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2009年10月

超える夢/「マイケル・ジャクソン THIS IS IT」

「人間?
あたしは人間じゃないわ
“映画界に燦然と輝く大スター”ですの」

『People?
I aint people.
I'm a “A Shimmering glowing star in the chinema firmament”』

(映画「雨に唄えば」から)

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誰かがひとり、「わたしはマイケル・ジャクソン世代です」と言ったとする。

―――――

そのときおそらくその人は、ジャクソンズ時代の少年の頃のマイケルを考えてはいない。

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たぶん「ロック・ウィズ・ユー」などを歌っていた時期の「ようやく“若者”になってきました」といった当時のマイケルのことも、考慮の内ではないはずです。

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ひとが「わたしはマイケル・ジャクソン世代です」という場合、それははっきりと、アルバム「スリラー」発表以後のマイケルを指しています。

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かく言う僕は、もちろんマイケル世代です。

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観てきました!
「THIS IS IT」!

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やー、凄い。
踊る身体の魅力です。

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もしこのコンサートが実現していたら、間違いなく、伝説的なステージになっていたことでしょう。

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それにしても、よくぞ、こんなに撮っていたものだと思います。

短い時間で、よくぞ、まとめました。

(どうやら最初から、コンサートのDVDなぞ、発売する気があったようですね)

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舞台演出は、「ハイスクール・ミュージカル」シリーズのケニー・オルテガ。

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このひとを呼んできたところが、さすがマイケルの慧眼です。

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「ブラック・オア・ホワイト」のマコーレー・カルキンと言い、「スリラー」演出のジョン・ランディス監督と言い、そのときどきで最も華やかな活躍を見せる「旬のひと」を招くのが、いかにもマイケルらしい。

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亡くなって以後、あの「現代思想」を含めて様々なメディアが彼の業績を振り返りましたが、どれも僕には不満な内容でした。

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ので、いい機会ですから自分なりの「語りたい概略」を、記しておきます。

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まず、マイケルという人は、極めて「評価の俎上」に載せにくいアーティストだということ。

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「スリラー」発表の年には、ポリスが名盤「シンクロニシティ」をリリースしてる。

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ライバル的存在だった人物として、マイケル以上の高い芸術的評価を受けていたプリンスがいる。

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そういう人人々に比べて、マイケルという人は「スターではあるけれども、それ以上、どう捉えたらいいのか」が、とても見えにくい存在です。

―――――

この分かりにくい存在について、それを見るときの、ほんのささやかな「提案」をいたしましょう。

―――――

80年代という時代に特別の刻印を押したこのひとを考えるとき、僕は「3人の人間」に分割して考えると理解が深まる、と思っています。

―――――

3人?
はい、それについて述べる前に、いくつか「前提」を確認しましょう。

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現在、ポップ・ミュージックの世界を席巻しているBlack Eyed PeasやNe-Yo、ビヨンセなどを見ていると、「そもそもの始まり」のことを、つい忘れてしまう。

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ラジオやテレビで流される「ポップス」の世界とは、もともと白人たちが作ったものだった、ということです。

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白人たちから評価を受ける歌手として、先駆けだったマイケル・ジャクソン。

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白人を唸らせた!ということでアフリカ系から喝采を受けたマイケル・ジャクソン。

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「褒められる以外にない」というのは、言い換えると、「ほんのちょっとでも“はみ出した”行為があれば、断罪される」という立場です。

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ウケればウケるほど、逃げ出したくなるようなポジションですね。

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今度の映画の中に居るのも、彼に対するリスペクトの言葉を口にする人々ばかりです。

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インタビューを受けるすべての人が、マイケルを褒めちぎる。

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彼は完璧だ…

―――――

音楽を熟知してる…

―――――

最高…

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偉大なアーティスト…

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そうまで言われちゃったら、当人は、どこへ逃げ込んだらいいのか。

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そこで、圧倒的に誰も近付けないような「先」へ進んで、「もはや普通の“人間”であることから抜け出してしまう」――「変身」――、というのは、彼の置かれた状況から自然と導きだせる方向性であると思う。

―――――

もう少し、詳しく見ましょう。

―――――

マイケルは誰もが知る如く「愛と平和」を訴えた人だった。

―――――

必ずしも幸福でなかった生い立ちと、成功して以後の兄弟との確執なども在ったと言われる彼にとって、それは当然の発言――願い――であったかもしれない。

―――――

ですが、そのようなメッセージには、「自分の行動に枷をはめ、自らの首を絞めていく」効果があります。

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曰く、愛と平和を重んじる者は「下品なパフォーマンス」をしてはならない…

