この文は開かれている/「のだめカンタービレ 最終楽章 前編」
矢口史靖監督が「スウィングガールズ」を撮り終えてのち(奇しくも主演は、今回取りあげる映画と同じく、上野樹里さんだったのですが)、インタビューにこたえて、大要こんなお話しをされていました。
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自分は「楽しい映画」が作りたかった、と。
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普段からの友達同士が、何か夢中になれることに偶然出会って、懸命に努力し上達するのを憶えるうち、知らず知らずに強い絆の「仲間」へと変貌していく。
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そのワクワクする過程を描きたかった、と。
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そうして、
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そこから先には興味がない、ともおっしゃるのです。
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シロウトなりにひとつのことを成し遂げて、「達成感」が生まれる。爽快である。それが楽しい。しかし、そこから先は?
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そこから先は、「創作の在り方は、どうあるべきか」、という謂わば表現者の道が始まるだろう、というのが矢口監督の意見です。
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一発やってみて、無手勝流の勢いもあり、楽しく終わった。それは素晴らしい青春の軌跡である。しかし、出来上がったものを「作品」として眺めるとき、
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そういう視点を持つに至るとき、もうその人は、クリエイターである自分を自覚し、創作家の道を歩み始めているのだ、と、
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それは苦しみの道である、と、
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そこから先は、ただ楽しい楽しいでは済まない、もはや別のドラマが始まっている…
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それは、表現者としての自覚に目覚めた人間が、表現の幅を開拓しつつ、なおかつそのことを糧にして「プロ」になれるかどうなのかのドラマです。
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自分にとっては、そんなことはどうでもよい、
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自分がみんなに見せたかったのは、絆が生まれていく中での楽しいお話だったのだ、だから、
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そこから先を語る気はありません。
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これが矢口監督が「スウィングガールズ」撮影終了時に見せたポリシーでした。
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これはこれで、ひとつの見識というものです。
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で、
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プロへの道とは、本当に苦しいだけか?
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という疑義から、このドラマは始まっている。
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「のだめカンタービレ 最終楽章 前編」
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千秋真一(玉木宏)がパリでの指揮者コンクールに優勝し、ちょィとしたいきさつからある楽団の常任指揮者に就任するのが、今回の冒頭です。コミックスで言うと、13巻から先のお話。
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その千秋を慕う、パリでも相変わらずの天然ぶりを発揮するピアニスト、「のだめ」こと野田恵(上野樹里)。
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音楽学校コンセルヴァトワールの仲間たち(ベッキー、ウェンツ瑛士、福士誠治ら)。
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50年代のハリウッド映画を思わせるような、能天気な演出が楽しい。
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進むようで進まない千秋とのだめの仲は、どーなる?
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わたくし、原作コミックも大好きですが、TVドラマもアニメも好きで視ておりました。
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この音楽物語の核となるのは、生来の表現者・千秋真一が生粋の芸術家・野田恵と出会い、心揺さぶられ、ことあるごとに「音楽する悦び」を呼び覚まされていく、その成り行きです。
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表現者というのは「悩むひと」のことですが、芸術家というのは「内なる悦びに素直に従っていたら、いつも、何故か、何かが出来てしまうひと」のことなんですねぇ。
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矢口監督の言う楽しさと異なる種類の「楽しさ」が、ここにはあります。
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これが、たいていの人にとって「楽しい」と感じられるのだとしたら、それは、よく考えると奇妙なことです。
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「シロウトゆえの楽しさ」を描くのなら、ハナから、ごく普通の、一般の観客を相手にしたものであることが、すんなり納得行きますが、「のだめ」は「創作家たちの楽しみ」を主軸としている。
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恍惚となるほどの「芸術の悦び」が、よく描かれますが、それは本来、とても個人的な、「内なる楽しさ」であるはずです。
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それは、本来なら創作家などとは縁遠い大多数のひとにとって、分かりにくい楽しさのはずなのです。
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なのに、なぜこの作品は、多くのひとを魅了するのか?
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そこには、少しばかり「カラクリ」がありそうです。
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描かれる楽しさが「内なるもの」の範囲に留まることしかないのなら、これはヒット作にはなりえなかったことでしょう。
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少し分け入って考えましょう。
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まず、分かりやすいヒントを出してくれている人様の言葉を引用します。
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浅田彰さんはかつて、青山真治監督が書いた小説の話題に絡めて
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「言うまでもなく、作家は本質的に孤独でなければいけない」
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と言いました。
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これは凡なるポップスが、なにかというとすぐに「♪ ひとりじゃないから」などと歌いたがるのとは、はっきりと対照的な位置にある発言だということに、ご留意ください。
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この発言は、解釈して申しますなら
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言うまでもなく、芸術家は本質的にアマチュアでなければいけない
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というのと同じことです。
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作家――(芸術家)――は、周囲の雑音的批評・やっかみ・好意と勘違いした押し付けなどに惑わされずに、己れで機を選んで、そのときの身の丈にちょうど見合ったことが言えるのでなければならない。それが浅田さんの主張です。
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それこそ、アマチュアリズム以外の何でしょう?
