お修辞の時間/「ウルヴァリン:X-MEN ZERO」
ものすごくよく出来た、とっても面白い映画なんですけど、「?」ていう…
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おすぎさんも指摘していることですが、面白いけど「暗い」。
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なんで暗いのか、
また、「なぜ暗いのが気になるのか」が、妙に気になる。
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今日は、そのお話しをいたします。
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初めにちょっと回り道して、別の映画の話題から。
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スティーヴ・マックィーンが主演して1966年に公開された西部劇に、「ネバダ・スミス」というのがあります。
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「荒野の七人」が60年、「大脱走」が63年ですから、マックィーンはもう新しいスターになっていたと言っていいでしょう。
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このあと、「華麗なる賭け」やら「ブリット」やらを経て、「ゲッタウェイ」の円熟期へ進んでいくことになる。
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「ネバダ・スミス」は、そうした流れの中にある一本です。
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で、なんでそれを先に取り上げるかと言うと、
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この映画は、マックィーン扮する主人公の復讐劇なんですね。
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幸せに暮らしていた家族を荒くれ者の一団に惨殺された彼が、何年もかかって、自らお尋ね者にまでなりながら、散り散りに逃げた悪党たちを一人一人見つけ出し、殺していく、という…
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暗い?
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はい、暗いんです。
はっきり言って。
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しかし、このあらすじからもお分かりの通り、この映画は観客の「エモーション」に強く訴える作品として構想されておりまして、
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初見のときの僕は(テレビ放映でしたが)、「なんて、カッコいいんだ!」と唸ったものです。
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「独りあてどなくさまよいながら復讐のために生きる青年」、という像が、とてもスタイリッシュに見えたのです。
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アウトローのカッコよさ。
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ところで我々は「いちばん言いたいこと」を説得力を持って相手の内に浸透させるために、「修辞」を用いる生き物です。
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「ネバダ・スミス」が映像という修辞をもって観客に共感・賛意を求めたのは、青年期特有の内なる暗さ・愚かしさ・苦しみと向き合いもがく若者の姿だったろうと思います。
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誰にも思い当たるふしのある、心の底の影…
しかし、
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十数年後、レンタルビデオ店で「ネバダ・スミス」を見つけた僕は、嬉しくなって、すぐ借りて、その晩のうちに視たのですが…
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はぁ…
あれはサミシイ体験だった…
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久しぶりの再会…
だが、そこには、少年の日に心躍らせてくれた「カッコいいマックィーン」の姿はなかった。
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時代を経て、「映像化の工夫」が古くなり過ぎていたのです。
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例えば、主人公が夜の牛飼い小屋で、ナイフ一本で柵の上に仁王立ちして、悪役と対決する場面がありますが、
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ただならぬ雰囲気を感じ取り興奮する牛たち。
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落ちたらヒヅメに押し潰される。
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シュッシュッと、空を切るナイフ。
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暗闇の中での男と男の差しの勝負。
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そうした要素が全く盛り上がらなかった…。
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平板なカメラワーク。
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貧弱なサウンド。
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迫力あるはずの決闘場面が、のどかなシロウト映画に見えるほど単調で、修辞の力を失った画面はただ、「発想の陰鬱さ」を伝えてくれただけでした。
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「メッセージの暗さ」だけがそこには残り、もともと在ったであろう「惚れ惚れするようなスタイル」はカビが生えていたのです…。
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と、ここまで言ってから、今日の映画、
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「ウルヴァリン:X-MEN ZERO」
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数世紀を生き続けるミュータント兄弟。
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弟ローガン(ヒュー・ジャックマン)と兄ビクター(リーヴ・シュレイバー)。
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幼少時からダークな宿命を背負った二人は、他のミュータントたちと共にアメリカの特殊部隊に参加しますが、その残忍な任務遂行に嫌気の差したローガンだけは、止める隊長を振り切り、独り、部隊を抜ける。
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愛する女を見つけ、片田舎で静かに暮らし始めたローガンの耳に、兄の仲間殺しの噂が入る。
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なんのために?
