合わせて「サブウェイ123 激突」というタイトルの新訳が出てますが、僕が好きなのは、ハヤカワ文庫NV・村上博基さん訳のオリジナル版「サブウェイ・パニック」のほうなので、興味のある方はAmazonで古本を入手してください。以下、引用はすべて村上訳から写しています。この、村上さんの訳が、圧倒的にいいんです)

―――――

まずは、地下鉄乗っ取りの主犯・ライダーが初めて登場する場面の描写。

―――――

「ライダーはほんの一瞬ためらってから――自分が意識しただけで、よそ目にはわからない――改札口の擬貨(トークン)をスロットにおとしこみ、腕木を押して通りぬけた。プラットフォームへ歩きだしながら、あのためらいはなんだったのだろうと考えた。気おくれ? まさか。いまのは戦闘前の一譲歩、せいぜい献金みたいなもの。それ以外のものじゃない。人間どうせ生きるか死ぬかなのだ」

―――――

うわぁ。

―――――

何回読んでも、かっこいいなぁ…

―――――

ニューヨーク市の地下を走るレキシントン・アベニュー線。
ペラム123号車。

―――――

四人の男がこの地下鉄をサブマシンガンでジャックする。

―――――

要求は百万ドル(リメイク版では1千万ドル)。タイムリミットは1時間後。

―――――

無線のやり取り。

―――――

「『交通局警察のプレスコット警部補だ。そちらは?』

『おたくの電車を乗っ取った男だ。指令主任にいってメモを見せてもらえ。ただし手間どるな』

待っているライダーの耳に、警部補の息づかいがきこえた。やがて――『プレスコットからペラム123へ。いま読んだ。おまえはきちがいだ』

『そう、おれはきちがいだ。そうきけば気がらくかい。きちがいのいうことだから本気にしないってのかい』

『いいか』とプレスコット。『本気にはする。しかし、どうなるもんじゃない。おまえのいるところは地下だ、トンネルのなかだ』」

―――――

大金を奪っても、閉じ込められた地下トンネルから、ライダーたちは、どう脱出するつもりなのか。

―――――

一方、市長以下関係部局の確執のため、身代金の準備は遅々として進まない。

―――――

人質たちの運命は…

―――――

といったところが内容ですが、ポイントは、ですね、

―――――

これは特殊な状況下に置かれた無数の人々を描き分ける、極めつけに優れた群像劇であり、乗っ取り犯ライダーも、交渉にあたるプレスコット警部補も、「主役ではない」という点です。

―――――

(主役はいないのですが、なんというか“極点”は、くっきりさせてある小説です。後述します)

―――――

どれも数ページという短い各章は、登場する人物たちの名前がタイトルとして割り振られ、乗っ取り組、地下鉄交通局の人々、警察、市長と側近、そして人質となった乗客たち…

―――――

それぞれの心の内と行動を描いていきます。

―――――

さらには無責任に口を出す大勢の野次馬たち…

―――――

この小説が書かれたのは1973年。

―――――

ウォーターゲート事件の捜査が、ホワイトハウスにまで及んできた時期です。

―――――

アメリカは、混沌とした失意の時代を過ごしてました。

―――――

対外的には、敗色濃厚なベトナム戦争の泥沼が続いており、国内的には不況の波が全土を襲い、人種差別の暴力的撤廃を叫ぶブラックパンサーのような組織が勢力を伸ばし、フェミニズムは声高になり、社会主義に関心を持つ若者がたむろし、警察は威信を失い、誰も大統領の言うことを信じない…

―――――

そういう時代背景です。

―――――

社会全体が慢性的に希望を見失い、明日が見えないとき、人々はてんでに、あらぬほうへと、さ迷い始める…

―――――

しかし、それが実に不可思議なことに、最下層から上流に至るまで、すべての人々の「あがき」とも言えるギリギリの活況をもたらすのです。

―――――

この小説が描くのは、ひとりひとりが未来にも将来にも、なんの展望も持たず、自分の周囲数フィート内のこと以外まったく関心を払わないにも関わらず、様々な思惑が同時進行で複雑に絡み合う、人、人、人がごった返すむせかえるような大都市の熱気そのものなのだ。

―――――

で、そうでありながらこの傑作をユニークなものにしているのは、「主役はいないが、“中心”はある」という描き方です。

―――――

自分の仕事に自信が持てず、自堕落になっている警察官…

―――――

明日の知れない毎日を、ただやり過ごすだけのベテラン売春婦…

―――――

苦渋をなめるばかりの毎日に決着をつけたいが、なにごとも踏み出せず勇気の持てない元・運転士…

―――――

雑多な人々に様々な思いがありますが、ただひとり、なんの「思い」も抱えずに虚無の中にいる男がいます。

―――――

作者が「空洞化した時代の象徴」的存在と位置付けて描く男。

―――――

それがライダーという男。

―――――

「そもそもライダーの理論は、彼の生活を律する、いたって単純な哲学に発しているのだ。その哲学を彼はめったに口にしない。請われてさえ語らない。いや、要請にせよ強請にせよ、請われてはよけい語りたがらない」

―――――

無機的な少年時代を過ごし、ベトナムでの従軍を経て、プロの傭兵となる男。

―――――

その男が大都市ニューヨークの度肝を抜く犯行に及んでいく。

―――――

「父母の死――彼はふたつを別種のものとも別個のできごととも思っていない――が、それだけで彼の哲学をうんだのではないにしても、種をまいたことはたしかだった。当時十四歳の彼が、かくべつ悲しむこともなく両親の死をうけとめたのは、彼らの結婚生活に愛情の不在を感じとり、そこから異常な冷静をすでに身につけていたためであったろう」

―――――

こういうやつが世の中をひっくり返す大騒ぎを起こす、っていう展開に、強烈な説得力と色褪せない魅力を感じる。

―――――

「生きるか死ぬかさ、少佐。(…)生きるか死ぬか。これはむこう見ずのことでも、こわいもの知らずのことでもない。好んで死をもとめるというのでも、死になんら神秘も喪失もみとめないというのでもない。ただ人の世の煩瑣なことがらを大部分切りすて、命といういちばん不たしかなものを、現実的な定式に還元しただけなのだ。可能性探求なんて七面倒なものはない。ただのっぴきならぬイエスかノーがあるだけだ」

―――――

短絡だなぁ。

―――――

これは、短絡というものの魅力です。

―――――

人間は、本当は、こんな単純に割りきれませんね。

―――――

読んでいるうちに気が付きます。

―――――

ゴーディがこのライダーという男を通して見つめているのは、70年代という時代に在って、ぐずぐずに崩れようとする「西欧の理念」のその最深部で残り火のようにしぶとく燃え続ける欧米流の「人生の意義」としての二元論であるのだ、と。

―――――

善と悪、とかね、

―――――

誠実と裏切り、

―――――

老いと若さ、とか、

―――――

そうした二項的ものの見方のどれもが色を失い、人も街も味わいをなくしていくと見えるとき、最後の一手としてこの作者が持ち出すのが犯罪者の「虚無」なのだ。

―――――

最後の最後に、それでも消えない二元論を人生の柱とするライダーを話の“極点”として描写するゴーディの筆緻は、結果として「国家の未来」などという大義が見えなくなっても、それでも息づく活気に溢れた辛酸と疲弊の支配する逆説的な街のエネルギーであるのです。

―――――

この男は、なぜ、地下鉄ジャックなどという犯行に走るのか。

―――――

「きっとその戦略戦術面の困難が魅力だったのだろう。タンジールではさほどではなかった退屈が頂点に達していたのだろう。それだけの金がはいれば、気に染まぬ身すぎをせずともすむからという点は、ほぼたしかだった。非常な危険が気をそそったのは、さらにたしかだった。が、究極的には、動機はどうでもよく、そこから発する行動だけがねらいだったのだ」

―――――

というわけで、今回はこれで終わります。

―――――

続きは読んでみてください。

―――――

目的、ありますか?

―――――

Jack

|

責任←→ムセキニン/「20世紀少年〈最終章〉ぼくらの旗」

この映画について語る前に、大いに関係のあるお話しですが、僕は松本サリン事件や坂本弁護士一家殺害事件や地下鉄サリン事件や国松警察庁長官狙撃事件を起こしたあの教団のあの教祖は、出来るだけ早く死刑になるべきだと思っています。

―――――

わけは簡単で、彼に死んでもらわなければ、様々な観点からの「評価」が、確定しないからです。

―――――

あの男を「殺人の指揮官としてでなく、宗教者として、どういう人物だったか論じるべきだ」といった角度の意見があるようですが、そういった見方も含めて、棺を覆いてみなければ、彼をどう位置付けるかが定まらない、と思っています。
(おや? なんですか? 落ち着かないそぶりで)

―――――

「あの」宗教を考えるとき(なぜ、はっきりと名前を言わないんでしょ?)、大きな鍵を握るのは、「ポップカルチャーとサブカルチャーの差異を、どう捉えるか」という点です。

―――――

ご存知ない方・憶えてない方のために言いますと、あの集団のやったことは、アニメもどきの発想で毒ガスを作ってしまった、という点も、世界の終末を「予見」して空気清浄器のようなものを作製していた、という点も――これもアニメの「宇宙戦艦ヤマト」を連想させる――、いきなり選挙なんかに出て白装束で踊りまくったという点も、「怪しい存在」としてマスコミから目を付けられると逆に、テレビに出まくって、宣伝効果を充分に狙った論陣を張った、という点も、多くの点で、ポップカルチャーとサブカルチャーの「せめぎあい」を思わせる手法だったのです。

―――――

「サブカルチャー」と「ポップカルチャー」を分けることに、意味があるか?

―――――

大いにあります。
2つは、同じものではないのです。

―――――

「ポップカルチャー = サブカルチャー」と見ることは、あの一時期、日本中を大混乱に陥れた「動き」の姿を見誤る恐れがある、とボカ思う。

―――――

では、2つは、どこがどう違うのか。

―――――

はい、振り分けするなら、ポップカルチャーとは大人たちによって「消費の対象」と認知された流行現象。

―――――

サブカルチャーとは子どもたちの側が、大人への対抗文化として持ち出してくるものの諸要素と申せます。

―――――

サブカルチャーがポップカルチャーに、いつか成りうる、と信じたところに、あの男を奉じた人々の「哀しき誤解」があった。

(そろそろ、映画の話しに移りましょう)

―――――

「20世紀少年〈最終章〉ぼくらの旗」

―――――

いまや、『トモダチ』による支配は、世界中に及んでいる…

―――――

(20世紀日本の記憶を次々なぞるような、サブカルチャーへの壮大な言及が、このシリーズの大きな魅力。それは本作で絶頂を迎えます)

―――――

前作でトモダチに立ち向かったカンナ(平愛梨)は、いまや地下抵抗組織のリーダーとなっている。

―――――

広大な壁に封鎖された東京へ、オッチョ(豊川悦司)は漫画家(森山未來)と乗り込んでくる。

―――――

春波夫(古田新太)のマネージャーとなっているマルオ(石塚英彦)、
柔道の道場主ユキジ(常盤貴子)、
世捨て人のようなヨシツネ(香川照之)…

―――――

複雑に人間関係が絡み合い、全ての謎が明らかにされ、いよいよ全人類滅亡計画の全貌が…

―――――

ケンヂ(唐沢寿明)の登場は、いつ?

―――――

えーと、ですね…

―――――

とても、力作、です…。

―――――

途中まで、本当に「傑作じゃないか?」と思って観てましたが、「ん?」と思う展開がありまして…

―――――

「それは…そんなこと描くのは…そういうふうなエピソードをこの話に持ち込むのは…どうなんだ?…」

―――――

と、ボカ思った、あ、いや、要領を得ませんね。

―――――

サブカルチャーとポップカルチャーの断裂を「さみしいことだ」と見る観点が、この映画の作り手にはあるようです。

―――――

さみしさを越えて、両者をつなぐことは出来ないかな

―――――

、というのが、この三部作全体を統括する結論めいたものにされている。

―――――

ここで、もう少し、ポップとサブ、2つの「カルチャー」という観点の「関係」に触れましょう。

―――――

サブカルチャーの側からポップカルチャーというものを眺めるなら、端的に言って、それは「堕落」であります。

―――――

エルヴィス・プレスリーがマドンナになり、B'zやサザンになる、ということは、いやさ、赤塚不二夫が村上隆になる、ということでもいいけれども、それは、ある時期子どもたちを熱狂させ、大人たちが頑固に守ろうとしていた嘘っぱちの世界に「くさび」を入れたという「時代の空気」を見失う、単純な堕落なのです。

―――――

これを避けて、なおかつサブカルチャーというものを次の世代へ譲る唯一の方法は、そのサブカルチャーを「それが出てきた時代の空気感」と共に、パッケージングすることです。

―――――

パッケージして、保存する。

―――――

ひと言で言っちゃいましたが、言うほど簡単じゃありません。

―――――

「時代をパッケージする」ということは、どこかに「ある視点」を見つけて、その視点に立った現在なりの「表現」を起こす、ということです。

―――――

「現在から見て、その時代をどう描くか」が、パッケージ・デザイナーの手腕に求められることになるのです。

―――――

パッケージ・デザイナーとしての堤幸彦監督は、十二分に、その役割を果たしている。

―――――

…と、途中までは、思って観てたわけなんですが…

―――――

堤監督は、自分が、ひとりのデザイナー =「時代の流れを見つめるヒョーロン家」の立場に立つだけでは、満足出来なかったらしい。

―――――

もしかすると、そのような立場は、既に原作者である浦沢直樹さんが、漫画の中で見せている態度だから、という事情があったのかもしれません。

―――――

映画は、「カルチャーを越えるもの」を提示しようと試みる。

―――――

独りきりの悲しさ…、
新発見のワクワク感…、
そして、誰にも経験のある小さな勇気…

―――――

「大人にも共感できる子どもの世界の出来事」を描くことで、ポップとサブの垣根を越える「人間にとっての普遍的な“希望の記憶”」を残そうとするのです。

―――――

それは、この映画を観る青少年に向けた「未来へのメッセージ」でもあるわけですが…

―――――

僕の正直な感想を記します。

―――――

…誠実かもしれないけど、退屈な蛇足だな。

―――――

サブカルチャーの氾濫とその瓦解を素直に追うだけで、たいしたエンターティンメントになったろうに。

―――――

一方で瓦解のカタルシスを描きながら、「最後の最後には、心と心の結び付きが大事だよ」なんて言うのは、矛盾してるし、どっちつかずのところが、かえってムセキニンでもあるように思います。

―――――

未来なんて、勝手に出来ていくものなのさ

―――――

不器用なメッセージなんて、要らないよ

―――――

…と、いう姿勢を採ったほうが、子どもの世界に、より、寄り添った作品になったように思うんですが…

―――――

「人と人とは、本来、どう向き合うべきか」を説教臭く描くことで、この映画は観客から離れてしまう。

―――――

「無責任の瓦解」を見せれば、そのあとは、なにか考えるにせよ、ただ「面白かった!」と劇場を出るにせよ、観客みんなにゆだねられていることですから、創作物としての責任は、そこで終わって、果たされている、と思うがな…

―――――

で、

―――――

最初の話しに戻るわけです。

―――――

「あの男」が正式に死を迎えるまで、サブカルチャーの氾濫とその瓦解をどう位置付けるかは、答えの出ない問題ではないだろか。

―――――

「ある時期、ああいう男が世を乱した」ということを、遠い昔語りに出来る日が来るまで、責任とムセキニンの間を揺れ動く創作家たちの態度というのは、定まることがないのかも…

―――――

(それを「悲しいことだ」と捉えるか、または「ある特殊な同時代を生きてるなんて、面白いじゃないか」と無責任にはしゃぐか、「表現者」っていう連中は、困った地点に立つものです)

―――――

Jack

|

お血血と健康/「グッド・バッド・ウィアード」

温室効果ガスの25%削減、という目標は、どれだけべらぼうなものなんでしょう?

―――――

僕には想像もつきません。

―――――

奇妙な連想が成り立つと思うのは、「地球規模での問題解決――すなわちそれを“革命”と呼びます――と、地域別の問題処理とは同時に達成されるべきであり、またそのはずのものだ」という考え方が、あの懐かしきマルクス主義と同一の論法で展開されている、と感じるときです。

―――――

ソ連よ。
滅びるのが20年、早かった。

―――――

懐かしき論法、懐かしき感性は、ときに新しい衣をまとって、蘇ることがある。

―――――

僕らが「懐かしき論法」に沿って呼び醒まそうとする感性とは、いかなるものか。

―――――

また、なぜ、そのような論法を求めるか。

―――――

きょうは、そんなお話しです。

―――――

「グッド・バッド・ウィアード」です。

―――――

お久しぶりの韓国映画。

―――――

あの、「続・夕陽のガンマン」に捧げたオマージュです。

―――――

なぜ、いま、ウェスタンか。

―――――

まぁ、聞いてください。

―――――

ときは第二次大戦前の中国・満州。

―――――

日本軍が埋めたという財宝の地図を巡って、その横取りを狙う馬賊の頭目(イ・ビョンホン。また、いいとこで脱ぐ。ちょっと「レッド・サン」のアラン・ドロンを思わせる色男ぶり)、
彼を追う賞金稼ぎ(チョン・ウソン)、
そして事実上の主役なのに狂言回し的に振る舞うケチな強盗(ソン・ガンホ)。

―――――

序盤の列車のシーンから、次々、派手な場面の連続です。

―――――

さて、
お宝を手にするのは、いったい誰だ?

―――――

えーと…

―――――

たいていの日本人と同じく僕が、初めて韓国映画を意識したのは「シュリ」からでしたが…

―――――

あの一本で驚かされて、それ以来、韓国映画は、ここにいる日本の観客にとって、あまりに猛スピードで爆走する、ひとすじの大きなうねりでありました。

―――――

「シュリ」にあったのは、映画的な文法の整理の無視、のけぞるほどの短絡、観る者をただ座らせたままにはしておかぬ挑発する血気…

―――――

文法より情動を!

―――――

文脈より憑依の力を!

―――――

映画とは血の沸騰だ!

―――――

…といったところが、あの映画の作り手たちをうながしていた根本だったろうと思います。

―――――

それが…

―――――

「猟奇的な彼女」

―――――

とかね、

―――――

「カンナさん大成功です!」

―――――

とか、

―――――

見てると、思うんです。

―――――

ああ、洗練されてきたな。

―――――

スマートなほうへ、スマートなほうへ、進んでいるな。

―――――

この2つの映画は、日本でもリメイクされました。

―――――

つまり、韓国的「血の沸騰」よりはグッと穏やかであろう社会が、それを取り込む意欲を見せたのです。

―――――

これは一種の危機であります。

―――――

エモーションを映画にとってのほとんど唯一の動機付けとして躍動してきた人々にとって、存亡の危機なのです。

―――――

なにが「危機」なのか。

―――――

お分かりでない方は、たぶん、コーヒーとはスターバックスで飲むものであり、アイスクリームと言えば、サーティワンよりもコールドストーンを思い浮かべる、といった方でしょう。

―――――

お分かりになりませんか?

―――――

言いましょう。以下、栄養学は無視してください。

―――――

あなたが飲んでいるお洒落な一杯のコーヒーは(いや、「お洒落だったのだ」ということすら、お忘れでしょう?)、飲むほどに、あなたの血糖値を下げていくのだ。健康的になるんですよ。

―――――

「健康的」になっちゃうんです。

―――――

知らず知らずに、「そっち」へ行っちゃう。

―――――

ジョン・ウーのように絶えず「いかに華々しく生きるべきか」を考えていない僕らというのは、おおむね、お金が入れば、ファッションやインテリアのことを考え始める平凡な社会人だと申せます。

―――――

だが、そう、バブルの時代を経験した日本人なら、思い出せる。

―――――

ファッションやインテリアに埋もれる暮らしは、徐々に徐々に、ひとの生き方の活力を奪い、疲弊させ、商品だけが徘徊するグロテスクな人間不在の世を作るのだ。

―――――

が、

―――――

次第にスマートさに変身していくことを露にするのも映画なら、社会がどこを見渡してもスマートなばかりで息が詰まりそうなとき、警鐘を鳴らし、風穴をあけ、「血の息吹き」を吹き込むことが出来るのも、映画の果たせる重要な役割だ、と思うわけです。

―――――

おそらく、この「グッド・バッド・ウィアード」は、そんな意図で作られている。

―――――

あぁ、しかし、

―――――

これは「シュリ」に比べれば、やはり格段に洗練されてる。

―――――

列車強盗に始まり、砂漠の決闘にまで行き着く各シーンの流麗なつなぎ方。

―――――

アイデア豊かなガンアクション。

―――――

オートバイと馬の暴走が巻き起こす興奮よ。

―――――

そのどれもが、いいセンスじゃないか。

―――――

従来の映画の文法をぶっ壊すことにこだわって、「誰も真似できないのに意識せざるを得ない」新たな「映画の文章」を書いてしまった監督が、ゴダールというひとですが――つまり、彼の文法の破壊というのは、誰をもうっとりとさせる、とても洗練された話法に満ちていたのですが、

―――――

こなたキム・ジウン監督は、血の沸騰を取り戻すのに、セルジオ・レオーネ = マカロニ・ウェスタンの記憶をどかん!と持ってきた。

―――――

なぜ、いま、西部劇なのか、という疑問は、僕には浮かびませんでした。

―――――

それは、分かりすぎるくらいに分かる。

―――――

この勇壮なスケール感溢れる一大アクション・イベントが、ずるずると洗練されてきた韓国映画に、「もう一度踏み留まって、血の沸騰を思い出そう!」という呼びかけを行っていること、そうして、そんな呼びかけすらも、洗練の洗礼をまぬがれてはいない、不安定で危うい地点に立っているらしいこと。

―――――

この二点だけ考えても、この映画は、いま、見ておくべき一本ですョ。

―――――

蛇足ながら、「なぁるほど」と思ったことを、あとひとつ。

―――――

この映画、日本軍が「その他大勢」の悪役として、ばったばったと倒されていきますが…

―――――

毎度毎度、娯楽戦争映画というとナチスのことを取り沙汰されて、徹底的にコケにされてきたドイツ人の気分てやつが、少し分かる気がしますです。なかなか痛快だったりします。

―――――

(…って、そんな言い方が、またまた気取ってるじゃあないかっ!)

―――――

Jack

|

倒されても何度でも/「トランスポーター3 アンリミテッド」

おッとこらしいなぁ、ジェイスン・ステイサム。

―――――

セーム・シュルトと闘っても、たしかにこの人なら勝てるんじゃないかと思わせる。

―――――

えー、今日は、
「トランスポーター3」です。

―――――

前回「共同体の成員として、どう自由を得るか」というお話しをしましたが…

―――――

いけねぇ…

―――――

忘れてたよ…

―――――

ちゃんと「教室も含む」なんて書いたのに、ヌケてるなぁ…

―――――

例えば問題となる人物が中学生で、現在「いじめ」を受けている、などという場合、「概念を創出して自由になるうんたらかんたら」という言い分は、まったく無意味であるでしょう。

―――――

その共同体は出口のない「格子なき牢獄」のような場所であり、成員たちに有無を言わさぬ服従を求める帝国主義的権力行使の最たる場であり、大人たちのどんな言説も、「今そこにある危機」に対して、なんの意味も持たないでしょう。
そうなんだよなぁ…

―――――

僕ぐらいの年になってしまうと、3年などというのは「あっという間」の時間の流れなんですが、中学生にとっては、「永遠」とも思える苛立ちと苦渋の日々のはずなのです。

―――――

Black Eyed Peasのリーダー、ウィル・アイ・アムは、ストリートギャングがたむろするハーレムで育った。

―――――

世界には親を亡くし体の一部を地雷で失い、まともな医療が受けられずに死んでいく子がいくらもいる。

―――――

…などという「遠い空の向こう」の話しも、いま現在、切迫した状況にあるひとにとってはなんの参考にもなりません。

―――――

いまこれから白々しい新聞や雑誌の身の上相談のようなことは書けませんので、その代わりに、今日は「強さ」について、申し述べたいと思います。

―――――

いま現在独りで格闘しているひとも、生き延びることができたなら、やがて遥かな未来、大人になって、今度は「守るべきもの」のために闘わなければならないときがやって来る。

―――――

そういうときが、必ず来る。

―――――

「トランスポーター3」です。

―――――

ヨーロッパで開かれる環境会議。

―――――

ときを同じくして、トランスポーター = 運び屋フランク・マーティン(ジェイスン・ステイサム)にひとつの依頼が。

―――――

なにやら怪しげな空気を感じたフランクは、依頼を断り、仲間のマルコムに頼むよう、依頼人に勧めます。

―――――

この事がフランクを、事件に巻き込む。

―――――

日を経ずして、マルコムが彼のもとへ、ひとりの娘(ナターリア・ルダコワ。まったくの素人だったとは思えぬカメラ度胸です。そばかすだらけの面構えも、妙に魅力的)を連れて駆け込むことになろうとは。

―――――

娘は何者?

―――――

謎の依頼人と環境会議との関係は?

―――――

フランクは否応なしに、マルコムの代役として走らざるを得なくなりますが…

―――――

この映画にある「ダンディズム」について、以下、述べます。

―――――

ダンディズムについては、「レッドクリフ Part I」のときにも触れましたが(2008/11/19)、ジョン・ウーのそれとベッソンのダンディズムとはかなり違うので、以下、その点を。

―――――

ジョン・ウーのダンディズムとは、どこまでも花道を行く「男の生き方の夢物語」のようなものなんですが、ベッソンの場合には、華やかさとは相容れない人生観・世界観を象徴する、「複雑さに対するときの“強さ”」を表していると思う。

―――――

ん?
なんだって?

―――――

はい、別角度から言うなれば、このフランス人が「強さのシンボル」として「男」を持ち出してくるのは、そのほうが分かりやすいからで、それ以上の意味はなさそうだ、ということです。

―――――

「男たるもの!」なんて、拳を振り上げてるわけじゃないようだ、と思うのです。

―――――

はて?
「男」を例に挙げると、なにが分かりやすいのか。

―――――

抜け殻が(虚無感が)世の中に小さく咲いた「不条理」と出くわして、そのあまりのもろさを目の当たりにし、自分以外には、それを守れるものがいない、と思い込むとき、強くならざるを得ない、という――そのことの例えとして、分かりやすくなるのです。

―――――

え?
分かりにくい?

―――――

はい、
自分でも書いてて「分かりにくいだろうなぁ」と思いますが、これがあなた、「男の生き様」という話に変換すると、シュッと理解出来てしまうんだなぁ。

―――――

まず、「不条理」について言いましょう。

―――――

まともな理屈の通らぬ、すべてを混沌とさせる「不条理」などというものに、日々、敏感だというひとは、もしかすると精神に問題を抱えてる。

―――――

不条理というのは、日常生活のなかに、そう易々と顔を出してくれるものではないし、見つけたとしても、ひどく可愛げな「小さなもの」に思えるはずです。

―――――

しかし、実際には僕らの暮らすこの世界は、不条理につらぬかれてる。

―――――

憲法九条というのは、国内的にも国際的にも、不条理の固まりでしょう?

(ベッソンの映画にちらちらと政治的ニュアンスが漂うのは、たまたまじゃありません)

―――――

ああいうものが世の中の上にガンとしてあるのに世の中自体が訳が解らなくならない、というのは、「運用面」が、条理をつかさどる「男の理屈」に任されているからですね。

―――――

男の理屈というものをひとくちに言うなら、それは「階層化」する差別化の理屈です。

―――――

強いものが勝ち、弱いものが去る。

―――――

優秀なものが昇り、劣等なものは落ちる。

―――――

これから世の中へ出ようとする人にとって、はなはだ遺憾なことながら、「人生」というのは不公平のかたまりです。

(そもそも精子のときから、競争による不公平は在るでしょう?)

―――――

この「不公平のかたまり」であることが、世の「昼間」を支配するオトコどもにとって、重要なのです。

―――――

世の中は、不公平を条理と差別化の道具とすることで――つまり「オトコの理屈」を表に立てていくことで――、「本当のわけの解らなさ」を覆い隠して、「普通」を成り立たせております。

―――――

そこにひとり、「理想」を述べたてる人が立つとする。

―――――

男らしい理想 = 「邁進の夢物語」とは違う、ユートピアを唱えるような、繊細な感性の理想です。

―――――

フェミニズムに怒鳴られそうですが、そのような理想――「勝ち負けがはっきりしている“普通”」にとっての「理想」――とは、要するに「女の子のおしゃべり」みたいなものなんです。

―――――

ベッソン流の視点をば、適用するとしてみましょう。

―――――

適用するなら、「お気楽・平和・混在・友愛」などというものを持ち上げるのは(「友愛」というのは、新総理の信条のようですが)、所詮は「女の子のうわべ」がちやほやする、そんなヤワな理想に過ぎません。

―――――

ですが――これこそ、ひどく不条理なことですが――、そうしたヤワな理想を守るために、ときに「強さ」が試される。

―――――

不条理をなぜ、守らなければならないのか。

―――――

これをして、「ベッソンの民主主義ダンディズム」と呼んでみます。

―――――

現代社会に在って、「不条理を守ろう」とする行為以上に、「ダンディズム」というものが在りうるだろか。

(九条というのは、守られるべきだろか)

―――――

ここへ「男と女」という単純な視点を持ち込むと、分かりやすくなるのです。

―――――

男にとって、いつまでも不条理――なんなら「理不尽」と言い換えてもけっこうです――なものとは、なんですか?

―――――

はい、だからハードボイルド小説のような、ダンディズムを謳う創作の中では「女がヒロイン」で、男はナイトの役を果たすのです。

―――――

もうひとつ、言いましょう。

―――――

ひとがベッソンの語り口に惹かれるのは、なんらかのかたちで「辛さ」を引き受けざるを得なかった体験がある場合。

―――――

ただ仲間と楽しくやりたいだけのはずが、何ゆえ、謂われもない「いじめ」を受けねばならないのか。

―――――

しかも、それを乗り越えても、進む先には、さらなる不公平と不条理が待っている。

―――――

そのような世界を生き抜くときに、それでもひと筋の生き方を通すことを「ダンディ」と呼ぶ以外、なんと呼んだらいいでしょう?

―――――

人生は辛いこと、苦しいことが山盛りです。

―――――

そこを乗り越えたときに、一陣の風のような爽やかさを味わえる――、というのが、ベッソン流ダンディズムだと思うんだなぁ…。

―――――

それはつまり、この混沌とした世界の中で「普通」であることを通す、という極めて謙虚な、言ってみれば、「平凡にとどまる態度」でもあります。

―――――

だからステイサムやリーアム・ニーソンやジャン・レノのような、渋い男を呼んでくる。

―――――

ひと筋の生き方を通す、ということすなわちそれは、女性的な不条理にとっての「破」でもあるわけでありまして――つまり、不条理に耽溺なんぞしているひとは、いっぺん喝を入れてやらないと、そのまんま帰ってこれない、ということでして――そういうことを考えてそうなベッソンという人が、三回も結婚してる、と。

―――――

深いですね。

―――――

これは、人生の深みというものです。

―――――

人生の深みは、残念ながら、若いときには、解らない。

―――――

いま若くして苦しんでいる人が「乗り越え」られるかどうか、僕には言えない。約束できない。

―――――

ただ、乗り越えたとき、その先に待つさらなる苦難に向かっての「ひとつの態度」というのは、出来かかると思います。

―――――

何度打ち壊されても、首をもたげてくる「不屈の態度」というものが。あ、時間だ、終わろ。

―――――

(読んで疲れませんでした?

僕は、とぉっても疲れましたです)

―――――

Jack

|

脱け出して/「96時間」

サスペンスの巨匠アルフレッド・ヒチコックは、生まれ故郷のイギリスを、「島国根性の国」と呼んで、うんざり気分をあらわにしたことがあります。

―――――

日本サッカーをW杯に導いた立役者・中田英寿選手が日本マスコミやサッカー界の体質を嫌い、早くから外国へ出ようとしていたことは、有名です。さて。

―――――

例によって、また、何を言いたい?

