映画・テレビ

この文は開かれている/「のだめカンタービレ 最終楽章 前編」

矢口史靖監督が「スウィングガールズ」を撮り終えてのち(奇しくも主演は、今回取りあげる映画と同じく、上野樹里さんだったのですが)、インタビューにこたえて、大要こんなお話しをされていました。

―――――

自分は「楽しい映画」が作りたかった、と。

―――――

普段からの友達同士が、何か夢中になれることに偶然出会って、懸命に努力し上達するのを憶えるうち、知らず知らずに強い絆の「仲間」へと変貌していく。

―――――

そのワクワクする過程を描きたかった、と。

―――――

そうして、

―――――

そこから先には興味がない、ともおっしゃるのです。

―――――

シロウトなりにひとつのことを成し遂げて、「達成感」が生まれる。爽快である。それが楽しい。しかし、そこから先は?

―――――

そこから先は、「創作の在り方は、どうあるべきか」、という謂わば表現者の道が始まるだろう、というのが矢口監督の意見です。

―――――

一発やってみて、無手勝流の勢いもあり、楽しく終わった。それは素晴らしい青春の軌跡である。しかし、出来上がったものを「作品」として眺めるとき、

―――――

そういう視点を持つに至るとき、もうその人は、クリエイターである自分を自覚し、創作家の道を歩み始めているのだ、と、

―――――

それは苦しみの道である、と、

―――――

そこから先は、ただ楽しい楽しいでは済まない、もはや別のドラマが始まっている…

―――――

それは、表現者としての自覚に目覚めた人間が、表現の幅を開拓しつつ、なおかつそのことを糧にして「プロ」になれるかどうなのかのドラマです。

―――――

自分にとっては、そんなことはどうでもよい、

―――――

自分がみんなに見せたかったのは、絆が生まれていく中での楽しいお話だったのだ、だから、

―――――

そこから先を語る気はありません。

―――――

これが矢口監督が「スウィングガールズ」撮影終了時に見せたポリシーでした。

―――――

これはこれで、ひとつの見識というものです。

―――――

で、

―――――

プロへの道とは、本当に苦しいだけか?

―――――

という疑義から、このドラマは始まっている。

―――――

「のだめカンタービレ 最終楽章 前編」

―――――

千秋真一(玉木宏)がパリでの指揮者コンクールに優勝し、ちょィとしたいきさつからある楽団の常任指揮者に就任するのが、今回の冒頭です。コミックスで言うと、13巻から先のお話。

―――――

その千秋を慕う、パリでも相変わらずの天然ぶりを発揮するピアニスト、「のだめ」こと野田恵(上野樹里)。

―――――

音楽学校コンセルヴァトワールの仲間たち(ベッキー、ウェンツ瑛士、福士誠治ら)。

―――――

50年代のハリウッド映画を思わせるような、能天気な演出が楽しい。

―――――

進むようで進まない千秋とのだめの仲は、どーなる?

―――――

わたくし、原作コミックも大好きですが、TVドラマもアニメも好きで視ておりました。

―――――

この音楽物語の核となるのは、生来の表現者・千秋真一が生粋の芸術家・野田恵と出会い、心揺さぶられ、ことあるごとに「音楽する悦び」を呼び覚まされていく、その成り行きです。

―――――

表現者というのは「悩むひと」のことですが、芸術家というのは「内なる悦びに素直に従っていたら、いつも、何故か、何かが出来てしまうひと」のことなんですねぇ。

―――――

矢口監督の言う楽しさと異なる種類の「楽しさ」が、ここにはあります。

―――――

これが、たいていの人にとって「楽しい」と感じられるのだとしたら、それは、よく考えると奇妙なことです。

―――――

「シロウトゆえの楽しさ」を描くのなら、ハナから、ごく普通の、一般の観客を相手にしたものであることが、すんなり納得行きますが、「のだめ」は「創作家たちの楽しみ」を主軸としている。

―――――

恍惚となるほどの「芸術の悦び」が、よく描かれますが、それは本来、とても個人的な、「内なる楽しさ」であるはずです。

―――――

それは、本来なら創作家などとは縁遠い大多数のひとにとって、分かりにくい楽しさのはずなのです。

―――――

なのに、なぜこの作品は、多くのひとを魅了するのか?

―――――

そこには、少しばかり「カラクリ」がありそうです。

―――――

描かれる楽しさが「内なるもの」の範囲に留まることしかないのなら、これはヒット作にはなりえなかったことでしょう。

―――――

少し分け入って考えましょう。

―――――

まず、分かりやすいヒントを出してくれている人様の言葉を引用します。

―――――

浅田彰さんはかつて、青山真治監督が書いた小説の話題に絡めて

―――――

「言うまでもなく、作家は本質的に孤独でなければいけない」

―――――

と言いました。

―――――

これは凡なるポップスが、なにかというとすぐに「♪ ひとりじゃないから」などと歌いたがるのとは、はっきりと対照的な位置にある発言だということに、ご留意ください。

―――――

この発言は、解釈して申しますなら

―――――

言うまでもなく、芸術家は本質的にアマチュアでなければいけない

―――――

というのと同じことです。

―――――

作家――(芸術家)――は、周囲の雑音的批評・やっかみ・好意と勘違いした押し付けなどに惑わされずに、己れで機を選んで、そのときの身の丈にちょうど見合ったことが言えるのでなければならない。それが浅田さんの主張です。

―――――

それこそ、アマチュアリズム以外の何でしょう?

―――――

「プロ」というのは絶えず周囲のことに気を配り、何がタイムリーなのかを外的に判断するコツを知り、その時々で社会的に機能する作品を発表し続けることの出来るひとです。

―――――

ここで、疑問がひとつ、まとまりました。

―――――

「芸術家としてのプロ」などというのは、成り立つか?

―――――

プロであることと芸術家であることは、相反したりしないのか?

―――――

その点を追求します。

―――――

芸術家であり作家であるということは、ある種傲慢に己れの信じる道を突き進み、湧き出るイマジネーションの波に酔いつつ、それを最終的には上手に操縦して、完成へと導ける、という、言ってしまえば「それだけ」です。

―――――

それは、ひたすらの訓練なしではたどり着けるはずのない、辛く険しい道のりの先にある領域のことですが、そのような道を「外の世界に惑わされず」歩む、と決心することが、そも「アマチュアに徹する(芸術家になる)」と言っているのと同じこと。

―――――

そうした人々にとって「自分が『職業的表現者』になれるのか」、すなわち「アマチュアであることに徹しつつ、なおかつ『プロ』である」というような謎めいた立場に立てるかどうかは、絶えず押し寄せる波のような葛藤の、種のはずです。早い話しが、

―――――

俺(あたし)の作るもの――『好き勝手の結実』――は「カネ」になるのか?

―――――

孤独を決意し、周囲との絶縁を覚悟した果てに出てくるものは、果たして貨幣という名の常識、富という名の権力装置の一部へと変換可能か?

―――――

これこそ、

―――――

ひとをして楽しませる面白い!話題に決まっちょる。

―――――

ドラマとは「葛藤の交錯」のことですが、セックスについてのそれを除けば、何よりもおカネに関する事柄が、特に面白いに決まっています。なぜならば、

―――――

社会というエネルギーの結晶体と人間というどこまでもささやかな単位との対峙を描くのですから、それで盛り上がらなかったら、よほど語り手が下手なのです。

―――――

もう一度、上述の問いを繰り返します。

―――――

プロへの道とは、本当に苦しいだけか?

―――――

…この問いかけから始めて、二ノ宮知子さんという漫画家は、この問いを上部構造として包含するメタな視点が成り立つことを――(直感的にか論理的にか、それとも経験の末の努力の果てにか)――見せています。

―――――

平たく言うなら、世間と独りの人間との対峙というのは、語るための「視座」さえ見つかれば、どんな三面記事よりも、ひとを虜にする魅力に満ちた「お題」なのだ。

(のりピーが逮捕されたとき、人々がなにより気にしたのは、彼女が今後手にするであろうおカネを(地位を)失うことであったのには違いない)

―――――

このマンガ、このドラマそして映画が他の凡百な「アーティストたちの物語」と異なるのは、常に「おカネの問題」についての目配りを忘れずに、その問題を陰に陽に動かしつつ、それとの対比で「創作の悦び」を――、「“個人”の存立要件」を綴っているところです。

―――――

おカネの問題 =「世間への関心」すなわち「絶えず外へ開こうとする意志」を忘れないので、表現者の内省を語るときでも、その語りは創作家でない多くの人々に届くのだ。

―――――

みんなは多分に、のりピーを見守るときとよく似た気分で、危ういのだめの行く末を「面白がって」、「共感と共に」見つめるのです。

―――――

このマンガが大ヒットを飛ばし、ドラマとなり映画化されるということに、丁度のりピー事件が耳目を集めたときとはコインの裏表のような関係の、「日本社会の正常なる機能」を見る、と言ったら、反語にしか聞こえませんか?

―――――

千秋ものだめも、大学という狭い住処を飛び出して、ヨーロッパという広い世界に乗り込んで行く。

―――――

拡大する社会の中で、ひとが発見する「個人であること」の悦び、楽しみ。

―――――

ここまで言うと、そんな楽しみが多くのひとにとっても共有出来るものであることは、納得が行きそうです。

―――――

「スウィングガールズ」を撮り終えた矢口監督が次に選んだ題材は、様々なプロたちの生態を面白おかしく取り上げた「ハッピーフライト」という作品でした。

―――――

その映画で矢口監督は、直接「おカネ」の問題に触れたりはしていませんが、高校生の物語を卒業して「大人の世界」に乗り込むということは、「職業としてカネを取っている人々」が、おカネ = 広い世界とどう向き合っているかについて、関心の方向をシフトした、ということです。

―――――

ところで、この文は、最初から「アマチュアであること」を決意して書かれた文です。そして同時に「世界に対して開かれていること」を旨としています。
でも、

―――――

ん?
「おカネ」とは、結びつきそうもないですが…??

