夢見るように語らせて/「ココ・アヴァン・シャネル」
フランス語で「Directeur」、ディレクトゥールと言うと、部長・局長・所長・支配人…などの意味になります。
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「映画監督」と言いたい場合には「Realisateur」、レアリザトゥールと言います。
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「Realiser」、レアリゼという動詞が「実現すること」、ひいては「夢想を現前化させること」を意味していますので、レアリザトゥールという呼び名は、それだけでロマンティックなニュアンスを持っています。
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フランス人が映画というものをどう観ているか、ちょっと「感じさせる」お話しじゃないでしょか。
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ちなみに女性監督のことは「Realisatrice」、レアリザトリスと言うのですが、まさしくこのレアリザトリスの敬称がふさわしいと思うのは、
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「ココ・アヴァン・シャネル」
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のアンヌ・フォンテーヌ監督です。
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19世紀の終わり。
20世紀の始まりの予感がある頃。
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孤児院にひと組の姉妹が預けられる。
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妹の名前はガブリエル。
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「ココになる前の(アヴァン)シャネル」。
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長じてお針子をしながら姉と共に酒場で歌う歌手となった彼女は、陽気な軍人バルザンと出会います。
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なんとしてでも貧乏から抜け出して、パリに出る。
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そう決意する彼女は、バルザンのもとへ、「押しかけ愛人」として住み込みますが…
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これはねぇ…
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フランス映画に常に革新の息吹きを感じていたい「作家主義びいき」の人なら、複雑な想いで観るだろうなぁ…
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僕?
僕はすっかりお気に入りです。
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どうかすると「保守的」と言ってもいい語り口が、この映画に関しては魅力的です。
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全編、「女による女の見方」が光っている、と感じました。
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日々の貧しい暮らしに追われるココ(オドレイ・トトゥ)を、顔に下から光を当てて、やつれた疲れ果てた表情で表現する残酷さ…
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彼女が初めてパリ社交界の女性たちを目の当たりにする際の高揚を、彼女目線で移動するカメラであらわす手法…
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その目は飾りの多い帽子やコルセット付きのドレスを追っていく…
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だが、やがて女性を締め付ける格好に疑問を持ち、ファッションへの才気を「社会への反抗」として伸ばしていく様をゆっくり繊細に捉える脚本…
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オドレイ・トトゥが次第に魅力を拓いてく。
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極めつけは、海を初めて見た直後の描写です。
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ネイビーブルーのジャンパーに縞々シャツの漁師を見るココ。
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次のシーンでは、もうジャンパーや縞シャツを着こなしてる!
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そうした衣服に関する細部の表現に加えて、彼女の生きざまに絡む「男」の描き方もうまい。
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特に人生享楽派のバルザンを演じるブノワ・ポールブールドがいい。
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ココの奇行に手を焼き、厄介者扱いしながら、いざ彼女が別の男に入れ込んでいくと焼きもちを妬くという…
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男性観察も堂に入ったものです。
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しいてケチをつけるなら、後半から登場するカペルなる青年との恋愛の描き方が平凡かな?