―――――

今日の主役、リュック・ベッソンもまた、フランス映画を巡る状況にがっかりして、どうやら「脱け出したい」と思ってハリウッドに来た人だと思うんです。

―――――

「脱け出したい」と思った人が、どうやって満足を得るのか、が本日のテーマです。

―――――

「フランス」と言いますと、ファッションの国であり、エスプリの国であり、それから例えば絵画の「印象派」を生んだ国であり…

―――――

…と、並べていくと、どこか柔らかい、一事が万事繊細な、言葉のはしばしにニュアンスのこもる、香り高いワインの如き「文化ぁーッ」て感じの漠然としたイメージになりますが…

―――――

そういうステレオタイプなフランス像を激しく嫌うのが、例えばレオス・カラックスのような人たちです。

―――――

この方々の特徴は、何も知らずに「お洒落なフランス映画」を期待して劇場へ入る人の横っ面を張り飛ばすような暴力的な描写にある。

―――――

カラックスほどそのテクニックが練られてくると「これはこれで芸術か…」と納得させられてしまいますが、そうでなくとも、ジャン=ジャック・ベネックスの「ディーバ」の原作小説なんて、非常に野蛮な内容だし、マチュー・カソヴィッツ監督の「クリムゾン・リバー」なんかも、わざとらしいゲテモノ礼賛の気分に溢れているし…

―――――

フランス製のペーパーバックを何冊か持ってますが、どれも、問答無用でマシンガンを乱射する場面が次々出てくる、非常に安っぽいものです。

―――――

一面で、フランス人の「粗暴」への憧れというのは、確かにあるんですよ。

―――――

なんででしょうね。

―――――

我々日本人も、外国人から「大和魂・フジヤマ・ゲイシャ」…歌舞伎に能に、と並べられると、ちと閉口すると思うんですが(いや、一向にベッソンの話しにならないな)、

―――――

それは、それらの香り高い「文化」そのものがダメダメだからというわけでなく、

―――――

そうしたものばかりを持ち上げる姿勢というのが、知らず知らずのうちに、多様体としての文化現象を、凝り固まった、とても窮屈なカッコ付きの「文化」の枠組みへ組み入れて殺してしまうからだ、と言える。

―――――

カッコ付きの「文化」がなぜ「殺すもの」だと言えるのか。

―――――

それは、個々の(多様な)人々の存在をどこかで無視し、無条件に「共同体」の力だけを押し上げていくことになるからです。

―――――

なんだって?
はい、ちょっとややこしい。

―――――

どうせややこしいんですから、もう少しややこしい言い方しますが、

―――――

どんな性質のものであれ「共同体」というものは――国家、ふる里、教室、会社…なんでもけっこう――そこに「集合体」として出来上がっているだけで、もう既に、ある種の「権力装置」の様相を持っています。

―――――

詰まるところ、どの共同体でも、誰かが決めたものであれ、うやむやのうちになんとなく出来上がってしまったものであれ、侵してはならぬ「タブー」のようなものが存在するでしょ?

―――――

そのタブーは、あなたの行動を抑制し、規定し、「共同体の一員」としてのあなたを形作る規範になっているはずです。

―――――

で、ですね、

―――――

もうひとつ。

―――――

共同体というものは、なんによらず「より堅固に、より強い結び付きの集団に」なろうとする性質を持ってますので、「強くなろう」とする過程で、どうしても、より多く、より厳しく「我らのルールに従ってくれ」という申し出を、個人に突き付けてくるのです。

―――――

これに気付いた人々にとって、「いかに『共同体からの強制力』を取っ払ってしまうか」が自分なりに編み出せない限り、「自由」というのは文字通り「絵にかいた餅」になってしまいます。

―――――

最も「簡単に見える」解決法は、その共同体を出てしまうことですが、ではと言って、ジャングルにでも引っ込んで独りで暮らすというのでしょうか?

―――――

イギリスの島国根性を嫌ったヒチコックも、結局はハリウッドでB級監督のレッテルを貼られ、苦労することになったし、中田選手もイタリアのマスコミに嫌気がさしていったようだし…ご覧の通り。

―――――

どこへ行こうと、なんらかの共同体に参加しなければならないことは、分かっています。

―――――

共同体の成員でありつつ、なおかつ強制力を振りほどくことの出来るような、そんな「上手な強さ」を身に付けることは出来ないでしょか。

―――――

「上手な強さ」は、出来るだけ、「ステレオタイプな文化像」の対極にあるほうがいい。

―――――

分かりやすく簡単なほうが、カウンターカルチャーとしての力を発揮できるからです。

―――――

はい。
と、こんな理由でエスプリの国フランスには、暴力の国アメリカにさえ見かけないような「フランス的な、あまりにフランス的な」粗暴さが存在する、というわけです。

―――――

で、今回取り上げる「フランス人のハリウッド映画」が、

―――――

「96時間」

―――――

原題は「TAKEN」。

シンプルそのもの。

―――――

連れ去り。誘拐の話です。

―――――

元CIAの工作員ブライアン(リーアム・ニーソン)。

―――――

別れた妻(ファムケ・ヤンセン。「007・ゴールデンアイ」の悪い悪いボンドガール。変われば変わる)との間に、17才になる娘(「LOST」に出てたマギー・グレイス)がいます。

―――――

この娘が友達と二人でパリまで旅行したいと言う。

―――――

ブライアンはやや過保護な父として、外国なんて危険なだけだと反対しますが、母娘の勢いに押されて、しぶしぶ承諾いたします。

―――――

が、父の心配は現実に。

―――――

着いた矢先のパリ市内で、娘たちは、誰とも分からぬ連中にさらわれる…

―――――

この父親、パリ警視庁に話すなんてことはしない。

―――――

現役の工作員そこのけの能力を発揮して、単身、さらった奴らを追い始め…

―――――

やれやれ、やっと名前が出せる。

―――――

リュック・ベッソン制作・脚本(共同)。

―――――

ハリウッド作品なので、多少「まろやか」になってますが、それでもフランス的な「やりすぎ粗暴」さを充分残したアクション映画。

―――――

年端もいかぬ娘をかどわかすなんて、悪い奴らに決まってる、と。

―――――

容赦するな、と。

―――――

次から次へと現れる「悪党」たちを、
叩きのめす、
制裁する、
撃つときは撃っちゃう、
まぁ凄まじい。

―――――

ベッソンがアメリカを本拠地にしたのは、たしか最大の野心作「グラン・ブルー」がフランスで酷評されてからのようですが(酷評だったそうですよ。なんででしょう)、以来うっぷんを晴らすような、と言いますか、「おらおら、邪魔だ! どけぇっ!」…って感じの作品(「作品」などと、もったいつけて言われるのも、なんとなく嫌そう…)が、目立つように思います。

―――――

この「96時間」も、そういう一本。

―――――

ジャック・バウアーも真っ青の、問答無用な猪突猛進ぶりがウケたか、米国では1億ドルを超すヒットでした。

―――――

このベッソンてひと、不思議なアンビバレンツを持っていると言いますか、ちゃんとした、殴り書きでない「作品」を作りながら「作家」扱いされるのを、拒否したがっているようなところがある。

―――――

それが、最前から申し上げている「自由」に関わる姿勢だと思うんです。

―――――

フランスは高校から哲学を習い始める「思想の国」でもありますので、こういうときには思想の言葉を援用したい。

(けど、「思想の援用」などというのは、高校を中退して映画の道へ飛び込んだベッソンにしてみれば、噴飯モノの行為でしょうが)

―――――

「脱領土化」

―――――

という、いい言葉があります。

―――――

これは、ドゥルーズ & ガタリの「アンチ・オイディプス」の中で、しばしば出てくる用語です。

―――――

えいっ! とおおざっぱに言ってしまうと、このひと言は、

―――――

「その土地その土地の習俗・慣習に根差した、地域にしばられた『集合意識』すなわち“しがらみ”のようなものを抜け出して」

―――――

という意味です。

―――――

だったらややこしく言わないで、そう書けばいいじゃないか、とも思いますが、頻繁に出てくる言葉なので――つまり、頻繁に、同じ考えを繰り返しているので――、いちいち「土地のしがらみがなんちゃらかんちゃら」なんて何度も書くより、えーい、新しい熟語にしちまえ、ということだったのでしょう。

―――――

そういう「めんどくさいから『単語』にまとめます」という作業のことを

―――――

概念化

―――――

と言います。

―――――

この二人の考え方は、たいへんユニークで面白いのですが、「概念」を次々発明して使うことで、共同体の強制力を振り払い、「脱け出す」ことが出来るという発想です。

―――――

これは、「作品扱いされないようにした作品」を次々作ることで、一種のコスモポリタンとしての自由を得ようとするベッソンの姿勢と、つながっておりますです。

―――――

「表現者として、どう自由を得るか」という大テーマに、通じ合うものを見ることが出来るのです。

―――――

そうして、それは、

―――――

結果的にその表現を受け取る人をも自由にする力を持つはずだ、というたいへん楽天的な思考の産物だ、という点も共通してる、とボカ思う。

―――――

実は、ドゥルーズというひとは、年とってから自死の道を選んでしまうんですが、うーん…

―――――

自分もひとも自由にしつつ、さらに自らの属する共同体をも呼吸のしやすい場にしよう、なぁんつう考えをいつもいつも通そうとしていると、たぶん、くたびれるでしょうねぇ…

―――――

いや、たとえ、どんなにくたびれる態度だろうと、ベッソンやドゥルーズのあとを追いかけるひとは、今後も必ず出てくるでしょう。

―――――

「共同体内部の自由」が現代先進諸国の課題である限りにおいて。

―――――

(おー、国際論まで言っちゃったよ。

もう一本、ベッソン映画で観たいのがあるんですけど。

今回は、このへんで)

―――――

Jack

|

いざ、博物館へ!/「ナイト・ミュージアム2」

最近はあまり行ってませんが、僕は、美術館や博物館が大好きです。

―――――

テーマに沿って美術品や遺物を集めて、一堂に展示しよう、と考えたのがいったい誰の最初の発案なのか知りませんが、素晴らしいアイデアの持ち主もいたもんだ。

―――――

なにより最高だと思うのは、博物館という場所が、ひとに、普段と違った深呼吸をさせる「瞑想の空間」だ、という点です。

―――――

あそこに入ると、自然と、普段ならあり得ないスピードで静かに歩くし、しん…とした(いや、少しだけざわざわっとした)館内で、なんとなくゆっくりと呼吸しますし、いつもなら考えないような「大人らしくない」伸び伸びとした妄想が、ふいに浮かんできたりするものです。

―――――

博物館は、「お勉強」の場ではありません。

―――――

そこは、様々な「異界へのいざない」をうながす、魔法のオブジェがちりばめられた、言ってみるならば「異次元」そのものだと思うんです。

―――――

で、そのことを、その・ま・ん・ま映画にしたのが、

―――――

ベン・スティラー主演の「ナイト・ミュージアム」でありました。

―――――

うまいところに目をつけた!

―――――

観て思ったものです。

―――――

ああ、わかるよ。
そーだよね。

―――――

「博物館」て、なんかあやしい場所なんだよな…。

―――――

本物そっくりの異様なろう人形や様々な剥製…、いまにも片手を差し出しそうなミイラの棺…謎の微笑をたたえる大理石の女王像…

―――――

それらが、もし、急に動きだしたら…

―――――

真夜中になると同時に…

―――――

や!もう、大好きですね。

―――――

いまいちど言いましょう。

―――――

うまいところに目をつけた!

―――――

思うに「あやしい場所」を見つけて、世の「子ども心」を失っていないすべてのひとに「お知らせ」する、というのは、映画の果たすことが出来る重要な機能のひとつです。

(同じような機能を「書物」として持っているものに「絵本」があります。

C.V.オールスバーグの「ジュマンジ」とか、センダックの「まよなかのだいどころ」とか、どっちも「あやしい本」でございます)

―――――

子どもというのは、“あやしい世界”に住んでいる。

―――――

子どもの頃、あなたも僕も、言葉の本来の成り立ちに沿って、「自由」だった。

―――――

近所の路地は、どこよりも無限の広さを持っているように思えたし、実際には狭苦しいその「広場」で、思い切り遊ぶことができたし、お母さんが「ごはんですよ!」と呼びにくるまでの時間もまた、無限に感じられていたのです。

―――――

そうした、子どもらへの目線を通じて、僕らは「ヒト」という生き物が突出して構成する「この世」の不思議さを思い出すのだ。

―――――

「無限」と「自由」

―――――

大人になってから学ぶ、単なる「日常ほとんど使わない単語」であるこのふたつは、その大人が心のギリギリまでよじ登って考えるなら、実は、とても、あやしい「何か」のはずです。

―――――

幸いにして、わたくしは狂気を体験したことにより、それに気付くことが出来ました。

―――――

しかし、皆が皆、自由を体感するために「狂気」なんてものと、付き合うわけにはいかないでしょう?

―――――

このことを書くにつけ、出来るだけ皮肉な調子が混じらないように言いたいのですが、普段「大人の皮をかぶって暮らす『機能的』人間」たちにも、ときおり(いつもの空気で息苦しくなりすぎないよう)、「回復」のための時間が必要です。

―――――

「ターミネーター4」について書いたとき(2009/6/24)、そういう時間のことを「安全な冒険」と呼ぶひとがいるのだ、と触れました。

―――――

皮肉かな?
これは、やっぱり皮肉かな?

―――――

いや、そーじゃない。
そんなことはない。

―――――

「安全な冒険」

―――――

あるひとは、ずばり言って「セックス」というものに、逸脱を求めるでしょう。

―――――

しかし、たいていの場合は凡庸なワンパターンに堕ち込むのではないでしょか。

―――――

「子どもの好奇心を持たない性的児戯」というものは、ただ、ヒトをかさかさにしていくだけです。

―――――

本物の子どもの世界に踏み込むことは、大人にとって、本質的にはとても恐ろしい体験のはずなのです。

―――――

恐ろしさのすぐ隣に、「ほんもののおもしろさ」が待っている。

―――――

だけど、繰り返しますが、「おもしろさ」を体験するために、いちいち本当の恐ろしさを味わってたんじゃ、誰しも身が(いやさ、心が)もたないと思います。

―――――

そういうひとたちのために、例えばアダム・サンドラーの「ベッドタイム・ストーリー」や(2009/4/1 掲載)、この「ナイト・ミュージアム」シリーズのような「現代のおとぎ話」があるのです。

―――――

気に入らないですか?

―――――

平凡すぎる結論ですか?

―――――

お嫌なら、あなたも狂うしかありません。

―――――

映画と違って、出てこられる保証はないですが。
(ん? やっぱり皮肉かな)

―――――

ひとつ、(狂気に近寄る怖れもあるので、軽々にお薦めは出来ませんが)馬鹿のひとつおぼえそのものの、大人ぶった性的談義などに頼らなくとも、子どもの心に触れられる「手段」があります。

―――――

勉強するのです。

―――――

ん?

―――――

「博物館は、『お勉強』の場じゃない」って言ったのに!

―――――

はい。
言葉が足りませんでした。

―――――

勉強と『お勉強』を別けましょう。

―――――

『お勉強』というのは、やってて、退屈なだけでしょう?

―――――

「勉強」は、違うんです。

―――――

「勉強」というものには、不思議な魔力がございます。

―――――

よーく丹念に探り当てた「勉強の種」には、僕らの子ども心を十二分に沸き立たせるミラクルが秘められてる。

―――――

「知るは楽しみなり」というのは、この言葉の奥の奥から、本当のことなんです。

(やっぱり平凡すぎる結論ですか?)

―――――

そのような観点からも、この「ナイト・ミュージアム」シリーズは、「いい線」いってる。

―――――

「ナイト・ミュージアム2」

―――――

ニューヨークの自然史博物館大騒動から数年…

―――――

警備員だったラリー(ベン・スティラー)も、今では博物館を退職し、なんと、アイデア商品を売る実業家として成功してる。

―――――

そのラリーが久々に、博物館を訪れます。

―――――

改装のために、「あの」懐かしい展示品の多くがワシントンのスミソニアン博物館に送られ、倉庫入りとなるのです。

―――――

剥製お猿のデクスター…ろう人形のセオドア・ルーズベルト大統領(ロビン・ウィリアムス)…

―――――

みんなみぃんな、お蔵入り。

―――――

いや、ひとつ気になることがある…

―――――

真夜中の魔法をもたらしていた、アクメンラーの黄金の石板は、どうなるのか…

―――――

心配になったラリーは、世界最大の博物館スミソニアンへと向かいますが…

―――――

第1作目より、アイデアの加工の仕方が高度になってる。

―――――

だんぜん、こちらを推薦します!

―――――

「魔法にかけられて」のエイミー・アダムスが、女性飛行家アメリア・イアハート(知らない方は Wikipedia をどうぞ)役で出てくるのも、大いに楽しい。

―――――

これなら、本当の子どもたちにも認めてもらえると思います。

―――――

これは、子どもにも許してもらえる、大人のための「回復作戦発動映画」。

―――――

こういう映画を楽しめるひとは、ベンヤミンのようになれる。

―――――

魔女裁判やドイツの強盗団やジプシーやファウスト博士や詐欺師カリオストロや古代都市ポンペイや犬についての知られざる実話やカスパル・ハウザーについて突っ込んでいったベンヤミンと同じ歓びを共有できる。なんとなれば、

―――――

博物館は、お勉強の場じゃないんですから。

―――――

(最後にひとつ。

この豆知識を持ってると、たぶん映画が、もひとつ楽しくなる。はい。

アメリカの有名な携帯電話会社の創立者の名前は、実は「ジョーイ・モトローラ」ではありません)

―――――

Jack

|

使え! 使いこなせ!/「G.I.ジョー」

パソコンを最初から完璧に「いじる」ことの出来た方は、どのくらいいますか?

―――――

易しいと言われるMacintoshにしても、僕は、その仕組みから理解するまで、たしかひと月程度かかったと記憶します(まだ、基本ソフトのことを「Mac OS」などという洒落た言い方はしませんで、「漢字トーク」と言っていました)。

―――――

いま現在も、Windowsのことをすべて了解して、「どんなトラブルにも対処できる」という方は、利用者全体の何割でしょう?

―――――

また、なんの話しをしてるんでしょう?

―――――

例えばゲームセンターがあるでしょう?

―――――

ある程度大人になると、ゲーセンて、ちょっと入りづらいでしょう?

―――――

周りが年下ばっかりで、自分が浮いちゃうから、というのも大きな理由なんですが、ほかにもね…

―――――

新たに登場するゲームの操作に「ついていけない!」ということありません?

―――――

関連して思い出すことがある。

―――――

日本人が子どもから大人まで易々と使いこなす日本製携帯電話を欧米人に貸すと、難しくて、さっぱり操作出来ないというのです。

―――――

さて、今日取り上げる映画は「G.I.ジョー」なんですけど、ここまで、何を言おうとしてるんでしょう?

―――――

「G.I.ジョー」

―――――

始まりは1641年フランス。

―――――

王を裏切ったかどで焼けた鉄仮面をかぶせられた男…。

―――――

「子々孫々まで、わが家系は覇権を狙うぞ!」

―――――

えー、この冒頭は、本編とたいして関係ありません。
コケオドシです。

―――――

お話変わって、そう遠くない未来。

―――――

世界の兵器製造の七割を握るMARS産業が開発した新兵器ナノマイト。

―――――

医療機器から転用されたという超マイクロ・ロボットが弾頭の中に無数に込められ、これが無制限に鉄製品を「喰う」のです。

―――――

喰われたものは、鉄塔であろうと車であろうと、あっという間にボロボロに崩れ墜ちる。

(このCGは見事ですよ)

―――――

極秘ルートでこの兵器を護送中、米軍部隊は謎の美女(シエナ・ミラー)と白装束の怪人(イ・ビョンホン)率いるハイテク集団に襲われ、ナノマイトを奪われかかる。

―――――

護送隊の一員デューク(チャニング・テイタム)とリップコード(マーロン・ウェイアンズ)を救ったのは、これも正体不明の黒服の特殊部隊でありました。

―――――

ホーク将軍(デニス・クエイド)率いるこの謎の部隊こそ、通称「G.I.ジョー」。

―――――

謎また謎の強盗団と、正義だけど謎の集団G.I.ジョーの、虚々実々の駆け引きが幕をあける…

―――――

さて、
何を言おうとしてたんだっけ?

―――――

そうそう。
ソマーズです。

―――――

この映画、「ハムナプトラ」シリーズのスティーヴン・ソマーズを監督に据えました。

―――――

この、アクション・フィギュアを元にしたオリジナル脚本の、ド派手なガチャガチャした内容を映像化するについては、「いくつになっても平気でゲーセンに入って、触る台すべてにおいて、すんなりと馴染んで、高得点をものにする」ような、そんな才能が必要だった、と言いたいのです。

―――――

なんでまた?
はい。この映画、全編、CGをじゃかすか使った特殊効果のオンパレードなんですね。

―――――

「すごい特撮があるんですよ」なんて、昔からよく聞かされてきましたが、ジョージ・ルーカスという人が、「こうやって使えばいい」と提案するまで、また、スピルバーグという人が「ジュラシックパーク」という映画で「なるほど、じゃあこんな使い方はどう?」と更新するまで、「特撮」映画というのは、ほんとにだらしない内容だった。

―――――

(昔の)「日本沈没」とか「新幹線大爆破」とか、ひどかったです。

―――――

高機能、高精細、高密度、高画質な合成…そうしたものをいくら用意できたとしても、使いこなす人間がいなければ、どうにもなりません。

―――――

で、たぶん現在のハリウッドというところでは、「ゲーセンで高得点を出せ」たり「新しい携帯電話を楽勝で使いこなせる」才能は、売り手市場ではないかな? ということなんです。

―――――

そのくらい、新技術というのが続々と開発され、上手いこと使ってくれる人を待ってるんじゃないだろか。

―――――

ライバルは完全に、ビデオゲームの世界です。

―――――

それも一番チカチカするシューティング・ゲームの世界ね。

―――――

シューティング・ゲームみたいな映像を、ちゃんと物語の中に組み込んで、…なんと言ったらいいんでしょうか、チャカチャカしたチャラチャラしたストーリーの華やかさを演出しようというわけで、ソマーズはそのような制作意図に大いに応えており、彼を監督に起用したのは、まさしく図に当たってる、という感じです。

―――――

(こういう映画って、ほんと、目を奪われる画面じゃなくて、話の中身のほうに気を向けてもらうのって、大変なんだと思うんですよ。アンジェリーナ・ジョリーの「トゥームレイダー」なんて、特撮ばかりが目立って、まことにひどいものだったと思います)

―――――

それともうひとつ、興味深い点があるので、指摘しておきましょう。

―――――

同じようにテクノロジーをふんだんに使う映画を撮っても、「トランスフォーマー」のマイケル・ベイという人には「作家性」のようなものを感じますが、こなたソマーズには、そんな要素が見られません。

―――――

最新技術を上手に使いこなしてはいるけれども、「新しい『作品』を観せてやろう」というようなある種の傲慢な野心を、なんとなくですが、感じない。

―――――

おそらくそれは、例えるなら「ゲーセンで遊んで、いろんなゲーム機で高得点を叩き出す人」と「やってるうちに“そうだ、俺もゲームってものを『造って』みよう”と思った人」の違いなのです。

―――――

こういう人を、映像革命時代の職人監督と呼んでもいいかもしんない。

―――――

戦前・戦後のハリウッドには、「カサブランカ」のマイケル・カーティスとか、「勇気ある追跡」のヘンリー・ハサウェイとか、アカデミー賞も狙える職人監督がいましたが、ソマーズは、そうした人たちとは全く肌合いの違う、技術オタク系職人監督になるのでは…いや、すでになってるのかもしれないな。

―――――

戦争の国アメリカで、戦闘だらけの内容をキッチリ「娯楽の範囲」に収めて描くことが出来ているのも、「職人」の称号にふさわしいと言えそうです。

―――――

とりあえず、監督名にこの人の名前を見つけたら、「損しない愉しい二時間」を味わえると思ってよさそうですよ。

―――――

(イ・ビョンホンは、また、肝心なところで、よく脱ぐなぁ)

―――――

Jack

|

業(カルマ)/「山形スクリーム」

いきなりで恐縮ですが、亡くなった本田美奈子さんが、まだアイドル時代の、キャピキャピしていた頃のことです。

―――――

「ザ・ベストテン」に出演した彼女に向かって、たしか久米さんだったと思いますが、こんなふうに水を向けた。

―――――

「本田さんは、何か目指してるものがあるんですって?」

―――――

すると彼女は、きらきらした顔で、キッパリと答えました。

―――――

「はい。美奈子、『アーティスト』になる!」

―――――

十代特有の皮肉を持ってテレビを見つめていた僕は、こう毒づいたものでした。

―――――

「へぇ…知らなかったなー。『アーティスト』って、『成る』もンなんだ(笑)」

―――――

その後、決意の人・本田美奈子さんがどのような方向に進んだかは、ご存知の通りです。

―――――

このことは、今でも折に触れて思い出します。

―――――

アーティストとは、『成る』ものか?

―――――

これを「問い」として立てた場合、どう答えるか。

―――――

そもそも、『成る』アーティストって、なんのことだ?

―――――

「山形スクリーム」です。

―――――

『成った』アーティストなのか、もともと異能の人だったのか、

―――――

竹中直人監督の、エンターティンメント・フィルムです。

―――――

経歴としてWikipediaに出てないのですが、僕の記憶では、竹中直人という人を初めて見たのは、日テレの「お笑いスター誕生」という番組でありました(ヘンだなぁ。出てなかったかなぁ…)。

―――――

松田優作やら武者小路実篤(!)やらの物真似をするので、「お笑いの人なのか…」と思っていました。

―――――

「無能の人」という主演・監督の映画を作って、たしか外国で賞を受けたと聞いたのは(これも出てないんだ。ヘンだなぁ。違うかなぁ…)、それからだいぶ経ってからでした。

―――――

するとまたしばらくして、今度はNHKの大河ドラマに主演するという(これは出てる、出てる。ホッとした)…。

―――――

いったい、この人、何屋さんなの???

―――――

というのが、いまもって、僕の考える「竹中直人」さんへの疑問です。

―――――

で、その、

―――――

「山形スクリーム」

―――――

山形県庄内の過疎村。

―――――

かつて平家の落武者狩りがあった所です。

―――――

部活の合宿でこの地を訪れた女子高生四人
(成海璃子、桐谷美玲、紗綾、波瑠。みんな役名が面白いから、最後のクレジットにご注意ください)と引率の先生(マイコ)。

―――――

村の青年(EXILEのAKIRA。カッコ悪い役を演じても、要するに何をやってもカッコよろしい)と、仲良くなります。

―――――

村では観光開発のため、落武者鎮魂の碑を壊しているところでした。

―――――

ところが破壊された遺跡跡から、平家時代の亡霊(沢村一樹)が甦り、村中がとんでもない大騒ぎに…

―――――

話の細部にいたるまで、サイケデリックな、いかにも「わざと」のマンガっぽさで埋め尽くされた映画です。

―――――

実はこれ、ネット上での評判は、あまり芳しくない。

―――――

「東京日和」のような繊細な感覚の作品を作ったひとが、こんな「ちゃっちぃ」ものを撮るなんて、というわけです。

―――――

僕も、「連弾」という家族の物語を撮った竹中作品が、とてもしっとりとしていたのを覚えてますので、今度の「山形スクリーム」は、たしかに意外ではある。

―――――

しかし、ホラー映画というやつは、その出発点からして、「チャチなものでも、観る人を面白がらせたら、こっちの勝ちだ!」という、とてもゲリラ的な発想で出てきたのでありまして、そういうものに捧げるオマージュとしては、これは、ひじょーに悦ばしい「貢ぎ物」だと申せます。

―――――

なにより、竹中監督のこれまでの生き方と、この映画の「なんでもあり」というスタイルは、見事に重なる。

―――――

「ゲゲゲの鬼太郎」のような「妖怪」の話しでなく(あれはあれで、面白かったですが)、800年前の落武者が出てくるという「霊のはなし」にしたところが、竹中監督の、ホラーに対する理解の深いところです。

(まぁ、「霊のはなし」というのは、なにかにつけて「ムチャクチャにしてやれ!」と思ってる人が、飛び付きたがる話題ではあります)

―――――

「霊」というのは、この地上に生きる人に、「常ならぬ世界の存在」を伝える役割を果たしてる。

―――――

しかも妖怪と違って、「もとは人」なんですから、業を積んだらたどり着く世界のことを、暗示しているんです。

―――――

このことをひとつ、頭の隅に置いといていただいて…

―――――

竹中監督はこの映画を作るにあたり、徹底して、低予算のチープなホラームービーにインスパイアされたらしい。

―――――

最近、クェンティン・タランティーノやロバート・ロドリゲスがしきりと作っている「安っぽい映画のワクワク感」です。

(それと、どうも「キョンシー」なんかに代表されるアジアン・テイストのホラー風味も入ってますね)

―――――

どっしり構えて、悠揚たる調子で物事に取り組む様を「横綱相撲」と言ったりしますが、それにならって言うならば、

―――――

この映画はハナから終いまで、徹頭徹尾「幕下相撲」で出来ている。

―――――

そうして、ここが興味深いところですが、ホラーの中でも「ゾンビ映画」を主題にしたところが、竹中監督の「やったれ!」という強い意欲だと見ましたです。

―――――

ジョージ・A・ロメロという人がゾンビ映画というジャンルを作って以来、ゾンビというのは「伝染する」ものとなっている。

―――――

死霊に咬みつかれたりすると、今度はその人がゾンビになっちゃうのね。

―――――

これをもって監督の意志を想像すると、「伝染(うつ)ってくれ!」という感じではないでしょか。

―――――

なんでもいいから何か面白いことをやって、みんな(「みんな」というのも、たぶんはっきりしない対象なのです)をうならせたい。

―――――

これは、「若さ」というものが抱える肯定的な一面です。

―――――

その一面を活性化させたい。アジテートしたい。

―――――

俺の意欲よ、やる気よ、「これからの世代に伝染してくれ」。

―――――

というのが監督の真の狙いと見ましたです。

―――――

ネットの一言居士たちなんぞ、最初から相手にしてない。

―――――

「あー、くそ退屈だぜ! なんか、やりてぇ!」という連中を焚きつけようという竹中流「陰謀」ですね。

―――――

そして、この見方が当たりなら、ここには「映画」というものに対する監督の、とてもオプティミスティックな偏愛と希望が込められている。

―――――

さよう。
映画には、なにか「かたちにならない意欲」を持った者を、どこか「そそのかす」力があるのだ。

―――――

「そそのかしてやりてぇ!」と、

―――――

「この映画を観て、あんたの持ってる体の芯から湧いてくるパワーを、なんでもいいから、外へ出してみてくれ!」と、

―――――

そういう「若い観客への挑戦状」が、ここにはある。

―――――

挑戦されたって、そんなこと出来るのか?

