アニメ・コミック

アルフォンスはなぜ身体を失った?/「鋼の錬金術師」

僕の漫画読書量は、正直言って少ない。
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だから、「鋼の錬金術師」こと「ハガレン」が「面白いらしい」というのは知っていましたが、手に取ったことはありませんでした。
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この漫画に触れてみようという気になったのは、そうです、アニメ化されたテレビを観たからなんですね。
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おそらく、YUIさんの歌う主題歌は、トップテンに入るだろうし、人気次第で映画化もされるだろう、ということで…
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今回は、映画ではなくアニメと漫画についての、番外編です。
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まず、ご存知ない方のために、この作品の、基本設定を、少しおさらいしてみましょう。
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架空の軍事独裁国家。
そこでは、「錬金術」というものが科学として公認され、国家資格を持たされている。
しかし、錬金術にタブーあり。
曰く、人間を作ろうとしてはならない…
幼くして母を亡くしたエドワードとアルフォンスのエルリック兄弟は、猛勉強の果てにタブーを侵し、亡き母を蘇らせる術に、手を染める…だが…
おぞましい失敗…
エドワードは片腕、片足を、
アルフォンスは体のすべてを持ち去られる…
ふたりは、失った手足や体を鋼で包み、もとの姿に戻るべく、伝説の「賢者の石」を求めて、さ迷い歩くことになる…
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と、ざっと、こんな感じと思うんですけど。
さて。
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アニメと漫画では、並べられたエピソードの順序が、ずいぶん違う。
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アニメだけの創作部分もあるようですが、しかし、それは必ずしもTV番組としてのマイナスではないように思います。
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アニメは、原作のスピリットを生かして、いかにテレビの中で分かりやすいものを造るかに力点を置いていますので、この項では、漫画を参照しつつ、テレビの中にも登場する「要点」について、語ってみます。
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僕らがあまり深く考えずに「若さ」というものを見つめるとき、そこには、普通、2つの願望が見えている。
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ひとつは、輝いてばかりの表の世界 =「光の社会」にはどこにも居場所を見つけられないので、そこを抜け出たい、という願望。
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暗く沈んだ気分の思春期に――多くのひとに、そういう時期があるものです――はまっているとき、快活さを重んじる表の社会、アラサー、アラフォーなどとほざいている社会というのは、キラキラとまぶし過ぎて、自分の居場所がないように感じるものです。
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そんな世界に抑えつけられたように思う若さが、圧力から飛び出すことを望むのは、自然です。
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そしてもうひとつは、狭苦しい範囲に限定され、動きを封じられた「からだ」から抜け出したい、という願望。
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どちらも、「脱出の願望」です。
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と、こう書くと、「それは、身の回りを旧弊な“意味”で固められているから、そこから抜け出したいのだろう」と、受け取れると思いますが、
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この「鋼の錬金術師」という作品で描かれるふたりの少年の悩みは、どうも、そういうことではなさそうです。
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この漫画の主人公ふたりは、からだを、「身体」というものを、取り戻したがっている。
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「意味ある世界」へ戻りたい、と考えているのです。
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「世界を無意味にしてしまうもの」とは、なんでしょう。
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簡単です。
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あなたに魔法が使えたら、あなたはあらゆる「意味」から解き放たれ、自由の身になりますね。
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この作品では、錬金術というものが魔法ではなく、科学の一種であり、一定の「法則」の支配を受ける――だから、それが使えても、無闇と自由にはなれない、ということになっている。ふむ。
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少し、具体的に空想します。
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「魔法」とは、どんなものでしょう?
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例えば、宙に浮かび上がったり…
ナマの肉体から幽体離脱して、すいすいと動き回ったり…
自分の分身 = クローンを作ってみたり…
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ん?
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それは魔法ではなくても、僕らの暮らすこの社会に、実際に、在りますね。
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僕たちは、こうした
「宙に浮かび上がり」、
「ナマの対象から離れて」、
「幽霊のようにすいすいと動き回り」、
「気ままに自らのクローンを生み出していく」、
そんな不気味なものの正体を、知っています。
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あなたも、そのもののために、いつも頭を悩ませているはずです。
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それは、
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そうです。
「お金」です。
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ふたりがおそらくは毛嫌いし、信じようとしないだろう魔法 =「お金」について、以下、書きます。
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貨幣というのは、もともと物品流通のための「引き換えチップ」の役割しか持っていなかった物です。
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それぞれの商品とお金とは、一対一の関係で安定して結ばれておりました。
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大量生産や薄利多売という考え方がまだありませんから、物の価値 = お金の価値は、生産者と買い手との一対一の自然なやり取りを通して、「かたち」を与えられ、穏やかに決められていたのです。
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そうした穏やかな関係の中にあったはずのお金がなぜ、不気味な「自己増殖機能」のようなものを持ち始めたかと言いますと…
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ことは「資本主義」の形成・発達に関わってくる。
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流通を乗り越えて「利潤」をあげよう、という新しい発想が、「金利」という一種の錬金術を産み落とし、
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お金は「物との交換のためのチップ」という実態的価値を離れて、
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「お金がお金を産み、増やす」という仮想を自ら作り、イメージの世界での気ままな浮遊を始めるのです。
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これは「イメージ」という本来、徹頭徹尾自由であった「無法地帯」への、お金というものの「侵食」です。
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イメージの世界は、「価値を、夢想によってどのように見積もるか」という「はかり」以外の要素が通用しない、窮屈なものになっていくのです。
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ちょっと、詳しく言いましょう。
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現代に生きる僕たちは、「イメージ」というと、例えば「誰それさんのイメージ」といった風に(この場合は「キャラクター」という意味ですね)、実態を飾り立てるための「現実にとっての附属物」という捉え方しかしていませんが、
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こうした捉え方では、「イメージ」も「現実」も、ともに存在が矮小化されてしまいます。
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本来、「イメージ」というのは、徹底して捉えどころのない、(それでも無理に)言葉にするなら「虚無」に近いものだと言えるし、一方「現実」とは、イメージの力など借りなくとも、しっかりと大地に根を張った強固なもののはずなのです。
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両者の接近を「現実」の側から眺めると、
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「なんとなくの印象」というものの支えなしには、現実とは、その実体が疑わしい「イメージの派生物」にまで堕落してしまった、と言えるでしょう。
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他方、「イメージ」というものの方は、現実を支える「物語未満」程度の役割しか、満たさなくなった、と言える。
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ここで、もうひとつ、人々にとって、やっかいなことが起きる。
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価値と境目があいまいになった「イメージ」と「現実」は、共に、「個人」という「考え方」の登場を急かし、そうして両者ともに、個人にとっての「自己実現」のための「場」である、という「痩せ細った役割」を担うことで、延命する羽目になったのです。
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「生産的無意識のかわりに、もはや自己を表現することしかできない無意識(神話、悲劇、夢…)がいすわったのだ」