―――――

Jack

|

手には入らぬもの/「パブリック・エネミーズ」

以前、新聞社に勤めていた頃、若い記者たちが集まって、自分らの自由な発想で「当世若者事情」を特集記事にしようじゃないか、とそんな話しが持ち上がったことがあります。

―――――

編集長のお墨付きを得て、イラストレーターの僕も一枚かませてもらうことになったんですが…
(つまり、取材活動に同行したのね)

―――――

記事を集めている最中、どうにも釈然としない「ある想い」に駆られることがありました。

―――――

ひとつの若い風景として、インディーズ・バンドで頑張っている若者たちの「ロックな日常」を見てこよう、となったんですね。

―――――

行きましたよ。
僕はライブハウス初体験。

―――――

見るもの聴くもの、たいへん興味深く、バンド仲間たちの交流に好感を持ち、昼はパチンコ屋で働いたり、道路工事をしたりして、ライブの費用を捻出してる、という話しもなかなかいい感じで、たった数日の付き合いでしたが、僕はバンドマン連中のファンになりました。

―――――

が、

―――――

肝心のその「ライブ」というのが、僕にはどうにも珍奇なものに映った。

―――――

男性客が、ほぼ皆無だったのです。

―――――

来てるのは、今で言うコスプレまがいのファッションで飾った女子中高生ばかり。

―――――

ボーカルの男の子の大ファンだという女の子たちに聞いたんです。

―――――

彼らの歌ってる歌詞なんか、どう思う?

―――――

するとね、

―――――

「あー、聴いてない聴いてない。わかんないし」

―――――

ノルのに夢中で、それどころじゃないというわけなんです。

―――――

いまの僕だったら、それはある種、凝り固まった「作品」に対して弁証法的アンチテーゼのように機能する、つまり、狭い創作の枠に囚われがちな「アーティスト」をハッとさせる「自由な」音楽への接し方だと気楽に肯定的に見るかもしれないんですが、

―――――

このときは、そんな気分になれなかった。

―――――

僕自身が「何かモノを創るって、どういうことだろう…」と思い悩みながら、仕事量の多いわりに要領でこなせてしまう新聞社の業務に焦りや苛立ちを感じていたし、

―――――

ほかにも、何か『表現』を志しているひとたちは、自分の創作がどう受け止められているか、について、どう思っているんだろう…と。

―――――

そこで――(これも、今ならやらないと思いますが)――、僕は、横にいた記者を差し置いて、バンドマンたちにこう質問しました。
ねぇ、

―――――

男に聴かせたいと思わない?

―――――

つまりは、

―――――

自分の『言葉』に真剣勝負で向き合ってくれるひとを探したいと思わない?

―――――

って聞いたのです。

―――――

マイケル・マンです。

―――――

マイケル・マン監督の「パブリック・エネミーズ」

―――――

ときは1930年代前半。

―――――

大恐慌の痛手からいまだ立ち直らぬアメリカで、大胆不敵な銀行強盗を繰り返すジョン・デリンジャー(ジョニー・デップ)。

―――――

貧者の金は狙わない。

―――――

悪党なりに己れの倫理をつらぬく男。

―――――

そんな彼が愛した女(マリオン・コティヤール)。

―――――

対する捜査官パーヴィス(クリスチャン・ベイル)。

―――――

絡み合う三者のドラマは、スタイリッシュなラストへと…

―――――

ふむ。

―――――

この監督さんで、僕が印象深いのは、アル・パシーノ、ラッセル・クロウ主演の「インサイダー」、それにダニエル・デイ=ルイスの「ラスト・オブ・モヒカン」。

―――――

これらの作品は言うに及ばず、このひとはいつも、「男について」、独特のこだわりを持って描いてる。

―――――

ほかの監督の映画、例えば「ゼア・ウィル・ビー・ブラッド」も「ジェシー・ジェームズの暗殺」も「おくりびと」だって“男の映画”なんですけどね。

―――――

それらと違うのは、マイケル・マンが、「或る現前不可能なはずの精神性」を取り上げるためにこそ「男」という存在にこだわっている、ということでしょう。

―――――

その願望は、このマイケル・マンというひとを、想いのゆえに孤独にし、その強き理想の気付かぬところで願いがいともたやすく実現されていることを、理解の外に置かせている。

―――――

縮めて言えば、このひとは「鈍感」であるがゆえ、常に「手に入らぬもの」を探していられるし、また、スタイリッシュな作風でいられるのです。

―――――

なんだって?
はい、ここで問おう。

―――――

「現前不可能なはずの精神性」とは何なのか。

―――――

少し話題を代えて、核心に迫りましょう。

―――――

冒頭挙げた「インディーズ・バンド取材記」は、20年も前のことです。

―――――

そしてそれよりさらに以前、1980年代からイベントの会場に集まってはしゃぐのは「女の子」と、相場が決まっておりました。

―――――

それ以前は違ったか。

―――――

はい。
はっきりと状況は異なったのです。

―――――

コント55号のライブも、ドリフの「8時だョ!全員集合」も、「紅白歌合戦」ももちろん、多くの様々なイベント会場にはたくさんの男性客・おじさんたちが居て、「欽ちゃん、がんばれぃー」なんつって、応援したりしてました。

―――――

コンサート会場にも、男子大学生が一杯いたわけなんですよ。

―――――

安室奈美恵さんについて書いたとき、日本の最も表層的なトレンドを作っているのは、女の子たちだと言いましたけど、それは、ある「始まり」が在って、起源が在って今に続いている出来事なのです。

―――――

男たちは、どこへ消えてしまったのか?

―――――

それが当時の僕の、疑問と苛立ちの種でした。

―――――

いったいに、通俗的な意味で言う「男らしさ」――、ごく一般的な意味で言う「男性的精神」が問題になるのは、どんなときだと言えるでしょう?

―――――

はい、
それは、戦国時代です。

―――――

または、高度成長期のことですね。

―――――

ひたすら競争に邁進し、相手になる者を次々なぎ倒し、単純明快な理想をかかげ、理想の実現のためには犠牲をいとわず…

―――――

ごちゃごちゃ言うなぃ!
仕事しろ、仕事!
とにかく、やりゃぁいいんだよ!

―――――

というようなのが、「突き進む男らしさ」の概略です。

―――――

これは、とてもラディカルな精神なのです。

―――――

なぜならば、それは、ものごとの本質や核心、真理などを強く押し上げ展開する以外、枝葉の、言うなれば「エスプリとしての、着飾るための、ファッショナブルな言説」などを、一切問題にしないからです。

―――――

おや?
なにか、ヘンじゃありません?

―――――

そのような「細かいことを問題にしないラディカルさ」とは、インディーズ・バンドの若者たちが一生懸命書いた歌詞をこともなげに「聴いていない」と言い切ったあの女の子の「吹っ切れ加減」と、奇妙な相似を成しているとは思いませんか?

―――――

このことに全く気付かぬまま、孤独に『真剣勝負』の相手を探し求めるマイケル・マンという表現者には、「だからこそ」、悲劇性がよく似合う。

―――――

悲劇に陥っている者は、周りをよく見渡してみるのが一番です。

―――――

ひとはそこに、自分が求めているのと全く同じラディカルさを現に保持する存在があるのに気付き、創作の苦痛から解かれるのだ。

―――――

創作の苦痛とそこへ向かってひたすら努力するがゆえの、他者の揶揄を受け付けぬ猪突猛進なる意欲。

―――――

マイケル・マンというひとに「あなたが創ろうとして、いつも近付けずにいる“精神”は、要するに、日本の女子中高生がはしゃいで踊るとき手に入れているものと、本質的には同じものだ」などと言ったら、間違いなく目を剥かれることでしょう。

―――――

そうして最後まで、どこをどう取ってくれば「同じ」だと言えるのか、理解してもらえないに違いない。

―――――

なぜマンという男が、古い時代のギャング・スターに焦点を当て、いま現在に送り込んだか、ここまで来れば、解説を要しないことでしょう。

―――――

すべての不純物をなぎ払い、ものごとの本質をあらわにする「はず」のラディカルさは、「男らしさ」という単純な衣をまとうことで、その表現を完成へ導いてゆく。だが、

―――――

いずれの表現にせよ、創ったものに『真剣勝負』で向き合ってくれる相手無くして、本当の完成は得られない…

―――――

…というのが、おそらくはマイケル・マンという男の考えであり、それだからこそ、彼の映画は、あらかじめ「本物の観客」を見つけられぬことを薄々感じて作られており、それだからこそ彼の作品がいつも、いま一歩のところで何か「手に入れていない」印象を観客皆に与える理由であり、そうして、

―――――

彼が映画作家として作品を作り続けていられる理由です。

―――――

と、以上ここまで「キザ」というのは鈍感でなければ成り立たず、

―――――

その鈍感さは、一面で、創作表現というものの過激さに、深部のところで触れてくるのだ、というお話しをしてみました。たぶんですね、

―――――

この映画を本当に楽しめるのは、

―――――

「なんか、長くて、誰と誰が仲間で、誰が敵だかよくわかんないけど、ジョニー・デップがかっこよかったぁー」

―――――

などと言うであろう女の子が、マンの求める精神性に、いちばん近付くことになるでしょう。

―――――

長々といいましたが、最後の最後に、僕の感想を言いましょう。

―――――

あほらしい。

―――――

(これだけで、充分です)

―――――

Jack

|

ひたむきさは恥なんです/「ブラック会社に勤めてるんだが、もう俺は限界かもしれない」

困ったな…

―――――

久しぶりの映画なんですが…
弱ったな…

―――――

「シムソンズ」や「キサラギ」の佐藤祐市監督だから観に行ったんですけどね…

―――――

この映画とまともに向き合う資格が、どうやら僕にはないようです。

―――――

この映画の主人公は、元ニートであり、引きこもりの自分を変えたくて就職する。が、

―――――

それだけでなく、家庭の事情のため――端的に言うと、お金のため――、いやな仕事でも、踏んばらざるをえない、という立場にあります。

―――――

この設定が、まず困る。
(実話らしいですが)

―――――

僕は昔から、「我を通し過ぎて損をした」といった経験はかなりしておりますけれど、「奥手な自分を自己改革したくて社会に出た」というような種類の切実さは、あまり身に覚えがありません。加えて、

―――――

「どうしても仕事をしないと生活していけないから」という理由での就職経験。これは三度ほどあるんですが、三度とも長持ちしませんでした。

―――――

仕事と職場の空気が、つまらなかったからです。

―――――

二度はすぐ辞めちゃい、一度はすぐ(たぶん、だらけていたため)クビになりました。

―――――

我慢する必要のあるときに、我慢しきれた試しがない。

―――――

何年も(最長10年)勤めることになった職場は、そこへ行くことが「おもしろい」から、長続きしたのです。

―――――

つまるところ、わたくし、「食うために職に就いて」、うまくいったことがないのです。

―――――

そんな僕が、この映画を観る。

―――――

「ブラック会社に勤めてるんだが、もう俺は限界かもしれない」

―――――

いきなり交差点で、倒れこむ青年ひとり(小池徹平)。

―――――

この半年、恐るべきいいかげんさの極みのような、三流下請け会社で働きました。

―――――

十人足らずの零細企業。

―――――

リーダー(品川祐)は横暴で粗雑。
社員たち(池田鉄洋、中村靖日)は怪しいキャラの奴ばかり。

―――――

定時無視の残業ばかり。

―――――

この会社にいて、俺、どうなっちゃうの?!