―――――

出来る。
業を積んでいけば、出来る。

―――――

「業」と聞くと、何か、とても恐ろしいイケナイもののように思う方がおられるかもしれませんが、ひろさちやさんによれば、それは誤った解釈です。

―――――

例えば煙草を吸っている、というのも、ひとつの業です。

―――――

ひとは業から逃れられない。

―――――

煙草をやめたからといって、「吸っていた」という業から脱したわけではない。

―――――

では、どうすればいいのか。

―――――

これから先、「煙草を吸わない」という業を積んでいけばいいのだ、というのです。

―――――

なんとまぁ、論理的。

―――――

この映画、この業の話しとどこか似通っている気がするのは、ハチャメチャやってるように見えて、ちゃんと冒頭からラストまで、意外にも「筋が通っている」ということです。

―――――

なんでもいいから努力してみてくれ。

―――――

業を積んでくれ。

―――――

そうしたら、ここまではたどり着くことが出来る。

―――――

それが、この安っぽさの中に込められたメッセージである気がします。

―――――

そうして、それは、とても謙虚な態度でもある。

―――――

世の中には、こつこつと努力してたどり着ける「地点」があります。

―――――

その地点を見せようというのだから、これはもう、どうしたって、謙虚そのものと言うしかない。

―――――

天才的なひらめきや超絶的な完成度の美しさで魅せようという気は、ハナから無いのだ。

―――――

モヤモヤした気分を吹っ飛ばすには、持ってこいの一本です。

―――――

唯一、ナンクセつけるとすれば、成海璃子ちゃん主演ですけど、彼女より、出演もしてる竹中監督のほうが、目立ってますね。はは。

―――――

(あのアクの強さに勝てる人は、いるんだろうか)

―――――

Jack

|

魔法の杖をさがして/「そんな彼なら捨てちゃえば?」

同じ会社に勤めるジジ、ベス、ジャニーンの恋愛模様。

―――――

彼女らとはアカの他人のヨガ教師アンナや、ゲイ雑誌の編集者メアリーが不思議な縁でつながり、いくつものラブ・ストーリーが拡がります。

―――――

女優陣が、まず豪華。

―――――

ジェニファー・アニストン、
スカーレット・ヨハンソン、
ジェニファー・コネリー、

―――――

それに引き換え、男優陣は、やや見劣りがいたします。

―――――

ジャスティン・ロング、
ケヴィン・コノリー、

ベン・アフレックが、やや大物かな、という感じですが、役が小さい。
さて。

―――――

「He's Just Not That Into You」、つまり

―――――

「彼はきみには、その気がない」という原題を

―――――

「そんな彼なら捨てちゃえば?」

―――――

と、直しました。

―――――

今どきの邦訳タイトルとしては、ヒットのほうです。

―――――

しかし、なんとなく「企画モノ」めいた題名でしょう?

―――――

「愛はなぜ終わるのか」とかね、

―――――

「話を聞かない男、地図が読めない女」とか、

―――――

ああ、「狙って」んだな、という一連の男女関係セラピーもののニオイです。

―――――

ちなみに「話を聞かない男、地図が読めない女」の原題は、

―――――

「Why Men Don't Listen And Women Can't Read Maps」

―――――

と言います。

―――――

このテンポがよくて、キャッチーな題の付け方が、いかにもアメリカ的な企画モノ。

―――――

…と、企画モノ企画モノと、「本」の話しをしてますが、この映画、原作(というか、Baced on ですね)がありまして、それが、もう既に企画モノだと思うわけです。

―――――

Amazonを見てみますと、米国でベストセラーになったというその本、日本の読者にも、すこぶる評判がよろしい(どーやら女性ばっかし)。

―――――

書いたのは、「SEX AND THE CITY」のスタッフです。

(初めから映画とのタイアップなのかと思いましたが、邦訳が出たのは2004年なので、そういうわけでもなさそうです)

―――――

この原作本のほうは「小説」と言うより「恋愛エピソード集」と言ったらいいようなものなので、ウケたからといって、「これを映画にしてみよう」、ドラマに起こそう、というのは、いかにもテレビマンたちの考えそうなことであります。

―――――

我が国で「恋のから騒ぎ」なんかがドラマ化される、というケースを連想していただくと、よいかもしんない。

―――――

制作総指揮のひとりに、出演もしているドリュー・バリモアが、名を連ねている。

―――――

この人、プロデューサーとしても、かなりの目利きでありまして、主演した「チャーリーズ・エンジェル」シリーズや、「25年目のキス」をセルフ・プロデュースするなど、「自分をよく知っている」という感じです。

―――――

どういう企画なら自分が活きてくるか、ひじょーに理解が深いようで。

―――――

ハリウッドでは、主役級のスターがセルフ・プロデュースをすることは珍しくないですが、「だいたいにおいて成功させてる」ひとは、そんなに多くないと思う。

―――――

このひととトム・クルーズが(いや、トムのほうは近年、ちと、苦労したようですけど)双璧といった印象です。

―――――

が、

―――――

今回は、ドリューにとって、ちょっぴり不満の残る出来映えではないかなぁ…

―――――

いえ、
映画の作りそのものに、悪いところはないんですよ。

―――――

別に、これと言った演出の不手際も、脚本の破綻もない。

―――――

内容について言えば、

―――――

「恋人たちの予感」、
「フォー・ウェディング」、
「ラブ・アクチュアリー」

―――――

といった過去の恋愛映画の傑作・秀作のおいしいところを寄せ集めようという意図がハッキリ見えます。

―――――

この意図にも、「面白いものを作ってヒットさせよう」という意欲を感じこそすれ、文句をつける筋合いのものではありません。

―――――

うむ…
どうも、煮え切らないこと、言っとるな…

―――――

要するに、なにが引っかかるかと言うとぉ…

―――――

セラピー本のエッセンスをそのまま引っ張ってきても、華のある恋愛コメディにはならないことを証明してくれちゃったな、と。

―――――

「あー、はいはい、こういうことって、ありそうだな」

―――――

というエピソードが並んでますが、どれも妙にリアル過ぎると言いますか…

―――――

「“ラブコメ”って、こういうことを言うんじゃないよなぁ…」

―――――

と、痛切に感じましたです。

―――――

オトコが欲しくて、バーに出入りし、一生懸命ハントを試みるが、性的魅力に乏しく、電話一本かけてもらえない女(ジニファー・グッドウィン)。

―――――

完全主義者で潔癖症すぎるがゆえ、旦那に無言のプレッシャーを与えてしまい、浮気されてしまう妻(ジェニファー・コネリー)。

―――――

どっちも、演じる役者さんと役柄がピッタリで、ある意味ではキャスティングの妙なんですが、この、あまりにも無理のない設定と、いかにも現実に居そうなキャラクターたちを見て、思うわけです。

―――――

この程度の話しなら、テレビのワイドショーの再現コーナーで充分じゃないかなぁ…

―――――

映画の華っていうのはサ、

―――――

そういうもンじゃないでしょう?

―――――

恋に落ちちゃう英国首相だとか、学生時代に知り合って何年も親友だったのに、ある日を境に、とか…言いたいこと、わかります?

―――――

「恋愛」っていうのは、いちばん、夢を必要とするもンじゃないですか。

―――――

貴女に「恋愛の夢」がなくなったら、残るのは「生活」だけじゃないですか。

―――――

「生活」っていうのは、お米の値段がいくらだとか、今日はトイレ掃除をしなくちゃとか、そういうことです。

―――――

「夢」の入る余地のない場所ですョ。

―――――

それをあーた、映画みたいなもンとくっつけちゃって、「暗闇の魔法」を卑近なものに引き付けちゃって。

―――――

それじゃあ「逃げ場」がなくなるよ?

―――――

愚かしい。

―――――

あえて「逃げ場」と言いましたけど、なにものにも侵されない「純粋思考」「純粋瞑想」の場は、誰にとっても必要なはずだ、と。

―――――

だからこそ、「芸術」なんてものが成り立つのだ、と、

―――――

わたくし、そう、信じております。

―――――

いま、「芸術」のことだけ言って、意図的に「芸能」というものを持ち出すことを避けましたが、本作は、

―――――

優れた芸能がハレバレしく見せる(例えばミュージカル映画のような)「霊的真実」をも、ただ覆い隠しているだけだと思う。

―――――

生活のすぐ脇に純粋瞑想の時間が挟まっていたり、霊的真実が垣間見えたりすることを明らかにして、僕らをハッとさせてくれるのが、映画という闇の魔法の本当の力じゃないのか?

―――――

そういう観点から言うと、本作はアレですね、

―――――

「一度魔法の杖を手に入れて、それを振っちゃったことがある人のための映画」

―――――

です。

―――――

魔法っていうのは、手に入らなくて憧れてるうちがいい…

―――――

…なぁんて言う方もおられるでしょう。

―――――

一度くらい杖を振った程度で魔法について分かった気分でいる方に、この映画をお薦めします。

―――――

存分に、うなずいちゃってくださいませ(いかんな。どんどんトゲトゲしくなるな。このへんでやめよう)

―――――

僕なら、まだしもテレビ画面で「デスパレートな妻たち」を視るほうを選びますけど。

―――――

Jack

|

第2の冒険/「ボルト」

思い込み。

―――――

今回の映画は、「思い込み」にまつわるお話。

―――――

と言っといて、いきなり話題、逸れますが…

―――――

僕はかつて(そうとう若かりし頃)、ある地方紙の新聞社でイラストレーターとして働いてました。

―――――

ん?
だから、どーした?

―――――

ま、ちょと、お付き合い下さいませ。

―――――

「イラストレーター」とは言ってもですね、どんな仕事かというと、

―――――

例えば「人物写真にアミカケをする」というのがあったんです。

―――――

アミカケ?
はい。

―――――

つまりです、ある朝急に事件の速報などが入って、夕刊に記事を載せる際、関係者の写真が必要なときがある。

―――――

しかし、なにせ急な話しですから、社の手に入れたものが、ただのスナップ写真だ、という場合が多いわけです。

―――――

スナップには後ろの風景や横に立つ別人など、「余計なもの」が写ってますでしょ?

―――――

その余計なものを、グレートーンをかけて消してしまい、必要な人物の顔部分だけを丸型にトリミングして抜くのです。

―――――

この作業は、今ならパソコンを使って誰でも簡単に出来ますが、まだそんなもの無いですから…

―――――

なんとね、
ポスターカラーのグレーを使って、面相筆で人物の周囲を塗りつぶしていたんです!

―――――

で、それを丸写真に加工するのは印刷局のやる仕事。

―――――

職人的なひとの多い部署でしたから、印刷の時間が迫ってくると、内線で「まだか!」なんて怒鳴られます。

―――――

急がなくっちゃ、と思ってヘタに筆を動かすと…

―――――

やらかすんだな。

―――――

髪の毛の部分まで塗っちゃうんだ。

―――――

修正してる時間も惜しい。ほかのイラスト発注も抱えて、テンパってるわけです。

―――――

えーい、面倒だ、てンでサインペンの黒で、消えた髪を「復活」させる。

―――――

そのまま印刷に回します。どこも大騒ぎで降版に間に合わせようとしてますから、些細なミスをとやかく言う人は、おりません。

―――――

が、

―――――

出来上がった紙面には、出てるのです。写ってます。

―――――

かつらのように妙な具合に、髪の黒々とした人物が…。

―――――

このような話しで、推して知るべし。

―――――

「新聞社のイラストレーター」というのは、仕事の範囲が広い割りに、たいした技能を必要としませんでした。

―――――

タイトル文字のレタリングから写真の修正まで…「何でも屋」ではあったのですが…

―――――

何でも屋。

―――――

はい、これ、考えようによっては、いい響きです。

―――――

「どんなご依頼でも、降版までには仕上げますよぉ ♪」

―――――

ちょっとした、社内のスター気取りでありました。

―――――

が、そんなスター気取りにも、ほどなく飽きる。

―――――

「思い込み」というのは、凄いものです。
「この程度の仕事は、おれの才能には、軽すぎる!」

―――――

飽き足りなくなった僕は、刺激を求めて、渋谷にあったデザイン事務所に転職をば。しかし、

―――――

ここからが、今日のお話しの転回です。

―――――

また、なんと。
1日でクビになっちった!

―――――

実は、わたくし昔も今も、満足に直線一本、引けないのです。

(才能と「テクニック」とは、別なんです。これについては、いろんな経験を積んだ上で、再び信じるようになりました。はい)

―――――

いずれにせよ、たちまちお払い箱になりまして、なんとかならないかとワラをもつかむ思いで、ここでようやく、パソコンを買い入れました。

(99年よりもっと以前です。いわゆる「スタンドアローン」で、こつこつ使い始めたわけです)

―――――

PCなら実線・楕円・双曲線、スラスラとお手のものだ!

―――――

こういう道具をいじるのが、性に合っていたのでしょう。

―――――

線の扱いだけでなく、色彩についても、印刷時の効果を見越した使い方を学習し、お陰さまで、いくつかのデザインコンペやイラストコンテストに入賞するまでになりました。

―――――

が、

―――――

それでも就職は、難しかった。

―――――

独立してフリーでやろうかとも思いましたが、雑誌社にイラストの持ち込みなぞしたり、エージェントに登録などしてみても、反応はさっぱりです。

―――――

やっぱり、どこか事務所も探そう。
しかし、

―――――

なぜ、仕事に就けないのか、困ったことに、本当に分からない。

―――――

面接のときの態度がいけないのか、服装か。

―――――

それともキャリアか。

―――――

まぁ「地方紙のイラストレーター」じゃ、キャリアとしては貧弱か(渋谷の事務所は、なにを勘違いしてくれたのか。あとにも先にも、あんなにすんなりと入れた所はなかったです)。
だったら、せめて「受賞歴」で勝負しよう。

―――――

入賞でなく「大賞」や「金賞」を狙ってやろう。

―――――

ですが、そこのレベルまで行くとすると、簡単じゃありません。

―――――

当座のバイトが必要だな。
働きながら、賞取ろう。

―――――

…と、こんなわけで、皆さま、わたくし情報業界に、首を突っ込むことになったのです。

―――――

たかがバイトのつもりで始めた仕事でしたが、見るもの聞くもの、とにかく新鮮で、面白いことだらけでした。

―――――

自分が人と話したり、経理の計算をしたり、マニュアル作成にたずさわったりすることが、とにかくエキサイティングな「経験」だった。

(中でも「Excel」というソフトウェアは、単なる計算用具ではなく、素晴らしい創造性を備えたパレットのようなものだ、と、これも今でも思っています)

―――――

新しい仕事のおかげで、大げさでなく「新しい自分」を発見したつもりでいました。

―――――

一方、コンテスト大賞狙いのほうは、遅々として進みませんでした。

―――――

履歴書付きでイラストの持ち込みなどもやりましたが、返事は皆無。

―――――

それに、バイトの仕事に熱中するほど、絵画的な創造力のほうは、どうも後退していくような、嫌な感覚にも襲われてました。

―――――

収入の激減を覚悟で、もう一度、イラスト一本の道に戻るか?

―――――

しかし、目の前の仕事は、手を引くにはあまりにも魅力的に過ぎました。
さて。

―――――

なにを長々、語ったんでしょ?

―――――

「要するに、夢を失ったのか?」

―――――

「これはただ、『思い込み』が剥げていくだけの成り行きだったか?」

―――――

と、はい、それを述べたかったわけでして。

―――――

「喪失の過程」としか読めないとしたら、ここまで字数をかけてお話ししたのは、まったくの無駄なんですが…

―――――

「ボルト」です。

―――――

先日(7/18)の「モンスター VS エイリアン」に続いて、またもCGアニメです。

―――――

過日はドリームワークスで、今度はディズニー。

―――――

この二社で面白いのは、むかしむかしのMGMやユナイテッド・アーチスツが持っていたような「会社のカラー」というやつが、ハッキリしてるということです。

―――――

かたや、ちょっと皮肉なパロディがお得意で、こなた、どこまでもストレートな感動路線が身上らしい。

―――――

最初の舞台は、ハリウッド。

―――――

TVの人気番組「BOLT」の主人公は、犬のボルト(声:佐々木蔵之介 / ジョン・トラボルタ)。

―――――

SFアクションと言ったらいいのか。

天才教授によって改造されたスーパードッグ・ボルトが、さらわれた教授の行方を追って、ヒロイン・ペニーと共に、悪の組織をやっつけていくお話です。

―――――

TVのボルトは、目からビームを放ち、「スーパーヴォイス」の波動で、並み居る敵をなぎ倒す。だが…

―――――

撮影の合間、フとした拍子に、そのボルトがスタジオの外へ出てしまう。

―――――

閉ざされた世界しか知らないスター犬。

―――――

今まで、撮影セットや特殊効果を、本物だと思ってた。

―――――

そんな彼にとっての本当の冒険は、ここから始まることになるのです。

―――――

ハリウッドから遥か離れたところに来てしまったボルト。

―――――

野良猫のミトンズ(江角マキコ)やハムスターのライノ(天野ひろゆき)と出会い、自分にとっての「新しい現実」を会得しながら、目指すは再びハリウッド。

―――――

大好きなペニーが、待っていてくれると信じて…

―――――

いやぁ…

―――――

あー、こういうの弱いんだ、オレ…

―――――

3、4回、鼻ツン状態(瞳うるうる状態)になってしまいまして…

―――――

「トイ・ストーリー2」のジェシーのエピソードや「WALL.E」の恋物語にも感激したけども、いやぁ…

―――――

今回もいいじゃないですか!

―――――

青少年を抜け出してない頃には、こんなに涙腺がゆるくなかったなぁ。

―――――

こうした映画の何が「現実の優れたメタファー」になっているのか、

―――――

そこをすんなりと理解できつつあるのが、今の僕です。

―――――

下手な冗談でも、粋がりでも、悔しまぎれでもなく、

―――――

「そうだ、俺も、頑張らなくっちゃ」

―――――

と、素直に思わせてくれるんですね。

―――――

劇場ではたくさんの子どもたちが、静かに、ときに笑いながら、スクリーンに見入ってました。

―――――

僕は、自分が小学生の頃、「わんわん物語」を見て、しばらく立てないほどジーンと来たことを思い出しました。

―――――

この子らも、いつか、ディズニーを観なくなるでしょう。

―――――

そして再び帰ってくることになるかもしんない。

―――――

そのときには、たぶん、「分かってきたからこそ目が潤む」ということに、

―――――

なるんじゃないの?
いーじゃないの ♪

―――――

その人たち、僕らにとって、ボルトの味わう「第2の冒険」とまったく同じ冒険が、

―――――

まさに、進行中なんです。

―――――

Jack

|

♪ 何もないな 誰もいないな…/「イントゥ・ザ・ワイルド」

もし、ここが現代日本じゃなかったら、

―――――

とてもじゃないが、自分は、まともに生きていられなかった…

―――――

ときどき、そう思います。

―――――

このブログのプロフィール欄に、「酒には縁がない」と書きましたけど、「晩酌の趣味はない」という意味でして、ぜんぜん呑めないわけじゃぁない。

―――――

…わけじゃぁないけど、我を失うほど酔っぱらったこともない。

―――――

酩酊したくなるような性質のストレスを、抱えたことがないのです。

―――――

僕は、自分が、現代日本の文明生活のおかげで「生かされている」と思っており、また、そのことに、かねがね、深く感謝しておりますので、その文明生活の中で、「酔って忘れたいような現実」に出くわすことなど、考えられないわけなのです。

―――――

子どもの頃は、ひどい病弱でありました。

―――――

喘息です。

―――――

どうやら、からだの弱い者が産まれてくる家系らしく、親戚のなかには、30代で旧いタイプの吸入薬を使い過ぎ、肺をおかしくして亡くなってしまった人もいます。

―――――

昔の喘息薬というのは、重い副作用を起こしたのです。

―――――

もし、僕が、「あのとき」、喘息治療の名医と言われる先生に出会って、最新の吸入薬を処方されていなかったら…

―――――

また、もし、僕が、精神病治療の、あまり発達していない国に産まれていたら…

―――――

こうして生き長らえて、ほかの多くの健常者たちと同じ生活を送ることは、不可能だった。

―――――

だから、僕には、うっとうしい現代生活を脱して、「どこか遠くへ行ってしまいたい」という願望がありません。あ、いや、

―――――

詳しく言わないといかんな。

―――――

「うっとうしい」と思うことは多々、ありますが、だからと言って、「あー! 温泉でも行って、なんもかんも忘れてさっぱりしてぇ!」というよーな気持ちになることが、めったにないわけなのです。

―――――

この世界に感謝こそすれ、「逃げ出したい」と思うような「うんざり気分」に陥ることが、まず、無いのです。

―――――

おシアワセなやつだ。
はい。

―――――

そんな僕にとって、ヘンリー・D・ソローは、「ほとんど共感できないのに、気になる作家」のひとりです。

―――――

初めて「森の生活」を読んだのは、8年ほど前。

―――――

もう大人になってからでした。

―――――

1817年生まれのソローは、ハーバード大学を卒業後、文筆業でメシを食っておりましたが、28才の夏、思い立って、マサチューセッツ州コンコードにあるウォールデンの森に入り、自分で小屋を立て、「洗練された」都会生活を捨て、鳥やけものの様子に日々、心打たれ、魚を釣り、思索にふけり、ほとんど人の訪ねて来ないその家で、2年2ヵ月を過ごすことになる。

―――――

美しい描写。
みずみずしい筆緻。

―――――

都会生活では到底味わえない「人間の暮らし」の日々。
だけど、

―――――

年寄りではないがさりとて幼くもない、という年齢でこの本を初めて手にした僕は、読み進めながら、強い疑問を持ちました。

―――――

なるほど、ソローの自然描写は素晴らしい。

―――――

だが、

―――――

なぜ「2年2ヵ月」なのだ?

―――――

ありきたりの文明生活に疑問を抱いて森へ入ったというのなら、なぜ、また、森の外へと舞い戻ったか。

―――――

彼は書いている。

―――――

「たぶん、ぼくには生きるべき人生がもっとあって、それ以上の時間を森で費すことができなかったからだと思う」

(真崎義博訳 : 宝島社)

―――――

人間の暮らし。

―――――

このひとことに強く惹かれ、呼応する若者にとって、この本は、美しい贈り物だと思います。

―――――

なんと言ったらいいんでしょうか。

―――――

ごみごみした、妬みとやっかみと悪態の支配する都会を脱出…

―――――

「人間の手がまだ触れない」命の源を目指し、森の奥へと分け入っていく…

―――――

森の中で、ひとは、目の醒めるような生き生きした自然と、その中で懸命に生きる動物たちと、そして自分自身を「発見」することになる…

―――――

「ぼくが森へ行ったのは思慮深く生活して人生の本質的な事実とだけ面と向かい合いたかったし、人生の教えることを学べないものかどうか確かめたかったし、死ぬときになって自分は生きていなかったなどと思いたくなかったからだ」

(上掲書)

―――――

この本には、どれほど望んでもつかみきれない「憧れ」が満ちているのです。

―――――

この憧れは、ソローの生前には、注目されたりしませんでした。

―――――

彼は、文明化しようとする当時のアメリカにあっては、ただの変わり者だった。

―――――

解説の青山南さんによると、ソローに俄然スポットが当たるのは、1960年代に入ってからです。

―――――

ヒッピーに代表される反体制文化が出てくるなかで、ソローの行為は、若者たちの強い共感を呼び、「森の生活」は、一種のバイブル的存在となった。

―――――

「「市民的不服従」という言葉がソローのものだと知らずにつかう若者たちがどっさりいた」

(上掲書:解説から)

―――――

届かない憧れ。

―――――

実は、「森の生活」をソローが書いたのは、ウォールデンの森を出たあとです。

―――――

7年以上の歳月をかけ、文章を何度も何度も練り直し、推敲(すいこう)に推敲を重ねて、その上で発表している。

―――――

パロールとエクリチュール、つまり、「言葉を発する」ということと、「書き物をする」ということは、行為として、本質的に異なります。

―――――

文明のなかに生きる僕たちは、言葉を発することで、自らのなかにある自然を蘇らそうとし、書き物をすることで、文明と同化する。

―――――

さよう。
現代人という連中は、引き裂かれているのです。

―――――

そんな中、話し言葉を文体の中に取り入れていく、という意味は、文明生活の中で失われがちな「生きること」を思い出していくためです。

―――――

うむ…おっと…

―――――

そう解説しちゃっちゃ、野暮ですね。

―――――

こんなふうに語っていては、もとより自然から離れてしまうし、「自然」とはなんだったのかも、解らなくなってしまう。

―――――

ソローが書いたことは「本当の体験」ですが、本当の体験を文に定着させる過程で、「本当の暮らしを生きた感激」が失われぬよう、彼は細心の注意を払い、本の完成に、長い長い時間をかけた。

―――――

で、

―――――

僕は、そのような、極めて綿密な注意を払って作り上げた「文章のなかの自然」てものに、「手の届かない本物の自然に焦がれる文明人」の様を見てしまったりするわけです。

―――――

憧れ。

ロマン。

―――――

これらのひとことは、ソローが長年かけてつかもうとしたものを表すには、卑小に過ぎる。

―――――

「イントゥ・ザ・ワイルド」

―――――

大学をオールAの成績で卒業した青年(エミール・ハーシュ)。

両親は「車を買ってやろう」と申し出ますが、彼はそれを断ります。

―――――

在学中に貯めた預金を慈善団体にそっくり寄付し、手持ちのカネを燃やし、彼はリュックひとつで荒野へ入る。

―――――

実話がベースになっています。

―――――

なぜ、青年は、荒野を目指す?

―――――

彼が愛読していたのが、トルストイやソローの本だった。

―――――

この物語を映画化したショーン・ペンは、俳優としても素晴らしいが、脚本家・監督としても、第一級だと感じます。

―――――

憧れ。

―――――

多くの人が憧れる「それ」をフィルムに定着するにあたり、ペンは映画という名の「文明機械」を、考えつく限りの方法で総動員し、駆使し、そうして「青年の見た自然」を再現しようと試みる。

―――――

ただカメラが美しいだけではありません。

―――――

見るもの聞くもの、体感するもの。

―――――

青年がそのたびに振るわせる心の様子を、すくい取ろうとしているのです。

―――――

どこまでも、何かを求める、まっすぐな憧れ…

―――――

ペンの映画は、映画というものが本来、劇場やDVDプレーヤーを必要とする「文明機械」に過ぎないことを乗り越えようとする、たいそう野心的な挑戦でもある。

―――――

技巧の凝らされた演出は、ペンという人が、今まで述べてきたような意味での「強い憧れ」を心に抱えた「文明人」らしい、ということを意識させずにはおきません。

―――――

ん?

―――――

なにか、おかしいですね?

―――――

はい。なにか矛盾しております。

―――――

ソローの本は美しく、ペンの映画は命の思索に満ちている。
なのに、

―――――

彼らが綴る命の姿の美しさは、現在を生きる僕らに、何を授けてくれるだろう…

―――――

実は、わたくし、狂っていたときに、地元から群馬の山奥まで、歩き通しに歩いたことがありまして。

―――――

警察に捕獲され、精神病院で目覚めたときは(正確に言うと、最初の病院で目覚めたときです。あまりにもハイになってましたので、「とてもウチでは治療出来ない」と言われ、転院させられました。二番目の病院で起きたときはベッドに拘束されてました。

が、それはともかく短い行脚を終えたあと)、

―――――

足が、冗談でなく、二倍くらいに腫れ上がっておりました。

―――――

歩いているあいだは、まったく気付かなかったのです。

―――――

痛くもかゆくもなかったですね。

―――――

その短い「旅」で僕が得たものは、たいそう恐ろしい「本物の自由」でありました。

―――――

本物の自由が、なぜ、恐ろしいのか。

―――――

いまは説明する自信がありませんので割愛しますが、この映画を観れば、「自由」というものに付きまとう素晴らしい解放感と、そしてその裏腹に在る恐ろしさとの関係に、少し(うっすらと)、気がつけるかもしんない。

―――――

ひとは、ときに何もかも捨て去って、無限の彼方へ旅に出る…そんなロマンを必要とするんでしょうか?

―――――

僕には、残念ながら分かりません。

―――――

命の輝きを求めれば求めるほど、研ぎ澄まされた「文明観」を求められるということを、僕は「生命論的苦痛」ではないのか? と、そう疑ってるんですが、

―――――

誰かの歌にあるように、カレンダーも目的地もない「旅のための旅」、命の奥へと分け入る旅に、

―――――

出てごらんになりますか?

―――――

(もう一冊、夏のご推薦図書を挙げるなら、だんぜん、ジャック・ケルアックの「路上」です)

―――――

Jack

| | トラックバック (0)

たんこぶ/「アマルフィ 女神の報酬」

はじめにお詫びを。

―――――

今回は、映画のネタを割ってしまうかもしれないので(いや、そうと言わずに、ときどきやってるかもしれませんが)、最初にお詫びしておきます。

―――――

それでも、ぜひとも聴いて頂きたいことがございます。

―――――

ぜひ!言いたいことがあるんだけども、それを言うには、映画の核心に触れざるをえないかもしれんのだぁぁ。

―――――

ああ、ごめんなさい。

―――――

「アマルフィ 女神の報酬」

―――――

クリスマス間近のイタリア。

―――――

(少し脱線しますが、これだけで「ハハン」と思いましたです。

夏に劇場公開しておいて、12月頃レンタルしたりTV放映したりしようという算段ではないかな?)

―――――

もうすぐローマで、G8開催です。

―――――

当然、日本大使館はてんてこ舞い。

―――――

参事官(佐野史郎)を中心に、現地外交官たち(大塚寧々、伊藤淳史ら)は、準備に追い立てられています。

―――――

中でも安達研修生(戸田恵梨香)は、気苦労多々。

―――――

来訪する日本の外務大臣夫人のデザートの好みで頭を悩ませているところへ、この時期に赴任してくる黒田外交官(織田裕二)の出迎えまで…

―――――

だが、この黒田という男、なにやらいわくありげです。

―――――

なぜ、この忙しい時期にやって来るのか…

―――――

事情通のフリーライター(福山雅治)は、黒田を見つけて言う。

「あんたがここに居るってことは、何か派手なことがおっ始まる証拠だ」

―――――

一方その頃、ローマでは、ある観光客(天海祐希)の親子がトラブルに巻き込まれておりました。

―――――

美術館で鑑賞中、幼い娘がトイレに行った拍子に、忽然と消えてしまう…

―――――

言葉の分からぬイタリアで、母親が頼る相手は?…

―――――

黒田外交官は、この失踪に助けの手を差しのべますが…

―――――

特に前半部がいい。

―――――

消えた娘の謎を追って、かなり気を持たせる演出です。

―――――

が、母親を心配する商社マンの男(佐藤浩市)が出てくるあたりから、話の展開は、正直、先が読めてしまう。

―――――

配役のせいで先が読めるのは、致し方ないとして…

―――――

きょう言いたいのは、そういうことではないんだな。

―――――

公式サイトでも、「イタリア全土を襲う大規模連鎖テロ」が起きる、と紹介してありますので、そーゆー事件が起きるのだ、ということは勘弁願って、言わしてくだはい。

―――――

で、

―――――

今回、話題にしたいのは、その「大規模連鎖テロ」とやらの、「描写の仕方」でございます。

―――――

単刀直入に申しましょう。

―――――

なんで、日本の「娯楽」映画は、「暴力」の描き方が下手なのだ?

―――――

あー、いや、
こういう言い方は、一方的だな。

―――――

日本刀振りかざしてのヤクザの闘いとか、「ケンカ上等!」みたいな不良高校生の乱闘とか、そういうのは、いいんですよ。

―――――

むしろ、日本映画の得意分野だと言っても、いいかもしんない。

―――――

では、なにが下手かと言いますと…

―――――

「ひとを殺してでも『祈り』をかなえよう」とするものが現れたときに、どうするのか?