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「プロ」というのは絶えず周囲のことに気を配り、何がタイムリーなのかを外的に判断するコツを知り、その時々で社会的に機能する作品を発表し続けることの出来るひとです。
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ここで、疑問がひとつ、まとまりました。
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「芸術家としてのプロ」などというのは、成り立つか?
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プロであることと芸術家であることは、相反したりしないのか?
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その点を追求します。
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芸術家であり作家であるということは、ある種傲慢に己れの信じる道を突き進み、湧き出るイマジネーションの波に酔いつつ、それを最終的には上手に操縦して、完成へと導ける、という、言ってしまえば「それだけ」です。
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それは、ひたすらの訓練なしではたどり着けるはずのない、辛く険しい道のりの先にある領域のことですが、そのような道を「外の世界に惑わされず」歩む、と決心することが、そも「アマチュアに徹する(芸術家になる)」と言っているのと同じこと。
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そうした人々にとって「自分が『職業的表現者』になれるのか」、すなわち「アマチュアであることに徹しつつ、なおかつ『プロ』である」というような謎めいた立場に立てるかどうかは、絶えず押し寄せる波のような葛藤の、種のはずです。早い話しが、
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俺(あたし)の作るもの――『好き勝手の結実』――は「カネ」になるのか?
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孤独を決意し、周囲との絶縁を覚悟した果てに出てくるものは、果たして貨幣という名の常識、富という名の権力装置の一部へと変換可能か?
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これこそ、
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ひとをして楽しませる面白い!話題に決まっちょる。
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ドラマとは「葛藤の交錯」のことですが、セックスについてのそれを除けば、何よりもおカネに関する事柄が、特に面白いに決まっています。なぜならば、
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社会というエネルギーの結晶体と人間というどこまでもささやかな単位との対峙を描くのですから、それで盛り上がらなかったら、よほど語り手が下手なのです。
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もう一度、上述の問いを繰り返します。
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プロへの道とは、本当に苦しいだけか?
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…この問いかけから始めて、二ノ宮知子さんという漫画家は、この問いを上部構造として包含するメタな視点が成り立つことを――(直感的にか論理的にか、それとも経験の末の努力の果てにか)――見せています。
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平たく言うなら、世間と独りの人間との対峙というのは、語るための「視座」さえ見つかれば、どんな三面記事よりも、ひとを虜にする魅力に満ちた「お題」なのだ。
(のりピーが逮捕されたとき、人々がなにより気にしたのは、彼女が今後手にするであろうおカネを(地位を)失うことであったのには違いない)
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このマンガ、このドラマそして映画が他の凡百な「アーティストたちの物語」と異なるのは、常に「おカネの問題」についての目配りを忘れずに、その問題を陰に陽に動かしつつ、それとの対比で「創作の悦び」を――、「“個人”の存立要件」を綴っているところです。
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おカネの問題 =「世間への関心」すなわち「絶えず外へ開こうとする意志」を忘れないので、表現者の内省を語るときでも、その語りは創作家でない多くの人々に届くのだ。
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みんなは多分に、のりピーを見守るときとよく似た気分で、危ういのだめの行く末を「面白がって」、「共感と共に」見つめるのです。
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このマンガが大ヒットを飛ばし、ドラマとなり映画化されるということに、丁度のりピー事件が耳目を集めたときとはコインの裏表のような関係の、「日本社会の正常なる機能」を見る、と言ったら、反語にしか聞こえませんか?
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千秋ものだめも、大学という狭い住処を飛び出して、ヨーロッパという広い世界に乗り込んで行く。
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拡大する社会の中で、ひとが発見する「個人であること」の悦び、楽しみ。
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ここまで言うと、そんな楽しみが多くのひとにとっても共有出来るものであることは、納得が行きそうです。
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「スウィングガールズ」を撮り終えた矢口監督が次に選んだ題材は、様々なプロたちの生態を面白おかしく取り上げた「ハッピーフライト」という作品でした。
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その映画で矢口監督は、直接「おカネ」の問題に触れたりはしていませんが、高校生の物語を卒業して「大人の世界」に乗り込むということは、「職業としてカネを取っている人々」が、おカネ = 広い世界とどう向き合っているかについて、関心の方向をシフトした、ということです。
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ところで、この文は、最初から「アマチュアであること」を決意して書かれた文です。そして同時に「世界に対して開かれていること」を旨としています。
でも、
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ん?
「おカネ」とは、結びつきそうもないですが…??
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Jack
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