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それでも、それは、これだけ贅を尽くした映画の傷とは言えないと思います。
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フランス映画も、こんな風に「愛すべき人生」を描けるほどに「揺り戻し」たか…
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ここに至るまでに在った、幾つもの「ポスト(脱)・ヌーヴェルヴァーグ」の映画たちを連想しました。
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ヌーヴェルヴァーグというものをどう位置付けるかが、ひと頃のフランス映画界にとって、最大の難題でありました。
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一時代を飾ったポスト・ヌーヴェルヴァーグのフランス映画たちは、ベネックスの「ディーバ」にせよカラックスの「ポンヌフの恋人」にせよ、みんなどこか「メタ恋愛劇」といったおもむきのものでした。
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同じくベネックスの「ロザリンとライオン」なんて、まさしくメタ恋愛劇だったし、パトリス・ルコントの「橋の上の娘」なんてメタ恋愛劇そのものです。
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「メタ」恋愛劇って、なんのことかと言いますと、恋や愛について謳う前に、「まず、“愛する”とはどういうことだ?」という「大前提」を疑うことが介在していたのです。
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「すべてを疑って、小間切れの要素に分解する」というのがヌーヴェルバーグの映画作家たちに多く見られた態度です。
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60年代から70年代にかけてというのは、あちこちで既製の価値観が崩壊し、若者が独自の視点で何事かを創ろうとした時期です。
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フランスの若い映画監督(自ら「映画作家」と名乗りました)は、まずいったん、あらゆる物語を「出来事の総和」と捉え、その観点から出来事ひとつひとつを小間切れにして自由につなぐ、という手段に打って出た。
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そうすることで、あらゆる出来事について、「これって、つまり何のことなんでしょう?」という「議題」に仕立てることをやってのけた。
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その若さは、いま観ても、鮮烈です。
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しかしながら、ここに、ある問題点を見るとすると、作家たちが「あとに残るような“方法論”を提示しなかった」、ということになるでしょか。
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小間切れにされた議題たちは、それぞれがひとつひとつ、たいへん魅力的なパズルのピースを構成していたのですが、それらを発表する作家たちが主に「即興性」を重んじていたこともあり、手法として映画界に定着するものではありませんでした。
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困ったことに、魅力的な即興性を発揮したヌーヴェルヴァーグの映画たちは、それまでの、「どちらかと言うと観客の持つ常識に対して優しく進行する」オールドスタイルの映画群を、蹴散らしてしまいました――(それは映画の歴史に向けてオマージュを捧げようとした若い映画監督たちにとっては、本意でなかったはずなのですが)――。
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ヌーヴェルヴァーグがフランス映画を駄目にした、と言ったのは故・淀川長治さんですが、駄目にしたかどうかはともかく、「まず疑うことありき」といった考え方の衝撃は、たしかにフランス映画から「物語ることのカタルシス」を奪ってしまったと言えるかもしれません。
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「語る」という行為は、それが疑問のかたちで綴られた場合には、観客にとって「何かを投げかけられた」ものにはなるかもしれないが、「描写の奥深さにウットリした」とか、「痛快さにウサを晴らした」とかいったものにはなりにくいからです。
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(この点、ヌーヴェルヴァーグの映画作家たちが表現に関して鋭かったのは、彼らが激動の時代に在って、マンネリに陥りつつあった伝統的な「物語る」やり方をいさぎよく捨て、「ロマン」や「痛快さ」を達成するためにこそ小間切れの即興性を選んでいったことでしょう。たとえそれが何事かの方法論を打ち立てる、といった「建設的な」やり方でなかったにしても、です。エニウェイ、いずれにせよ)
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ヌーヴェルヴァーグの「負の遺産」とでも呼ぶべきものを受け継がざるをえなかったフランスの監督・脚本家たちは、愛や恋や怒りや悲しみや憂いやまどろみや、要するに「人生についてのストーリー」を再び「とうとうと流れる物語」として語れるようになる日を、いろいろ努力しながら待ち焦がれていたはずなのです。
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で、
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この「ココ・アヴァン・シャネル」は、もうそれが出来てる。
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このことは、マリオン・コティヤール主演の「エディット・ピアフ 愛の讃歌」でも感じたことでありますが、この映画を観て、「ああ、本当にフランス映画も新しい時代に入ったな」と確信いたしましたです。
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かつてゴダールは、自らを「ジャン=リュック・シネマ・ゴダール」と名乗り、ただひたすら「映画だけが尊敬すべきものである」という態度を採った。
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彼が尊敬するのは「出来事としての映画」であって、物語ではありません。
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しかし、どうやら時代は、謂わば「思潮としてのシネマ」という出来事の季節から、レアリザトゥール・レアリザトリスのつむぐ「フィルムに焼き付けた物語」のほうへと移行したようです。
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これは歓迎すべきことでしょうか?
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両者共存を望むのが、いちばん穏やかな希望でしょうが、それはおそらく意味がない。
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今年で79才になるゴダールや81才になるジャック・リヴェット、さらには89才になるエリック・ロメールがこの先どんな映画を発表するのか、
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僕は、この「レアリザトリス」アントワーヌ監督の映画を観て、よけい楽しみになった気がしています。
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(「物語という名の夢の現前化」という行為が再び輝きを増してきた「新古典主義」と言ってもいいフランスの状況下に、いまや御大となった彼らがどんな「出来事」を見ているのか、知りたいと思うんです)
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Jack
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