(「ブラック・オア・ホワイト」のPV中、最も素晴らしい場面――撮影スタジオに「ぬっ」と現れた黒豹が、そのスタジオを抜け出してマイケルに「変身」し、夜の街頭でズボンのジッパーを上げ下げしつつ車の窓ガラスを割ったりする「激しさ」を見せるクライマックス――は、MTVを見た視聴者からの抗議電話殺到のため、削除された)

―――――

若者の手本にならなくてはいけない…

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麻薬なんぞ、決してやってはならない…

―――――

少年愛なんて、もってのほか…などなど…

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ポップ・ミュージックが愛と平和を唱えた先例として、1969年のウッドストック・フェスティバルがありますが、あそこでは「愛と平和」を歌いながら、40万人とも言われる観客が、みんなして麻薬でラリってた…という裏の事情があります。

―――――

ヤクでへべれけになって、音楽にノリながら、草むらでセックスしてたら「平和」じゃんかよ…

―――――

というイベントでしたので、まったく「公正なる社会規範」などからは解き放たれた、文字通り「自由な」音楽のアナーキーさに満ちていたわけです。

(見てきたように言いましたが、まぁ、そういう話しらしい、ということ)

―――――

マイケルの言う「愛と平和」には、そのような「堅苦しい規範をぶち壊す」だけのアングラなパワーと過激さが欠けていた。

(時代はレーガン保守政権の頃です)

―――――

欠けていたが、それならそれで、表面上どんなに大衆的で品行方正に見える作品にも、規範の網を抜け出すようなメッセージを込めることは可能だ、

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というのがマイケルの基本的な発想ではなかったかと思います。

―――――

正直、苦しい考え方です。

―――――

苦しいですが、それは、ひとに感銘を与える態度でもある。

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「バッド」という曲に込められた「誰が本当のワルだと思う?」というステートメントには、そうした彼の「美しい」とも言える姿勢が端的に表現されてる。

―――――

そうしてその姿勢こそが、「良識を頂点として成り立つ“社会”という“くびき”」を抜け出す自由さにつながる、「変身」への願望をもたらしていたのだと思う。

―――――

繰り返しになりますが、「規範に守られた社会」の合意を形成していたのは、WASPと呼ばれる白人たちです。

―――――

ひと前に立つ者は社会の良識を代表しなければならない。

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それが、広い意味で言って北米世界の「支配層」(守旧派ですね)の態度です。

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このような態度がはっきりと「社会の表」の構造に過ぎないことを示してみせた3人の男がいる。

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1人はマイケル・ジャクソン。ま、これは当然として、

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もう1人はコメディアン出身の俳優エディ・マーフィー。

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そして3人目が88年ソウル・オリンピックの「幻の金メダリスト」、ベン・ジョンソンです。

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エディ・マーフィーについて言えば、彼は新成マイケルと共に、80年代、まだ単に「黒人」と呼ばれていた人々のイメージを一変させた立役者です。

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今でこそファミリー向けコメディに多く登場する「お父さん俳優」として有名な彼ですが、82年――(これが「スリラー」発表の年)――にウォルター・ヒル監督の「48時間」で、けちな強盗犯役を演じて映画デビューしたとき、その印象は強烈でした。

―――――

「48時間」の後、主演した「ビバリーヒルズ・コップ」で大ヒットを飛ばすエディが――(まだ「黒人」として映画に主演できるのは、シドニー・ポワチエくらいしか居なかった)――、守旧的社会規範をぶち破るために頼ったのが「アフリカ系であること」に強い誇りを示す、民族としてのアイデンティティでありました。

―――――

それは、それまで全体としては奥にこもった形だった「黒人社会」に「コミュニティとしての変容」を促すアグレッシブな態度でもあった。

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コメディアン出身の彼は、白人支配層を遠慮会釈なく攻撃し、笑い飛ばしながら、同時に、自分と同じ肌の色の人々に「変化」を迫ってもいたのです。

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そして、ベン・ジョンソン。

―――――

薬物によって己れの肉体を改造し――(つまり変身し)――、ロケット・スタートと呼ばれた走りによりカール・ルイスを破り、9秒79のワールド・レコード(当時)で100mの世界を変えた男。