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考えている暇もなかった。
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やがて最愛のひとケイラにも、ビクターの魔の手が…
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これは後悔と苦渋と、復讐の物語です。
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「ダークナイト」や「ボーン・スプレマシー」といった、謂わば「暗さが売り」の映画を観て、十二分にその魅力を感じ取る僕ですが、この映画には映像とサウンドの修辞を超えた――つまり、スタイルをもって飾りきれない――独特の懐疑的「内容」がある気がします。
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その「内容」とは?
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はい、わりと簡単でして、それはSF小説を読み慣れてきた読者ならお馴染みのテーマ――「根源的に異なる者同士が“隣人”として共存しあうことは不可能なのか」という――、最初から議論の対象にさえならないことが分かっている悲しき反復のテーマです。
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残念ながら、これは単純化して言うことの出来ない話なのです。
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そのままアクション映画の形へ起こして飾ることの出来ないテーマなので、映画は思い切った「変換」を行っている。
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なぜ変換されたのかが、ちらちらと見えるので、「ああ、本来描きたかった内容に、修辞(映像化のテクニック)が追い付かなかった結果だな」と思わせるというわけです。
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詳しく見ましょう。
まず、
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変換された、もともとのテーマですね。
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「異なる者たちが隣人となれるか」って、どういうことだ?
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それは徹底して理性的に問い詰めていくなら、宗教や文明の「異質」がもたらす破壊的な局面を「知」というものをもって人類が乗り越えられるか――そのとき「知」そのものも何事か従来からの姿より変質を遂げるのか?(この「変容」についての問いかけこそ、SFが得意とするもの)――、という極めてシビアな論題のはずですが、
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情緒的に流して捉えてしまうなら、単に違う時代に違う場所で思春期を送った二人が、いつか分かり合えるだろうか、という狭い範囲の「世代間ギャップ」の話題に過ぎなくなってしまう、そんなものです。
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この映画は、正編「X-MEN」シリーズに在った「異なる者たちが共存の可能性を探り合う」という内容を、「呪われた運命の兄弟が陰謀に操られながら確執する」というメロドラマのレベルへと格下げしてしまった。
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格下げしたことで、話はグンと分かりやすくなりましたが、もともとシビアだったテーマを情緒的な愛憎劇に置き換えたことで、「無意味な闘いに翻弄される男たち」という、どうにもやるせない「情念として悲しい暗さ」を持つ映画になってしまいました。
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派手な爆破のシーンがあろうと、高揚感たっぷりのアクションシーンがあろうと、目立っているのは、「発想の陰鬱さ」です。
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「ダークナイト」や「ボーン・スプレマシー」と違うのは、暗さと正面から向き合うのでなく、「付きまとう“結論”の困難さ」を振り払いたくて、つまり「なんとか前向きな方向へとエネルギーを向けたくて」、様々なアクション、CGを駆使してある――脚本も、その線に沿って書かれている――という点です。
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で、そのような「暗さを払拭しようとした努力」――それすなわち「映像という名の修辞」です――が完璧ではないので、観ている最中、隠そうとした悲惨さがフと見えて――(なぜなら、おそらくは作り手の側に「懐疑」があるから)――、それが妙に気になったというわけです。
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ふむ。
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この映画を十五年後に見直したら、果たして僕はどう思う?
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映画にとっての映像化の技術や音響効果は、これからも進歩を続けていくことでしょう。
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最新のエフェクトで溢れたこの「ウルヴァリン」も、やがてはスタイルが古くなる日が来るはずです。
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そのとき、提示の仕方として、カビの生えた表現を超えるものとして残る「内実」が、ただ陰気なだけの、暗いだけのものに見えたりしないか。
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…暗さに「甘いロマン」を見る目というのは、風化しやすい視線じゃないか。
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最初に挙げた「ネバダ・スミス」が、いい例です。
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暗さを見つめるなら、徹底して厳しくないとね。
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さいわい、映画は厳しい結論を提示して終わる。
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そのシビアさが、この「暗さを振り払おうとして、払いきれない」映画にとっての「救い」である気がして、改めて正編のシリーズでも見ようかという気にさせるのです。
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アメリカ映画の中で、「陰気な思考とどう向き合うかは」、ここしばらくのトレンドですね。
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(また誰か新しい才能が出てきてドカーンと振りほどいてくれるまで、糸は絡まり続けるでありやしょう)
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Jack
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