(ドゥルーズ+ガタリ「アンチ・オイディプス」 宇野邦一 訳:河出文庫:以下、引用は同書から)
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こんなことになる前は、「個人」などという野暮な捉え方を持ち出さなくとも、ひとは、確固として暮らしていたはずなのです。
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では、
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なぜ、こんなことになったんでしょう。
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ターニングポイントは、「お金」というものが自己増殖機能を持ち(つまり、「利潤」というものの追求ですね)、近代資本主義を形成し、
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自分以外のあらゆるものを、
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「自分と交換できるかどうか」
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でしか計れない「不安定な価値」しか持たないもの、と規定してしまったところに端を発しています。
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「お金なんか、いらないさ。ボクには夢があるんだもの」
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と、いくら言ってみたところで、それは“理想”。
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「その夢は、カネになるんかい?」
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というのが“本音”、
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ということになっている。
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お金だけが「実体を持たないが、万能の価値を持つ」という特権的な機能を有し、
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それ以外の「イメージ」も「現実」も、すべては意味があやふやとなって、
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とりわけ、自分で家庭を作ったり、責任ある部署で働いたりという「手でさわれる体験」を持たない若い世代を直撃することになっている。
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そのような世界にあっては、お金 = 資本というものの、改めての捉え直しが必要です。
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「資本とは、まさに資本家の、あるいはむしろ資本家という存在の器官なき身体なのだ」
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アルフォンスの“からだ”は消え去り、彼は、ただの「鎧」となる。
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これをもって彼は、具体的な肉体という不自由な「くびき」から解放された、と言えるでしょうか…
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それなら、なぜ彼は、「自分」というものの存在が失われ、あやふやになってしまったと心配するのか。
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「ハガレン」では、アルフォンスの身体喪失は、どこか「儀式」のように描かれている。
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失われた身体を求める彼と兄エドワードの旅は、フォークソング的に言うなら、ずばり、「大人への階段」です。
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イメージも実体もあやふやな世界では、「自分」という“心”も、「身体」という“からだ”も、ともに、意味の再検討を根本からしなければならないほど、追いつめられ、消えかけている、と言っていい。
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この世界では、自己増殖機能を持つ「お金」以外のあらゆるものが、「意味」という支えを失っているのです。
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意味を失って、意味を渇望する――なにを欲しがっているのか説明できないが、「何かがほしい!」という強い欲求だけはある――、そんな世界の中においては、必然的に、こんな問いが出てくるでしょう。
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自分が求めているものは、なんなのか
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意味不明な「何か」を求める自分は、いったい、何者なのか
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「欲望に欠けているのはむしろ主体であり、欲望は固定した主体を欠いているのだ」
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国際的な事情はどうだか分かりませんが、少なくとも現代の日本に暮らす若者たちには、以下の話しが当てはまる、と言えるでしょう。
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彼らは「からだ」とそれにまつわる「物語」――「生活」、と言い換えてもいい――を手放すことにより、最大限、活動的な自由を手にするが、同時に私たちの身の回りを取り囲むモノや人々と自分との一対一の、安定して幸せな関係を失うのだ、と。
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このような「成長の儀式」を、「シビア」と言わずして、なんと言う?
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現代日本の若者に課された「成長の儀式」とは、これほどに手がかりなく、精神的にきついものだと言うことか。
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これは、僕たちが「現在」という狭い価値観の中で、煮詰まっている、そのことが原因だ、と
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そう思うんですけどね。
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「利潤」というものを独り歩きさせない社会は、歴史的にも、この地上にも、いっぱい在る。
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願わくば、インターネットというものが、「現代資本主義以外の価値観」と出逢う機会を提供する…
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そんなものであって欲しい、と…
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今回はこれで項を終えましょう。
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(あー、共産主義復活せよ、なんつうてる訳じゃぁないよ)
Jack

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