―――――

さて。

―――――

そも、なんのために働くのか?

―――――

お金のため?
はい。カネなら充分な理由だと思いますが、くどいですけど、僕は金のために働いて、持続したことありません。

―――――

情報業界で働いたのは、絵をかくためにPCの周辺機器を買ったり、デザインコンペに応募するための、額付きの作品を創る費用を捻出する必要があったからでした。

―――――

シフトの時間帯が比較的自分の都合で自由になる。イコール、創作に費やす時間が確保できる。

―――――

そういうメリットがあるから入ったのが、結果的には職場内で「新しい自分」を発見する機会をもたらし、スーパーバイザーにまで昇らせてくれました。
充実しておりました。

―――――

辞めたのは、当時の上司とケンカしたせいですが、そういうアクシデントがなかったら、結局のところ、本格的な情報ビジネスのプロになっていたか?

―――――

10年も働いといて、こう言うのも、なんですが、結局途切れてしまった未来については、想像することが出来ないなぁ…

―――――

その後、当てもなくぶらぶらしているうちに統合失調症を発症しまして。

(ただぶらぶらしているだけで狂気に陥ったりはいたしません。それなりの訳あっての発病でしたが、長くなるので、今は、理由は割愛します)

―――――

かなりの数の友人・知人を失いました。

―――――

狂ってるあいだにPCをぶん投げて壊しちゃったので、いま、絵はかいてないですが――(手書きで試してみましたけど、満足のいくものは描けなかった。僕には「創作意欲」を掻き立てるものとして、デジタルな刺激が必要なようです)――、手を引いたつもりはありません。また「やってやろう」と思っています。えー、何が言いたいかというと、

―――――

あっちに寄り、こっちに倒れして生きるのもけっこう(相当)おもしろいものなんだけどな。

―――――

この映画の主人公は、必死で「自分を変えるチャンス」に食らい付きますが、そういうひたむきさがどっかの所で「自分にもあるなぁ」と、思いつつ、

―――――

ひたむきさゆえの「余裕の無さ」が、「いまの俺には消えてるなぁ」と、自分でもびっくりするような感慨を持ったりいたします。

―――――

別に自慢じゃありません。

―――――

またどっかで「激しい動きのど真ん中」に飛び込む機会でもあれば、僕のことだから、また、ひたむきにやるでしょう。

―――――

映画の中では、深夜にまで及ぶ長時間労働が「過酷だ」と描かれてましたけど、仕事そのものがおもしろければ、徹夜も有りだな、と、僕は思うんですけども。いや、久しぶりのせいか、どうも論旨が定まらないな。

―――――

この監督さんに対して決定的に違和感を覚えるのは、「ひたむきさ」を称揚していることでしょか。

―――――

がんばれ、と。

―――――

応援するよ、と。

―――――

ひたむきさを現に持っているボクとしては、そういう「苦しみ悩む者応援します団」的態度で何か言われると、照れくさいやら、しらけるやら。

―――――

「ひたむきさ」というのは、振り払っても出てきてしまう、なんと言うか「神々しい弱み」のようなものだと思うんですね。

―――――

輝いてることの恥ずかしさ、と言いますか。

―――――

そう。
輝いてることは、恥なのです。

―――――

説明するのが難しいですが、それは「人間だからこその“弱さ”の一端」であって、持ち上げて誉めるようなものじゃないと思う。

―――――

ひたむきさを「いい、いい」と言ってる人は、見当外れな内省癖の視点から、「憧れ」の目でひたむきさを見ているだけなんです。

―――――

縮めて言ってみましょうか。

―――――

応援団的観点から「ひたむきさ」に関心を寄せるひとは、「悩んでいる」のであろうから、お気の毒ではあるけども、

―――――

自分の人生の主役になってない

―――――

のです。

―――――

この監督さんは、そういうことを分かってらっしゃるのか、らっしゃらないのか。

―――――

作品歴を見ると、よく、ひたむきさを取り上げて描くけれども、描写の仕方はいつも慎重でひねってある。

―――――

「ひねる」というのは、恥じらいを知る者の態度です。

―――――

恥ずかしさを知ってるのか、それとも、よくいるタイプの「ひたむきに憧れる」だけのひとなのか。

―――――

どっちか見定めがつかないので、今回特に、観てる最中「観客の立場を選ばざるを得ない」僕の居心地は悪かったなぁ。

―――――

それでも、ダメダメな作品じゃぁありません。

―――――

この映画は、ずっと悩み続けていた青年が、自分の人生の主役になることを決断する場面で終わる。

―――――

そのポイントから言えば、いま社会人新入生という人や、これから働きます、という人には共感できる部分がきっと多いかもしんない。しかし、

―――――

しつこいですが、わたくし、「ひとは自分の人生の主役でなくちゃ」と、ずいぶん前から思ってますんで、「そう気が付くまでの物語」を「観客」として見せられて、

―――――

こそばゆかったぁ!

―――――

僕には明石家さんまさんが「自分の番組の録画をずっと視てる」というような真似が、出来そうもありません。いや、

―――――

それとも、そういうことも、いずれやるようになるのかな?

―――――

今回のこそばゆさは、どう考えても「いま現在も密かにひたむきな自分」を暴露されたような気がしたからに違いないわけなんですが…

―――――

(「主役にならなくっちゃ」と思ってても、めったなことでクチにしちゃぁダメですよ)

―――――

Jack

|

道化の宇宙/「曲がれ!スプーン」

やったぁ…

―――――

うわ!めちゃめちゃ面白いです、この映画!

―――――

傑作だと思います。

―――――

「曲がれ!スプーン」

―――――

わたくし、本広克行監督の最上の仕事のひとつに、「サマータイムマシン・ブルース」がある、と思っているファンですが、今回、あの作品と同じく、劇団「ヨーロッパ企画」の舞台劇を映画化なさると知ったので、たいへん楽しみにしておりました。

―――――

期待は…

―――――

裏切られなかったね。

―――――

サイコーです。
いい!です。

―――――

劇場へ急げ!

―――――

テレビ局の人気番組「あすなろサイキック」。

―――――

UFOから超能力者まで、いわゆる「超常現象」を扱う番組。しかして、

―――――

実態は、「夢見がちな変わり者を笑い飛ばす」内容です。

―――――

この番組のAD、桜井米(長澤まさみ)は、ある日、上司から命じられる。

―――――

「カメラ持って、ウチ宛に届く“我こそ超能力者”ってヤツらを、ひとりひとり取材してこい!」

―――――

幼いときから不思議の世界に魅せられてきた彼女は、勇んで、ひとり行脚に出かけます。

―――――

本物のミステリーを発見するのだ!

―――――

一方、お話変わって、こちら、とある田舎町にある喫茶店。

―――――

その名も「Cafe de 念力」です。

―――――

外観は普通で、名前だけあやしいこの喫茶店。

―――――

実は、本物の超能力者たちが集う隠れ家であるのですが…

―――――

いや、とにかく、素晴らしく面白い。

―――――

原作戯曲を書いた上田誠さんが、映画版の脚本も書いています。

―――――

長澤まさみさん以外のキャストをほぼ、演劇畑のひとたちで固めたのが大正解です。

―――――

こちらとして、それぞれの役者さんがあまり顔馴染みでない分、シュールなのにどういうものか卑近な感じのギャグ満載のこの映画が、彼ら演劇系の出演者のおかげで、グッと観客の心に迫るリアリティを持つことになったのです。

―――――

ここには、1950年代のアメリカのSF小説が提示し、その後もTVドラマや映画でたびたび取り上げられてきたテーマに対する、たいへん手際のいい、その手際の良さこそが魅力的な言及があります。

―――――

その言及とは、平たく言ってしまえば、「隠さなければならない特技」についての描き方だと申せましょう。

―――――

ん?
なんだ、そりゃ?

―――――

「隠さなければならない特技」とは、なんのこと?

―――――

はい、例えて言うなら、それは、「万引きの才能」です。

―――――

「上手に万引きが出来る」、というのは明らかにひとつの才能ですが、そのような才能を持ち、仮にそれを使うことになんのためらいも感じない人物がいたとしても、その行為は、「現実」の中で、巧妙に隠されなければなりません。

―――――

それがいったん認められるや否や、社会の成り立ちが崩れてしまうからですね。

―――――

しかし、奇妙なことに、社会というのは、自らを突き崩すような「異人的な行為」を「蔑まれた異者」に対して、ときに求めたりいたします。

―――――

それは、そのような「破戒」的な行為が結局のところ「共同体」という自らの存在意義に刺激を与え、自らをリフレッシュし、怠惰から立ち直らせてくれるからです。だが、しかし、

―――――

そう、再びしかし、社会というのは、自らに心地よい刺激をもたらしてくれた異者に対して、劇的体験が終わったあとは、ただひたすら冷淡になってみせる。

―――――

「安定」は、程よい揺れを経験したのち、より強固な姿に立ち帰ろうとし、そのとき異者は、目障りな厄介者に過ぎなくなる。

―――――

これを縮めて言うならば、世間があなたに求めるのは

―――――

安全な背反行為

―――――

それだけです。

―――――

社会という名の共同体が、普段は排除し見向きもしない異者に対して身勝手にも求めてくるのは、安全な背反行為にほかなりません。

―――――

異者としては、そのような「社会というわがまま気ままな“王位”からの身勝手な要求」に、道化の姿でどう対処すればよいというのか。

―――――

その答えとして、ときに芸術が存在し、ときにロックンロールが存在し、そしてSF小説が在ったりしました。

―――――

精神感応に念動力、透視能力、時空を自由に操る力…

―――――

かつてSF小説の中で、特殊な能力を授かった者たちは、己れが凡俗とは程遠い身の上にあることを喜ぶより嘆き苦しみ、なぜ自分が気まぐれな世の中に「制限された快楽」をもたらすための、ただそれだけのための産みの苦しみに悩まなければいけないのか、思いわずらい、やがてそのような身勝手な共同体を飛び出して自らを高めることになる様を、流麗な筆緻で書きとめられたりしたものです。

―――――

しかーし、
さらに、しかぁし、

―――――

SF小説が「カウンターカルチャー」としての力をふるったのは、数十年前のこと。

―――――

まだアメリカ文化圏というものが若々しく、SFを書く者も、SFを支えるファン層も若かった。

―――――

超能力小説は、多くの場合、「思春期」というものが抱える、己れへの絶対的なうぬぼれと、周囲に対する激しい劣等感と、ふたつの相反する激情にさいなまれる「引き裂かれた姿」のメタファーでありました。