―――――

ちょっと考えれば分かりますが、私たちの持つ「常識」というのは、それを下支えする広い意味での「人間観」がもたらすものです。

―――――

したがって、社会を変えよう、と本気で願うなら、「人間観を変えてしまおう」という結論に行き着くことになる。

―――――

この考え方の「間」は、すぐつながるはずだと思います。

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80年代というのは、電子ネットワークの中で「変容していく人間性」を主題にした「サイバーパンク」SFが登場する時代でもあるのですが、その事実をかたわらに置くとして。

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3人の「業績」、それぞれに通じるのは、80年代という時代が、それまでサイレント・マジョリティ(声なき多数)であったアフリカ系の人々にとって、白人支配層の作る常識と人間観を抜け出し、新しい世界を産み出す、その気運が見えた時期であったということ。

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つまり、「変容」と「変身」がキーワードになる時代であったという事実。

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そのような動きの中で、自らある種の「変容にとってのスケープゴート」役を買うことになったのが、マイケル・ジャクソンというアーティストであったということ。

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今や「声なき多数派」ではなくなったアフリカ系の人々にとって、「変容する人間観」というものは、縁遠くなっているかもしれない。

―――――

「デンジャラス」以後のマイケルが、なぜ、奇行によってスキャンダルまみれとなっていったのか、現在では理解しにくいでしょう。

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「THIS IS IT」を気に入られたら、マイケルが88年(ソウル・オリンピックの年)に製作・主演した「ムーンウォーカー」という映画をご覧になるのをお薦めします。
(有名な「スムース・クリミナル」のPVは、この映画からの抜粋です)

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ビートルズの「カム・トゥゲザー」を熱唱するマイケルが観られるだけでも必見ですが、この映画で展開される「変容」についての彼のイメージは、本当に凄まじい。

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変容と変身。

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いまだ位置付けられない80年代最大の関心事には、これからも、折りに触れてスポットが当たり続けることでしょう。

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マイケルは、その死でなく生によって、考察の対象となり続ける存在になったのだ。

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Jack

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過渡の男/「ワイルド・スピード MAX」

本日は、ヴィン・ディーゼルという男について。

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先ほど「笑っていいとも!」を見てましたら、テレホンショッキングのゲストで出た大杉漣さんが、「57才で車の免許を取った」、とお話しされてました。

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そうかぁ…

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60近くなっても、頑張れば取れるのかぁ…

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ちょっと希望が湧いちゃうなぁ!…

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実はですね、

―――――

わたくし、クルマがかなり好きなのに、免許を持っていないんです。

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好きなのに乗れないから、単なる野次馬的関心ですね。

―――――

なんで、免許を取ってないのか?

―――――

いやー、話せば長いんだよ、

―――――

いろいろ事情があったのよ。

―――――

ま、それはともかく

―――――

乗れないくせに、ちょっとしたことを申しましょう。

―――――

先日F1の日本グランプリが行われたあとのラジオの番組で、ピストン西沢さんが

―――――

「最高度の機械を“人間”が動かしてるんだよなぁ!」

―――――

と、

―――――

そこにロマンがあるんだよなぁ! と…

―――――

いささか興奮気味に語っておられましたが、はっきり言って、そうゆう20世紀サルトルもどき的文学調ヒューマニズムは、この場合はどうでもよろしい。

―――――

では一体なにが、僕にとっての関心の対象なのかと言いますと、

―――――

わたくしですね、

―――――

昔から機械と人間の関係、ひいては「機械が人間社会に及ぼす影響」なんかに激しく興味を持っておりまして…

―――――

「機械」というのは、もとより人間の生み出すものですから、つまり、人間が自ら作り出したシステムによって(それを制御するのでなく)、逆に働きかけられて、それまで安閑と持っていた旧式な「人間らしさ」に大なり小なり変革を迫られ、「変わらざるを得なくなる」という事態に目を引かれてしまうのです。

―――――

F1は、そのことが究極的に示されるショーだと思っています。

―――――

分かりにくいですか?

―――――

では、あなたにも身近な例を引きましょう。

―――――

古いところでは、「12時間計測の機械時計」がそうですね。

―――――

機械時計は、部屋の中に「時間という考え方」を持ち込みました。

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我々は、機械式時計がもし発明されていなければ、おそらく現在とは根本的に異なる時間センスのもとに暮らしているはずです。

―――――

海外旅行の楽しみなども、「持ち込まれた時間の観念」と、大きな関わりを持っている。はい。

―――――

さて、ほかには何か?