―――――

そのことについての態度が、はなはだ及び腰だということです。

―――――

それは「暴力」の問題であり、「政治」の問題でもあります。

―――――

ふたつに分けて、言いましょう。

―――――

ひとつは、銃器が絡んでくる場合です。

―――――

我が国には、「ゴルゴ13」のような漫画もあるのに、なぜ映画になると、ガンアクションは得手でないのか。

―――――

そして、もうひとつ。

―――――

「ポリティカル・サスペンス」とか「ポリティカル・アクション」とか呼ばれるジャンルの下手なこと。

―――――

昔から、これらの分野にチャレンジする人はいたんですよ。

―――――

小林旭や宍戸錠(エースのジョー)の無国籍アクション、片岡千恵蔵の私立探偵・多羅尾伴内、市川雷蔵のスパイ映画などなど。

―――――

そうした作品は、どれも面白く出来ていますので、描写が下手くそになったのは、雷蔵や宍戸錠よりあとの世代のことだと申し上げてよいでしょう。

―――――

僕はずばり言って、「団塊の世代以後」のことだろう、と思っています。

―――――

具体的に言いましょか。

―――――

ビートルズ解散の頃にハタチ前後だった人々です。

―――――

この世代は、安保闘争や大学紛争など、「闘い」に、常に「理念」がついて廻る人々です。

―――――

ベトナム戦争が「自由主義を守るための正義の闘い」なのか、それとも「米帝国主義による民族自立への侵略」なのか、コブシを振り上げる前に「まず、議論せよ」と、馴らされてしまった世代です。

―――――

ケンカするのに、「理屈づけ」が必要だったようでして。

―――――

それが「時代の不可抗力」だったのかどうかは、いま、問題ではありません。

―――――

実際には国家的危機の存在しなかった「戦争について、その迫り来る空気さえも、よく解らない国」、日本にあって、

―――――

国と国との付き合いの上で、否応なしに起きてくるかもしれない「争いごと」について、米国に守られながら、ぼんやりと空想するしかなかった人々が、自分たちよりあとの「文化の方向付け」を迷いながら「決定ごっこ」する以外、選択肢がなかったことが、その後の「娯楽下手」につながっている、と、

―――――

僕は、そう思っておりますね。

―――――

ややこしいですか?

―――――

ややこしいのは、僕のせいじゃありません。

―――――

自らはなんでもかんでも部外者的立場に立って論評するのがお好きな割りに、自分のこととなると他者からの批評をするりとかいくぐろうとする悪質な癖の持ち主たちが、80年代前半の、日本が国際的に注目を集める時代の「文化の先導者」を担ってしまったことが、

―――――

この国にとっての不幸であった、と、

―――――

そう思っているのです。

―――――

このような常態を脱却するには(なぜ「脱却」したいか、って? うっとうしくてたまんないからに決まってるじゃん)、この世代が投げ出すように無視してきた問題に正面から向き合い、「なにがいけなかったのか」を総括する必要がございます。

―――――

「相棒 劇場版」もそうでしたが、この映画も、総括のために、「まず、『テロ』とはなんなのか?」を考えている。

―――――

それだけ真摯で、良心的な作品を作ろうとしているのですが、それは、

―――――

正直言って、「理屈抜き」で動かなければならない「娯楽」映画にとって、実に身動きの取りにくい、困った「アタマのたんこぶ」のようなものなのです。

―――――

「銃を抜いたら、弾は放たれるものなのだ」

―――――

撃つか撃たれるか、それだけなのだ、という単純明快さが、この「アマルフィ」なる映画には無い。

―――――

いったん銃による解決を決心した者たちが、あんな簡単に説得されて、振り上げた腕を下ろすわけはないじゃぁないの。

―――――

肝心な場面での、アクションでなく理屈っぽい「答弁」のやり取りは、いままでなし崩し的に積み重ねてきてしまった「特殊な時代」の総括が、それだけ困難であることを語って余りある。

―――――

座ったまま、とくとくとして、戦いについて呑気に語るようないやらしさがないことが、救いと言えば救いです。

―――――

それだけ、愚直に「娯楽というものを創れる土台」を探しているのが見えるからです。

―――――

劇中、織田裕二はニコリともしない「渋い男」を力演しておりますが、正直、似合っているとは思えない。

―――――

それがまた、こうした「娯楽」作品にふさわしいキャラクターを探すことの難しさを示しているかのようなのです。

―――――

けなしてるのか?

―――――

いや、そうではなく、こうした努力を楽しみに「見守りたい」と、申し上げたい。

―――――

思い出すのは、70年代のテレビです。

―――――

折からの「コロンボ」ブームで、日本のテレビドラマには、やたらと「よれよれのレインコートを着て、風采の上がらない名刑事」が出てきたものです。

―――――

それが、どの役者にも、まったく似合ってなかったですね。

―――――

その頃、やがて古畑任三郎や杉下右京が登場することになる、と想像したひとはいなかった。

―――――

こなた、現代です。

―――――

9.11事件のとき、団塊の世代の最初に採った態度というのは、実に無様なものでした。

―――――

我々は、テロの時代に、「下手くそだ」とも、「不謹慎だ」とも言われない娯楽を(優れた娯楽なら、意図せずとも自然に現実を反映しているものです)持てるようになるでしょか。

―――――

「アマルフィ」の織田裕二は(へんな言い方ですが)、似合っていない役柄を、なかなか魅力的に演じている。

―――――

この愚直な映画自体も、身の丈よりやや高いところに目標を置いた、洒落っ気を目指した終わり方をいたします。

―――――

イタリアの風光明媚に酔いながら、

―――――

今後出てくるであろう「娯楽」映画を期待して待つ気にさせてくれるんです。

―――――

(たぶん、そのときが来たら、みんなして言うことでしょう。

「なんで、出来なかったんだろうね?…」と)

―――――

Jack

―――――

(いまどきなら、「SP」なんて、面白いよね)

| | トラックバック (0)

新版イコノソフィア・アニメ編/「モンスター VS エイリアン」

いま、僕の手元に、二枚のまったく異なる手法で描かれた「女」(いや、正確に言うと「若い娘」)を主題にした絵があります。

―――――

のん。
正しくは、二枚の作品(さらに言うなら、一枚はフォト・コラージュなんですが)について取り上げた、雑誌の記事があるわけです。

―――――

一枚は、僕の美術の師匠だったこともある現代美術家・会田誠さんの日本画で、「巨大フジ隊員VSキングギドラ」という作品。

―――――

東京の街を暴れ回るキングギドラに対して、ウルトラ警備隊の紅一点フジ隊員が、なぜかウルトラマンのように巨大化して組み合いますが、ギドラの猛攻にあい、あわや着衣が!貞操が!…、ああ、ギドラの首が、あんなところに絡んじゃって!という、まぁ、その瞬間を微細な線と色付けで描いた絵です。

―――――

そして、もう一枚は、英国人でありながらカリフォルニアを愛するアーティスト、デヴィッド・ホックニーの作品「ヌード」。

―――――

女優テレサ・ラッセルの、性器まできちんと映った寝姿の写真を幾重にもばらばらにし、細切れに切り刻んで、もう一度、ひとつに合わせた、という作品。

―――――

ふだんは実に明るい色彩で、西海岸の生活を捉えたりする方ですが、自分の中に眠る「女について、モーレツに妄想したい!」という「少年性」がふつふつと湧いてきた…というような一枚です(たしか、このひとは、ゲイだったと思いますけど)。

―――――

会田さん、ホックニー、両者まったく違う作品ですが、どっちについても言えるのは、

―――――

「美術ってものを、なかば神聖視してくれる、“分かったフリ”の大人たちに許しを乞うて成り立っているような、閉ざされた少年性についての作品だ」

―――――

ということです。

―――――

いつまでも青少年から脱却できない男にとって、「若い娘」とは、極めて意味の限定された性の対象に過ぎません。

―――――

現実の娘たちと付き合うことで、性の対象は、初めて「女」性と意識される存在に変質していきますが、ふたりの芸術家は、「そうなる前」を問題にしています。

―――――

どちらも、「閉ざされた少年の心的世界」が、どのような広がりを持っているかを、たいへん整理整頓された手法で作品化しているのです。

―――――

もうひとつ言えること、言いましょう。

―――――

2つの作品とも

―――――

「キッチュかもしれないが、ポップではないな」

―――――

ということです。
つまり、

―――――

どちらも、素直に考えたら不気味なアイデアを、非常に繊細な手つきで具現化してあるわけですが、これらはですね、

―――――

あんまり美術に関心のない、ごくフツーの女のコが見たら、

―――――

「なに、これ? キモい…」

―――――

と言われて、終わってしまうかもしれない作品なのです。

―――――

なんとなれば、現実の娘と途切れたものを問題にしてるのですから、アタリマエです。

―――――

アイデアの生々しさばかりが前面に出てきて、「どう表現してあるか」を問題にしてもらえないものを、

―――――

「ポップではない」

―――――

と僕は言っているわけですが、

(映画「エイリアン」のクリーチャー・デザインをして世界に名を馳せたH.R.ギーガーなども、僕は、「キッチュだが、ポップでない」と思っています)

―――――

ん?
なんですか?

―――――

はい、そうですね。

―――――

ここまで言う以上は、これから「ポップとは何か、について」、僕なりの見解をお話ししようというのです。むふ。

(さあ、感性テストの時間だぞぃ!)

―――――

「モンスター VS エイリアン」です。

―――――

陽光まぶしいサンフランシスコ。

―――――

結婚を間近に控えたスーザン(声:ベッキー/リース・ウィザースプーン)。

―――――

結婚式当日、教会のそばで、なんと隕石の直撃を受け、奇妙な宇宙線を浴びてしまいます。

―――――

おかげで、さぁたいへん!

―――――

からだが数十メートルに巨大化し、家族にも新郎にも参列者にも逃げ出され、ついには軍に捕まってしまいます。

―――――

連れていかれた秘密基地で出会う怪物たち。

―――――

ゴキブリの能力を得ようとして、変身してしまったコックローチ博士。

半魚人のミッシングリンク。

スーザンよりさらにでかい虫の化け物ムシザウルス。

そして、生きたどろどろのスライム生物ボブ(ひゃっほう! 声:バナナマン日村勇紀/セス・ローゲンだ)。

―――――

自らも人間としてではなく、モンスター「ジャイノミカ」として登録されてしまうスーザン。

―――――

ああっ!
あたし、いったい、どうなるの?!

―――――

悩んでいる頃、はるか宇宙の彼方では、地球侵略をたくらむ、恐ろしい宇宙人がおりました…

―――――

やー!
これ、すごく、いいセンスじゃないの!

―――――

「ハエ男の恐怖」とかスティーブ・マックィーンの出た「人食いアメーバの恐怖」(「絶対の危機」ね)とか、もちろん、「アマゾンの半魚人」とか、そのへんへの目配せもうれしいですが、

―――――

なにより、巨大フジ隊員に比べて、巨大スーザンの存在は、圧倒的に、ポップだと思います。

―――――

女のひとでも、楽しめるように出来ている。

(脚本チームのひとりが、マヤ・フォーブスという女性です)

―――――

僕は、なにをもって「ポップ」だと言ってるか?

―――――

懐かしの「セーラームーン」を、例に挙げてみましょうか。

―――――

いまでもネットを漁れば、「セーラームーン」のアダルト版パロディ漫画を簡単に見つけられるはずですが、

―――――

「そーゆー」たぐいの妄想をも簡単に引き付け、なおかつ、どーしようもなく「華」のあるものを、そう、ポップと呼んでいるのだよ。

―――――

性しか知らないオトコの子が女のコに出逢えば、誰でも、否応なしに気付かされる。

―――――

性的な妄執などは、男と女の付き合いの、ほんの背景に過ぎません。

―――――

思想上のこととして「肉体的」だの「身体性」だのと言っているとき、すぐに「穴」のことだと勘違いする愚か者は、要するに、働けばよいのです。

―――――

人生は、ポップなコミュニケーションに溢れてる。

―――――

「ね、ね、ね、あのさ…」

―――――

と話しかけられるだけで、

―――――

「♪ うん、なーに? ぜんぶ許すから(なにを許すんだ?)なんでも言って ♪」

―――――

という気になるのが、つまりは「ポップ」ということです。

(わっかるかなぁ)

―――――

マリリン・モンロー、かつてのマドンナ、いまのブリトニー・スピアーズ、ビヨンセ、Perfume、しょこたん…と…

―――――

はっきり言いますよ。いいですか。

―――――

こういうひとたちは、みぃんな「オナペット」としての機能を持っていたし、持っている。

―――――

しかし、

―――――

そーゆーところしか見てないヤツには、キッチュ程度の短絡理解がお似合いです。

―――――

幻想とは、もちろん性幻想も含めて、男と女が一緒に浸って遊ばなきゃ、輝いてくるはずないです。

―――――

そういう共通項が持てるからこそ、「フーゾク」なんていう商売も、成り立つわけで。

―――――

10年間、女だらけの職場にいて、出来る女や明るいだけの女や、ただ単に面倒なだけの女に囲まれていた体験を踏まえて申します。

―――――

女っていいよなぁ…

―――――

と、素直に思える男にとって、

―――――

「女のコが巨大化して、怪物扱いされて、凄いパワーを発揮しちゃう!」

―――――

というアイデアの、なんと単純で、ポップなことよ。

―――――

おまけにちゃっかり「大きくなって、女性として強くなる」っていうフェミニズム調のテーマも掛けてある。

―――――

本国では、大ヒットしたようですから、パート2の出来る予感もぷんぷんです。

―――――

「魔女っ子メグちゃん」とかね、

―――――

「クリィミーマミ」とか、

―――――

「スケバン刑事」とか、

―――――

アイデアは良くても、真面目に見てると退屈で気疲れするのも多いんですが、この「モンスター VS エイリアン」については、わたくし、わたくしなりのオタク人生を賭けて言いましょう。

―――――

いやはや、見て損はないはずです。

―――――

(あっ。子ども向け映画としても、よく出来てるんですよ。

劇場にいた幼児たち、一切騒がず、食い入るように画面に見入っておりましたもん)

―――――

Jack

| | トラックバック (0)

おらが村のアーティスト/「ディア・ドクター」

無医村にお医者さんが着任すると、報酬はいくらもらえるか?

―――――

僕は知りませんでした。

―――――

その話しが、この映画の中に出てきます。

―――――

「ディア・ドクター」

―――――

村民2千人に満たない過疎の村。

―――――

その村で、誰からも信頼されていた医師の伊野先生(笑福亭鶴瓶)が、いなくなります。

―――――

なぜ、彼は、失踪したのか。

―――――

看護師(余貴美子)も、若い研修医(瑛太)も、戸惑うばかり…。

―――――

独り暮らしの農家のご婦人(八千草薫)を診察中だったというのに…。

―――――

映画は、在りし日の献身的な伊野先生を振り返る…

―――――

ミステリ仕立てです。

―――――

ミステリには「答え」というものが必要でありますが、それは、この映画でも、きっちりおさえられているようです。

―――――

自分がいなくなれば、村に医者はいなくなる。

―――――

そうとわかっていて、なぜ、彼は、消えたのか?

―――――

その謎を追うことが、単に過疎の医師不足についてばかりでなく、医療の「療」とは、なんのことなのか?を問うていく姿勢につながっている。

―――――

観るものを惹きこんでいく姿勢です。

―――――

いま、ここで言うミステリとは、なんのこと?

―――――

はい、それ、ちょっと言いましょう。

―――――

ミステリの本質とは、「答えを探す」ものであり、その意味で、失踪した伊野先生を探すこのドラマは、ミステリの本質を捉えており、さらに

―――――

「なぜ、彼は、あわただしく逃げねばならなかったか」を追うストーリーは、謎の探求を通してテーマに迫る、というミステリの核心を突いとります。

―――――

と、ここまで言って、以下は僕の体験から言わしてください。

―――――

医者という人々は、アーティストに似ている。

―――――

そう言っても、たぶん、原作・脚本も書いた西川美和監督は、否定したりはなさらないんではないだろか。

―――――

僕自身が、喘息持ちで精神病患者であるところから、また親しい人を胃ガンで亡くしているところから、さらには父がリウマチ患者であるところから、

―――――

内科、呼吸器科、胃腸科、整形外科、神経科に精神科、といったところを訪ねた経験がありますが、

―――――

思うのは、ですね、

―――――

ああ、お医者さんというのは、言ってみれば「アーティスト」のようなところがあるな…と。

―――――

もうずいぶん前の話しになりますが、喘息用の吸入薬として用いているステロイド剤を、うっかり切らしてしまい、放置しておいたら発作が起きてしまったことがあります。

―――――

僕の主治医の先生は東京でしたので、そこまで行ってる時間的余裕がない。

―――――

仕方ないので、かなりあわてて近くの内科へ駆け込み、吸入薬のプラスチックボトルを見せて、

―――――

「これと同じものは、手に入らないか?」

―――――

と、尋ねたところ、そこの先生(女医さんでした)が血相変えて、

―――――

「あんたね! こんなものにいつまでも頼ってると、肺に穴があくよ!」

―――――

と、すごい剣幕なんですね。

―――――

こっちはぜーぜーごほごほ、苦しくって、反論どころじゃありません。

―――――

先生は、ステロイド剤というものが如何に危険な薬剤であるかを延々と僕に説教し、治りたければ、根本からあなたの体質を変えるしかないと言って、僕に当座の処置として、点滴を打つことに決めました。

―――――

まいったな…

―――――

点滴につながった僕は、ぜーぜー言いながら、どこでもいいやと近場の開業医へ飛び込んだのを後悔しました。

―――――

東京の先生にかかっている俺のほうが、この女医さんより、詳しいじゃんか…

―――――

ステロイド剤が危険な薬物だったのは、数十年も前のこと。

―――――

現在では改良され、副作用はゼロに近い。

―――――

無知な田舎医者にかかったせいで、時間を無駄にしちまった…

―――――

こんな点滴で、どうなるもんか…

―――――

いや、ところがですね、

―――――

その点滴が、効いたんです。

―――――

発作が治まるのに数時間要しましたけど、たしかに点滴で苦しさから、解放はされたわけです。

―――――

女医さんは、明日から体質改善の治療を始めるので、必ず来るようにと言い含めて、僕を病院から「追い出し」ました。

(もちろん二度と行きませんでしたよ。安くて最適な効果のあがる治療法を知っているのに、わざわざ、カネがかかって、おまけに肥満の原因になったりする「体質改善の注射」なんぞ、受けに行く馬鹿はおりません。しかし)

―――――

とぼとぼと帰りながら、すっかり楽になった呼吸をしながら、僕は、いまの事態をどう考えたらいいか、悩んだものです。

―――――

あの女医さんには、喘息治療の最新知識が、たしかに不足してると言える…

―――――

しかし、時間はかかったが、こうして、俺は治った…

―――――

これは、知識の有る無し以前に、「医療」に対する取り組み方の違いではないのか?…

―――――

いま、改めて思い出しておりますが、

―――――

デジカメ全盛の時代に、敢えてフィルムにこだわるプロがいるように、

―――――

医療というものも、その医師が、ポリシーとして、「療」をどう捉えているかが、治「療」という行為に表れるのだ…

―――――

と、僕はいま、患者歴の長い者として、そんな風に考えます。

―――――

引退された、僕の東京の主治医は、ステロイド剤の効果を認めながらも、民間療法に関心を持ち、

―――――

「乾布摩擦とカラシの膏薬が喘息に効く」

―――――

という話しを真面目にする方でした。

―――――

むろん、最新知識を絶えず勉強して、そのうえで民間療法やら昔ながらの療法やらを取捨選択しているのと、はじめから物知らずなのでは、まったく意味が違います。

―――――

しかし、だからこそ、

―――――

「どこか、医者という存在は“アーティスト”に似ている」

―――――

と思うのです。

―――――

世の中の動向がどうあろうと、自分の目と勘を頼りに仕事をこなしていくアーティスト。

―――――

あの女医さんも、おそらく、地域医療の従事者としては、充分に機能してるのだろう。

―――――

そうなると、問題は、患者として、「どの医療を買うか」ということにかかってきます。

―――――

ちょっと絵に慣れた者なら誰も手を出さないような安っぽい風景画が、10万を超える値段で売られているのを見たことはないですか?

―――――

あれは、ですね。

―――――

ずばり言って「田舎者のための玄関飾り」なんです。

―――――

そういう役割として、需要と供給を満たしてるのです。

―――――

いつもより、いっそう皮肉に傾いてる?

―――――

そうかもしれません。

―――――

しかし、今回のこの文は、なにも皮肉を言うために書かれているのじゃありません。

―――――

通常は「科学の一ジャンル」として見られがちな医学というものが、ヒューマンエラーも含めて「ひとの手跡」の強く刻印される分野だということ。

―――――

それのお世話になる僕たちに、医療に対する新しい目が必要かもしれない、というそのことについて、

―――――

伊野先生と村民の関係を追う西川監督の視線は、カバーしているのじゃないか。

―――――

見つめあう鶴瓶さんと八千草薫さんの言葉にならない会話の中に、「医療 = 科学」という枠組みからはみ出すものを探そうとするこの監督の姿勢を見る気がするのでした。

―――――

(ちなみに、僕の喘息は、ステロイド剤さえあれば、まったく問題ない状態です)

―――――

Jack

| | トラックバック (0)

貴女の深夜にとびきりお洒落な演出を/わたしは「キャンパスナイトフジ」に見入った!

いやなものを見ちまった…

―――――

あのですね、

―――――

フジテレビでやってる「キャンパスナイトフジ」っていう、あんまり面白くない、金曜深夜の番組があるでしょう?

―――――

知ってるひとは知ってると思いますが、これは、80年代に放送していた「オールナイトフジ」っていう長時間番組の、なんというか、「追憶版」です。

―――――

「オールナイトフジ」って番組も、面白くないことについては、「キャンパスナイトフジ」といい勝負だった…というか、

―――――

むしろこの「追憶版」に比べて、圧倒的につまらなかった。

―――――

それでも、当時の十代は、かなり熱心に「オールナイトフジ」を見てました。あ、いや、

―――――

「熱心」というのは当たらないな…

―――――

見ていてもつまらない番組なので、「ただ、つけてた」と言うほうが正確です。

―――――

なぜ、つまらない番組をつけていたのか、と言うと、

―――――

説明するのが、ひどく難しいんですが、放送を通じて、

―――――

「本当のことを伝えよう」

―――――

とする意識が、作り手のなかにあったように思います。

―――――

出演している女子大生たちも、「キャンパスナイトフジ」のように、ヘンにテレビ慣れしてない、

―――――

だから、ぎこちないわけですが、彼女たちを通して、僕らは、

―――――

昼間のテレビが伝えない、「わけのわからないナマもの」が、「時間のなかを漂っている」気がして、

―――――

だから、よく、つけてました。

―――――

深夜番組ですから、誰でもお分かりの通り、「えっちな時間帯」というのも設けてありまして、

―――――

例えば、新作アダルトビデオの紹介を、女子大生がたどたどしく喋る、なんてコーナーがありました。

―――――

ただ喋るだけでなく、ビデオの内容、つまり、あへあへ言ってる女のコの「イキそうな顔」が、テレビに映しだされたりするわけです。

―――――

もちろん、いちばん危なっかしい場面は除いて、「あぁっ…あぁっ…」てもだえてる場面が、ダイジェストで紹介されるだけですけどね。

―――――

で、それをモニターで見ている司会の片岡鶴太郎さんや、とんねるずの「チョッとゆるんだ顔」が、アップで抜かれたりして、女子大生たちが、「やだー」なぁんて言う様が放送される、という…

―――――

それだけですよ。

―――――

ただ、それだけのことで、スタジオには、妙な緊張感が走り、それが画面のこちら側で視聴している僕らにも、なんとなしに伝わって、ついつい、視ちゃう、ということがありました。

―――――

いまにして思えば、ある意味、不思議な話しですが、この放送の、このコーナーには、「性」というものの、いちばんプリミティブな、基礎的な「空気感」が表されておりました。

―――――

そのことに気付かされたのは、なんと、たった今です!

―――――

いま、マイケル・ジャクソンの特集番組をNHKで見終わって、チャンネルをフジに換えたら…

―――――

やってたんです。
「キャンパスナイトフジ」

―――――

天気予報のコーナーが終わるところでありました。

―――――

ただの天気予報じゃない。

―――――

こちらも、あの「オールナイトフジ」と同じく深夜番組ですから、それなりのアダルトな工夫が仕掛けてある。
―――――

いつも、つまらないから最後まできちんと視たことがないので、この天気予報を視たのは、いまが初めて。

―――――

いやぁ、
「眼がテン」とは、このことです!

―――――

アダルトな工夫っていうのはですね、要するに…

―――――

胸元を強調したタンクトップの女のコが、

―――――

バランスボールに乗って「天気予報」をやる、というコーナーだったわけなんです。

―――――

バランスボールに腹這いになって。

―――――

自然と胸が強調されるでしょ?

―――――

カメラはそこを覗きこむように撮るわけです。

―――――

で、

―――――

そのコーナーの最後にね、

―――――

そのコがバランスボールに乗ったまま、上半身を床に付けて、なかば逆立ちの格好で、

―――――

「大股びらき」になる、と

―――――

ほんでもって、

―――――

開いた股越しに、後ろに置かれた花火が勢いよく、ぱーっと、きらきらと翔ぶ、という…、

―――――

つまり、その状態を正面からカメラで撮ると、股関節を中心に、ボール越しの開いた脚だけ映ってて、ちょうど股間の真ん中から花火が勢いよく「噴射」してる、と見えるんですね。

(この説明で、伝わります?)

―――――

なんということをするんだ…

―――――

と、僕は、アンタンとした気分に襲われたのでした。

―――――

これは、セックスというものの「コード化」ではないか…

―――――

こんなにも肉体そのものから遠く離れた表現に、なんの価値があると思っているのか?

―――――

当たり前のハナシですが、この表現は、えっちでもなんでもありません。まったく、そそらない、と思います。

―――――

もちろん、なにひとつ「本当のこと」も、映ってないと思います。

―――――

こほんな腑抜けにされた、身体性のない「おしゃれ」なだけの表現に行き着くほど、テレビというのは無味乾燥になってしまったのかよ!…

―――――

「キャンパスナイトフジ」を作っているのは、おそらく「オールナイトフジ」を視ていたような人たちじゃないか(いや、もっと若いかな)。

―――――

いずれにせよ、「オールナイトフジ」から30年…

―――――

なんで、こんな風になっちゃったのか…

―――――

テレビの中では、もはや洗練された話芸や、極めて垢を抜かれた性表現しか、通用しなくなっているのか?

―――――

これじゃぁ、インターネットに視聴時間を奪われるのも、仕方ないなー、と。

―――――

(あとで、何かの話しにつながるかもしれません。

取り急ぎ、ここにメモしておこう)

―――――

Jack

| | トラックバック (0)

うらやましい/「それでも恋するバルセロナ」

女について、語りましょう。

―――――

僕が男なので。

―――――

…などと言うと、男であれば無条件に、女について、語れるかのような、

―――――

さらに言えば、「女が語る女」について、無視しているかのような、あ、いやいや、

―――――

もっと言うなら、「女が語る男」や、「男が語る男」は、どうなんだ!

―――――

というハナシになりかねませんが、へへ…。

―――――

ひとつ、そこを、突き抜けていただきたい。

―――――

なぜって、これから、

―――――

「とにかく、女について語るのが好きっ!」

―――――

っていう、ウディ・アレンのお話しをしようてんでごじゃますから。

―――――

最新作。
「それでも恋するバルセロナ」。

―――――

あぁ、っと…。

―――――

中身に触れる前に、ひとつお断りしたいのですが…、

―――――

アレンというじいさん、いやさ、男は、ただの女好きとは、かなり違う。

―――――

女好きは、まぁ有り体に言って、女を抱ければ、気が済むんですね。

―――――

しかし、アレンという男はですね、

―――――

「とにかく、語るのが好き」

―――――

なんでありまして、通常の女好きが「プロセス」として楽しむような、“途中経過”のなんやかやを、

―――――

そこをこそ、楽しみたい、と。

―――――

しかも、あーた、

―――――

「自分でする」んじゃなくて、なんと、

―――――

覗いて楽しみたい、と。

―――――

「あー、もう、抱きしめて、なでくりまわしたいっ」…

―――――

「…と、いうことについて、とっくりと、語ろうじゃないか」

―――――

と、そう、おっしゃる方なんです。

―――――

とんでもなくスケベな男だ、と、僕は、かねがね思っておりまして。

―――――

英語には、こういう男を表現する、いい決まり文句がございます。

―――――

そう。

―――――

Dirty Old Man ですね。

―――――

さて、物語。
行ってみようっ。

―――――

舞台は、スペイン、バルセロナ。

―――――

カタルーニャ文化の研究にやってきたアメリカ人、ヴィッキー(レベッカ・ホール)。

古い言い方で言うなら、身持ちの堅い女性です。もうじき、結婚をひかえております。

―――――

同行者のクリスティーナ(スカーレット・ヨハンソン)。

どっちかと言うと、恋愛について、奔放なタイプ。

(まぁったく、もう…、この配役だけで、アレンがスカーレットのことを、とにかく「そういうふう」に「いじりたがる」というのが、よーく、わかる。
ンとに、もう…
アレンにかかると、「演出」という行為が、いかにエロティックなのか、よーく、わかる)

―――――

二人に声をかけてくる芸術家、フアン・アントニオ(ハビエル・バルデム。
「ノーカントリー」の不気味な殺し屋とか、「宮廷画家ゴヤは見た」の悪徳神父を覚えてますか?
まったく別人!
役者も役者なら、役をあてがった監督にも拍手です。
色事師を演じて、まさに、はまり役)。

―――――

この男、いきなり、仰天の申し出をしてきます。

―――――

「これから三人でメイク・ラヴしないか?」

―――――

だってさ!
スペイン野郎は、ナンパも派手だ。

―――――

当然、ヴィッキーは、取り合いませんが、いや、待ってくださいよ…。

―――――

クリスティーナは、まんざらでもなさそうです。

―――――

どっちかと言うと、興味津々。

―――――

「彼って、セクシーだわ…」なんて…

―――――

このあと、どうなるんでしょう?

―――――

フアンには、なにかとうるさいらしい別れた妻マリア・エレーナ(ペネロペ・クルス。アカデミー助演賞受賞)がいるのですが…

―――――

えー、ちょっと、話題それまして…

(「女を語る」と言っときながら、僕のような凡人には、なかなか、徹底できません。はい)

―――――

スペインが舞台だから、というわけでもないんですけど、画家のミロの晩年など、連想します。

―――――

僕は、ミロの絵が大好きですけど、

―――――

はっきり言って、お年を召してからの彼の絵は、どれもこれも、似たり寄ったりの作品ばかり。

―――――

チカラ入れてねぇんじゃねぇの?…と元イラストレーターのわたくしは思ったりするわけですが、それが、あなた、

―――――

ミロ・クラスになると、もう、本物の巨匠の手すさびと言いますか、

―――――

どこまで本気で、どこまでお遊びなんだか、

―――――

いや、つまり描く絵がどれもこれも、みんな面白いんだなぁ。

―――――

おんなじようなスタイルで、似たり寄ったりの主題をかいてることは間違いないんですよ。

―――――

それが、なんと言うんでしょうか、マンネリという悪口を言う気に全くならないほど、面白い!

―――――

うーんと努力した結果(いや、好きなことに打ち込むことを、「努力」っつって、いいのかな)、ものすごく高いところにたどり着いてしまい、そこから、降りずに創作に励んでる、と、そう言えばいいでしょか。

―――――

なにを描いても、うんと高いところから発信してるので、おんなじと言えばおんなじだが、面白さのレベルも、いつも、おんなじだ、と。

―――――

でね、

―――――

そういう、人もうらやむ状態になっているのが、現在のアレンだ、と。

―――――

そう思うわけなんです。

―――――

女について、なぜ語るのか?

―――――

これは、かんたん。

―――――

「手に入らないから」ですね。

―――――

では、なでくりまわしたら、手に入れたことになるんでしょうか?