―――――

で、

―――――

ここまで書いたついでですから、書いてる主体たるわたくしについて言いますが…

―――――

どうにも身の振り方の分からなかった思春期をとうに過ぎ、いちおう世間的には「大人」と呼ばれる皮を被った今になっても、自己分析なぞしてみると、己れの内には「引き裂かれた自己」が、相も変わらずデンと腰を据えている。それでも、

―――――

「あのひと、ちょっと変わってるね」

―――――

なんてな具合に言われながら、どうにかこうにか、世間との折り合いをつけてしまっている自分がいるからオドロキです。

―――――

引き裂かれた自己は、社会にもまれて、いつの間にか「矛盾につける塗り薬」を見い出したのだ。

―――――

本作に登場する「エスパー」たちは、想像するならそのような(ありがちな)道をたどって、「とりあえずの大人」に、なんとなく成ってしまった人々です。

―――――

この映画は、安全な背反行為を発揮せよ、などという社会的命令に対して、慎重に振る舞い、しかし、ときに密やかな楽しみを味わうすべを見つけた者どもの、「あやしい日常」を描いた映画。

―――――

あやしい者どもが密やかに集うだけのあやしい日常なら、そのあやしさは、うっかりすると自覚を離れて忘れられてしまいますが、純真素朴なテレビAD(長澤まさみさんの魅力たるや!)の登場により、忘れていた「引き裂かれた自己」の姿がむき出しになりかかる。

―――――

謂わば彼女が持ち込むのは、あやしい日常が字義通り「あやしい」ことを「忘れてしまった大人たち」に知らせる「ズレ」です。

―――――

このズレが、隠れたエスパーである大人たちに、自らの置かれた立場が矛盾したものであることを思い起こさせ、(皮肉な意味でなく、この単語の本質から言って)「道化」たる者、「憧れる者」に、何をしてやれるのか、考えさせることになる。

―――――

この映画は、「安全な背反行為」などという矛盾した成語が、道化と俗が入り雑じる日常的風景の「ちょっとしたズレ」の中で見事に矛盾から解放され、昇華していく様を、最高に伸びやかに描いているのです。

―――――

昇華したのち、あやしさは、どこへ行くのか?

―――――

いや、そんなことは、どうでもよろしい。

―――――

かつて戸田奈津子さんは、スピルバーグの映画の台詞を、こう訳した。

―――――

「いつまでも きみのココロに」

―――――

「道化」とは、もとより、からかう人のこと。

―――――

それには、人並み外れた「力」がいる。

―――――

そうして、ただ単なる「奉仕の在り方」には囚われない、真実の道化たる自由な精神がいるのです。

―――――

自由な精神をかくも伸びやかに、そして爽やかに描いてみせたこの映画に、念力でメッセージを返しましょう。

―――――

いつまでも きみのココロに

―――――

さぁ、次だ。

―――――

Jack

|

正しき神の目の使い方/「イングロリアス・バスターズ」

戦争映画、好きでした?

―――――

今世紀に入ってからというもの、はっきりと戦争の意味が変わってしまい、「戦争映画が好き!」なんて公言するのは、なんだかトンデモナク危険思想みたいなですね、そんなうしろめたさが付きまとうようになりましたけど、「ナバロンの要塞」と言い、「戦略大作戦」と言い、かつて戦争映画といえば、娯楽の王様でありました。

―――――

戦争映画がイコール「冒険活劇」だったんです。

―――――

和田誠さんも書き留めている、僕の大好きな戦争映画の台詞があって、それはDデイを扱った「史上最大の作戦」に登場するロッド・スタイガーの言い放つ

―――――

「憶えておけ。百年先まで語り継がれる作戦にわれわれは参加してるんだ。怖いことに変わりはないが」

―――――

っていうものなんです。かっこいいなぁ。クールだなぁ。

―――――

で、

―――――

今日はそんな、名文句についてのお話しから…

―――――

「イングロリアス・バスターズ」に登場する“ユダヤ・ハンター”ことSSのランダ大佐を演じるクリストフ・ヴァルツが、映画の冒頭、こんな感じの台詞を吐く。

―――――

「事実は時に嘘をつくが、噂は真理を明かしてくれる」

―――――

いや、なんか、こんな台詞だったんです。

―――――

おっ、これもかっこいいじゃん、と思ったのも束の間、見終わったときには、「あれ? どんな台詞だったっけ?」と、忘れてました。
僕の記憶は、いいかげん。
しかし、要点は合ってると思うので、

―――――

今回は、この台詞から始めましょう。

―――――

事実は時に嘘をつく、と言っといてこの映画、逆にと言うか、言葉通りにと言うか、事実にとらわれない自由な展開で魅せていく。

―――――

物語は、この映画の監督タランティーノの出世作、あの「レザボア・ドッグス」を思わせる、同じ「章立て」の構成を採っており、第1章は、1941年。ドイツ占領下のフランス農村が舞台です。

―――――

ユダヤ人狩りを押し進める悪い悪いナチス・ドイツ。

―――――

そのナチスに狩りだされ、家族を殺され、命からがら逃げ延びた娘がひとり(メラニー・ロラン)。

―――――

一方、連合国側が密かに組織し、フランスに送り込む特殊部隊。

―――――

隊長アルド・レイン中尉(ブラッド・ピット)率いる部隊の目的は、ただひとつ。

―――――

ナチを思う存分、ぶっ殺すこと。

―――――

娘の復讐劇と秘密部隊の暗躍は、どうつながるか。

―――――

ゲッベルスからヒトラーまで「華やか」に登場し、ドラマはパリの映画館における興奮と哀切と凄惨の入り乱れるクライマックスへ…

―――――

各人の運命は…

―――――

えーと、

―――――

戦争が題材ですが、「戦争映画」とは、ちと違う。

―――――

第1に、主に「室内劇」として展開するので、これも「レザボア・ドッグス」と同じく、ひどく人間くさい、役者同士の演技のやり取りをご覧ください、という体裁で、冒険活劇的高揚感とは別物です。

―――――

第2に、さっきも申し上げた通り、内容が、歴史的事実をほとんど意識しない自由な想像に満ちていますので、「ナバロンの要塞」のような戦争秘話という体裁の物語とも、おもむきを異にします。

―――――

史実にのっとっているのは、1940年代のヨーロッパが戦時下にあり、フランスはドイツに破れ、国土が占領されていた、ということくらいで、あとは、思い切り絵空事の世界に遊ぶ「創作のフリーハンド」が活躍する。

―――――

タランティーノ流「戦争おもしろおとぎばなし」。

―――――

が、この「おもしろおとぎばなし」がなぜ「おとぎばなし」のようなスタイルを採ったかについては、少し詳しく突っ込む必要がありそうです。

―――――

突っ込む要点は、「子供なら、戦争を、どう見るか」。

―――――

子供のときって、戦争映画を「善いもんと悪いもんのせめぎ合い」としか見ないでしょう?

―――――

それは、子供の心が、まだ「争い事」の本質を理解しない、縮めて言うなら「無垢」の状態に「留め置かれている」からです。

―――――

ワールド・トレード・センターの崩壊以後、大人たちにとっての戦争とは、人事を超えた不条理の支配する、ひたすら不気味な時間の流れです。だが、しかし、

―――――

そうなっても、相変わらず、子供らが「戦争映画」に向ける目は、おそらく無垢なままなのだ。

―――――

見方を変えれば、少年が戦争を見つめる目は、大人たちが戦争を「人間的に忌む」見方を「超越」してる、と申せます。

―――――

そうして、それこそが、戦争の映画を「おとぎばなし」として復活させたタランティーノの拠り所です。

―――――

面白い映画、なんの知的反発も感じさせないような、明快な面白さを持った映画を創りたい。

―――――

きっと、そう考えたのだと推察しますが、その思いは結局、今世紀の大人が人間的に忌避せざるを得ない「戦争」について、その人間的忌避を「超え出る」視点として「子供の目線」を求めた、ということでないでしょか。

―――――

それ、すなわち「諸行無常の支配する戦争の、“無情さ”ゆえのおかしみを描きたいけど、それには、『神の視点』で人間を見ないといけないな」という発想につながるものです。

―――――

本作に込められている――監督たるタランティーノが考えたのであろう――創作姿勢を、ちょっと想像してみましょう。

―――――

「この映画には、ドラマ全体を上から見つめる『神の目』的な視座の――パノラマチックな観点から人生の不条理や「人が生きることの哀しさ」を楽しんでしまう――、そんな、巨視的な『語り部』の目が必要だな」

―――――

という「批評眼」が、本作を貫く『神の視点』をさらに底から支えてる。

―――――

「レザボア・ドッグス」のときと同様、監督は、どの人物にも肩入れし過ぎず、等間隔で距離を取り、悲喜こもごものドラマ全体を楽しもうとしております。

―――――

言ってみるなら、タランティーノは、「映画に宿る神様」を「いちばん下位の視野」からいったん解体し、改めて「構成をつかさどる神の役に就かせる」という、神をも怖れぬデモーニッシュな立場で映画制作に取り組んだのだ。

―――――

そのような態度が採れたのは、ひとえに

―――――

1・『神の視点』とは、要するに“子供の目の高さ”のことだ

―――――

2・子供の目は、ときに、ものすごく高いところから世界を見下ろす場合があるのだ

―――――

と、ストンと割り切れたことによる。

―――――

子供の頃、戦争映画は、ただ単にわくわくさせる、悦びに満ちたものだった…

―――――

「栄光なき野郎ども」

―――――

この映画では、かつて戦争映画を楽しんでいた「少年の眼」が、今や戦争に対して大方が感じる人間的忌避を超え出るような、まさしく『神の視点』を獲得し、家族が悲劇に見舞われるユダヤ娘の姿や、冷酷無情なナチ将校や、彼らを上回る残虐さを発揮する特殊部隊や、喜劇的に描かれる独裁者のおかしみや、その他大勢のうごめく「地上的なる愛と哀しみと無情の支配する様子」= 作品全体のフォルムを俯瞰・編集していくのだ。あ、

―――――

言ってるうちに、フと、気が付きました。

―――――

これは、言うなれば、タランティーノ流、「天井桟敷の人々」。

―――――

郷ひろみ風に書くなら、おかしな悲劇と哀しい喜劇が交差する人間讃歌。

―――――

なに?
「キル・ビル」や「デス・プルーフ」のほうが面白かった?

―――――

いやいや。
僕は、この監督さんとほぼ同年代なんで、『神の目』が在ることに共感するあなたが観れば、きっと楽しめると、申しましょう。

―――――

気付いても、なかなか近付けないはずの『それ』をものにしている映画ですから。

―――――

(それにしても(いや、関係ないんですけどね)、英・独・仏、3ヵ国語を自在に操る俳優たちに舌を巻きます。すごい。うらやましい。ダイアン・クルーガーって、ほんとは何ヵ国語しゃべるんだ?)

―――――

Jack

|

死の傑作が遠からず/「僕の初恋をキミに捧ぐ」

思い出すのはいささかうっとおしいですが、僕は、程度の重い小児喘息でありました。

―――――

経験から言いますけども、何かの発作で苦しむひとが、前向きに「頑張れ、自分。負けるな、自分」などと己れを励ますことが出来るのは、三日三晩が限度です。

―――――

それを過ぎると、ただ、(この苦しみを終わらせて…)と、願う以外になくなります。

―――――

横隔膜が痛くなるほど激しい咳を繰り返し、苦しいのでふとんに伏せるわけにいかず、結局、椅子に座ったまま、机に突っ伏して何十時間も過ごすことになる。

―――――

当然、眠れないので、意識がモウロウとしてきます。

―――――

繰り返される咳の発作と呼吸困難。

―――――

食事なんか取れません。

―――――

このまま、死んじゃうんじゃないのか?…

―――――

と、そう考えたことも何度もあります。

―――――

しかし、「こんなに苦しむくらいなら、死んでしまいたい…」などとは、いっぺんも思ったことがなかったな…。

―――――

僕が小学校に上がる頃の話しです。

―――――

「僕の初恋をキミに捧ぐ」

―――――

僕は8才のとき、最低の約束をした…

―――――

守れない約束を。

―――――

幼い頃から心臓の病を抱える少年・逞(岡田将生)。

―――――

その彼の恋人になる少女・繭(井上真央)。

―――――

ふたりは、大人になったら結婚しようと誓い合う。

―――――

二十歳まで生きられない、とされる逞と、彼に対してひたすら「一途」な繭の恋愛は、順調に育まれていきますが…

―――――

僕たちふたりの恋愛にはタイムリミットがある。

―――――

とは、逞の台詞。

―――――

ふたりの想いの結末は…

―――――

えー、実は、原作を読みまして。

―――――

ふーん…

―――――

平板に流れそうな話しを、ずいぶん繊細に描いてある…。

―――――

ってんで、興味を持って、映画を観に行ったのでございます。

―――――

結果。

―――――

いやー、久々に、心すなおに「凡庸」と言える一本です。

―――――

主演の二人の魅力を除いて、観るべきところは、ほとんど無いす。

―――――

見るひとが見れば、逞の恋のライバル・鈴谷昴役の細田よしひこくんが気になる、かな?
ま、それは余談。

―――――

つまらなかったのに書く気になったのは、以下のような理由による。

―――――

ご存知の通り、近年の日本映画界における「僕は(あたしは)死んじゃうけど、君の(あなたの)こと、最期まで愛してる」式『愛と死を見つめて』ジャンルの躍進には、本当にめざましいものがあり、「どんな終わり方をするか、容易に予想のつくもの」に、なぜ、これほど人が集まるのか、いい加減、この辺で少し触れておいてもよさそうな、そんな気がするのです。

―――――

なにしろ、あーた、「たかだか死んじゃう、っていう“だけ”」の話を語らんとして、実録あり、ケータイ小説あり、マンガあり…

―――――

「死んじゃうひと」も、N澤MみさんをはじめとしてM浦H馬くん、A倉N々さん、O沢Tかおさん、T村M和さん…と、性別・年代、多岐に渡る。

―――――

なぜに、みんな、死に急ぐ?

―――――

いや、多くは「感動しましたぁー!」という声援に支えられているようなので、水を差すのもなンだし、簡単にチャチャは入れますまい(あ、いやいや、そう言っといて、こうして入れるのでありますけども)。

―――――

言いたいのは、2つのことです。おっと、

―――――

正確に言いましょう。

―――――

この流行りには、2つの「日本社会からの要請」が込められている…縮めるなら、2つの視点が隠されている、と思います。

―――――

まずひとつは、「●●くん(●●さん)が好きっ!」という誰にもありがちな、実に素朴な情緒の揺れ動きから解き起こして、一気に人の「死」までを理解しようとする、一見謎めいた欲求です。

―――――

これには明白な解答が付けられる。わりに平凡な解答です。

―――――

死のことが解れば、「人生」についての理解が深まると思ってる。

―――――

「生き方マニュアル」のようなものが、手に入ると、どうやら信じたいのです(ん? 誰が?)

―――――

この観察は、俗流の精神分析から、導き出せる。

―――――

異性に対する憧れが「性」に対する欲求へと高まるとき、そこに日常的な昼間の世界、つまり「生の日々」を突き抜けようとする夜への欲求、「死への欲動」が働いている…というのが、フロイト式精神分析。

―――――

そう聞かされても、驚きはないでしょう?

―――――

あなたが、僕と同じ、日本人だからです。

―――――

西欧にはショックを与えたフロイトの考えが、日本人にとってはさして意外なものでない気がするのは、故なきことではありません。

―――――

我が国では、「あの瞬間」、かの絶頂の瞬間を「逝く」と表現するわけで、聖なる営みに死の影が漂うことは、素直に性を受け止める人には、驚きではないのです。

―――――

他方、英米文化圏では、同じ瞬間を「I'm Coming」と表現し、これはアキラかに、日頃は地上の不浄と離れている「神の世界」、天上との合一を暗示するひと言です。つまりですね、

―――――

英米の女性は、あの瞬間、もはやベッドの上にはおらず昇天しており、「I'm Coming」と口にしているのは、天より降りてきた聖なる意識であるのです。

―――――

(実際には「イってない」のに、演技をする女性がいます。聖なる「儀式」が演じられているわけですね)

―――――

この美しき性の高まりに「死の影が差している」なんて言われたら、衝撃を受けて、当然です。

―――――

その衝撃も過去の話し。

―――――

「愛すること」を追いつめていくと、その究極には「死への欲望」が見えてくる。

―――――

「死」は退屈な日常をぶち破り、我々をものの見事に浄化する「感動のエンターティンメント」を喚起するのだ

―――――

…と、いう思想が、少なくとも日本映画の世界においては、もはや常識のようになってしまっておりますが、日本にもともと「逝く」という表現にまつわる性的風習が在ったにせよ、それを思想的に分析した――フロイト的考え方が輸入された――歴史は浅く、日本精神分析学会が発足するのは、1955年のことです。

―――――

で、

―――――

思うのですが、近年の日本では、この考えを逆にたどり、

―――――

死を見つめていくと、「愛のなんたるか」が理解できる

―――――

、という思考に傾いている気がします。

―――――

なぜ、そんな風になっているのか?

―――――

逆説めきますが、「愛」についての解釈が安定していないからじゃないでしょか。

―――――

これが、本日言いたい、第2点。

―――――

「愛」についても「死」についても分からないので、両者を共に、その起源からたどってみれば、2つが2つながらにして、「白日のもとに」明らかになるではないか、と思ってる。そう期待してる。

―――――

「僕の初恋…」でも、無情な死の宣告が、二人の主人公の「愛情の深まり」をもたらす「契機」として、紹介される。

―――――

彼を好く彼女は、愛をもって、二人を引き裂く死を乗り越えようと試みる。

―――――

「愛」が「死」と同等の価値を持つとき、初めて「愛情についての認識」が輝きだす、というのですから、これはもう、「“愛”とはなんなのかが、『日常的なレベル』にあっては、さっぱり分かっていないのだ…」と、結論付けるよりありません。

(などと書くと、当然の如く、「そう言うおまえは、分かっているのか?」という指摘を受けそうです。ご遠慮なく。そして、どうぞ、あなただけの愛を見つけてください)

―――――

なんだか煙に巻くようなことばかり、書いていますね。

―――――

さらに煙に巻くようなことを述べますが、英米文化圏的意味の「愛」とは、本来、極めて不安定な概念であり、そう簡単に解らなくて当然です。

―――――

アチラの方は、パートナーを残して出かけるときも、外出先から電話するときも、ひじょーに頻繁に「I love you.」と口にしているでしょう?

―――――

そう言わなければ崩れてしまうほど、「愛」というものが足場の不安定なものだからです。

―――――

日本に昔から在った「愛」の字は、もともと御仏の「慈愛」から派生していたものであり、男女の性愛を表していたわけではありません。

―――――

明治になって、「LOVE」という言葉が入ってきたとき、「愛」の字を当てたのは、ニシ・アマネあたりではないか、と想像しますが、導入から百数十年を経た今、

―――――

若い世代を中心に支持される、あちこちに氾濫する「愛と死の物語」には、もともとよく解らない崩れやすい「愛という観念」を、我流で更新しようとする意図が込められている。

―――――

それは、「死」というものを覆い隠し、結果として「生」の輝く場をもふさいでしまった英米的現代観からの脱却を図ろうとする日本の試行錯誤のように見えるのですが…

―――――

それをお手軽に、

―――――

「感動してよ!」
「感動したよ!」

―――――

というやり取りにまとめて済ましているだけではなぁ…

―――――

「死」と「愛」がポップに消費されて、「鬱屈した若さ」もまた消費されるのみで、再び晴れ晴れとした、そして同時にどんよりした、何もさらけださない「日常」がやって来て、それまで。

―――――

…ということになるのではないか、と危惧する僕です。

―――――

いや。
お手軽な消費財としての「愛」や「死」を漫然と売るのが現代芸能なら、そういうはっきりした停滞を打ち破るのもまた、優れた芸能の力であり、

―――――

僕は、アクティブに「待とう」と思います。

(だから、こうして、書きました)

―――――

氾濫する「愛と死の物語」は、一面で、俳優たちの魅力的な存在感(つまり「生命力」ですね)を新たに開発する役をも担っており、

―――――

彼ら彼女らを最高のかたちで演出できる人々も、遠からず現れることでしょう。

―――――

そのとき、観客は言うに違いない。

―――――

「傑作ね! やっと、来たぁ(Coming)って感じじゃない!」

―――――

と。

―――――

Jack

|

なぜ、「あの曲」を!/「パイレーツ・ロック」

あー!
もう!

―――――

なんで「あの曲」なんだ!

―――――

なんで、あんな曲でシメるんだよ!