―――――

あー、
それも実に、かんたんです。

―――――

なでくりまわしても、舐めまわしても、

―――――

絶対に手に入らないのが、女です。

―――――

普通は、ここで、あきらめます。

―――――

誰かひとり(場合によっては何人か)、なでまわす対象を「具体的」に手に入れて、それで、「女」という幻想を満たそう、

―――――

いいかげんなとこで、打ち止めにしよう、となさるわけですが、

―――――

それは、あくまで、単なる「あきらめ」であって、僕らは、女に近づいてさえいないのです。

―――――

近づけないもの、手に入らないものについて、いつまでもこだわるのは、「男」らしくない。

―――――

…というのが、大方の恋の結末です。

―――――

が、

―――――

このアレンという男、あの華奢なからだで、驚くべき執念(「精力」つったほうがいいかしら)の持ち主です。

―――――

「手に入らないもの」について、想いを馳せるのは、実は、カナシイ。

―――――

目の前にいるのは、「女」という名の「不可能」なのだ。

―――――

…と、ちょっと訳知り顔になりたいわたくしなどが、そう思って済ませるところを、

―――――

この男、
アレンて男、

―――――

「そうだ。女について、話そうよ」

―――――

と、時間さえあれば、それしか言わない。

―――――

底知れない。

―――――

身持ちの堅いヴィッキーは、ご想像どおり、あらま、くずれてしまいますが、その「くずれ方」を「えへへ」と笑って、空想するアレンです。

―――――

恋にまっしぐらなクリスティーナは、これまたご想像どおり、前妻との、やっかいなトラブルに巻き込まれていきますが、「うふふ」とにやついて、ハナシをいっそうこじらせるアレンです。

(なんとなれば、脚本も、アレンです)

―――――

最近は、ロンドンに入り浸ってると思ったら、今度はバルセロナかい。

―――――

スペインで、なでくりまわして。
ああ、素敵。

―――――

カナシイところは、突き抜けた。

―――――

Dirty Old Man の好きな話しは、まだまだ、尽きないようなんです。

―――――

(うらめしやましい。うらやましい)

―――――

Jack

| | トラックバック (0)

Sport /「トランスフォーマー/リベンジ」

アメフトの試合を、ときどき、NHK-BS が放送するじゃないですか。

―――――

わたくし、ルールの細かい点が分からないままに、

―――――

「野っ・蛮ン・なスポーツだなぁ!…」

―――――

と思いつつ、ときどき楽しんで、視てるんですが(ジャイアンツが好き)…

―――――

で、分かってる人には解りすぎてることを、ひとつ。

―――――

このアメフトというゲーム、力任せなことは間違いないんですが、それだけではないようで。

―――――

パワーと同時に、「緻密」な作戦が必要なようなんです。

―――――

クォーターバックの選手は、ライン外のヘッド・コーチと、しょっちゅう無線で交信してるじゃないですか。

―――――

ほいでもって、秒単位で、どう動くかを決めるでしょ?

―――――

「力」というのを、どう使うかが、このスポーツの見所らしい。

―――――

スポーツというものは、なんによらず「力わざ」のところがありますが、

―――――

僕は、アメフトを視ていると、

―――――

「力をどう使うかを考える“スポーツって思想”を他ジャンルに適用したら、さぞかし、爽快なものが出来るだろーな…」

―――――

と、よく思うんです。

―――――

で、そういうことは、シロウトの僕でなくとも、考えるヤツが、

―――――

いた!
いた!
大メジャーに、いた!

―――――

マイケル・ベイです。

―――――

出ました、マイケル・ベイ監督の

―――――

「トランスフォーマー/リベンジ」

―――――

はじまりは、17000年前。

既に機械生命体は地上に飛来しておりました。

彼らは、どこへ去ったのか。

なぜ、地球は、侵略の脅威をまぬがれたのか。

お話変わって、現代です。

機械軍ディセプティコンの小規模な襲来は、続いている。

人類に味方する機械将軍オプティマスと共に、米軍は秘密掃討作戦を展開中です。

一方、前作で、オプティマス隊を勝利に導いた青少年サム(シャイア・ラブーフ)。

もう、あの闘いから2年が経過し、見事、念願だった大学に合格します。

晴れてカレシ・カノジョの中になったミカエラ(ミーガン・フォックス)とは、遠距離恋愛になりますが…

大学寮への引っ越しの日、彼は、闘いの思い出が詰まった上着に、金属のカケラが付着しているのに気付く。

それに触れた途端、身体中に走る、おかしな霊感。

何かの秘密が、開かれてしまったのか?

その頃、遥か遠くに離れた宇宙では、機械生命体の真の統率者ザ・フォールンが、いよいよ地球への侵攻を始めようとしておりました…

―――――

上海、フランス、エジプト、ヨルダンと…

―――――

大々的な海外ロケも、ふんだんに、これぞハリウッド・メジャー!という作品です。

―――――

このシリーズのテーマとなっているのは、

―――――

「有り余る力を、どう使うか」

―――――

ということです。

―――――

「力」ね…。

―――――

そういうものは、「いろいろと気にして」いたら、発揮できないものなんです。

―――――

「気にしない」とは、つまり、いったい、どういうことか。

―――――

そのへんについて、今日はすこし。

―――――

実は、ですね、
僕、英語もちょっと習ってたので…

―――――

(例によって、狂ってたときのことです。
―――
一応、理由がありまして、仏語 → 日本語とダイレクトに訳すよりも、仏語 → 英語 → 日本語の順で考えたほうが解りやすい場合がある、と気付いて始めたわけです。
―――
オマケみたいな習い方だったので、モノになってませんけど)

―――――

あのですね、

―――――

僕らは日頃、「欧米」などと言って、アメリカとヨーロッパ諸国をひとくくりにしておりますが(「ヨーロッパ」の範囲も、ひどく曖昧なのですが)、

―――――

例えば、フランス人のものの言い方・考え方にしばらく触れて、それからアメリカ人と接すると、

―――――

ああ!…

―――――

と、ほんとに「ホッ」としたりいたします。

―――――

あッかるいなぁ!
オープン・マインドでフランクだなぁ!

―――――

と、感じ入る。

―――――

一方、ネイティブのフランス語講師と付き合うとき、まずもって、

―――――

「フランス人て、笑わねぇなぁ…」

―――――

と思ったりしたんですね。

―――――

なかには、怒ってるのかと思うくらい仏頂面のひともいまして、それがひどく、とっつきにくかった。

―――――

前に 2009/4/29 に「スラムドッグ$ミリオネア」を取り上げたとき、日本人の顔つきについて、いかに仏頂面なのか、

―――――

「顔が米印」

―――――

って書いた武田百合子さんの話しをしましたけど、「フランス人も似たようなもんなのか?」

―――――

…ヨーロッパのひとは優しく微笑んでるんじゃないのかよ、とヘンにひね曲がった「親近感」を持ちました。

―――――

(なんにでも例外はあるので、ここで言っていることは、司馬遼太郎さんが言ったごとく、一種の「おとぎ話」として、聞いてください。
―――
日本人にもフランス人にも、にこやかな人はもちろん、います。とーぜんです。
―――
実際、わりと快活なほうのフランス人に、「あなた方、笑わない習慣でも在るんですか?」と、仏頂面のひとについて報告したら、
「そりゃぁ、おまえ、パリジャンと話したんだよ」
と、一笑されました。
―――
パリっ子は気取ってンのよ、というわけです。
―――
そう言われてみると、ピーター・メイルの南仏についての本もあるし、フランスは元来、農業国で、穏やかな気質のひとが多い、という話しも聞いたことがあるし、

まぁ、そーいうことです)

―――――

で、ですね、

―――――

例外はある、違う見方も成り立つ、と分かっていただいた上で言いますが、

―――――

ドゥルーズやデリダの本て、まぁ、混み入ってるったらありゃしない!

―――――

なんて神経質なひとたちなんだ…

―――――

ひとこと、ひとこと、「これ言ったら、誤解されないかなぁ…」みたいに極度に心配しながら、重箱の隅をつつくみたいに、あーでもないこーでもない、と、ごちゃごちゃした議論を進めてく…

―――――

思想書なんて、ややこしくて当たり前、と言われそうですが、
それはそうなんですが、でも例えばパース(アメリカ人)なんかのモノの言い方は、

―――――

「混み入った話しをするにあたり、極力、ダイレクトな言い方をしよう」

「受け手にとって、ストンと腑に落ちる論述を展開しよう」

―――――

という「決意」のようなものが、感じられる。そうして、

―――――

「大丈夫。腑に落ちる言い方は、確立できる」

―――――

という明るい「確信」のようなものが、みなぎってます。

―――――

アメリカ人ではないけれども英語で書いて、とてもアメリカ的な考え方をする、スラヴォイ・ジジェクという人がいますけど、おんなじような楽天主義を感じます。

―――――

どうも、アメリカ国とフランス国では、日頃から背負わされている「世界」、ひいては「社会」の堅苦しさ、重苦しさが違うらしい…

―――――

アメリカ人の考える「論理」とは、極めて明快に、「闇を打ち払う“破”」を意味しているのじゃないか。

―――――

フランス人にとっての「論理」とは、見せかけの人間らしさが何万重にも取り巻いてしまった「勘違いした“言葉の鎖”」をほどいて、その中にちいさく保存されている「こころ」のようなものに、そっと触れる、そのためこその手段じゃないのか、

―――――

と、そんな風に思うんです…

―――――

闇を打ち払う「光の論理」とは、言い換えるなら、「パワーの言語」です。

―――――

かなり感覚的な言い方をしますけど、アメリカという国には、「背負わされているモノの、あまりの巨大さ」と、それゆえ、その巨大さに対応しようとする言葉の、ある種の「おおざっぱ加減」を感じます。

―――――

可能な限り、遠くまで、届かせよう

―――――

というのが、英語(というかアメリカの強い影響のもとに育った英語)の構造的に持っている特色です。
つまり、

―――――

「ローカル」

―――――

という考え方は、英語の中には無いのです。

―――――

なんだか平凡な結論にたどり着いてしまいましたが、これこそ、つまり「気にしない」ということであり、

―――――

つい見落としがちな、重大なポイントです。

―――――

僕たちは、誰でも、ひどくうんうん唸りながら、なんとかして

―――――

「個性」

―――――

というものに行き着こうとする生き物です。

―――――

日本人の言う「個性」とは、「集団の意志を邪魔しない限りにおいて」許されるものに過ぎません。

―――――

フランス人にとっての「個性」とは、「たとえ家族であっても、個人は個人」という、日本人からすると、どこかさみしいような、めんどくさいような、ヤヤコシサを感じます。

―――――

で、

―――――

そういう「“個性”に関するめんどくささ」が、アメリカ語の中には「無い!」っ。

―――――

アメリカ語にとっての「個性」とは、イコール、「ローカル」ということ。

―――――

PCソフトを英語以外の他言語に翻訳していくことを「ローカライズ」と言いますが、あれはすなわち、「個性化」と、同義です。

―――――

ローカルという考え方が無い、ということは、アメリカには、他の国のひとがそれを巡って悪戦苦闘するような、「個性」という考え方が無い。いや、

―――――

アメリカ的な「個性」というのは、外国からすると、非常に特殊な、「議論の対象にならないような、肉体的なもの」だと言えるのじゃないか。

―――――

「大前提として染み付いているので、問い詰める必要がない。議論にする意味も解らない」

―――――

といったところじゃないか。

―――――

こういう国(「国」と言って、いいんでしょうか?)の人たちが、「力の配分」についてだけ考えて、他国の人間を驚かせるものを作ってしまう、というのは、なにか、分かる気がいたします。

―――――

もっとも、そのような「本質的なアメリカらしさ」を本当に表現できる人は、数多くはないわけで、

―――――

その意味で、マイケル・ベイというひとは稀有な人です。

―――――

作品がいつも、どこかしら「スポーツのような爽やかさ」に満ちているのは、要するに「おおざっぱ」だからなんですが、ただ「おおざっぱ」と言って済ますだけでは、彼の映画が、一方で、実に緻密に出来ている理由がつかめないことでしょう。

―――――

言ってしまえば「Sport」というのも英語であり、現代に在っては極めてアメリカ的に加工された「考え方」です。

―――――

今回の「トランスフォーマー」は、ほとんど戦争映画と言ってもいいほど「闘いの映画」なんですが、それを「暴力の映画」にしていないのが、ベイというひとの力量であり、

―――――

アメリカという国の、不思議で凄まじいところだと思うんですね。

―――――

「スポーツみたいな映画にしたい」

―――――

と願っても、アメリカ人じゃない人々にとっては、どこかでアメリカ的に言うところの「ローカル色」、つまり「気にした部分」が出てしまうはずなので…

―――――

(字数が足りないから、このへんでやめますが、これ、考えていくと、いくらでも拡がります。

ジョン・フォードの影響を受けて黒澤明が作った「七人の侍」より、そのアメリカ版リメイク「荒野の七人」のほうが、「スポーツ精神」に溢れてる、と思うんです)

―――――

Jack

| | トラックバック (0)

謎/「ターミネーター4」

やー、おどろいた、おどろいた!

―――――

始まって1分もしないうちに、トイレに立っちゃったおじさんがいた!

―――――

我慢できなかったんでしょう。

―――――

まだ、最初のうちだからいいやと思ったのかな?

―――――

おじさん、
あんたは、たいへんな損をした!

―――――

この映画、最初の5分を見逃しちゃうと、後半の「核心」とも言えるシーンの意味が、つかめないでありましょう。

―――――

「ターミネーター4」です。

―――――

2018年、「審判の日」を過ぎた世界。

―――――

機械対人類の戦争は、ジョン・コナー(クリスチャン・ベイル)の数々の苦闘にも関わらず、ついに現実のものとなる。

―――――

だが、その前に…

―――――

日付戻って、始まりは、とある死刑囚監房から。

―――――

戦争の起きるずっと以前…

―――――

死刑囚マーカス・ライト(サム・ワーシントン)。

―――――

刑の執行直前に、彼のもとを訪れる博士が(ヘレナ・ボナム・カーター)ひとり…。

(ところで、なんで「ワー」シントンなんだ、「ワ」シントンでいいじゃないか、と思ってましたが、
「Wathington」じゃなくて
「Worthington」なんですね。
外国語って、つくづくわかんないことだらけだわ)

―――――

この映画、宣伝では、クリスチャン・ベイルのほうをメインに押し出しておりますが、実際観ると、この死刑囚マーカス・ライトを巡る物語のほうが、内容の半分強を占めております。

―――――

物語。

―――――

そう。
きょうは「物語」と「謎」についてのお話しです。

―――――

ターミネーター1作目を、思い出してくんなまし。

―――――

あの映画で、シュワルツェネッガーが果たした役割とは、どんなものだったでしょうか?

―――――

設定上は、「謎の男」でありました。

―――――

ところが、ですね、

―――――

いきなり深夜のロサンゼルスに、雷鳴と共に素っ裸で現れて、ただ服を奪うためだけに、チンピラのあんちゃんをぶっ殺しちゃう…というやり口に始まって、

―――――

その「行動」には、一片の謎もなかったのです。

―――――

シュワちゃんの存在というのは、ひとが「生きている」、ということを力ずくでぶち破る、一種の「革命」でありました。

―――――

シュワちゃんでない普通のひとの、いやさ僕らの人生というものは、普通は謎だらけのはずですね?

―――――

いま現在の自分の境遇というものが、どういう経緯で出来上がり、

―――――

なぜ、世の中のどういう事情と、つながることになったのか、

―――――

完璧に予測できた方は、おられるでしょか?

(あ、ひょっとして「つながりはない」なんて言う方います?

そんなことは、ありえません。人間は社会的な生き物です。僕らの誰にも、きっと、気付かない世の中とのつながりがある)

―――――

ところで、今から言う「謎」とは「わけのわからないもの」のことではありません。

―――――

これから言う「謎」とは――その本当の奥底にたどり着くなら、という条件付きで――僕たちを日常から生き返らせ、歓ばせてくれるはずのものです。

―――――

「謎」とは、物事の奥の、その奥深くに秘められた、(いきなり言ってしまうなら)「たましい」のようなものに触れるときの「言葉の作用」を指しています。

―――――

それは、奥の奥深くに在るものなので、充分以上に練りに練った文章(思考)で「降りていく」か、

―――――

または、トンデモナイ破壊力で「中途の過程」をぶち破って到達するか、しない限り、探りあてられるものではありません。

(よいこなら、どちらもやめておきましょう。狂いますよ)

―――――

僕らは日々の暮らしの中に埋もれないため、芸能と呼ばれる文化を作り、少しでも自然な人間らしさの回復を図る生き物です。

―――――

芸能の中でも、おおざっぱに言いますと、周縁部にとどまって、「この奥に、ひとの命の宝の秘密が隠されていますよ」ということをうっすら撫でて終わるものと、

―――――

過剰なほどの言葉の渦を巻き起こすか、または、問答無用に言葉の厚い壁を破壊して「核心に迫っていく」ものと、

―――――

大別して、ふたつのタイプがございます。

―――――

どちらがいい悪いではありません。

―――――

うっすらと知らされるだけで、充分、心の快復につながるひとが、ほとんどなのです。

―――――

「ドリトル先生」を書いたロフティングは、それを「安全な冒険」と呼びました。

―――――

彼は若干の皮肉を込めてそう書いたのですが、繰り返しますが「撫でている」ものを選ぶのは、悪いことではありません。

―――――

様々な言葉の仕掛け(レトリック)を通じて「謎」への旅を導こうとするものを、僕らは例えば「物語」などと呼んで、愛します。

―――――

多くの場合、謎は物語に輝きを与えるための「便法」として用いられ、

―――――

複雑巧緻な「ストーリーテリング」の一部分となって、役を終えます。

―――――

これだけでも、ひとは、カタルシスを味わうのです。

―――――

ですが、たまに、

―――――

撫でてもらう程度では、命の宝に触れられないことを、激しくもどかしく思うひとがいる。

―――――

そういうひとは、やがて、強く求めるようになるでしょう。

―――――

命の宝の秘密が発する、あまりにもまばゆい光に直接さわろうとすることを。

―――――

そのひとは、自分で何か、作ってしまうかもしれません。

―――――

「芸能人」と呼ばれる人になるかもしれない。

―――――

で、

―――――

ここからが、きょうの謎の核心です。

―――――

ジェームズ・キャメロンの「ターミネーター」やスピルバーグの「インディ・ジョーンズ 魔宮の伝説」は、今まで述べてきたような「物語」の範疇をはみ出して、

―――――

「謎」に直接触れようとする挑戦だった、ということです。

―――――

スピルバーグという人は、「インディ」の前にしろ後にしろ、ひたすら「謎」を問い詰めるような作品ばかり作っているようですが、

―――――

そういうひとは、本当に、ほんのひと握りしかいないのです。

―――――

キャメロンにしてからが、「ターミネーター」以外には、あれほど強烈に「謎」に迫る映画は、撮っていないかもしれません。

―――――

で、

―――――

この「ターミネーター4」ですが…

―――――

うーん…

―――――

これは、もう、謎の萌芽すら残ってないな…

―――――

1作目が打ち立てた、瞠目の「謎だらけ、謎また謎」の、あたかもパンク・ロックの響きのような凄まじさは、もはや、ここにはありません。

―――――

カネじゃないんだな、カネじゃ…

―――――

どれだけ製作費をかけようと、パンクは出来るものじゃないんだな…

―――――

いや、物語は、すごくよく出来てます。

―――――

しかし1作目に仰天した僕らとしては、謎が「溶けてしまった」(おっと、これは2作目のお話しですね。
そう、あの溶鉱炉に落ちていったT-1000のように)そのあとの手練手管を見せられても、

―――――

ふむ。
頑張ってるね。

―――――

と、どこか「上から目線」で腕組みしたくなる想いを抑えることが出来ません。

―――――

「物語」は、命の宝の秘密を捉える「謎」から、その周縁部に発生し、さらにそこから派生的な物語が生まれ…

―――――

という具合に理に落ちる解釈が正しいかどうか、分かりませんが、これでカタルシスを味わう人は、

―――――

たぶん、「謎」からは遠く離れて、平穏さの中に安らぎを見てきた人だ、と。

―――――

そう断言しちゃおうかな、今回は。

―――――

いい物語が出来ているので、ストーリーテラーとしてのマックG監督がわくわくしながら撮ったらしい様子は、それ自体は、ひとごとながら、喜ばしいものですよ。はい。

―――――

Jack

―――――

(物語の出来は素晴らしいので、たぶん監督はじめ制作陣は、いまいち興収が伸びないのをいぶかっていることでしょう)

| | トラックバック (0)

あったかくて、うるおってるよ/「アイ・カム・ウィズ・ザ・レイン」

開巻すぐに、ジョシュ・ハートネットの半裸が見られます。

―――――

「アイ・カム・ウィズ・ザ・レイン」です。

―――――

イ・ビョン・ホンにしろ、木村拓哉にしろ、出てくる男たちがすぐに脱ぐので、そーゆー方面に興味津々という方は、どきどきするかもしれません。

―――――

2年前の事件で心に傷を負った元・刑事クライン(ジョシュ・ハートネット)。

―――――

大手製薬企業の社主から、失踪した息子・シタオ(木村拓哉)の捜索を頼まれます。

―――――

だが、ある事件をきっかけに、香港の悪党ス・ドンボ(イ・ビョン・ホン)も、シタオの行方を追い始める。

―――――

その過程で明らかになる事実。

―――――

シタオには、驚くべき、ある“力”が…

―――――

なんだか、書いてるのも、あほらしいなぁ…

―――――

フィリピンの草原などが、重要な舞台だったりいたしますが、これはぁ、

―――――

よーするに、極めてアジア的なる風景と生命を、ものすごく西欧的なる精神の面前にかざして、

―――――

いっしょうけんめい解りやすく解説してみました、

―――――

という映画です。

―――――

なんだって?
はい、あほらしいですが、少し、慎重に解きましょう。

(慎重に解くことで、アジア的なるものの近くまで、行きましょう)

―――――

アジア的な風景と生命。

―――――

その核となるのは、ずばり、これです。

―――――

血と肉。

―――――

その、ねばねばとした、生々しい感触。

(さわってごらん…)

―――――

僕らは普段、こういうものを遠ざけて、生活しておりますね。

―――――

しかし、このふたつは、実際、僕らの中に在るのです。

―――――

こうしたものから離れれば離れるほど、現代に生きる人は、生活のためのロボットになってしまいます。

―――――

ところが、ですね、

―――――

一般的にはアジアに分類される国々――インドや東南諸島など――では、この「血と肉」が、あまり生活から分離しておらず、

―――――

「死」さえも、暮らしのすぐそばにある、

―――――

という話しを聞いたことは、ないですか?

―――――

そうして、そこに、どこか懐かしさを覚えたりはしませんか。

―――――

血と肉は、その昔、僕らの暮らしの中にあり、「言葉」の代わりにみんなをつないでおりました…

―――――

2009/5/14 に「鴨川ホルモー」を取り上げたとき、

―――――

「言葉のいらない幸せ」

―――――

のようなものを作るのが、芸術のひとつの理想だ、

―――――

と、おおむね、そういう意味のことを言いました。

―――――

「論評の言葉」というのは、あらゆる創作に枠をはめ、ものごとを窮屈にしてしまうからです。

―――――

が、

―――――

そういう指摘をしたとき、僕らは、なにか「言葉」というものが、論理としての概説を構成する「機能的なパーツ」であるかのように、つまり、

―――――

なんだか機械のような人工物であるかのごとく捉えますが、

(「言葉」に、正しい使い方、間違った使い方は、あるでしょか?)

―――――

言葉――表現――というものが芸術的でもなければ、機械的・機能的でもない、「野性」のようなものに近付くための、「過剰なる手段」と成りうるのだ、というお話しを語ってみましょう。

(「解説」というのは本来メカニカルなものなので、この文自体はいさぎよく、機能的に振る舞うことといたしましょう。ふふ)

―――――

例えば

―――――

僕らが、温泉旅行に出かけたり、森林公園を訪れたりするときに、

―――――

わぁ…

―――――

という小さな感動がやって来るはずですが、

―――――

このとき、言葉は付随してきませんでしょう?

―――――

感動に言葉はいらないですね。

―――――

純粋な心の揺れ動きがどんなものか、

―――――

あなたも僕も知っています。

―――――

言葉が失われた瞬間、僕たちは、小さな幸せに満たされる。

―――――

そのとき、僕たちは、自然の中に入った、と言えるのです。

―――――

ああ…

―――――

あったかくて、うるおってるよ…

―――――

素晴らしい。
ですが、少し付け足しましょう。

―――――

「入った」ということは、なるほど幸せな状態ではありますが、いつまでもそうしてはいられません。

―――――

ここに、僕らが「森の人」= オランウータンでなく、「人間」であることの、本来的な不幸がある。

―――――

やがては、そこを出て、「生活のための場」に戻らなきゃいけないから。

―――――

では、せっかく体感した自然の記憶、感動――いのちのスピリット――は、あなたの内側へと、ゆるやかに消えていくだけなのでしょうか?

―――――

そうではない。

―――――

そのようなとき、生活の中で消えかけていく「自然」を復活させてくれるのが、「言葉」なのだ、と考えます。

―――――

言葉を使おうと奮起するのは、その場に居なかった誰かに素晴らしさを伝えたくて、あとから最初の心の動きを追いかけて、一種の「過剰」を産み出しているのです。

―――――

人間にとっての過剰とは、「自然」と同義語だと言える。

―――――

言葉に、正しい使い方と間違った使い方は、あるでしょか。

―――――

正しく使うなら、「言葉を用いた過剰」は、僕らの「いのち」を生命と風景が過剰する生々しい自然へと近付けてくれるはずです。

(あったかくて、うるおってるよ…)

―――――

言葉とは、僕らの誰にも赤い血が流れていることを思い出させる「生命の用具」なのだ。

―――――

これは、(主に西欧的な価値観で言うところの)「芸術」とは、対立する見方です。

―――――

芸術が「言葉のいらない幸せ」を目指すとき、そこには、「うっとおしい言葉の鎖」から逃れたい、という想いがあります。

―――――

芸術は「言葉という過剰」をかき消すことで、「現在」という、がんじがらめの時代を飛び越えて浮遊する感性を、かたちにしようと試みる。

―――――

血と肉をフレッシュなままに味わおうとする欲望は、そこには、ありません。

―――――

なぜかと言うと、西洋では長いこと心身二元論をベースとして、

―――――

心こそ、尊いもの

―――――

肉体は単なる物質

―――――

という考え方が暮らしの端々に出ているからです。

―――――

言葉というのは、心を表すためにあり、心と同様に尊いものなので、その本質をいじくることが難しい。

―――――

一方、単なる物質である体にかえっても、そこには「意味」がありません。

―――――

いろいろと事情があってそうなったのですが、心も体も不自由なのが、西欧世界の悩みなのです。

(だから、「現代思想」が必要となるのです)

―――――

このような、

―――――

「あー、心も体も、不自由でたまんねぇなー! どっかに飛び出して、はじけてぇなー!」

―――――

と四六時中、不満を持っている人たちに、

―――――

「血と肉は、死とともに、あたたかいよ…」

―――――

などといきなり言っても、わかってくれるわけがありません。ふぅ。

―――――

そこで、過去に「青いパパイヤの香り」も作ったトラン・アン・ユン監督・脚本は、「おくりびと」の小山薫堂脚本とは対照的な方法に打って出ました。

―――――

「日本的な死生観を、西洋的な楽器演奏(ベースでしたね)を入口にお目にかけると、こういうものです」

―――――

と、言ったりせずに、

―――――

「西洋的な“罪の転移”と贖罪の観念を、アジアの草むらに移してみると、こういう姿に変わります」

―――――

と言ったわけです。

―――――

結果、

―――――

「去勢されたアジア」
―――――

とでも言うべきもの、あるいは、

―――――

「血肉への欲で、傷つけられた聖典」

―――――

とでも呼ぶべきものが出来ました。

―――――

西欧的な視点からも、アジア的な体感からも、どちらから見ても感じても、この映画は不充分なかたちしか持ってません。

―――――

繰り返される静かな狂気と――(そもそも狂気とは「静かなもの」ではありません。ここに重大な勘違いがございます)――、吐き出される血の描写は、観客の感覚を麻痺させるのみで、ひどく退屈です。

―――――

うんざりするような「狂った物語」を見終える頃、誰のあたまにも、たったひとつの――現代の「救い」をテーマにしたこの映画にとって、ひどく皮肉な――、唯一のホッとさせる「まともな不安」が浮かぶでしょう。
つまり、

―――――

「この、愚にもつかない観念に溺れる、頭でっかちな“アジア映画”は、木村拓哉という魅力的な俳優の、欧米へのショーケースとして、どうにか役に立ってくれるだろうか?」

―――――

(大熱演なんですよ。「報いを受ける」という役なので、役者として、報われてほしいです)

―――――

(いや、まじで)

―――――

Jack

| | トラックバック (0)

やるだけさ/「スター・トレック」

テレビ番組を視ていて、フと、「我に帰ってしまう」ことはないですか。

―――――

「退屈なドラマだなぁ…脚本、ヘタ過ぎ!…」

―――――

とか、

―――――

「この俳優、いつまでたっても、オーバーアクションが治らねぇなー…しらけるんだよ…」

―――――

とか、とか、

―――――

「あー、まただよ、ギャグ浮いてるし…」

―――――

とかですね、
はい。

―――――

わりと頻繁にありません?

―――――

でね、

―――――

映画の場合にも、そういったことはありうるでしょうが、テレビを視ているときとは比較にならないほど、イラつくでしょう?

―――――

テレビの場合には、本気でアタマに来たりは、少ないでしょう。むしろ、

―――――

「しょーがねぇなぁ…」と、半ばツッコミを入れる気分で、それでも最後まで、視ちゃったりしませんか?

―――――

「お金を払ったか、どうか」というのも、大いに関係ありますけれど、

―――――

これは、元来テレビというものが、明るい部屋の中で、雑音や、他に動く人・もの(飼い猫など)による「視線のさえぎり」に囲まれて視聴するメディアなので、元より集中はしにくい媒体だから、と申せます。

―――――

なんだって?
いや、つまり、

―――――

テレビと視聴者との関係は、「中途半端な付き合い」に終始しがちだと思うのです。

―――――

最近は、ホームシアターにするご家庭も多いようですが、基本的な構図は、変わるまい、と思います。

―――――

いま言った中途半端加減が、テレビとそれを見つめる者との間に、これまた中途半端な「言葉」を生み出す。つまり、

―――――

ひとを「いいかげんな批評家」にするのです。

(おや。なぜ、この書き手 = ワタシは、自分を含めないようなモノの言い方をしてるのだ? ふふ)

―――――

このような現象 = 視る人がすぐに「上から目線」になって、ふんぞり返る――即席の批評家になる、ということですね、はい――これは、

―――――

「テレビ」というものの性質から言って、自然なことだと思うのですが――「テレビはクールなメディアである」by マーシャル・マクルーハン――さて。

―――――

そのような「テレビと視聴者との付き合い方」を拒否したがる――というか、「面白くない!」と思っている世代が、

―――――

「24」や「HEROES」を作ったのだ、と、ボカ思う。

―――――

好き嫌いはあるでしょうが、あれらのドラマは視る者に、

―――――

集中

―――――

を要求してくるでしょう?

―――――

「熱を入れて視てください!」

―――――

というわけです。

―――――

そういうことをテレビ番組が強く訴えかけて来はじめた。

―――――

これは比較的、最近の事であり、

―――――

「新しい世代」の登場なのだ、と考えます。

―――――

かつての「ツイン・ピークス」や「ER」に刺激された人たちが、芽を花に育てた、という気もする。

―――――

で、

―――――

そんな新しい世代の代表格が、

―――――

「LOST」や「エイリアスの女」のJ.J.エイブラムスではないだろか。

―――――

「スター・トレック」です。

―――――

エイブラムス監督の「スター・トレック」

―――――

懐かしいテレビ・シリーズの、これは前日譚とも言うべき話。

―――――

彼の話題作として、「クローバーフィールド/HAKAISHA」がありましたが、あのときは、プロデュースだけだったので、長編映画の監督としては、2006年の「M.I:III」以来です。

―――――

宇宙暦23XX年。

―――――

連邦軍宇宙船 USSケルヴィンは、ロミュラン人の謎の攻撃により、破壊される。

―――――

船長カークは、乗員と、妊娠中の自分の妻を脱出させ、船と運命を共にする。

―――――

産まれてきた子の名は、ジェームズ。

―――――

成長したジェームズ(クリス・パイン)は、やんちゃな若者になりました。

―――――

若さを持て余す彼は、思い立って、連邦軍に入隊する。

―――――

ジェームズが出会う人々。

―――――

ドクター・マッコイ
(カール・アーバン)

ウフーラ、スールー、チェコフにスコティ…

そして、スポック!
(ザカリー・クイント)

―――――

だが、乗り組んだ宇宙船 USSエンタープライズに、魔の手がかかる。

―――――

過去のあの日と同様に、

―――――

ロミュラン人の恐るべき罠が…

―――――

いや、これ、ほんとに面白いです!