―――――

…と、急に言っても、分かりませんね。

―――――

失礼。

―――――

「パイレーツ・ロック」です。

―――――

原題は「The Boat That Rocked」

―――――

舞台は1966年の大海原。

―――――

英国国営放送BBCラジオが、大衆音楽を不良の温床と規定し、1日わずか45分間しか掛けない頃、海の上から、つまり船上から、24時間ロック放送を続ける、ものすごい聴取率の海賊音楽ラジオ局が在った!
(実話だそうです。いかにもイギリスらしく、妙にナットク)

―――――

お話は、トンでるママの差し金でこの船に乗り込むことになった高校中退の少年カール(トム・スターリッジ)がやって来るところから始まります。

―――――

彼が知り合う破天荒なDJたち。

―――――

おデブさんなのに何故か女性の支持率圧倒的なデイブ(「キンキー・ブーツ」「ホット・ファズ」のニック・フロスト)。

―――――

“伯爵”とあだ名される本名不明の髭もじゃ米国人(フィリップ・シーモア・ホフマン)。

―――――

伝説的なカリスマ、ギャヴィン(リス・エヴァンス)。

―――――

ほかにも「やたら美男子」だとか「性格悪い」だとか「気のいいレズビアン」だとか、乗員みな個性的なヤツばかり。

―――――

そして、「スティル・クレイジー」以来このテの映画には必ず出てくる、船のオーナー役、ビル・ナイ(お忘れでしょうが、「パイレーツ・オブ・カリビアン」シリーズのタコ髭のお化け海賊です)。

―――――

カールが次第に船に馴染む頃、英国政府の大臣(ケネス・ブラナー)は、この放送局をなんとかして取り締まるべく、動き出しておりました…

―――――

かなり楽しく出来上がってる映画ですが、興業的には、やや、苦戦しているようで。

―――――

ひとつには、取り上げているものの「主眼」が、そしてまたひとつには、その「描き方」が、ひとの興趣をそそらないのかもしんない。

―――――

これ、いま書いた通り、最も活気ある時期のロックンロールが主題でして、ロックの名曲がガンガン掛かりますけれど、「ヘアスプレー」のようなミュージカルではありません。

―――――

例えば、キャメロン・クロウ監督の「あの頃ペニー・レインと」は、ロック文化が衰退していく様を背景にした、切ない青春ストーリーだったんですが、いやこれはそういうものとも、おもむきが異なります。

―――――

言うなれば、純然たる「音楽映画」。

―――――

テーマは「ロック・カルチャーそのもの」です。

―――――

ちゃんと主人公の少年を軸にしたドラマがあり、その点からはストレートプレイなんですが、それでも「音楽を巡る愉しさ」を描くことが大目的なので、例えるならあのジョニー・キャッシュの伝記映画「ウォーク・ザ・ライン/君へつづく道」より、実は「ビートルズがやって来る ヤァ!ヤァ!ヤァ!」のような純然たる音楽映画に近いのです。
売りにくい感じでしょう?

―――――

この映画で掛かる全曲(50曲くらいあるそうですが)のタイトルが全部分かるひと、いるかなぁ…

―――――

僕も半分以上は分かったと思うんですけど、肝心な、ある場面で――DJの1人が後生大事に抱える1の枚LPを、もう1人が「くだらんレコードだ」と言って捨てる――、誰の何ていうアルバムなのか、分からなかった! くそー、面白そうなギャグなのに…

―――――

これは嬉しいことですが、こういう映画が新鮮な視点でロックを掛けると、古い曲が活き活きと聞こえますね。

―――――

ん?

―――――

いや、違うな、

―――――

それぞれの曲が持っている本質的でフレッシュな息吹きが、「時代の空気を再生しよう」とする映画の試みによって、自ら包み込んでいた躍動感を思い出し、(変な言い方ですが)自律的に己れの持つワクワク感を鮮やかに蘇らせるのだ。

―――――

それぞれの曲は活き活きと「させられる」のでなく、自分たちがいつまでも活き活きとした活気を失わないことを、自ら「思い出す」のです。
(そうそう。その方が正しい言い方だ)

―――――

DJたちが掛ける曲(♪ 針がおりる瞬間の 胸の鼓動焼きつけろ)、ストーンズを始めとして、文字通り、きら星の如しです。

―――――

キンクスでしょ、マーサ&バンデラスでしょ、ビーチボーイズ、プロコルハルム…

―――――

シブイところで、ヴァン・モリソンのいたゼムの「ヒア・カムズ・ザ・ナイト」とかね、

―――――

いーですね♪

―――――

いいじゃない、
いかしてるよ♪

―――――

ですが、観てるうちに、だんだん、ひとつのことが気になってきます。

―――――

これだけいっぱい掛けておいて、最後の最後――フィナーレは、どんな曲にするつもりだろう?

―――――

それがさぁ…

―――――

「あの曲」なんだよ!

―――――

あー!
もう!

―――――

なんであの曲なんだ!

―――――

ファンの間では悪名高い、ダっセぇ曲なんだぞ。

―――――

やや唐突な感じのするクライマックスは、感動的なラストを盛り上げるための布石だと「許す」として、シメにあの曲を持ってきたのは、気に入らんなー。

―――――

あれひとつで、「資料で知っていた現実」を思い出しちゃう。

―――――

60年代というのは、この映画が描くほど「ハッピー」な時代ではなかったのじゃなかったっけ。

―――――

親子の断絶。

―――――

政治への期待と絶望。

―――――

麻薬。

―――――

終わらない、性。

―――――

そして、なによりも先の見えない思春期特有の、不満の鬱積。

―――――

オーラスのたった1曲(80年代という、ある意味「不気味な時代」を代表するナンバーです)で、気分がスッと醒めちゃいました。

―――――

醒めちゃったが為に、「なぜ、この映画を製作したのか」なんていうツマランことに、想いを馳せたりしちゃったよ。
納得いかねぇ。

―――――

「ラブ・アクチュアリー」の監督でもあるリチャード・カーティスの演出意図が、「音楽の愉しさをフィルムの中に焼き付ける」ことにあるのは解る。

―――――

それは、よーく、わかった。

―――――

しかし、ラストで、そんな「主張っぽさ」を前面に出してこなくとも、ドラマを通じて、ロックの素晴らしさ――鬱屈、裏切り、絶望の季節を通り過ぎて、産み出されたときには在ったかもしれない矛盾を、時の経過と共に乗り越えて、ただ残った「身体の音楽」の素晴らしさ――は、充分に伝わってたんじゃないのかな…。

―――――

「みんな、いまでも、いつだって、ロックを聴いてる」という理屈っぽい締めくくりに、がっかりというより、どこかシャクにさわる「大人の余裕」を感じて、「ロックがそんな余裕と共に“大人たちの文化”として取られちゃったら、子どもたちの居場所は、ますます狭くなっちまうんじゃないのかい?」という疑問を感じて、そのせいで、それまでの2時間強の愉しい時間にさえ、留保を付けたくなったりして、「ちぇっ」と思いながら劇場を出たのでした。

―――――

(いや、愉しかったんですけどね、僕はなんで「大人と子どもの関係」について、ピリピリしたりするのかな。

そういうことを気にしない人に、この映画をお薦めします)

―――――

Jack

|

過渡の男/「ワイルド・スピード MAX」

本日は、ヴィン・ディーゼルという男について。

―――――

先ほど「笑っていいとも!」を見てましたら、テレホンショッキングのゲストで出た大杉漣さんが、「57才で車の免許を取った」、とお話しされてました。

―――――

そうかぁ…

―――――

60近くなっても、頑張れば取れるのかぁ…

―――――

ちょっと希望が湧いちゃうなぁ!…

―――――

実はですね、

―――――

わたくし、クルマがかなり好きなのに、免許を持っていないんです。

―――――

好きなのに乗れないから、単なる野次馬的関心ですね。

―――――

なんで、免許を取ってないのか?

―――――

いやー、話せば長いんだよ、

―――――

いろいろ事情があったのよ。

―――――

ま、それはともかく

―――――

乗れないくせに、ちょっとしたことを申しましょう。

―――――

先日F1の日本グランプリが行われたあとのラジオの番組で、ピストン西沢さんが

―――――

「最高度の機械を“人間”が動かしてるんだよなぁ!」

―――――

と、

―――――

そこにロマンがあるんだよなぁ! と…

―――――

いささか興奮気味に語っておられましたが、はっきり言って、そうゆう20世紀サルトルもどき的文学調ヒューマニズムは、この場合はどうでもよろしい。

―――――

では一体なにが、僕にとっての関心の対象なのかと言いますと、

―――――

わたくしですね、

―――――

昔から機械と人間の関係、ひいては「機械が人間社会に及ぼす影響」なんかに激しく興味を持っておりまして…

―――――

「機械」というのは、もとより人間の生み出すものですから、つまり、人間が自ら作り出したシステムによって(それを制御するのでなく)、逆に働きかけられて、それまで安閑と持っていた旧式な「人間らしさ」に大なり小なり変革を迫られ、「変わらざるを得なくなる」という事態に目を引かれてしまうのです。

―――――

F1は、そのことが究極的に示されるショーだと思っています。

―――――

分かりにくいですか?

―――――

では、あなたにも身近な例を引きましょう。

―――――

古いところでは、「12時間計測の機械時計」がそうですね。

―――――

機械時計は、部屋の中に「時間という考え方」を持ち込みました。

―――――

我々は、機械式時計がもし発明されていなければ、おそらく現在とは根本的に異なる時間センスのもとに暮らしているはずです。

―――――

海外旅行の楽しみなども、「持ち込まれた時間の観念」と、大きな関わりを持っている。はい。

―――――

さて、ほかには何か?

―――――

「電話」がそうでしょ。

―――――

あれは明らかに、手紙と電信しかなかった時代に比べて、人間の生活を変えました。

―――――

生活が変わる、ということは、人間が基幹としている「精神性」にも、ただならぬ揺さぶりをかけられるということです。

―――――

もっと言いましょう。

―――――

人間の暮らしと「昔からあったはずの人間らしさ」を変えたもの。

―――――

テレビがそうでしょ。

―――――

パソコンがそう。

―――――

ケータイがそう。

―――――

かつてのウォークマンや今のiPodがそう。

―――――

そうしたものが登場するたび、我々が日頃疑ってかかることのない「人間らしさ」は振動させられ、「ちょっと」か「大きく」かは分かりませんが、機械との関係において、それ以前に信じていた姿から内面的に(いや、もしかしたら外見も)、変質しているのです。

―――――

変身する醍醐味。

―――――

腕時計ひとつ、携帯電話ひとつ変えただけで私たちは、「ファッションを変えた」つもりになる。

―――――

その最たるものが、自動車です。

―――――

残念ながら日本では変わりつつありますが、「クルマを持つ」ということは、多くの国で「ステイタス」です。

―――――

この「ステイタス」には、ふた通りの意味がありまして、ひとつにはメルセデスやBMW、あるいはレクサスに乗る、つまりは「ハイクラスの人間である」というしるし。

―――――

そしてもうひとつが、シェヴィやGT-Rを乗りこなす「俺は世間に迎合なんかしないぜ!」という若き反逆のしるしです。

―――――

この2つが重なるとき、そこには「社会のルールを逸脱することによって、凡人たちより上に立った!」という者がいる。

―――――

クルマというのは、カウンターカルチャーの最も先鋭的な“旗印”ともなり得たのです。

―――――

…と、過去形で言いましたが、やはり自動車に乗ることが、スタイリッシュな「社会への反抗」として衝撃的だったのは、ジェームス・ディーンの時代までさかのぼらねばならないでしょう。

―――――

いつしか世の中は、低燃費ローコストのミニバンや軽乗用車で溢れ、「なにをしたいか自分でも分からないが、とにかく既成社会のいろんな仕組みに向けて、不屈の雄叫びをあげたい!」、と思っている若者を――(そういう若者の数自体が減っているかもしれませんが)――魅了するようなクルマが減りました。

―――――

原題「Fast & Furious」、邦題「ワイルド・スピード」のシリーズは、そんな若者の想いを取り込もうとして、作られている。

―――――

基本となるのは、

―――――

公道を猛烈な勢いで疾走する改造車、

―――――

ネット社会に巣食うワルの異分子、

―――――

お堅い警察やFBIをものともしないロック文化、

―――――

男と女と酒、

―――――

などです。

―――――

そう。

―――――

核となるのは「男と女と酒」の部分。

―――――

新しい話題じゃない。

―――――

あの斬新なスパイ映画「トリプルX」のように、新しい話題のほうに目を向けていたなれば、これは「新しい映画」となったでしょうが、この作品の場合は、新しく装っただけの保守的なロマンティシズムが幅をきかせておりますです。

―――――

「ワイルド・スピード MAX」

―――――

第一作目で若者たちの暴走グループに潜入した捜査官ブライアン(ポール・ウォーカー)は今やFBIに籍を置き、麻薬組織を追っている。

―――――

一方、グループのリーダー的存在だったドミニクは国外に逃れ、相変わらずの無軌道ぶり。

―――――

そんな二人がひとつの事件をきっかけに、運命的な再会を果たします。

―――――

アメリカに戻るドミニクの目的は何か。

―――――

ブライアンは彼を逮捕しなければならないのか?

―――――

もう一度、互いの意地とプライドを賭けたバトルが始まる。

―――――

…と、書くと、しらけたりしませんか?

―――――

この映画、冒頭の派手なカーアクションで魅せたと思ったら、あとが良くない。

―――――

復讐に燃える男と、その男に奇妙な友情を抱くもうひとりの男、という設定は、上手に描いてくれないと、古臭い浪花節そのもので、ドラマが鼻白むほど退屈です。

―――――

よく出来た脚本とは言えない。

―――――

こういう映画――クルマとインターネットと髪の長いいいオンナとロックと反抗精神――つまり、実体はアンチ・ニューエイジな「男の子趣味」――に現代的なリアリティを与えるには、「新しい文化」の中で得た“肉体”を持つ、「新しいヒーロー」が必要です。

―――――

かつて、そのような役を担ったのは、シュワルツェネッガーだった。

―――――

あの大迫力、

―――――

ショットガンを持って立つだけで新時代のシンボルたり得た「世紀末の金剛像」、

―――――

進化する時代の様相をあれほど的確に捉えた「肉体性の魅力」は、いったん溶鉱炉の中へと姿を消し、以前よりかなり小粒な――見方によっては、前よりも小回りの利く――外見を伴って、Google検索に代表される新しいカルチャーをフォローしきれないハリウッドの「期待の星」として、戻ってきました。
それが、つまりは、

―――――

ヴィン・ディーゼルという男であり、彼の立ち位置だと思うんですね。

―――――

この映画でドミニク役を勤める彼にとって、最新の改造車を操り、裏社会に潜む麻薬組織と対決するなぞ、軽いものです。

―――――

「軽い」というのは、ヒーローになることが、彼にとって容易だと言っているだけでなく、

―――――

彼が体現するカルチャーの質そのものが、機械の如き現代社会の中に埋もれて、相対的「比重」が軽くなってしまっている、と…

―――――

スカッとしに入った劇場で、ただただ「うーん…」と唸らされた2時間から、そういう連想が浮かんだわけです。

―――――

この映画の作り手たちは、観客の中にある言葉にしにくい関心事が「いつの時代にも変わらぬロマン」などでなく、「機械に追い詰められつつある人間の、現在なりの生き方」であることを解っていない。

―――――

作り手は解っていないが、ディーゼルという男は、身体で「それ」を表現してる。

―――――

機械と人間の対峙――機械との関係を通して変わる人間の本質――が、人々にとって「気になる話題」である限り、

―――――

ディーゼルは「軽い比重のヒーロー」をしばらくの間、演じ続けていくでしょう。

―――――

誰か、そのせめぎ合いの本質を体で表せる「本物」が現れるまで。そう。

―――――

(つまり、ワルいけれどもこの人の存在は、過渡的なものではないでしょか)

―――――

Jack

|

空洞/「しんぼる」

やー、やっと観られた!

―――――

「しんぼる」です。

―――――

観たかった。

―――――

いろいろ都合で劇場に行けず、「まぁ大人気のようだし、もうしばらく放っといても、上映はしてるだろう…」と、高をくくっていましたら…

―――――

ん?
なんだ?

―――――

あれあれ、
「大人気」ってわけでもないのか…

―――――

yahooのレビュー見ました。

―――――

そうか…
賛否両論、ていうやつか…

―――――

いかんな、どうやら、早く観に行かないと、終わっちゃうな。

―――――

…てんで、観てきました!

―――――

結果…

―――――

やー! 僕は、「賛」のほうですね!

―――――

「賛」の上に「大絶」を付けたいです。

―――――

かーなり面白いじゃないの。

―――――

取り上げたテーマの「料理の仕方」が、たいへんエレガントで、見せ方も、要所要所でとても巧い!とうなること、しきりでした。

―――――

その「テーマ」について、いろいろと言いたくなる映画でもあるんですが、あー、言っちゃうと、「ネタバレ」ってことになるんだろうな…

(しかし、「ネタバレ、ネタバレ」って、いつから言い出したんでしょう? そんなにうるさいこと言ってたら、淀川センセや植草甚一さんの映画解説なんて、まったく成り立たないことになるし、内容にチビッと触れるだけでもピリピリと目くじら立てるなんて、「映画を巡る環境」を楽しんでないね。どうかしてます、ほんと)

―――――

メキシコの田舎に住む、とあるプロレスラーとその家族のお話。

―――――

特にどうということもない日常が、淡々と綴られます。
今日は試合のある日です。

―――――

一方、

―――――

なんの関係があるのか、まったく説明の入らぬ場面。

―――――

真っ白な壁で四方を仕切られた大きな部屋。

―――――

天井は遥か見えないほど高く、上空からは太陽が照らす如く、明るい光が差している…。

―――――

この部屋に、パジャマ姿の男(松本人志)が閉じ込められている。

―――――

観ていくと分かりますが、この映画、「なぜ閉じ込められたか」を問うことには(まるで人生のように)意味がない。

―――――

男は、なんとかして部屋から出ようと試みますが…

―――――

さて、メキシコのお話と、この部屋のエピソードは、どういう脈絡で一本の映画にまとめられているのでしょうか?

―――――

あのですね…

―――――

この作品の中身について、どう触れたらいいかな、えーと…

―――――

あの…「世界観」ていう言い方があるでしょう?

―――――

恋愛映画でもアクション映画でも、「この作品の世界観は…」なんて言う。

―――――

もっと分かりやすい例を引くなら、「ハリーポッター」のようなファンタジーや「ウルヴァリン」のようなSF。

―――――

「世界観」の描き方が決定的な意味を持ちます。

―――――

で、

―――――

これは、松本人志という人が、「おれは“世界”というものを、こういうものだと認識してます」と表明している、一種のプライベート・フィルムです。

―――――

その認識というのは、ひとくちに言って、「世界とは、なんとも、おかしい」というものです。

―――――

もちろん、この「おかしい」には二重の意味が込められてる。

―――――

「おかしい」という単語に、「笑える」という意味と、「狂っている」というもうひとつの意味が、重ね合わされています。

(実際に笑えるかどうかは、別問題です。
コメディ映画としての角度からは、飛びすぎてて、僕は笑えませんでした)

―――――

「笑っちゃう」ということと「狂っている」ということが並立するような、そんな映画的テクストとは、どのようなスタイルを取るものか。

―――――

今まで何人もの監督がこの問いに挑戦し、その中には、キューブリックの「博士の異常な愛情」のような大傑作や、スピルバーグの「1941」のような意欲の空回りした不発の作品や、いろいろとありますが、

―――――

そうした様々なメタ・フュシカ(形而上学)的「世界への興味」を提示してきた映画群の中にあって、この「しんぼる」という作品がユニークなのは、

―――――

「まず“世界”なるものを成立せしめている枠組みには、狂っているなりにルールがある」

―――――

という観点を見せてくれるところでしょう。

―――――

閉ざされた部屋からの脱出を試みる男は、「あるシンボル」以外に何もないその部屋が、一定の規則に支配されているのに気づく。

―――――

彼は、その「支配の規則」にたちまち、順応していってしまいます。

―――――

そうすることが、「脱出」の鍵になるのではないかと考えて。

―――――

メタフィジーク(哲学)的でありながら、現実に生きる「子どもから大人へと、今まさに変化しつつある人々」が、いかにも取りそうな態度の「暗喩」になっているでしょう?