―――――

まさか、「宇宙大作戦」が青春映画に置き換わるとは思わなかった。

―――――

やるなぁ。
考えたなぁ!

―――――

こんだけ好き勝手に出来たら、映画作りも、さぞや楽しかったことでしょう。

―――――

このエイブラムスというひとの「映画の作り方」を見ていると…

―――――

いい意味で「テレビ的」と言いますか、

―――――

興味を持っているのは、「ヒトについて」だけなんだな…

―――――

というのが、よく解る。

―――――

SFだろうとスパイ物だろうと、「人間が活写されていなければ、興味が持てない」に始まって、

―――――

「ニンゲン誰しも、最後に行き着くのは、同類である『ヒト』に対する関心なのだ」

―――――

という、ややもすれば強引な結論にたどり着くのが、エイブラムスの視点のようです。

(この視座を客観的に眺めるには、「自分をも含めるような」申し訳なさそうな所に立っていては、何も言えないわけなんです)

―――――

彼の作り手としての「手跡」を、感じとれる気がします。

―――――

観客と「密着」するくらいに相手を「求めよう」とする、温度が高い手跡です。

―――――

この「温度の高さ」を、僕らは、映画とはまったく別のメディアの中に発見する。

―――――

それこそ、あなたが、いま目にしている、インターネットの世界です。

―――――

この世界のポイントは、「言論」に成りきらない「なんだか解らない言葉の山」を、「熱の伝導物」として、熱く生臭いままに、僕らの前に提示してみせたところにある。

―――――

先進各国が「インターネット当たり前」の時代を迎えて、ちまたには、ますます無数の、即席の批評家が溢れています。

―――――

注意すべきは、

―――――

「言いたいことをなんでも言える場所がある」

―――――

という「空間の提供」が先にあることによって、

―――――

「そうだ、おれにも、言いたいことがあった!」

―――――

と、開発される書き手が増えているのだ、ということです。

(おれのようにかい? ふふふのふ)

―――――

このような、生臭さをダイレクトに伝えるメディアを前に、それと向かい合う人たちには、2つの態度がとり得るでしょう。

―――――

ひとつは、熱くて臭い超大規模な言葉の山を整理整頓し、去勢し、方向付けをしてやろうとする、「洗練」を上に置いた態度です。

―――――

なに?
そんな態度をどう思うか?

―――――

まぁ言わぬが花よ。

―――――

そして、もうひとつがCGやデータ音楽などの発達によって洗練されると共に「血肉溢れる感性」を失っていく「表現の世界」に、「人間の声」を導入し、もともとあったであろう「熱さ」の復権を求める態度だ、と、

―――――

かように思う。

―――――

これ以上、申すまでもないでしょう。

―――――

洗練に「ヒトの本来持つ熱さ」という刺激を取り込んだエイブラムスの映像は、今のところ、その確かな立脚点のゆえ、大成功を収めています。

―――――

あの…
そもそも、ですね、

―――――

ネットに書き込みできるとなると、

―――――

わりと気軽にさらさら書くでしょ?

―――――

ところが、そのさらさらが積もり積もると、それぞれの「言論としての立場」とやらは、次第にあいまいに、どーでもいいものとなり、

―――――

たくさんの「声」がある、という熱だけが、「場」の作り手に伝わるのです。

―――――

いいことか、悪いことか、何か対処すべきなのか、そこまではわかりませんよ。

―――――

ただ、そのような「熱の伝導」を的確にすくい取り、

―――――

洗練された「機械仕掛け」の中に上手に組み込むクリエイターが、米国では、既に、中心に座っている、と。

―――――

それは、保守的な物語に「新しい装い」を与えている。

―――――

ハリウッドを通したアメリカ文化は、本質的な姿勢を変えずに生きながらえる「やり方」を、もう見い出して、使っている、と。

―――――

この古くて新しい映画に触れて、改めて感じいった、というわけです。

―――――

(気がついたら、何かやるべきだと思いますけども。

僕らは、何をすべきなんでしょねぇ?)

―――――

Jack

―――――

(いや、あなた、

これは、しけた嫌味じゃありません。

僕に出来るのは――ひょっとすると、「いまのところは…」ということかもしれませんが、いや、決して、悲観して言うのでなく――、こうして気が付いたことを、あなたに贈ることだけなんです)

| | トラックバック (0)

軽い原罪/「重力ピエロ」

「春が、二階から落ちてきた」

―――――

この印象的な「フレーズ」で始まる映画は、

―――――

「重力ピエロ」

―――――

舞台は仙台。

―――――

「春」、とは人の名。

―――――

奥野家は兄弟ふたり。

―――――

奥野泉水(加瀬亮)と奥野春(岡田将生)。

―――――

仲の良い兄弟を見守るのは、優しいが決然とした父(小日向文世)と、美しい母(鈴木京香)。

―――――

幸せそのもののようなこの家族に、一片の影が射している。

―――――

一片と言いましても、

―――――

それは、尋常ならざる大きさの影です。

―――――

家族の運命…
家の者ひとりひとりの人生の成り行きまでも左右する、大きな影です。

―――――

物語の中で言及される、様々なピース。

市内を騒がす放火犯。

泉水が学ぶ、遺伝子工学。

街のあちこちに残る落書き =「グラフィティアート」。

美男の春につきまとう、女の子の「ストーカー」。

―――――

これらは、どう、結び付くんでしょう。

―――――

全てがひとつにつながるとき、奥野兄弟にも、岐路が…

―――――

えーと…

―――――

この作品のキーターム = 鍵を握る言葉は、いずれも英語。

―――――

「GOD」「Can」「Talk」とか「Unforgiven」とかね、

―――――

そもそも、落書きを「グラフィティアート」などと呼んだりして、「別の解釈」を付けようとするのは、どういうわけか。

―――――

ごていねいなことに、主題歌も、全編、英語です。

―――――

伊坂幸太郎さんの別作品の映画化「フィッシュストーリー」でもそうでしたが、この「重力ピエロ」も、そこかしこに、アメリカ文化への「憧憬」のようなものが、見て取れる。

―――――

それが――その淡い憧れのごときものが――、この伊坂印のミステリを、例えば松本清張的でない、笹沢佐保的でもない――要するに、男と女や血のつながる者同士の「絡み合う愛憎」だったり、どろどろの心を抱えた「にらみ合い」などからサッと救う――ポップな軽みを提供している、と思う。

―――――

この「ポップな軽み」、

―――――

= 外来言語に依存することによって、初めて成立する「浮遊感のある思考」について、申しましょう。

―――――

たぶん、どこの国でもそうだと思うのですが、

―――――

「外来言語」

―――――

とは、土着の因習や、無意識のうちに僕らに染み付いてしまっている「観念の範囲」から離れる――離れたい――とき、たいへん便利な言葉の束です。

―――――

「言葉」というものは、一語一語、それぞれ「ある対象」と一対一の関係を結び、僕らの世界を、確固たるものにしています。

―――――

しかし、

―――――

そのような、言葉と対象の一対一の関係だけでは捉えきれない、「こぼれ落ちていく感性」のようなものがあるのです。

―――――

このことを「こぼれ落ちていく感性」の側から説明しようとすると、いくら言葉を費やしても足りませんし、なにより思考の迷路にはまり込む可能性が高いので、

―――――

一対一、として安定している土着言語の立場から、逆照射してみましょう。

―――――

その立場とは、「外国語を習う人の立場」です。

―――――

外国語を習っていくと、次第に、「どう捉えたらいいんだ…」と、困惑することが増えてきます。それは、

―――――

「カタカナ」の存在

―――――

です。

―――――

僕の場合は、フランス語を勉強してるので、フランス語について言いますと、例えば、

―――――

「シルク・ドゥ・ソレイユ」

―――――

と書いて、日本では、

―――――

「シルク・ド・ソレイユ」

―――――

と、読むのが一般的ですが、これは、明らかな誤読です。

―――――

しかも、二重に間違えてる。

―――――

そもそも、「シルク・ドゥ・ソレイユ」と書いたら、「ド・ソレイユ」と読むのは誤りだし、第一、

―――――

原語では、

―――――

「Cirque du soleil」

―――――

と書くのです。

―――――

これは、「ドゥ・ソレイユ」と言うより、「デュ・ソレイユ」と読むほうが近い。

―――――

フランス語のアルファベットでは、「d」を「デ」と読みます。

―――――

「デュマ」=「Dumas」という作家がいましたので、「du」については、「デュ」と発音するのが、原音に最も近い。ところが、

―――――

今や完全に、「ドゥ」で、通っています。

―――――

さらに言うなら、原音の「du」の「u」は口をすぼめて、「ュ」と「ィ」と「ゥ」の中間のような発音になるのが、正確です。では、

―――――

いったい、「ドゥ・ソレイユ」というのは、「どこに在る言葉」なのか?

―――――

日本語ではありません。もちろん。

―――――

しかし、フランス語でもないのです。しかり。

―――――

いったい、「カタカナ」とは、地上の、どこに在る存在を示す何語なのか?

―――――

ところが、

―――――

実際問題、これは、「日本語」なんですよ。

―――――

「浮遊する言葉」でしょう?…

―――――

それが指し示そうとする対象と、ぴたり結ばれてはいないでしょう?

―――――

ここでは、言うなれば、意味が「迂回」されているのです。

―――――

「バイオリン」とか「ビール」とか、「そんな言葉はないよ」と言いたくなるカタカナ語は、いっぱいある。

―――――

あれらは全て、日本語ではないのに、実際問題、日本語だ、という、たいへん不思議な単語です。

―――――

こういう単語が「文節」の中に混じることによって、文章 = 思考は、「浮遊する自由感」を獲得していく。

―――――

意味が迂回されているがゆえ、このような言語は、「対象との一対一の関係」、という、厳然たる役割から解放され、自由に宙に浮かぶのです。

―――――

こうした自由さ――「浮遊する論説の自由さ」――をもって、この作品は、奥野家という家族を襲う大いなる悲劇を救おうと試みる。

―――――

ですが、

―――――

断言しましょう。
ひとの生き方、すなわち「意味の在り方」は、「言葉の位置」をずらしたくらいで、変えられるものではありません。

―――――

それでも伊坂作品が、いま、新しい姿で文化現象の真ん中に出るようになった「日本映画」という世界――その世界に属する人々の関心を強く呼び、

―――――

多く映画化されるのは、なぜでしょう。

―――――

「変わらない意味」に対して、「意味の迂回」を試みるポップな軽みは、必然的に、

―――――

若さの思考

―――――

と、なり得ます。

―――――

それすなわち、抵抗の試作だからです。

―――――

抵抗しつつ、浮き足立ってる(浮遊してる)わけなので、これは

―――――

一過性の表現

―――――

です。

―――――

二十年後には、消えているかもしれません。

―――――

二十年後には、消えているかもしれないものを、なぜ伊坂幸太郎さんは、いや、もとい、森淳一監督は、援護しようとなさるのか。

―――――

いま僕の言っている「若さ」とは、実は、

―――――

気恥ずかしさ

―――――

から来るものです。

―――――

一度、「シルク・ド・ソレイユ」と呼ぶことに、なんとなく決まってしまったそのものを

―――――

「デュ・ソレイユ」

―――――

なぁーんつぅたら、恥ずかしい、っしょ?

―――――

居酒屋行って、

―――――

「あ、おれ、ビアーね」

―――――

などと言うヤツがいたら、お友だちになれますか?

(待てよ?…おもしろいかもな…まぁ、いいや)

―――――

自衛隊の存在からもお分かりの通り、戦後の日本は、「正面から対象と向き合わない」ことで、なんと、浮遊する――厳然たる役割から解放された――「自由に汲み取れる意味」を豊かに膨らませる道を選択してきた、不思議な若さを持つ国なのです。

―――――

つまりは、それこそが、日本流の

―――――

ポップ・カルチャー

―――――

だと言える。

―――――

この映画のテーマとなっている思考について、

―――――

松本清張や笹沢佐保や、あるいは遠藤周作なら

―――――

「原罪」

―――――

と、呼んだかもしれない。

―――――

だが、原罪と向かい合おうとする「人の姿」が、この作品では、どこか軽い。

―――――

原罪に対して、どろどろと対決しようとするのでなく、軽く投げ打とうとする若者たちの姿を通して、

―――――

この映画は、軽くて、そしてどこかはかない、もろい思考を

―――――

いつまでも失わないで

―――――

と、メッセージする、静かな主張に満ちているのだ、ふぅ。

―――――

… なんて、いろいろ言いましたけど、

―――――

実は、ね、

―――――

なんだかなぁ…

―――――

まったくもって見当外れの方向で立ち止まったり、ごちゃごちゃ悩んだり、ツマラヌ手間をかけてるのぉ!

―――――

と、

―――――

僕は、自分の少年時代から相も変わらぬ様相で「意味のあいまいな繊細さ」を標榜する「“お馴染み”の若さ」に、うっとうしさと疲れを覚えて、劇場を出たのです。

―――――

新しき日本映画の新しき「スタッフ」たちが、こんな古ぼけた新しさに感じいっているうちは、

―――――

いま現に鋭さの中にある若さ、というのは、いつまで経っても報われない

―――――

と、そう結論づけることも忘れずに。

―――――

(「時間が経てば消し飛んでしまう若さ」を温存しようとする馬鹿げた「センス」に、苛立ちさえ覚えながら)

―――――

(現代の若さが持っているかもしれない「シビア」さに対して、この繊細さは、ある意味では、あまりにのどかだと言える)

―――――

(だが、しかし、加瀬亮と岡田将生というふたりの若い俳優は、実に「センシティブ」に演じている、と)

―――――

(それは「イッツ・コレクト」です)

―――――

Jack

| | トラックバック (1)

照れずに愛して/「僕らのミライへ逆回転」

米国ジャズの歴史に燦然と輝く巨人、ファッツ・ウォーラー。

―――――

ファッツ・ウォーラーは、アメリカのどの町の、どの家で産まれたか?

―――――

僕も知りません。

―――――

いや、ネットで調べれば、事実は、簡単に判明しますが、ちょっとお待ちくださいませ。

―――――

一辺の事実よりも、素敵な物語が、見つかります。

―――――

「僕らのミライへ逆回転」

―――――

観たかったんですよ、これ。

―――――

都合で劇場には行けず、レンタル借りようと思いながら、延び延びになってました。

―――――

原題は、「Be Kind Rewind」、つまり、

―――――

「優しく巻き戻して」

―――――

というところでしょうか。

―――――

いや、これも実際には、アメリカのレンタルビデオ(テープ)店で普通に使われていた決まり文句、「巻き戻して返してください」の意らしいんですが、そこに、ひとつの「家庭に入り込んだ映画文化」に対するメッセージ性が、読み込んであります。

―――――

このような、タイトルを付けるときのデリケートさが、いかにも脚本・監督ミシェル・ゴンドリーのしるしです。

―――――

「エターナル・サンシャイン」を観て以来、この人のことが、とても気になっていたので、この映画も、観るのを楽しみにしてました。

―――――

このゴンドリーという人の作風というやつは、ちょっと

―――――

「屁理屈」

―――――

こねて、楽しんでるようなところだと思うんですね。

―――――

「屁理屈」と「理屈」が、どう違うかは、ずばり、作品を見れば、解ります。

―――――

レンタルビデオ店「Be Kind Rewind(ていねいに巻き戻してね)」。

―――――

古くからある店なんです。
VHSしか、置いてません。

―――――

店主のフレッチャー(ダニー・グローバー)は、ファッツ・ウォーラーの心酔者。

―――――

ちょっと事情がありまして、ファッツ没後60周年の記念イベントを見に行く、とだけ言って、店を空けます。

―――――

店番を任された、店員のマイク(モス・デフ)。

―――――

マイクの友だちで廃品のリサイクル屋ジェリー(ジャック・ブラック)。

―――――

発電所の前にトレーラーハウスを置いて、住んでます。

―――――

このジェリーの存在が、騒動の始まりでした。

―――――

ヘンなことを言うヤツでして、

「FBIが、発電所の電磁波を使って、市民を洗脳してるんだ!」

この俺も洗脳されそうだから、発電所をぶっとばそう!

―――――

本当に忍び込んだジェリーは、ぶっとばすどころか、逆に、強力な電磁波を浴びてしまい…

―――――

そのまま店に来るもんだから、電磁波のせいで、

―――――

VHSテープの録画が、ぜんぶ、消えちゃう!

―――――

さぁ、たいへん。

―――――

ビデオを借りにくる客に、テープを出さないわけにはいかない。

―――――

いっそのこと、

―――――

俺らで、中身を作っちまえ!

―――――

ふたりは、即席のビデオ監督兼出演者になりますが…

―――――

ふーむ…。

―――――

期待にたがわず、素晴らしいじゃないの!

―――――

傑作です。
文句なしです!

―――――

「スウェーデンの輸入ものだ」っていうセリフ、

ひじょーに、おかしい。

―――――

全編、くすくす笑いの連続です。

―――――

そこかしこで挿入されるエピソードが、どれも実にほほえましく、そして、楽しい。

―――――

重要なことは、これは、パロディ劇ではないのです。

―――――

もっと、ひねりがきいてます。

―――――

劇中でふたりが「リメイク」する映画、どのくらい観てますか?

―――――

「ゴーストバスターズ」に始まり、
「ラッシュアワー2」、
「ロボコップ」
「2001年宇宙の旅」、
「キングコング」、
「シェルブールの雨傘」、
「ボーイズ'ン・ザ・フッド」、
「ドクター・モローの島」、
「ブギーナイツ」、
「ラスト・タンゴ・イン・パリ」…

―――――

玉石とりまぜて、ふんだんに。

―――――

極めつけは
「ライオン・キング」の撮影シーン!

―――――

加えてボカ、この監督さんの「俳優の選び方」にも、興味がある。

―――――

主演の三人はもちろん、

―――――

ひょんなことから、マイクとジェリーのリメイク騒動に参加するアルマ(メロニー・ディアス)。

―――――

いかにも、こういうお店の常連客っぽい、ミア・ファロウ。

―――――

さらに、あの超有名大作映画のあの女優を、こんな役で出演させて!

―――――

「俳優選びに凝る」

―――――

というのは、各シーンの撮り方に凝りたいから、だと思うんですが、

―――――

観ていると、キスのやり取りが出てくるんですけども、その場面の、なんとデリケートで辛辣で、屈折したこと!

―――――

「ひねってる」とか「デリケート」とか、「屁理屈」とか、いろいろ言ってみましたが、全体としてこれは、

―――――

ハリウッドの大作志向への、ひじょーに繊細な、チクリとした批判にもなっています。

―――――

コーエン兄弟のような、ふてくされた気取りは、ボカ、すっかり嫌いになりましたけど、こういう洒落っ気たっぷりのご意見なら、単純にのけぞります。やるじゃないの。

―――――

「映画愛」と、ひとくちに言いますが、それって、なんのことでしょう。

―――――

素直に言うならこの映画、

―――――

「映画愛についての映画」

―――――

と、言える。

―――――

そこを素直に言わないのが、

―――――

「屁理屈」の「屁理屈」たる、由縁です。

―――――

「屁理屈」とは、つまり、

―――――

「愛が高じて、変形されてしまった理屈」

―――――

の、ことです。

―――――

いったいに、自分が

―――――

「映画ファンである」

―――――

ということは、
照れて言うようなことでしょか?

―――――

「映画ファンです」ということを照れて言うようになったなら、

―――――

それは、じゅーだいなサインです。

―――――

あなたは、なんと、愛ゆえに、

―――――

「作者になりたい」

―――――

と、思いはじめているのです。

―――――

「映画愛が高じて、やがて映画制作に取り組むようになる人たち」の情熱を、こんなにも豊かな想像力と説得力で、親しみやすく示した例も珍しい。

―――――

「エターナル・サンシャイン」もそうでしたが、この映画も、

―――――

「あれぇ…このまま、切なくエンドマーク?…」

―――――

と、思わせておいて、終わり方、うまぁーーーい!!

―――――

いかにも、

―――――

「“愛”なんて、照れくさくって」

―――――

と、言いそうなひとたちのエンディング。

―――――

照れずに拍手したくなりますから、楽しみにご覧あれ。

―――――

Jack

―――――

(さんざん、いろんな話題で楽しませてから、このラストですから、しびれますよ、ほんとにもう)

| | トラックバック (0)

エンタの王子様/「セブンティーン・アゲイン」

「プログラム・ピクチャー」って、ご存知ですか?

―――――

この言葉を説明するには、DVDはおろか、VHSもまだない頃まで、戻らないといけません。

―――――

「映画と言えば、映画館で観るもの」だった当時、新作映画には、「抱き合わせの1本」が、付いていました。

―――――

つまり、これが「2本立て」というやつで、1回料金を払って2本見られたんです。

―――――

都合3時間ほど。

―――――

昔の映画は、「1時間半」というのが、多かったんで。ただし、休憩も入れると、もっと長い。

―――――

その頃の自分も含めて、昔の映画ファンの人たちは、体力があったんだな、と思いますけど――(ロードショーのとっくに済んだ旧作だけを上映する劇場もありまして、¥1000以下で、3本立てやら5本立てやらあったんですよ。8時間以上も同じ映画館で、映画を見続けるなんて、考えられる?)――、で、問題は、

―――――

プログラム・ピクチャーです。

―――――

要するに、上映の本命でない、みんなのお目当てでない「もう1本」の映画のことを、

―――――

プログラム・ピクチャー

―――――

と、言ったんです。

―――――

つまりは、付録みたいなもン。

―――――

内容が面白くて「当たれば」儲けもの。

―――――

「ハズレ」ても、どうせオマケなんだから、文句言わないでね、というよーな代物で、監督以下スタッフも、とーぜん出演者も、聞いたことがないような人がほとんどでした。

(そういう中に、たまにスピルバーグやトビー・フーパーのような若手監督の、実験作が混じっていたりしたのです)

―――――

で、

―――――

たまの例外はあるにしても、多くは、いかにも「オマケ」らしく、映画の中身のほうは、「んー…、どっかで観たことがあるような、ないような…」

―――――

という感じでありました。

―――――

で、で、

―――――

そんなプログラム・ピクチャーの中でもときどき、

―――――

ジャン・ポール・ベルモンドとか、エリオット・グールドとか、

―――――

主役だけは大物級、という、掘り出し物があったりする。

―――――

そういうのは、たいてい中身のほうも、面白いんです。

―――――

そのへんを手がかりにして映画ファンは、

―――――

「だれそれの出てる映画なら観に行こう」

―――――

と、決めるんです。

―――――

ザック・エフロンの

―――――

「セブンティーン・アゲイン」

―――――

ハイスクールでバスケ部のスター選手、マイク(ザック・エフロン)。

―――――

恋人の妊娠をきっかけに、大学進学をやめて、結婚、就職を選びます。

―――――

すべての夢を犠牲にしても、彼女のことを愛していたから。

―――――

それから十数年。

―――――

おなかの出た中年になり果てたマイク(マシュー・ペリー、お久しぶり)。

―――――

会社では昇進の機会が得られず、産まれた娘らは、いま反抗期。

―――――

愚痴ってばかりの彼から最愛の彼女は離れ、離婚を言い出されてしまいます。

―――――

こんなはずじゃなかった…

―――――

と、不思議なことが、身に起きる。

―――――

目が覚めると…

―――――

17才に、戻ってる!

―――――

なんで?
いや、そんなことは、どうでもいい。

―――――

失った青春を取り戻す。

―――――

決心したマイクは、娘たちの通う高校へ、名前を偽って、編入しますが…

―――――

いやぁ、これ、昔なら完全に、プログラム・ピクチャー扱いでしょう。

―――――

高校の人気者で、バスケの名手っていう役柄ですから、

―――――

どうしたって、「ハイスクール・ミュージカル」を連想させる。

―――――

それはおそらく、俳優として成長したい・させたい「アーティスト志向」にとっては、ありがたくないステレオタイプのイメージ付着でありますが、

―――――

そこを「気にしない」と乗り越えてしまえば、素晴らしい「アイドル・スター」としての道が開けている、と思うんだけど…

―――――

そう。
これは、そのアイドル本人にとっては、ちょっと酷な願いです。

―――――

いろんな役をやりたかろう。

―――――

イメージの固定は、嫌だろう。

―――――

分かっちゃいるけど、願っちゃう。

―――――

ザックには、歌って踊ってほしいです。

―――――

この映画で、彼は、あまりにも「芸能の人」をこなしているので、よけい、映画と役柄に「レビュー的要素」が無いのを「惜しい!」と感じてしまうのだ。

―――――

「プログラム・ピクチャーというものの存在」は、僕らに、映画が「芸能の特番」としての機能を発揮していたことを、思い出させる。

―――――

たまの実験作などを除けば、――否、そうした風変わりな奇作さえも呑み込むほどに――プログラム・ピクチャーの造る「風景」とは、度量の大きな、ある意味では「なにが来ようと揺るがない」盤石な「庶民の娯楽の場」でありました。

―――――

そんなプログラム・ピクチャーに登場するのは、「芸能人」であって、「アーティスト」などではない。

―――――

彼らが選び取り、演じるのは、徹頭徹尾、観客を楽しませる――そうして、観客たちが、おそらく普段は意識の端にも置いていない「生活」の姿に、意義があることを思い起こさせる――ことであり、

―――――

それはまた、僕らにとっての「生活」というものが、「現代生活」へと固まりつつあった頃、あらゆる価値が金銭以外と交換できない息苦しい「無意味さ」へと変質するのを、力強く押し留める、一種の「魔法」を秘めた表現形式であったのです。

―――――

芸能には、もともと、ひとの魂を鎮めたり、逆に、ひとが日頃は忘れている「己れの生命力」を、刺激によって放出させたりする力がある。

―――――

(たぶん)本人がさほど意識しているわけではないのに、「芸能本来」の立ち位置に近いところに立っているひと・ザック・エフロンの存在が、この映画を呼び寄せ、この映画を快活なものにしたことは、ほぼ、間違いないと思います。

―――――

そういう人が、過去のハリウッドにも、1人いた。

―――――

マイケル・J・フォックスですね。

―――――

「芸能人」マイケル・J・フォックスは、その輝かしいオーラで代表作「バック・トゥ・ザ・フューチャー」シリーズを完成させると、ハリウッドの理想に従い、「アーティスト」になろうと努力しましたが、上手くはいきませんでした。

―――――

彼はアーティストになるには、あまりにアイドルでありすぎた。

―――――

こなた、ザックは、どうでしょう。

―――――

歌って踊れるアイドル・スターの位置をキープして欲しいんだけど、現代ハリウッドの世界に居ては、難しいかもしれないな…。

(ブロードウェイに、進出でもしないかな)

―――――

いずれの道を選ぶにせよ、この人は、今が最初の旬であります。

―――――

芸能がもたらす「温かい視線の相互関係」を体感したい方は、ぜひ劇場へ。

―――――

この温もりは、「芸術」には造り出せないと思うんだよな。

―――――

Jack

―――――

(久々に、日本人にとっても親しみやすいアメリカン・アイドルの登場だと思うので、一映画ファンとして、この人のことは、見続けたいなぁ、と思う僕なのです)

| | トラックバック (0)

倫理とおカネの狭間で/「天使と悪魔」

「天使と悪魔」です。

―――――

始まりは、バチカン市国。

世界10億のカトリック、総本家。

―――――

神の愛と恩賜を伝える人、教皇が亡くなります。

―――――

次の教皇を枢機卿たちの中から選ばなくちゃいけません。だが…

―――――

時を同じくして、スイスのCERN・素粒子物理学研究所で事件が起こり、研究中の反物質のカプセルが強奪される。

―――――

外気(というか物質)に触れると、大爆発を起こす、超危険な代物です。

―――――

さらに、バチカンでは、秘密結社「イルミナティ」を名乗る何者かが、教皇候補の有力枢機卿4人を誘拐する。

―――――

「イルミナティ」…

―――――

それは、ガリレオの時代より存在する、科学信奉者たちの影の組織…

―――――

彼らは、信仰の総本山に、何をする気か?

―――――

バチカンは、ルーブル美術館事件で名を馳せた、ロバート・ラングドン教授(トム・ハンクス)に、事件解決を依頼します。

―――――

教授は、前教皇の侍従だったカメルレンゴ神父(ユアン・マクレガー)、そして
CERN研究所のヴィットリア・ヴェトラ博士(アイェレット・ゾラー)と共に犯人を捜す。

―――――

「イルミナティ」の真の目的は、何か?

―――――

盗まれた反物質は、なんのために使われるのか?

―――――

さらわれた枢機卿たちは救えるのか?

―――――

ラングドン教授は、「イルミナティ」の暗号「空気・水・火・土」が解決の手がかりであることを突き止めますが…

―――――

えーと…

―――――

これは、映画の出来・不出来でなく、単に好みの問題なんですが、僕は

―――――

「ダ・ヴィンチ・コード」のほうが、好き、かな?…

―――――

今回のほうが、スピード感に溢れていて、前ほどややこしくないので、

―――――

その意味では、前作より「進化してる」、

―――――

と言えるでしょう。

―――――

ステラン・スカルスガルドのような、今や名脇役の風格がある役者も、華を添える。

―――――

でも、ですね…

―――――

今回のほうが、ちょっと、「扇情的」と言いますか…

―――――

殺人事件が次々と起きるんですけど、なんて言うか…

―――――

さながら、「お上品なサイコ・スリラー」を見せられているようで(つまり、殺し方に凝ってるのね)、どうも、のめり込むには、抵抗を感じます。

―――――

この映画よりはるかに残虐な(言い替えると、悪趣味な)、「羊たちの沈黙」や「ハンニバル」や、さらには「セブン」なんかを興味深く観た僕なのに。

―――――

なんで、この映画には、ノれないのかな…

―――――

それは、繰り返される殺人が、

―――――

男と女

―――――

老いと愛

―――――

社会生活と反社会人

―――――

…ひいては「現在そのもの」

―――――

といった、僕のような異教徒にも共感できる地平で展開されず、

―――――

こちらからはよく解らないキリスト教の、「教義の内部」で行われている、

―――――

という強い印象があるせいでしょう。

―――――

「自分にも関係ある」と思えないから、

―――――

うひゃ! 残酷!

―――――

うわ! ひでぇ!

―――――

というところだけが、目に付くのだ。

―――――

あ、いや、

―――――

いま、異教徒と言いましたけど、

―――――

それじゃあ日蓮宗に絡んだサイコ・サスペンスでも見せられたら、わくわくするか。

―――――

やー、それはないな。

―――――

そーゆー問題じゃないだろー。前言訂正。

―――――

ミステリやスリラーが扇情的であるのは、「24」や「BONES」や、さらには、ポオの「モルグ街の殺人」まで、いつものことです。

―――――

そういうものが、「なんとなく苦手」になったのは、僕の側の変化もあるのだ。

―――――

またしてもの話題で恐縮ですが、これは、僕が、精神病を体験して以後の、(ある意味では)重要な変化です。

―――――

狂ってる最中、ひじょーに陰惨な妄想をたくさん抱きましたので、醒めるに従って、

―――――

もう、いいよ

―――――

と、思うようになったのね。

―――――

しかし、そういう個人的な好みの変化だけでなく、やっぱりコトが「カトリックの面白さ」に関わってくる面もかなりある、と思うので、そのへんを語りましょう。

―――――

ご存知の方も多いでしょうが、ダン・ブラウンの原作では、この「天使と悪魔」のほうが、先に出版され、「ダ・ヴィンチ・コード」が後に出ました。

―――――

この流れ通り考えると、「カトリックの歴史にまつわる犯罪が起きる」というシリーズとして、一作目はスリリングな追いかけっこが重視され、

―――――

二作目は、謎解きの趣向が、よりひねられて、「パズラー物」として、深くなった、

―――――

と、申せます。

―――――

パズルを解くように取り組む態度が、カトリシズムに接する姿勢としては、より深く練られたものだ、というお話しと、

―――――

それとは反対の立場のように見えながら、対になるかたちでカトリシズムに抵抗する、――内部で反旗をひるがえすことで、結果的には、表のカトリックの在り方を、活性化させていく――そんな方法があることについて、申しましょう。

―――――

少し、キリスト教が生まれた頃に、想いを馳せます。

―――――

狩猟民族としての時代が終わる。

―――――

定住し、建物を建て、農耕のために測量をしたり、貨幣を流通させたりする。

―――――

やがて農業が否定されるようなかたちで商業が産まれ、村々は都市となり、近代的生活の仕掛けが整う。

―――――

こうしたことのすべてが、僕たち人間本来の「精神」が持つ自由さにとっては、無理な「居住まい」、不似合いな姿勢だったのだ、と考えます。

―――――

この不自由な居住まいに、人々を従わせるために考案されたものを「倫理」と言う。

(「倫理」から解き放たれるひとつの手段を貨幣とする。

お金さえあれば、自由になれます。

今も昔も、変わりません)

―――――

原初のカトリシズムとは――それがもたらした「倫理」というのは――、人間が進化のために選んだ近代的生活の、その不自由さ、不自然さを補い、人々に納得させるために発展したのではないだろか。

―――――

そうして「精神病」とは、どうあがいても埋めることの出来ない「人間」と「文明」との溝が、いかに深いかを示すため、ときおり降りてくる“しるし”のようなものだ、と見ることが可能です。

―――――

そうです。

―――――

狂気とは、ひとの持つ情欲のような性質と、近代生活の中で服を着た「表の顔」としての、かりそめの人間らしさを結ぶ“しるし”――“貨幣”にも通じる――シニフィアンだと言えるのです。

―――――

これは、僕だけの、ひとり合点な発想じゃありません。

―――――

カトリックの世界観に対して、ロジカルに、奥へ入ろうとするラングドン教授シリーズは、いま言ったようなことを背景に、

―――――

如何に狂気に捕まらずに、現代の倫理という「くびき」から自由になるか、を考えて創られてる。

―――――

倫理に対抗するひとつの手段は、それが生成してくる過程というのを論理的に――論理と倫理は、すぐとなりにあります――解き明かしてしまうことなのです。

―――――

しかし、

―――――

これが形骸化してくると、「倫理の構造を暴くための論理」というのを打ち立てていくのが、次第に、めんどくさくなってきます。

―――――

そのとき、ひとが思い出すのが、「肉の感覚」を刺激する扇情性です。

―――――

論理と倫理はとなりあわせ、と言いましたが、やたらと血が飛んだり、ことさら死の恐怖をあおり立てたりするのは、ロジックに対するフレッシュ(肉)…というわけで、論理による倫理の構造解体より、はるかに分かりやすい「対立軸」があるのです。

―――――

この安直な対立関係を使うのは、カトリシズムの発展型と言える現代資本主義社会のギマンを言いつのるにつけ、まことに便利なやり方です。

―――――

「本格推理小説」と言われる、純然たるパズラー物が、欧米ミステリの世界から、消えて久しい。

―――――

ひとつには、「論理的な遊び」がもともと「倫理の構造」を明らかにすることで、窮屈な現代人の生活を解き放つ効果を持っていたはずなのに、

―――――

いつの間にか、ロジックが「自由な遊び」の立場をズレて、倫理を必要以上に補強するような役割に堕ちてしまった、ということがあったでしょう。

―――――

「悪事」は暴かれ、「罪人」には、罰がくだる。だが、

―――――

なにが悪で、
なにが罪か。

―――――

「そんなことは決められない」

―――――

というのが、現代ミステリの主張です。

(ふと、鴎外の「高瀬舟」なぞ、連想します。

大正五年の小説であるにも関わらず、この辺りの問題に鋭く切り込み、古さのない話じゃないか)

―――――

悪の存在が、どんどんあいまいになるのが、ノワールやサイコ・スリラーの世界です。

―――――

しかし、これとても、

―――――

形骸化すれば、単なる露悪趣味に堕ちてしまう、そういう性質の「手段」なのだ。

―――――

現代の最前線にある娯楽はみな、

―――――

如何にして「倫理の構造」を解いてしまうか

―――――

、という尖った問題意識を持っている。

―――――

そうして、それらはどれも、「現在に対する、しなやかな観察眼」を失ったとき、たちどころに「形骸化」や「ただの悪趣味」に堕ちる危うい可能性を持った、「表現の闘い」なのだ。

―――――

(「狂気に捕まらずに」というのがポイントですが、シビアな「表現の闘い」に勝利したひとは、結果として、「お金」という狂気をたくさん手にすることになる。

今度はお金との格闘です。大きな皮肉。

「表現の闘い」に、終わりというのは、ないのです)

―――――

冒険小説まがいの「天使と悪魔」から「ダ・ヴィンチ・コード」へと進んだダン・ブラウンと、それを逆にたどって映画化したロン・ハワードは、それぞれ正反対の立場から、

―――――

カトリック = 倫理の構造を解いて、自由になるかたちを求めた、と言えそうです。

―――――

…あんまり気に入らなかった映画への感想としては、このくらいでよいかしら?

―――――

ところで、

―――――

どうして、絶えず倫理の解体が必要な、そんな方向へ、ニンゲンというのは進化してしまったんでしょ。

―――――

映画一本くらいでは、晴れない疑問。

―――――

(そうですね。

いまは、このくらいにして、また、別の劇場で、お会いしましょう)

―――――

Jack

| | トラックバック (0)

こばなし、今語り/「バーン・アフター・リーディング」

始めに言っちゃいましょう。

―――――

どーも、僕は、コーエン兄弟とは、波長が合わない。

―――――

「ノーカントリー」のときも、「なーんか、気取った体裁が、勘にさわるなぁ」と思ったんですが…(2008/7/26)

―――――

うむ。

―――――

この人たち、別に、ただ単に気取ってるだけではないようだな…

―――――

その本題に入る前に、例によって、ひとつの色眼鏡をかけていただきます。

―――――

悪趣味だ、とは思うんですが、ちょっと聞いてください。いや、

―――――

ある新婚の若夫婦が、ね、
(日本人ですよ)

―――――

ハワイまで、旅行した、と。

―――――

で、ホテルに泊まって夕刻になった…

―――――

奥さんのほうが、少し「風に当たりたい」てンで、散歩に出ます。

―――――

そして…

―――――

通りすがりの黒人のひとに、犯されちゃった。

―――――

どうすんだ。

―――――

旦那に言うのか。

―――――

それが、「言わなかった」というんです。

―――――

で、ずっと黙ったまんま、初めての夜を迎え…

―――――

何事もなかったように、日本に帰る…

―――――

で…

―――――

妊娠してるのが、わかった、と。

―――――

ここでね、

―――――

この話し、
終わりなんです…

―――――

ンな、あほな。

―――――

それから、どうなったんだぁっ!!

―――――

嫌な話しだけど、気になることは、気になります。
(え? ならない?)

―――――

で、

―――――

こういう話し、

―――――

実は、オンナのひとは好きでしょう!

―――――

だって、僕がこれを聞いたのも、女同士の集まりの場に、混ぜてもらったときなんだ。

―――――

「なーにをくだらない都市伝説みたいなウワサばなしに、夢中になっているんだか…」

―――――

と、正直、思いましたけど、これも正直な話し、「気にはなる」んだ。
(なりません?)

―――――

それでね、

―――――

こういう話しが語られる際、決まって、

―――――

「あたしの、ともだちのともだちの体験なんだけどぉ…」

―――――

なぁーんて言ったりするんだな。

―――――

噂話しの、ギョッとさせる、そしてハッとさせる怖さ、不思議さというのは、この、

―――――

なんの枝葉もない

―――――

、というところから発しています。

―――――

そうして、敢えて言ってしまうなら、その「魅力」というのも、

―――――

ぶっきらぼうに突き出される、味も素っ気もない単純さの「奥深さ」に発しているように思うのです。

―――――

この「味も素っ気もない」、単純な、物語一歩手前の――言ってみるなら――おはなしの「素因子」の如きものを提示しようとしているのが、

―――――

つまりは、コーエン兄弟です。

―――――

さらに、簡単に言い替えますなら、要するに、

―――――

現代のフォークロア(民話)を創ろう、としているのが、ジョエルとイーサンの、兄弟ふたりだ、と言えるでしょう。

―――――

少なくとも、この作品に関しては、そうだ、と言える。

―――――

「バーン・アフター・リーディング」

―――――

=(読後、焼却のこと)

―――――

という、またひどく思わせ振りなタイトルの映画です。

―――――

飲酒癖のせいで、CIAの情報分析官をクビになる男(ジョン・マルコヴィッチ。たぶん、この作品は、この人の代表作のひとつになる)。

―――――

彼が、やけくそ気味に書こうとする回想録が、すべての、ことの発端です。

―――――

彼との離婚を考えている妻(ティルダ・スウィントン。「ナルニア国物語」の白の魔女、大変身)。

―――――

彼女と不倫してる財務省連邦保安官(ジョージ・クルーニー)。

―――――

スポーツ・ジムのインストラクター(ブラッド・ピット)

―――――

彼の同僚で、全身美容整形をしたいがために、カネを欲しがる女(フランシス・マクドーマンド。コーエン映画に欠かせぬ人)。

―――――

さて、彼ら全員を巻き込み、CIAを困惑させる騒動の、顛末は…

―――――

「予想もつかない」

―――――

というのが売りの映画だけど、要所で、僕には、先が読めちった。

―――――

ま、それは、ともかく。

―――――

全編を通して、ほとんど「変わったヤツ」しか出てきません。

―――――

が、同時に、

―――――

最後まで、観客の共感を誘うようなキャラクターが登場しない。

―――――

理由は、本質がフォークロアなのだから、ということですが、

(皆さま。お小さい頃によく聞いた「民話」を思い出しながら、お聞きください)

―――――

この映画の「語りの中に出てくる人々」には、「愛すべき主人公」だとか、「味わい深い脇役」だとかいったような、ロマン派的物語に特有の形容詞が、まったく付かない。

―――――

「物語」と聞いて普通、僕らが連想するものが、あくまでも町文化、都市文化の中で繰り広げられる、近代的な――ある種、ひ弱な――「付け足しとしての夢」に過ぎない、というのを、思い知らされるわけなのです。やな映画だ。

―――――

(ジョージ・クルーニーやブラッド・ピットに、まったく思い入れ出来ないように撮ってるんだよ?)

―――――

物語が出来上がるときの、本当の発端、

―――――

おはなしの根元の根元、原初としての「生臭さ」にこだわっているらしいところは、その徹底ぶりが「見上げたモノ」だと言えますが、

―――――

やー!
好かんなぁ!

―――――

どうです?
「現在」って、怪しいでしょ。

―――――

「現代」って、奇妙でしょ。

―――――

…と、いうような主張が、非常にくっきりと、浮かんでくる。

―――――

そうして、そういう主張の中には、やたらと無風でシステマティックになってしまった「今」という世界に、哀しくも人間らしい、血肉に満ちた「動悸」を埋め込もうとする、明快な意図があるのだ。だが、しかし、

―――――

そういう主張をする以上、

―――――

この兄弟には、現在の映画を含むポップ・カルチャー全般に対する

―――――

軽蔑

―――――

の念がある、としか、どうしても思えない。
おー、やだ。

―――――

なーにを、二人して、意気がったり、とんがったりしちゃってぇ!

―――――

と、いったところが、僕の正直な感想です。

―――――

ハリウッドを明らかに嫌いながら、そこから離れるのでなく、中へ入って「現在への一撃」を喰らわせようとする彼ら兄弟の作戦は、

―――――

よく練られており、強くて、弾力があって、「押し出さないエネルギー」に満ちている、なぞと言えましょう。

―――――

あたま、いいねぇ。

―――――

よくよく、不満のかたまりだねぇ。

―――――

こういう映画作法に手もなくやられてしまうハリウッド人士にも、僕は、あきれますけども。

―――――

あー!
すっきりせんわ!

(失礼しました)

―――――

(ほんとの過激さ、って、こういうのとは、別のところから来ると思うんだよな)

―――――

Jack

| | トラックバック (0)

うなぎ捕りみたいにつかまえて/「鴨川ホルモー」

2003年に亡くなったロバート・パーマーは、いかにも英国人らしいペダンティズムと俗っぽさと洒落っ気を併せ持つ、僕の大好きなミュージシャンでありました。

―――――

Tシャツにジーパン姿で、ギター持ちながら歌った「スニーキン・サリー、スルー・ジ・アーリー」もかっこいいんですけど、僕がリアルタイムに体験した彼のパフォーマンスというと、

―――――

なんと言っても、「アディクティッド・トゥ・ラブ」や「リップタイド」「ディシプリン・オブ・ラブ」のような、アクの強い大人らしさを前面に押し出した歌曲が印象的です。

―――――

アルマーニの高いスーツを着こなして(ホントに似合うんだ、それが)、バックにズラリと背の高い、露出度も高い美女をはべらし、

―――――

ビートの効いたロックを唸る。

―――――

「♪ きみには恋の修練(ディシプリン・オブ・ラブ)が必要だね」

―――――

なんて歌われると、「うおぅ! オっトナぁ!」と、

―――――

思ったものです。

―――――

そのロバート・パーマーが、デュラン・デュランのジョン・テイラーに誘われて、新ユニット「パワー・ステーション」に参加したときのこと。

―――――

テイラーがやろうとした曲の中に、T-レックスのカバー「ゲット・イット・オン」があったんです。

―――――

もちろんヴォーカルは、パーマーです。

―――――

で、

―――――

この「ゲット・イット・オン」て曲は、なんてェか、曰く言い難い不思議な歌詞なんですね。

―――――

普通に聞いてると、わけがわかんねぇ。

―――――

セックスの暗示だとか、ヤク中の状態を歌っているとか、諸説あるようですが…

―――――

この曲の作者、つまりT-レックスのリーダー、マーク・ボランが書く曲には、「ヘンなの」が多いんです。

―――――

「メタル・グルー」なんて、何を言ってるのか、さっぱりだし、「ライド・ア・ホワイトスワン」なんて、唐突に「白鳥に乗るよ」なんぞと歌われても…

―――――

おおい! わけがわかんねぇぞぉ

―――――

って感じ。

―――――

ほんと、麻薬でラリってるときにでも、書いたんか?

―――――

で、

―――――

「ゲット・イット・オン」を渡されたパーマーが、まさに「なんだ、こりゃ?」と思った、てンですね。

―――――

「一種のおフザケ・ソングだと思って、歌うことにしたよ」

―――――

「そう割り切った」

―――――

と語る彼のインタビューが、残っちゃってるんですが…

―――――

この映画を見て、久しぶりに、パーマーのこの答え方を思い出したわけなんです。

―――――

「鴨川ホルモー」

―――――

舞台はいにしえよりの都、京都。

―――――

始まりは、葵祭りの場面から。

二浪してやっと京大に入った安倍くん(山田孝之)がいます。

彼は帰国子女の高村くん(濱田岳)と共に、優しそうな先輩(荒川良々)からサークルの勧誘を受けます。

―――――

新歓コンパに行ってみると、大木凡人そっくりの女子(栗山千明)や双子の兄弟(斉藤慶太、斉藤祥太)、一発合格で入学したエラそうなやつ(石田卓也)など、新入生みな個性派ぞろい。

―――――

分けても美しい鼻の女の子(芦名星)に一目惚れした安倍くんは、すんなり入会を決めますが…

―――――

このサークルの活動は…

―――――

千年続くアヤシい神事、「ホルモー」を取り仕切ることだったのです…

―――――

えーと…

―――――

な、なんだ、こりゃ!

―――――

わけ、わっかんねぇっ!

―――――

そう。
わかんなくて、いいのです。

―――――

そう思わせるように、作られている。

―――――

謎かけの映画ではないんですが、僕の癖で、つい

―――――

「ホルモー」とは、つまり、なんだ?!

―――――

「ゲロンチョリ」って、要するに、なんのことだ?!

―――――

と、読みたがる。

―――――

夜な夜な、安倍くんたちは、集まって、何を「レナウン踊り」をしてるんだ?!

―――――

謎を解く手がかりが、この映画というひとつの「作品」以外、何もないなら、僕も、

―――――

「わかんないけど、どーいうものか、楽しい映画で」

―――――

と、終わらせたと思うんですが、へへ(おー!、ほんとかぁ?!)。

―――――

ひとつ、困ったことに――そう、まことにもって、困ったことに――、主演の山田孝之さんが、

―――――

「なんにも残らない映画でーす」

―――――

と、会見の席で、答えちゃっているんだな。

―――――

ふーむ…

―――――

聞き捨てならない。

―――――

果たして、その言葉を、額面通り受けとめて、いいのだろうか…

―――――

残念ながら、「現在」という世界を生きる僕たちは、山田さんの「軽いひとこと」を軽く聞き流すことが出来るほど――つまり、あの、ロバート・パーマーのように――大人ではありません。

―――――

早い話しが、

―――――

「ヘタな解釈をして、この映画の“純粋芸術”なところを汚さないでくれ」

―――――

「よけいな屁理屈をこねずに、この映画のナンセンスぶりを楽しんでくれ」

―――――

…と、言われたように、僕には聞こえたんですね。

―――――

「どんな意味も、くみ取れないように作る」

―――――

というのは、芸術の、ひとつの理想です。

―――――

「追いかけても追いかけても、手の届かないもの」

―――――

というのが、どんな読み解き方でも捉えどころなく「自由」で、日頃、作法(「ルール」と言ってもいい)に取り巻かれている「人間」を根底から解体し、「自分自身」の不自由さからも脱出させる、

―――――

そういう「光」を見せてくれるから、ですね。

―――――

そのようなノンセンスな表現の前で、「人間」という「存在」は、「ニンゲン」という浮わついた「形容詞」に姿を変え、さらには「ヒト」という単純な「ことば」に還元され、そうして、

―――――

ついには「なんだかわからないもの」へと昇華して空へと昇り、もはや、いかなるうっとうしい言語の指示も受けずに、気楽に、かき消えていくのです…

―――――

ただし、

―――――

理想というのは、「理想郷」というのが、「どこにもない」のと同じように、企んで作ることが、ほとんど不可能と言えるほど、遠く彼方に在るものです。

(こんなふうに解説するそばから、「理想」は、ぐんぐん離れていきます。

「論評」というものが、「自由」というものを壊さずに語る、というのは、実はとても至難の技です。

僕の知っている範囲では、そんなことの出来た人は数人しか、いません。

いずれも、「自由」の発明圏であるヨーロッパの人たちです)

―――――

で、

―――――

この、万城目学さんの輝かしいデビュー作を映画化した「鴨川ホルモー」は、「どんな方法でも捕まえられない、捉えどころのない“自由”」をかたちに出来ているだろか?

―――――

そんな…

―――――

素手でうなぎを捕るような、はなれわざを…

―――――

(この「はなれわざ」。「やってやれないことはない」というのが、ミソでしょう)

―――――

考えますに、媒体が小説である場合には、ひとりのひとが、アタマの中で構成していくものですから、基本的には、他者の干渉を受けませんので、綴られるノンセンスは、自在であることでありましょう。

―――――

ですが、

―――――

映画の場合は、簡単じゃない。

―――――

大勢の人が参加する協同作業でありますから、完成までの目標というか、大前提として「作品を成立させるテーマ」について、みなの合意が必要じゃないでしょか。

―――――

それでもなお、映画「鴨川ホルモー」は、理屈っぽくなく出来たのか?

―――――

肝心のその点について、僕の意見は、差し控えさせていただくとして、

―――――

昔からの映画ファンの方には、ですね、

―――――

「キャッチ22」とか

―――――

「まぼろしの市街戦」とか、

―――――

思い出しながら観ると、より楽しいですよ、と申し上げたい。

―――――

どちらの作品も、笑われる対象としての背景に、「戦争」があり、

―――――

一方、こなた、「ホルモー」の土台には、かつてのオウム真理教をも連想させる「傍若無人な宗教」への目線がある。

―――――

これは、偶然ではありません。

―――――

おそろしいもの、ブキミなものに接するとき、

―――――

ひとは、最後には、ノンセンスを探したりするんです。

(「ホルモー」に出てくる小鬼たちが、とってもかわいい。ご注目ください)

―――――

Jack

| | トラックバック (0)

文化について、ネ…/「デュプリシティ -スパイは、スパイに嘘をつく-」

「ルパン三世」、読んだこと、ありますか?

―――――

アニメじゃなくて、原作のルパン。

―――――

言いたいのは、峰不二子について、なんですが…

―――――

今でこそ、「峰不二子」と言うだけで、どんな女かピン!と来る、と思いますけど――セクシーかつキュートな「女豹」――銃器やクルマの知識が抜群――あるときはクールに、あるときはとびきり可愛く、ベッドタイムも最高のオンナ――しかして、神出鬼没、ルパンを上回る知恵者で、たびたび彼を裏切るが、なぜか、いつでも許されちゃう!――と。

―――――

このようなイメージは、最初から在ったものではないんです。

―――――

ヒントになったのは、カトリーヌ・アルレーやイアン・フレミングの世界かもしれません。

―――――

モンキー・パンチさんは、どうやって、あんな女性像を作ったか。

―――――

名前も初期の作品では「峰不二子」に固定してないし、どんなキャラクターなのか、徐々に造られていった、――試行錯誤があったんです。

―――――

で、

―――――

すぐお分かりの通り、彼女が代表するのは、ひとつの「オトコの抱く理想像」というものであり、

―――――

例えばジャニーズの――もっと言うと、宝塚・男役の――看板アイドルの方々が「ムスメの憧れる“オトコという理想像”」を精一杯努力して演じる姿と、対極をなしています。

―――――

この理想像というやつは、どちらも、現実の間尺に合わせてみれば、無理のある姿であり、

―――――

きょうは、この「現実の間尺に合わない理想像」というものを必要とする――おおげさに言うなら――「文化」についてのお話しです。

―――――

「デュプリシティ -スパイは、スパイに嘘をつく-」

―――――

始まりは、ドバイのアメリカ大使館。

ローマ、ニューヨークと、舞台は、次々変わります。

元・英国情報部MI6の男(クライブ・オーウェン)と、元CIAの女(ジュリア・ロバーツ)。

トイレタリー用品の業界を巡る、熾烈な企業スパイの攻防戦。

(この設定からして、やんわりとユーモラス)

―――――

互いに相手を探り合う業界の大会社、B&Rとエクイクロム。

(双方のCEOを演じる二人がクセモノです。
かたや「フル・モンティ」や「フィクサー」のトム・ウィルキンソン。
もう一方は、この手の映画には「またしても」のポール・ジアマッティ。
ンとに、警察の密告屋から、お医者さんからギャングの親玉から、なんでも演っちゃうんだから)

―――――

二人の元スパイは、大企業同士の、新製品を巡る争奪戦に、どう絡む?

二転三転するストーリーの、結末は?

―――――

って、さて。

―――――

これに主演してるジュリア・ロバーツが、まさに、峰不二子チャンのような役なんですね。

―――――

僕は、日頃から

―――――

「無理のない男でありたい」

―――――

と思ってますので、今回も、不二子チャンに代表される、「オトコの抱く理想像」のほうを語りましょう。

オトコのことでないと、分かんないから。

―――――

始めからネタを割ってしまいますが、峰不二子のような女がなぜ理想になるか、と言いますと、

―――――

「あとくされ」

―――――

が無いから、ですね。

―――――

ちょっと考えれば気が付きますが、恋愛はゲームではないし、誰しも、ときに冷静ではいられないし、アタマに来てケンカしたりもするし、

―――――

しちめんどくさいことが、いろいろ、ございますでしょう?

―――――

たくさんの我慢をしなきゃならないし、――つまり、それまでの「自由」気ままな自分ではいられないし――我を見失って、かっこ悪く、無様な姿をさらけだし、

―――――

ときに、泣いたりなんかもしちゃうでしょう。

―――――

左様。
それが、自然というものです。

―――――

で、

―――――

「自然」を超克しようとして産まれてくるのが、

―――――

「文化」

―――――

というものでございます。

―――――

だまし、だまされ、裏切られ…

―――――

それでも、くっつく、手練れな二人

―――――

というのが、「大人の文化」というものです。

―――――

ん?

―――――

はて?

―――――

いや、今回は、どーも、脈絡がヘンだなぁ…

―――――

言ってるそばから疑問符しますが、いまのひとこと、正しいですか?

―――――

「大人」の「文化」ね。

―――――

少年少女の世界では、裏切ったら「絶交!」ということになる。

―――――

そうして、「赤い糸」を信じるか、なんていう話しをしたりするわけですが、

―――――

これは、「真実」を求める態度です。

―――――

一方、裏切りも、織り込み済み、なのが、つまりは「文化」でありまして(石田純一って、偉大だなぁ)、

―――――

うーむ…

―――――

こう、たどっていくと

―――――

「文化」というのを欲している「大人」というのは、どういう存在だということになるのでしょうか。

―――――

大の大人が、恋愛でゲームに興じ、相手を出し抜き、

―――――

「やったぁ! 一杯喰わしてやったぁ」

―――――

だなんて、オトナ気ない、と、

―――――

思いません?

―――――

「大人の」文化なはずなのに、喜び方が子どもじゃん。

―――――

この奇妙な「価値の転倒」は、最初に「あるがままの自然」を、「文化」をもって乗り越えようとした態度に起因しています。

―――――

男を手玉にとる女。

―――――

その女の、さらに裏をかく男。

―――――

これは、ゲームというより、「ごっこ」とでもいうべきものです。

―――――

「してやられたぁ!、あの女、まんまと俺を、出し抜いてズラかりやがった!…」

―――――

「アラ、やられたワ…今度は一本、取られたわネ」

―――――

なぁんて、

―――――

子どもっぽいじゃないですか。

―――――

人間は、年をとる。

―――――

年を重ねるに従って、からだにも心にも「年輪」が現れるのを、「自然なこと」として、受け入れる。

―――――

いや、

―――――

そう簡単じゃありません。

―――――

そのような成り行き任せを克服しようとして――つまり、ちょっとややこしい言い方をしますと、肉体の不幸と快楽を知ったそのあとにも関わらず、「童子のようなハシャギ方」を回復したくて――編み出され、考え抜かれ、開発されてきたものが、

―――――

峰不二子を生み出したような「文化」である、と思うのです。

―――――

で、

―――――

「文化」と言ったわけですから、これは、個人の趣味、嗜好を越えて、それなりの「拡がり」を持っていなくちゃなりません。

―――――

今回は、このトニー・ギルロイ脚本・監督作品に

―――――

我が日本の「ルパン」と、一脈以上に通じ合うものを見たわけで、

―――――

だから「文化」と言いました。

―――――

「文化」を欲するオトコというのは、洋を問わずに居るんだな。

―――――

ところで、

―――――

終わりに、ちょっと付け足します。

―――――

「羊たちの沈黙」という映画を、思い出してくんなまし。

―――――

あの映画の中で、互いを必要としながら、「信頼」などではない全く別の、歪んだ関係で結ばれた男女の姿が描かれましたが、

―――――

あれは、ここまで述べてきたような「文化」にとって、

―――――

通俗的なフェミニズムなどより、はるかに痛打であった、と思います。

―――――

「羊たちの沈黙」を通過したあとの社会に在って、「オトコの文化」は、まだ可能か?

―――――

はい、それは、劇場で確かめておくんなさい。

―――――

Jack

―――――

(あ。あともうひとつ。

打ち壊され、粉々に瓦解したように見えて、しぶとく再生してくるものを、「文化」と呼ぶべきなのでしょう。

この「デュプリシティ」と「羊たちの沈黙」を、ブリッジのようにつなぐ存在として、アン・リー監督の「ラスト、コーション」という「肉体そのもの」がモチーフの恋愛映画を思い出すと、3つの作品を通して、「ある流れ」が浮かんでくる、と思います。

―――――

ひとつは、通じ合うことを、大幅に制限されている男女。
最もエロティックで、痛々しい関係ですね。

ひとつは、純然たる肉の交わりが心をも犯し、侵犯されていく男女。

そして、これです。
この映画です。

―――――

大人の男女のラブ・ゲームは、再び遊戯として、文化として、復権することになるのだろーか。

SF的奇想や(「ハンコック」)、アニメチックなおとぎ話(「魔法にかけられて」)の如き変則手法に頼らずに「男と女」の遊びごとに正面から取り組んだトニー・ギルロイという人は、なかなかの目利きであるには違いない。

はい、おしまい)

| | トラックバック (0)

Power to the PEOPLE!!!/「スラムドッグ$ミリオネア」

武田百合子さんのソ連旅行記「犬が星見た」(中公文庫)の中に、日本人の「顔つき」についての、印象的な描写があります。

―――――

遠くからこちらへ歩いてくる日本人を見ていると…

―――――

顔がみぃんな「米」印だ、

―――――

というんですね。

―――――

外国の人は、歩きざま、他人と目が合うと、自然に社交的にほほえんだりする。

―――――

そうでなくとも、穏やかな顔して歩いてる。

―――――

ところが、

―――――

日本人ときたら、遠くからでも分かるくらい、顔の中心部に向かって、こう、くしゃーっと(わかりますよね?)…

―――――

苦虫噛み潰したような、仏頂面で、不機嫌そうに、せかせかと歩いてる、と、

―――――

それを「米」印だとおっしゃった。

―――――

もちろん、まだ、顔文字なんて、無い時代の本ですよ。

―――――

なんと、感性の豊かな表現をする人なんだ…、と思いました。

(高度成長期の日本人は、そういう顔をしてたんですね。いま、どうだろう)

―――――

武田さんは、その感性で外国を新鮮な目で見て歩き、ひるがえって、日本を活写されたわけです。

―――――

で、

―――――

こういう、「ものすごく連想力豊かな旅行者の視点」と同じような目線で描いたのが、この映画ではないだろか。

―――――

「スラムドッグ$ミリオネア」

―――――

インド。

混沌と、むせるような「人いきれ」の覆う国。

始まりは警察署。

捕まった主人公ジャマール(デーヴ・パテル)が、尋問を受けています。

理由は、彼が出演した視聴者参加クイズ番組、「クイズ$ミリオネア」で、不正をはたらいて答えた容疑。

―――――

貧民街出身の無学なジャマール。

―――――

彼は、なぜ、次々と問題に答えられるのか?

―――――

警官の執拗な尋問に、彼はこれまでのいきさつを語りだす。

兄サリム(マドゥル・ミッタル)と過ごした少年時代…

想いを寄せる娘、ラティカ(フリーダ・ピント)のこと。

果たしてジャマールは、本当に不正をはたらいたのか?

賞金は、どうなる?

ラティカとの、恋の行方は?…

―――――

いやぁ!

―――――

圧巻です!