―――――

支配の規則に気づき、それに乗っかり、さらに利用しさえすることで、彼はなんとかして状況を逆手に取り、「知らぬ間に与えられていたテリトリー」の“利用者”の立場に立とうとする。

―――――

誰もが、社会人になるとき、経験しそうなことですね。

―――――

ひとが社会人になる、ということを一面から捉えるなら、それは様々な新体験への感想を持つに留まっていた思春期を「脱出」し、自分の人生の「主役になろう」とする時期だ、と言えます。

―――――

観客であることから主役になることへの「立場」の移行。

―――――

しかし、移行したところで、彼/彼女に「世の習い」のすべてが解るわけではありません。

―――――

ありませんが、それでも人は、たいていのことについて、「解っているフリ」をしなくちゃならない。

―――――

脱出の努力を重ねるうちに、人は知らぬ間に、そうした如何にもうさんくさい立場を選ばされてしまうのです。

―――――

映画は、その辺りのことについて、一見ミニマルに、実は非常に巨視的に描いています。

―――――

『〈主人〉は、構造の本質的欠如の場所に自分がいることに気づくと、自分がその剰余――構造からこぼれ落ちる謎のX――を掌握しているかのように行動する』

スラヴォイ・ジジェク「汝の症候を楽しめ」:鈴木晶 訳

―――――

僕が「ああ、これは、ものすごく面白いなぁ…」と思った最大の要点は、

―――――

追い詰められた末の狂気がどこへたどり着くかを「じっ…」と見つめていくと、結局、「2001年 宇宙の旅」のボウマン船長のような“役割”がある、という推論に行き着くんだな…というトコです。

―――――

狂ったコンピュータ「HAL」が支配する宇宙船を脱出しようと必死になるその果てに、ボウマンは、巨大な秘密があるのに気づく。

―――――

もちろん想像の域を出ませんがこの映画、「2001年…」から大きくインスパイアを受けている、と見ましたです。

―――――

繰り返しますが、中途半端に終わるかに見えるこの映画には、きちんとした結論があります。

―――――

「世界は、なんとも、おかしい」

―――――

松本監督が芯からの芸術家だと思うのは、「おかしいから、こう生きるべきだ」とは言ってない点です。

―――――

かつてトリュフォーが言った如く、「芸術家は何かの提言をするのでなく、ただ、見せるだけ」が仕事です。

―――――

こういう映画を観て、「1800円かえせ!」とか言ってる連中の気が知れない。

―――――

わざといたずらにペダンチックに書きますが、松本人志という監督は、「極めて充実した空洞」のような作品を作ってみせた。

―――――

「充実した空洞」

―――――

というのが、モチーフとして優れて現代先進国的であることを述べて、今回は終わりましょう。

―――――

その辺りについて、つまり充実した空洞について、もう少し突っ込んでみたい人は、この映画を観たあとに、「2001年…」と同じくキューブリックの「アイズ・ワイド・シャット」なんかを観るといいです。

―――――

(“なんにもない”っていうことに凄味を見るか、腹を立てるか…、なんとなく若いひとのほうが怒っちゃいそうな気もしますね。日本も含めた先進諸国が「若くない」ってことの、ある種の証しでもあります。

いま、若いひとには面白くない時代が続いているのかもしれない、ということが、ひとつ気がかりではありますが)

―――――

Jack

|

夢見るように語らせて/「ココ・アヴァン・シャネル」

フランス語で「Directeur」、ディレクトゥールと言うと、部長・局長・所長・支配人…などの意味になります。

―――――

「映画監督」と言いたい場合には「Realisateur」、レアリザトゥールと言います。

―――――

「Realiser」、レアリゼという動詞が「実現すること」、ひいては「夢想を現前化させること」を意味していますので、レアリザトゥールという呼び名は、それだけでロマンティックなニュアンスを持っています。

―――――

フランス人が映画というものをどう観ているか、ちょっと「感じさせる」お話しじゃないでしょか。

―――――

ちなみに女性監督のことは「Realisatrice」、レアリザトリスと言うのですが、まさしくこのレアリザトリスの敬称がふさわしいと思うのは、

―――――

「ココ・アヴァン・シャネル」

―――――

のアンヌ・フォンテーヌ監督です。

―――――

19世紀の終わり。
20世紀の始まりの予感がある頃。

―――――

孤児院にひと組の姉妹が預けられる。

―――――

妹の名前はガブリエル。

―――――

「シャネルになる前の(アヴァン)ココ」。

―――――

長じてお針子をしながら姉と共に酒場で歌う歌手となった彼女は、陽気な軍人バルザンと出会います。

―――――

なんとしてでも貧乏から抜け出して、パリに出る。

―――――

そう決意する彼女は、バルザンのもとへ、「押しかけ愛人」として住み込みますが…

―――――

これはねぇ…

―――――

フランス映画に常に革新の息吹きを感じていたい「作家主義びいき」の人なら、複雑な想いで観るだろうなぁ…

―――――

僕?
僕はすっかりお気に入りです。

―――――

どうかすると「保守的」と言ってもいい語り口が、この映画に関しては魅力的です。

―――――

全編、「女による女の見方」が光っている、と感じました。

―――――

日々の貧しい暮らしに追われるココ(オドレイ・トトゥ)を、顔に下から光を当てて、やつれた疲れ果てた表情で表現する残酷さ…

―――――

彼女が初めてパリ社交界の女性たちを目の当たりにする際の高揚を、彼女目線で移動するカメラであらわす手法…

―――――

その目は飾りの多い帽子やコルセット付きのドレスを追っていく…

―――――

だが、やがて女性を締め付ける格好に疑問を持ち、ファッションへの才気を「社会への反抗」として伸ばしていく様をゆっくり繊細に捉える脚本…

―――――

オドレイ・トトゥが次第に魅力を拓いてく。

―――――

極めつけは、海を初めて見た直後の描写です。

―――――

ネイビーブルーのジャンパーに縞々シャツの漁師を見るココ。

―――――

次のシーンでは、もうジャンパーや縞シャツを着こなしてる!

―――――

そうした衣服に関する細部の表現に加えて、彼女の生きざまに絡む「男」の描き方もうまい。

―――――

特に人生享楽派のバルザンを演じるブノワ・ポールブールドがいい。

―――――

ココの奇行に手を焼き、厄介者扱いしながら、いざ彼女が別の男に入れ込んでいくと焼きもちを妬くという…

―――――

男性観察も堂に入ったものです。

―――――

しいてケチをつけるなら、後半から登場するカペルなる青年との恋愛の描き方が平凡かな?

―――――

それでも、それは、これだけ贅を尽くした映画の傷とは言えないと思います。

―――――

フランス映画も、こんな風に「愛すべき人生」を描けるほどに「揺り戻し」たか…

―――――

ここに至るまでに在った、幾つもの「ポスト(脱)・ヌーヴェルヴァーグ」の映画たちを連想しました。

―――――

ヌーヴェルヴァーグというものをどう位置付けるかが、ひと頃のフランス映画界にとって、最大の難題でありました。

―――――

一時代を飾ったポスト・ヌーヴェルヴァーグのフランス映画たちは、ベネックスの「ディーバ」にせよカラックスの「ポンヌフの恋人」にせよ、みんなどこか「メタ恋愛劇」といったおもむきのものでした。

―――――

同じくベネックスの「ロザリンとライオン」なんて、まさしくメタ恋愛劇だったし、パトリス・ルコントの「橋の上の娘」なんてメタ恋愛劇そのものです。

―――――

「メタ」恋愛劇って、なんのことかと言いますと、恋や愛について謳う前に、「まず、“愛する”とはどういうことだ?」という「大前提」を疑うことが介在していたのです。

―――――

「すべてを疑って、小間切れの要素に分解する」というのがヌーヴェルバーグの映画作家たちに多く見られた態度です。

―――――

60年代から70年代にかけてというのは、あちこちで既製の価値観が崩壊し、若者が独自の視点で何事かを創ろうとした時期です。

―――――

フランスの若い映画監督(自ら「映画作家」と名乗りました)は、まずいったん、あらゆる物語を「出来事の総和」と捉え、その観点から出来事ひとつひとつを小間切れにして自由につなぐ、という手段に打って出た。

―――――

そうすることで、あらゆる出来事について、「これって、つまり何のことなんでしょう?」という「議題」に仕立てることをやってのけた。

―――――

その若さは、いま観ても、鮮烈です。

―――――

しかしながら、ここに、ある問題点を見るとすると、作家たちが「あとに残るような“方法論”を提示しなかった」、ということになるでしょか。

―――――

小間切れにされた議題たちは、それぞれがひとつひとつ、たいへん魅力的なパズルのピースを構成していたのですが、それらを発表する作家たちが主に「即興性」を重んじていたこともあり、手法として映画界に定着するものではありませんでした。

―――――

困ったことに、魅力的な即興性を発揮したヌーヴェルヴァーグの映画たちは、それまでの、「どちらかと言うと観客の持つ常識に対して優しく進行する」オールドスタイルの映画群を、蹴散らしてしまいました――(それは映画の歴史に向けてオマージュを捧げようとした若い映画監督たちにとっては、本意でなかったはずなのですが)――。

―――――

ヌーヴェルヴァーグがフランス映画を駄目にした、と言ったのは故・淀川長治さんですが、駄目にしたかどうかはともかく、「まず疑うことありき」といった考え方の衝撃は、たしかにフランス映画から「物語ることのカタルシス」を奪ってしまったと言えるかもしれません。

―――――

「語る」という行為は、それが疑問のかたちで綴られた場合には、観客にとって「何かを投げかけられた」ものにはなるかもしれないが、「描写の奥深さにウットリした」とか、「痛快さにウサを晴らした」とかいったものにはなりにくいからです。

―――――

(この点、ヌーヴェルヴァーグの映画作家たちが表現に関して鋭かったのは、彼らが激動の時代に在って、マンネリに陥りつつあった伝統的な「物語る」やり方をいさぎよく捨て、「ロマン」や「痛快さ」を達成するためにこそ小間切れの即興性を選んでいったことでしょう。たとえそれが何事かの方法論を打ち立てる、といった「建設的な」やり方でなかったにしても、です。エニウェイ、いずれにせよ)

―――――

ヌーヴェルヴァーグの「負の遺産」とでも呼ぶべきものを受け継がざるをえなかったフランスの監督・脚本家たちは、愛や恋や怒りや悲しみや憂いやまどろみや、要するに「人生についてのストーリー」を再び「とうとうと流れる物語」として語れるようになる日を、いろいろ努力しながら待ち焦がれていたはずなのです。

―――――

で、

―――――

この「ココ・アヴァン・シャネル」は、もうそれが出来てる。

―――――

このことは、マリオン・コティヤール主演の「エディット・ピアフ 愛の讃歌」でも感じたことでありますが、この映画を観て、「ああ、本当にフランス映画も新しい時代に入ったな」と確信いたしましたです。

―――――

かつてゴダールは、自らを「ジャン=リュック・シネマ・ゴダール」と名乗り、ただひたすら「映画だけが尊敬すべきものである」という態度を採った。

―――――

彼が尊敬するのは「出来事としての映画」であって、物語ではありません。

―――――

しかし、どうやら時代は、謂わば「思潮としてのシネマ」という出来事の季節から、レアリザトゥール・レアリザトリスのつむぐ「フィルムに焼き付けた物語」のほうへと移行したようです。

―――――

これは歓迎すべきことでしょうか?

―――――

両者共存を望むのが、いちばん穏やかな希望でしょうが、それはおそらく意味がない。

―――――

今年で79才になるゴダールや81才になるジャック・リヴェット、さらには89才になるエリック・ロメールがこの先どんな映画を発表するのか、

―――――

僕は、この「レアリザトリス」アントワーヌ監督の映画を観て、よけい楽しみになった気がしています。

―――――

(「物語という名の夢の現前化」という行為が再び輝きを増してきた「新古典主義」と言ってもいいフランスの状況下に、いまや御大となった彼らがどんな「出来事」を見ているのか、知りたいと思うんです)

―――――

Jack

|

より以前の記事一覧