―――――

カメラと編集が、とにかく圧巻。

―――――

この映画を観るまで、僕は、「ムンバイ」という街があることすら、知らなかった。

―――――

ムンバイの窮屈な街路を埋めつくす、人、人、人…

―――――

それだけでもう、この都市、この国の「エネルギー」が、伝わってくる。

―――――

…ですが、その「ハッとさせる驚き」というのは、

―――――

この街に初めてやってきた「余所者」の観点だと思うんです。

―――――

ダニー・ボイル監督は、自分が「インドの中の異邦人」である、という弱点を最大限、逆手に取って、

―――――

ゆさゆさと、爆発するような、人々の生活臭漂うムンバイやボンベイの、血肉溢れる躍動感を撮っている。

―――――

撮り手が、コキチャナイ子どもらや、それを搾取しながらしたたかに生きるスラムの大人たちの姿に、いちいち、わくわくしたり、ドキドキしたり、興奮しながらカメラを回していたらしいのが、分かります。

―――――

その感激は、異邦人だからこそ味わえて、撮影できた感激ではないでしょか。

―――――

まったく未知の土地へ「旅行者」として訪れて、当然のことながら勝手が分からないので、右往左往する羽目になり、しかし、

―――――

その過程で、昔からその場所に馴染んでいる地元民たちが気にも留めないような何かの対象に気付き、ハッとしたり、ドキッとしたり、

―――――

そのたびごとに、鋭い観察眼を発揮して、ひとを感心させるような記述を残していく…

―――――

そんな旅行記が、あるでしょう?

―――――

椎名誠さんや星野道夫さんの文章に、そんなところがあるじゃないすか。

―――――

「ガンジス河でバタフライ」という、長澤まさみさん主演の(クドカン脚本の)、えれぇ面白ェドラマもあったし。

―――――

そうして、まことに自然な流れとして、藤原新也さんの「メメント・モリ」(三五館)を連想します。

―――――

この映画は、そういう、ちょーアタマが良くて鋭敏なセンスの、「観光客」の視点に仲間入りしてる、と言えるのではなかろうか。

―――――

ひじょーに洗練された酒脱な都会的センスと、ものすごく猥雑な「庶民のエネルギー」の――なんと言うか――「幸せな結婚」を見る感じ。

―――――

思えば、ボイル監督がスコットランドでチンピラたちを撮った「トレインスポッティング」も、どこか「エジンバラ」という街に対する、異邦人的視点の光る映画でありました。

―――――

イギリス北西部のランカシャー州に生まれ、ケルト文化の根強いウェールズの大学に学んだ人、ならではの、「余所者」としての「街に対する面白がり」が、「トレインスポッティング」には、溢れていたように思います。

―――――

こういう、「どこへ行っても、余所者の観点を持ち続ける」人を、

―――――

本物の都会人

―――――

と呼んでいいかもしんない。

―――――

都市というのは、ある種、「あぶれ者」の集まる場所です。

―――――

♪ ふるさとを離れ、

♪ 流れ流れて

♪ たどり着いたよ

♪ この街に

♪ 明日には

♪ ここに居るのか

♪ わからない

…てな感じです。

―――――

近郊都市に定住してる者から言わせてもらうと、

―――――

都会人てのは、どっか流れ者的な感性の、カタマリであります。

―――――

今度の「スラムドッグ$ミリオネア」は、流れ者ダニー・ボイルがすべての観客に訴える――すべての観客がちょっとは持ってる「放浪者精神」に訴えかける――、ダイナミックな観光映画と見ましたです。

―――――

最後のワンカットが、素晴らしく洒落てます。

―――――

(あー、蛇足をひとつ。

僕もたいして博識じゃないですが、雑学クイズに詳しくない方のほうが、この作品のラスト20分を、より楽しめると思います。

僕はジャマールが「ファイナル・アンサー」って言う前に、「やったぁっっ!!」て、心の中で、叫んじゃったんだ。

そこだけ、惜しい!)

―――――

(でも、すごく感心させられるものを見せていただきました)

―――――

2009年度、アカデミー監督賞ほか、8冠に輝く。

―――――

Jack

| | トラックバック (0)

甘く危険な香り/「レッドクリフ Part II - 未来への最終決戦 -」

カネの匂いがする。

―――――

「レッドクリフ Part II - 未来への最終決戦 -」

―――――

実は、ですね、

―――――

パート2を見る前に、「予習」でもしようと思って、一度劇場で観たパート1を、DVD借りてきて、また観たんです。

―――――

ビデオ視聴というのは、観る者を、映画鑑賞時より、ぐっと冷静・客観的にする、という特徴がある。

―――――

テレビという機械は、優れてひとを、批評家にするメディアであります。

―――――

以前、パート1を劇場で見終えたあとで、

―――――

「現代中国は、なにか、目的があって、ハリウッドで活躍する中国人(香港育ちの)ジョン・ウーを呼び寄せたのか」

―――――

と、書きました。

―――――

そのへんのことについて、少しクリアになった気がするので、今回は、そのお話を中心に。

―――――

曹操(チャン・フォンイー)率いる水軍80万が、赤壁対岸に陣を築いて数日。

孫権(チャン・チェン)の妹・尚香(ヴィッキー・チャオ)は、男に変装して、曹操軍の内情を探るため、敵陣に潜入している。

一方、劉備(ユウ・ヨン)と孫権の呉・蜀同盟は、今後の戦い方を巡って、亀裂が生じる。

さらに呉・蜀軍では、戦闘のための弓矢が足りない。

次々と降りかかる難題。

どうする孔明(金城武)、どうする周ユ(トニー・レオン)。

決戦を前に、周ユの妻・小喬(リン・チーリン)の胸の内は?

―――――

いやぁ…、

―――――

とにっ、かく、

―――――

凄い!

―――――

物量と、それをまとめる演出力が、並大抵じゃない。

―――――

間違いなくジョン・ウーの個人的作品史にとっては、代表作になるでしょう。

―――――

が、

―――――

これ、中国国内での評判は、どうなんだ?

―――――

…と、言いたくなるのは、ですね、

―――――

全編中国語で綴られる、ということを除けば、アタマから尾っぽまで、これは、どう見ても「ハリウッド映画」なんですよ。

―――――

今や我が国は、ハリウッドの映画作法ですら、カネで買える「身分」になった!

―――――

と、喜んでいるこの映画の制作者たちの顔が、見えるようです。

―――――

そう。

―――――

もはや、はっきりしましたですね。

―――――

なぜ、いま、三國志という題材を、ウー監督を呼んできてまで映画化したか、と言いますと、

―――――

唸るほどのカネを使って、世界最高に派手な作品を仕立ててみたかったんだけど、いかんせん、

―――――

儲け方は知ったけど、使い方が分からない…

―――――

てんで、ウーに三國志を撮らせたんです。

―――――

「ちゃんと、カネを使ってみたい!」

―――――

そういう憧れが、中国にあるのだ、と見ます。

―――――

しかし、その憧れを、ただ実現させるためだけに、これ以上ないくらい派手な映画を作ったり、史上最大と言われるようなオリンピックをやったりするのは、

―――――

ちょっと、「危険」なんじゃあるまいか?

―――――

上海モーターショーが隆盛であるという。

―――――

遠からず中国の自動車市場は、米国を抜いて、世界最大になるのだそうな。

―――――

しかし、

―――――

それは、ちょっと、急過ぎないか?

―――――

日本の自動車産業は、敗戦後、ほぼゼロから始めて、トヨタ、ホンダ、日産などを育てました。

―――――

東京モーターショーが、アジアの中心になるまでには、自国の産業を育成する、という、丁寧な紆余曲折があったのです。

―――――

だが、中国製品のブランド力は、いま、育っている、と言えるだろうか?

―――――

国内市場を、外国勢に食い物にされているだけじゃぁないのか?

―――――

カネがうなっているうちは、それでも、いっこうに構わないと言えるでしょう。

―――――

だが、それでは、真に国民が誇りとすることの出来る文化が育たないのではないか?

―――――

中国映画第五世代と言われるチャン・イーモウやチェン・カイコーが優れた作品を発表してから、だいぶ経ちます。

―――――

次に世界的に名を馳せる世代は、果たして育っているのだろうか?

―――――

目をほかのアジアに移してみれば、

―――――

おとなり韓国では、国家の手厚い保護のもと、多数の優れた映画人を輩出し、現在、韓国映画は、しっかりと国土に根付いた産業になっている。

―――――

一方、日本の今の映画ブームは、何年も前にインターネット興隆の時代を迎えて、民放テレビ局が危機感を持ち、多角経営に乗り出した結果です。

―――――

それが、何をもたらしたか、と言うと、若い二十歳前後の俳優たちに活躍の場を与え、

―――――

それがまた、新しい映画を産む、という相乗効果をもたらしているのです。

―――――

では、中国では、どうなのか。

―――――

僕が発展著しい時代の日本の、一映画ファンだとしてみましょう。

―――――

文科省の肝いりで、カネに糸目を付けず、監督から主演俳優まで、外地で活躍するアジア人たちを集めて、超娯楽大作を作って外貨を稼いだ、と、

―――――

そう聞いて、「すごい、素晴らしい」の感想で、済むだろうか?

―――――

この「レッドクリフ」という映画の出来は、文句なしに素晴らしい!

―――――

しかし、それを作らせた「意図」と、それがもたらす「効果」のほうを、気にしないわけにはいかないでしょう。

―――――

三國志ばりに大きな目で見てしまえば、

―――――

よその国で既に確立された技術を持ってきて、箔をつけようとしてるだけなので、この作品は、中国映画の方向性を、ねじ曲げることにはなっても、国家的な文化を豊かにするほうには寄与しない、と言えるのではないでしょか。

―――――

たとえば「ブラック・レイン」という、日本を舞台にしたリドリー・スコットの映画が、アメリカでヒットしながら、日本映画の状況に対しては、なんら影響を及ぼさなかったのと同じく、

―――――

この映画は、ジョン・ウーにとっては、大きなメルクマールと言えるかもしれないが、

―――――

中国映画の状況に対する関与は、最小限のものとなるのではないだろか。

―――――

羨んでるのか?

―――――

うん。
ちょっと羨ましいな。

―――――

カネを使いたい、と思うとき、呼び寄せることのできる「自国系」が、外国に居て、期待通りに上手くカネを使ってくれる、というのが、なかなかに羨ましい。

―――――

日本で作られる大作映画と称するものは、「ローレライ」にせよ、「亡国のイージス」にせよ、ひどいもんでしたから。

―――――

それにしても、「国家」という考え方にこだわっていないように見えるのは、(今回は、けなしましたけど)、「インターナショナル」ということについての斬新な見方を提供している、

という観点からも語れるのかもしれません。

―――――

でも、「三國志」というテーマの選び方は、やっぱり国威発揚のつもりと映るし…

―――――

どっちなんだろう…

―――――

たとえばスピルバーグがユダヤ系だからと言って、イスラエルが彼を呼び寄せて映画を作るなんて、思いもよらないことです。

―――――

奇しくも、いま、テレビで、チャウ・シンチー(香港)の「少林サッカー」が放送されるのを知りました。

―――――

彼なんかは、中国政府の支援を受けたがったりするのかな?

―――――

Jack

―――――

(補足ですが、ユダヤ系とその現在については、内田樹さんの「私家版・ユダヤ文化論」という本(文春新書)が、たいへん示唆に富んでます)

| | トラックバック (0)

魅入る/「トワイライト -初恋-」

僕にとっての「十代」とは、怒りと苦しみと、誰にぶつけていいのか分からない哀しさと、ただ後悔だけがあとに残る、苦い時期でありました。

―――――

これらすべてに対する言い訳として、

―――――

「とにかく、一生懸命だったんだ」

―――――

と、言えば言えます。

―――――

あの時期に、いまの10分の1でも、わずかな分別があったなら…

―――――

そう振り返ることがある。

―――――

しかし、分別くさくなかったからこそ、ただ一度きりの十代を、自分がそのとき信じた通りに生きることができた、とも思うわけで。

―――――

青春は、かくも、複雑です。

―――――

「トワイライト -初恋-」です。

―――――

陽光降り注ぐアリゾナから、天気の悪いワシントン州の田舎町に越してきたイザベラ・スワン(クリスティン・スチュワート)。高校生。

引っ越しは、複雑な家庭環境のゆえでした。

―――――

雨と霧の似合うこの町の学校へ転入した日に、彼女は、クラスの変わり者のことを知る。

―――――

他人との接触を避ける少年、エドワード・カレン(ロバート・パティンソン)。

蒼白い顔の、美しい同級生。

―――――

始めから彼に興味を抱いたイザベラは、ある“事件”をきっかけに、ますますエドワードへの関心を募らせますが、彼のほうは、彼女を避けてばかりです。

実は、エドワードには、誰にも言えない、恐ろしい秘密が…

―――――

これは、分類しちゃうと、「ゴシック・ホラー」てことになる、のかな?

―――――

原作ステファニー・メイヤー、監督キャサリン・ハードウィック、脚本メリッサ・ローゼンバーグと、女性が中心になって進められた企画です。

―――――

なるほど、そこかしこに女性的な柔らかさを――あんまり、怖くないところも含めて――感じる。

―――――

それは置くとして、どうやらこの映画、日本では、ヒットと呼べる数字はあげていないようです。

アメリカでは、ブームにさえなったらしいのに。

―――――

こちらにおける不振を僕は、「宣伝」のせいではないか、と思ってました。

―――――

日本での配給元アスミックは、大きな会社ではないから、ド派手な宣伝に打って出るのは、しんどいのかもしんない。

―――――

なにより、公開前の、テレビとのタイアップが、なかった。

―――――

TVCMの量が少なかった(てか、知る限り無かった)し、情報番組などでの事前の特集も、あまり、見かけませんでした。

―――――

僕は思いましたね、

―――――

TVCMがないせいで、認知されていないんだろう、と。

―――――

が、

―――――

実際に本編を見て、考えが、変わりました。

―――――

これはぁ…

―――――

ふーむ…

―――――

日本人のメンタリティに訴えるところは、少ないかもな…

―――――

たとえ大宣伝をしていたとしても、結果は、同じだったかも…

―――――

なによりこの作品にとって、揺れ動く少女の「心の機微」が、最大の見所ですが…、

―――――

まさに、その点に、「外国のラブストーリーを、いま、日本で観ること」の限界を感じます。

―――――

具体的に言いましょう。

―――――

ここで、この映画を離れて、数ある日本の「青春ラブストーリー」を、ちょっと思い起こしてみてください。

―――――

…「花男」とかね、

…「1リットルの涙」とか、

…「セカチュー」ですか、

あと、「恋空」とか、

―――――

えー、全部見てるわけじゃないんですけど、こういった和製ラブストーリーが、ひじょーに上手に思春期の「恋心」を描くでしょう?

―――――

わたくし、山田詠美さんの小説や、吉本ばななさんの「つぐみ」のファンでして、それに少女マンガなんかも、わりに、好きなほうなんですが、この映画を見て、思ったね。

―――――

「NANA」を読め!

―――――

山田詠美を読め!

―――――

もっと、勉強せい!

―――――

なぁんてね。

―――――

村上龍の「トパーズ」なんかでもいいぞ。

(作家名の挙げ方で、僕の年代が、分かりますね)

―――――

ティーンズ・ムービーとしては、たとえば「ラスト・サマー」や「スクリーム」が持っていたような、ひりひりする「若さの痛み」感覚に欠けている。

―――――

ティーンズ・ホラームービーの設定上――この映画を「ホラー」とは言いにくいけど――、とても大切なのが、主人公を取り巻く家族の描き方です。

―――――

「スクリーム」シリーズで、監督ウェス・クレイブンが見事に描いてみせたように、

―――――

ティーンズ・ホラーにおける怪物や殺人鬼の存在とは、大人の目線から決して解き明かすことの出来ない「若者の心の屈折」が表出したものであるのです。

―――――

これは「十代」を離れれば離れるほど、分からなくなってしまうことなのですが、思春期に入ると、何もしなくても、「人生の最初のターニング・ポイントに入った」というだけで、その男女は「罪」を抱えることになる。

―――――

何故かって?

―――――

異性を意識するようになるからです。

―――――

単に意識するだけでなく、自分のからだも、否応なしに、性的に変化していきます。

―――――

これにともない、ほぼ全ての男女が、「うしろめたさ」を抱えて過ごすことになる。

(そうでなかったら、性に関する多くの話題が、「暗がり」でなされる意味が解りません)

―――――

このような変化に直面するほとんどの人は、家族に相談などしません。

―――――

正体不明の変容が、自分の身に起きているとき、心もまた、不安定となり、

―――――

家族は、そんな自分の境遇を理解しない「別世界の住人」のように思えてくる。

―――――

このような状況をベースに展開させて、「自分の悪夢に現れる怪人の物語」や「正体不明の快楽殺人鬼の物語」を編み出すことは、一部の「特殊な大人」の才能です。

―――――

彼らは、年幼かった頃の混乱と喪失感を、冷静に再構築し、充実した作品に、仕立てることが出来るのです。
では、

―――――

この「トワイライト」は、そんな風に、充実してる、と言えるのか。

―――――

これは、映画の描破力の不足ゆえか、はたまた、この日本に生きる僕が、「日本に生きるがゆえ」にピンと来ないのか、分かりませんが、

―――――

妖しさに「魅入られていく」

―――――

という物語の成り行きに、現代日本に暮らす僕として、リアリティを感じない。

―――――

自分とどこまでも異質な「他者」への激しく強い関心に心震わせていくことなど、いまの日本の若い世代には、縁遠い話しではないだろか。

―――――

この国では、「共感」こそが、重んじられます。

―――――

謎の他人に対して、謎があるからこそ興味を深め、コミットしていこうとするこの映画のヒロインの態度というのは、日本人的な「若さ」が求めるものと、大きな隔たりがある気がする。

―――――

相手がものすごいお金持ちだとか、やたら不良だとか、一見異質な対象の内に、はっとさせる「共感」を見つけて、トキメキが始まる。

―――――

それが、日本ではないでしょか。

―――――

言うなれば、

―――――

この国の若さが求めているのは、謎ではなく、どこまでも「相手のなかに、自分と同質の部分を見ようとする」己れの内で完結したような――縮めて言うと「自己陶酔」だと思えます。

―――――

ああ、自分は、こんなにも苦しい今を、精一杯、生きている。

―――――

いま、わたしは輝いてるんだ、

―――――

彼(彼女)も、同じなんだ…

―――――

と…

―――――

そう。

―――――

彼ら彼女ら(はい。あなたのことです)が、関心を持って見つめるのは、あくまでも他者の内に投影された「自分」ではないだろか。

―――――

自分に酔う「納得」が、欲しいのだろう、と思うんです。

―――――

え?

―――――

なんですって?

―――――

うん、これでは、実は、「恋愛」は、不可能です。

―――――

「恋愛」とは、そもそも、とても西欧的なもの。

―――――

我が国で昔から、そして今もお馴染みなのは、「懸想する」ことであり、それを

―――――

「恋する」

―――――

と、言い替えているだけのことだと思うんですね。

―――――

今、懸想する対象には、「異界からの闖入者」は、含まれていないのです。

―――――

この映画の描写は、果たして下手なのだろうか?

―――――

少なくとも僕には、

―――――

「ああ、これは、たいていの奴の物語とは言えないな…」

―――――

と、そう思えてならなかった。

―――――

ん?

―――――

妙な言い方、してますね。

―――――

(本当に)自慢するわけではないんですが、わたくし、狂気の世界をさまよった体験から――(2008/07/02 及び 2008/08/08 参照)――、自分のことを「異者」と見たがる癖がある。

―――――

で、

―――――

「癖がある」と他人事のように言うということは、いまの僕は、遺憾ながら自己陶酔の内に充足することも出来ないし、「異質な者」としてのアイデンティティーを確立させているわけでもないし、謂わば

―――――

そのふたつの立場の幕間に、「己れの立ち位置はないか」と捜すのが常態化してしまっております。

―――――

そのような僕が見てもこの映画、

―――――

共感すると言うよりは、妙に冷静に眺めちゃいました。

―――――

異人エドワードに、あまり接点を見られなかった。

―――――

見られなくて、かえってなんだか、「ホッ」といたしましたです。

―――――

冷静に眺めた、つまり「入り込まなかった」ことにより、

―――――

あ、

―――――

どうやらオレも、一応、日本人の仲間と自己申告してよさそうだ、と、

―――――

そんなまだるっこしい「共感の種」を見つけたわけなんですヨ。

―――――

(「共感」、ねぇ…

―――――

「共感」て、なんなんでしょう?)

(どんな展開になるのか気になるので、次回作が来たら、観に行くと思いますけど)

―――――

Jack

| | トラックバック (0)

アンダーグラウンド/「ウォッチメン」

諸説あるようですが、アングラ = 「アンダーグラウンド文化」とは、おおむね、1960年代の欧米で広まった

「自分でも正体の分からない欝屈や欲求不満を、芸術的表現によって発散し、また、そのような表現によって、社会に蔓延する矛盾を突こうとするムーブメント」

のことだ、と申し上げていいでしょう。

―――――

これを要約すれば、「アングラ = 前衛芸術」だ、と言えます。

―――――

ジョン・レノンとオノ・ヨーコが知り合ったのも、前衛芸術を通じてだった。

―――――

今日は、現代の世界において、

―――――

「アングラを成立せしめる基盤は、在るのか?」

―――――

という点について、です。

―――――

この映画の時代設定は、1985年…

―――――

なぜ、85年なんでしょう…

―――――

それについては、あとで述べます。

―――――

とりあえず、その頃へ戻りましょう…

―――――

と言っても、これは、かつて僕たちが経験した「現実」とは異なる、もうひとつの世界の話…

―――――

唐突なようですが、この映画における「そこ」は、歪んだアメコミの世界です…

―――――

そこでは、幾人ものスーパーヒーローが、世の番人、「ウォッチメン」として、歴史に介在してきています…

―――――

ケネディ暗殺…

―――――

ベトナム戦争の米国勝利…

―――――

(これは、アレゴリー = 「比喩的な寓話」というものです。

つまり、スーパーヒーローの活躍する「コミック文化」というアングラが、表の社会に顔を出し、政治的に、「大人の世界」に対して、強く影響を及ぼしてきた世界、という設定です)

―――――

だが、余りに世界情勢に介入しすぎた故なのか、ヒーロー活動は、禁止の憂き目にあいました。

―――――

今やアメリカでは、ニクソンが三期目の当選を果たし、

アフガニスタンに侵攻したソ連との間で、緊張が、高まっている…

核戦争の恐怖…

世は、終末観に満ちています…

おどろおどろしく設定されたダークな世界で、ある晩、現役を退いたスーパーヒーロー「コメディアン」(ジェフリー・ディーン・モーガン)が、惨殺される。

―――――

この世界で違法な活動(「アングラ」行動)を続けるヒーローのひとり「ロールシャッハ」(ジャッキー・アール・ヘイリー)は、事件に強い興味を抱く…

―――――

黒い帽子と黒皮のコート…

マスクに顔を包んだ「ロールシャッハ」は、事件の真相を追い求める…

やがて彼の単独捜査は、ほかのスーパーヒーローたち、ローリーこと「シルク・スペクター」(マリン・アッカーマン)、

ジョンこと「Dr.マンハッタン」(ビリー・クラダップ)、

ダニエルこと「ナイト・オウル」(パトリック・ウィルソン)、

エイドリアン・ヴェイトこと「オジマンディアス」(マシュー・グード)らを巻き込んで…

―――――

誰が、「スーパーヒーローの死」を望むのか?

―――――

どんな陰謀が、動いているのか?

―――――

と、いうわけなんですが、

―――――

…うーん…

―――――

「ウォッチメン」です。

―――――

この映画を支持する人にも、「300」に続いてこれを作ったザック・スナイダー監督にも、ぜひ、言いたい。

―――――

なぁーにを、そんなに、フラストレーションを溜め込んでるの!

―――――

この映画、ヒューゴー賞受賞の原作コミック――「グラフィック・ノベル」と言うそうです――は、86年の発表です。

―――――

映画は、原作が作り上げた「80年代半ば」という設定を現在に移し換えることをせずに、そのまま描いているのです。

―――――

86年と言えば、米国はまだ、レーガン政権下にありました。

―――――

以下の話しは、アメリカを含む西欧に特有の、いまの日本から見ると、ある種不思議な現象ですが、「クリエイティブ」や「アート」ってものが、メジャーな分野のものであっても、たとえば共和党政権下だと、なんとなくカウンターカルチャー気味になる、

―――――

と言うかですね、

―――――

「アングラ」カルチャーになっていく、

―――――

と、そういう傾向が見られるようなんですね。

―――――

レーガン大統領の就任から、次のブッシュ大統領(ジョージ・ブッシュ「父」のほう)の退任まで、12年ありました。

―――――

12年もの間、旧弊な「お父さん的価値観」が、上のほうで、ドン!と腰を据えていたわけです。

―――――

その間、ニクソン(共和党)的なる価値観より、ケネディ(民主党)的なるそれに好感を持つアーティストたち――そういうひとには、気持ちや考え方の若々しい人が、どうも、多い「らしい」のですが――は、アングラ的表現に走った、と。

(例を挙げると、80年代初頭から活躍したキース・ヘリングなんて、あんなにポップな作風なのに、まさしくアングラの人だったと思うし、

―――――

「インディ・ジョーンズ 魔宮の伝説」(84年)なんて、物凄くバカ金かけたアングラだし、

―――――

「レーガンのアメリカ」をちょっとからかったような、「バック・トゥ・ザ・フューチャー」みたいなものもあったでしょ?

―――――

さらに決定的なのは、82年にリリースされたマイケル・ジャクソンの「スリラー」なんて、アングラというよりは、「ストリート・カルチャー」を貪欲に吸収することで、のちのヒップホップにも多大な影響を与えるモンスター・アルバムになっていきました。

―――――

ついでながら、これは英国の話しだけど、カルチャー・クラブという「ポップ・アングラ・バンド」が出てきたのも、サッチャー保守党政権のもとだった)

つまり、ですね、

―――――

政治的な動向と、芸術的にホットな「状況」に、密接とは言わないまでも、かなり、関係があるらしい。

(かつては、我が国でも、そうだった。

学園紛争の頃ですね。

なんで、日本では、そのような連関が、いっときの流行で、終わってしまったんでしょう。

ちょっと興味ある問題です)

―――――

で、

―――――

この映画も、強烈に、「アングラであろう」としています。

―――――

ここで問題となるのが

―――――

「9.11を経験した後の西欧世界で、“アングラ”を保持する立場を持つことは、可能なのか?」

―――――

という、とてもシビアな設問です。

―――――

超暴力的なやり方で

―――――

「西欧以外の価値観がある!」

―――――

と見せつけられたあの件以来、米国型の「父権社会」というやつは、

―――――

「きしみながら、なんとか対面を保つ」

―――――

のが精一杯という様子でした。

―――――

飛行機ジャックを防げなかったこと…
アフガン空爆…
ビン・ラディン殺害失敗…
イラク侵攻…

―――――

頑として揺るぎないはずの父権が、がたがたになって、あわてながら失態を繰り返す様子を、僕らは、見せつけられていたわけで、そうなると、

―――――

光輝く父権に抵抗するかたちで存在理由を持つはずのアングラは、その「存在理由」のほうを問われることになるはずです。

―――――

「ここは、これまでの父子対立なんて些末なことには目をつむって、“文明の衝突”(ハンチントン)になんとか勝利するほうに、関心を集めようじゃないか」

―――――

という風潮が、ちょっと前までのアメリカだった、と、たぶん、言えると思います。

―――――

こうした議論に、参加する・しない、

―――――

さらには

―――――

こうした議論の前提そのものを疑ってかかる

―――――

と、立場はいろいろ取れるでしょう。

そう指摘した上で、言いますけども、

―――――

この映画の原作コミックが、80年代当時の「時代の限界」にとらわれながら、どこまで明文化しているのか、分かりませんが、

―――――

映画の中で、かなり興味を引く設定がある。

―――――

スーパーヒーローのひとり、「Dr.マンハッタン」が、科学実験の影響で力を得て、その代償として「無毛」の青い体となり、

―――――

精神のほうも、次第に人間らしい情緒を失っていく、という部分です。

(恋人の「シルク・スペクター」と、不気味なやり方でセックスに及ぼうとする、という場面があります)

―――――

で、その彼の力によって、アメリカはベトナムに勝利するという話。

―――――

これは、非常に重要な描写です。

―――――

それは、ベトナム戦争を通じてアメリカが、「自由と抑圧」などという西欧的な物の見方だけでは捕まえることのできない、「うっそうたる森」に象徴される非・近代的で非・文明的でもあるような、暗く、ぬめぬめとした「世界観」に出会って、そのショックを消化しながら「若者文化」を形成してきた、という、ひじょーに説明しにくい事柄について「さわっている」から、なのであります。

―――――

「死霊のはらわた」を作ったサム・ライミなんて人は、かなり前から、この異様な「感触的文化観」について、ピンと来ていた人だと思う。

―――――

彼を始めとして、一部の

―――――

「アングラの中の“本物”のアングラ」

―――――

と言っていいような人たちは、この真に先鋭的な「森の価値観」に気付き、かたちにしようと苦闘してきました。

(近年のライミが、アジアン・ホラーに注目したりしているのは、その流れで解釈できると思います)

―――――

この「ウォッチメン」は、かなり見応えのある映画と言えるけど、いま指摘したような観点から見ますというと、

―――――

たとえば「パイレーツ・オブ・カリビアン」(2008/6/7掲載)や「トランスフォーマー」(2008/7/11掲載)に比べて、

―――――

「あれらが“乗り越えた問題”を、蒸し返している」

―――――

と、言えるんではないだろか。

(だから、いまさら、なんのフラストレーションを溜めてるの? と言ったのです)

―――――

乗り越えられたものを蒸し返しているがゆえ、「マトリックス」のような「本物のブロックバスター」にはやや追い付かない興行成績に留まったのではないか、と思うし、

―――――

そのことは、米国社会や日本社会の「世間知」というものが、

―――――

この映画とは別の方角を向いて熟そう、という「意志」を見せている兆しではないだろか。

―――――

現代のアングラは、最も皮相で、最もポップなところのすぐそばにこそ、その存在意義を有している。

―――――

…と、こういうハナシを考えられただけでも、見てよかったな…とは思うんですが…

―――――

(あくまでも過激なこと、やってやるんだぁ! っていうスナイダー監督のね、意気込みは、並々ならぬものですよ。

それは、あるんですけども)

―――――

(「80年代」という原作の時代を動かさなかったのは、21世紀という現在が、

あの頃に比べて、はるかに多様で、複雑化していて、容易に「アングラ的ポジション」をカルチャーの中にも、社会の中にも、見つけることが出来なかったからじゃぁないか、と…)

(そうだとすると、アングラとしては、いちばん肝のところで、「前向き」じゃないんじゃないか…)

―――――

(と、疑問を持つわけなんであります)

―――――

Jack

| | トラックバック (1)

狂ってみても、/「フィッシュストーリー」

始まりは、1975年…

―――――

セックス・ピストルズが画期的な音楽で、世界にデビューする、1年前…

―――――

舞台は東京…

―――――

TV番組「秘密戦隊ゴレンジャー」が、子どもらに、大人気です。

―――――

一方、お話飛んで、2012年、東京…

―――――

驚くなかれ、「アルマゲドン」や「ディープ・インパクト」も真っ青の大事変が、起きています。

人類滅亡!
…のその騒ぎの中、都内のとある中古レコード屋で、コレクターズ・アイテムに聞き入る店長と客ひとり。

どうせ世界が終わるなら、

最後まで、ロックを聞き続けてやるんだ、と…

そう決意する客に、店長が差し出したのが、まさに1975年の幻のアルバム…

その75年では、ロックバンド「逆鱗」(なんと読むか分からない方は、本編をご覧ください)が、売れない活動を続けています。

彼らの録音する曲が、その名も

―――――

「フィッシュストーリー」

―――――

さて、問題です。

―――――

ロックとゴレンジャーと地球滅亡…

―――――

いったい、どう、結び付くんでしょう?

―――――

「フィッシュストーリー」です。

―――――

なんだかんだで、またしても、「ジェネラル・ルージュの凱旋」の、中村義洋監督で