―――――

「電話」がそうでしょ。

―――――

あれは明らかに、手紙と電信しかなかった時代に比べて、人間の生活を変えました。

―――――

生活が変わる、ということは、人間が基幹としている「精神性」にも、ただならぬ揺さぶりをかけられるということです。

―――――

もっと言いましょう。

―――――

人間の暮らしと「昔からあったはずの人間らしさ」を変えたもの。

―――――

テレビがそうでしょ。

―――――

パソコンがそう。

―――――

ケータイがそう。

―――――

かつてのウォークマンや今のiPodがそう。

―――――

そうしたものが登場するたび、我々が日頃疑ってかかることのない「人間らしさ」は振動させられ、「ちょっと」か「大きく」かは分かりませんが、機械との関係において、それ以前に信じていた姿から内面的に(いや、もしかしたら外見も)、変質しているのです。

―――――

変身する醍醐味。

―――――

腕時計ひとつ、携帯電話ひとつ変えただけで私たちは、「ファッションを変えた」つもりになる。

―――――

その最たるものが、自動車です。

―――――

残念ながら日本では変わりつつありますが、「クルマを持つ」ということは、多くの国で「ステイタス」です。

―――――

この「ステイタス」には、ふた通りの意味がありまして、ひとつにはメルセデスやBMW、あるいはレクサスに乗る、つまりは「ハイクラスの人間である」というしるし。

―――――

そしてもうひとつが、シェヴィやGT-Rを乗りこなす「俺は世間に迎合なんかしないぜ!」という若き反逆のしるしです。

―――――

この2つが重なるとき、そこには「社会のルールを逸脱することによって、凡人たちより上に立った!」という者がいる。

―――――

クルマというのは、カウンターカルチャーの最も先鋭的な“旗印”ともなり得たのです。

―――――

…と、過去形で言いましたが、やはり自動車に乗ることが、スタイリッシュな「社会への反抗」として衝撃的だったのは、ジェームス・ディーンの時代までさかのぼらねばならないでしょう。

―――――

いつしか世の中は、低燃費ローコストのミニバンや軽乗用車で溢れ、「なにをしたいか自分でも分からないが、とにかく既成社会のいろんな仕組みに向けて、不屈の雄叫びをあげたい!」、と思っている若者を――(そういう若者の数自体が減っているかもしれませんが)――魅了するようなクルマが減りました。

―――――

原題「Fast & Furious」、邦題「ワイルド・スピード」のシリーズは、そんな若者の想いを取り込もうとして、作られている。

―――――

基本となるのは、

―――――

公道を猛烈な勢いで疾走する改造車、

―――――

ネット社会に巣食うワルの異分子、

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お堅い警察やFBIをものともしないロック文化、

―――――

男と女と酒、

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などです。

―――――

そう。

―――――

核となるのは「男と女と酒」の部分。

―――――

新しい話題じゃない。

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あの斬新なスパイ映画「トリプルX」のように、新しい話題のほうに目を向けていたなれば、これは「新しい映画」となったでしょうが、この作品の場合は、新しく装っただけの保守的なロマンティシズムが幅をきかせておりますです。

―――――

「ワイルド・スピード MAX」

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第一作目で若者たちの暴走グループに潜入した捜査官ブライアン(ポール・ウォーカー)は今やFBIに籍を置き、麻薬組織を追っている。

―――――

一方、グループのリーダー的存在だったドミニクは国外に逃れ、相変わらずの無軌道ぶり。

―――――

そんな二人がひとつの事件をきっかけに、運命的な再会を果たします。

―――――

アメリカに戻るドミニクの目的は何か。

―――――

ブライアンは彼を逮捕しなければならないのか?

―――――

もう一度、互いの意地とプライドを賭けたバトルが始まる。

―――――

…と、書くと、しらけたりしませんか?

―――――

この映画、冒頭の派手なカーアクションで魅せたと思ったら、あとが良くない。

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復讐に燃える男と、その男に奇妙な友情を抱くもうひとりの男、という設定は、上手に描いてくれないと、古臭い浪花節そのもので、ドラマが鼻白むほど退屈です。

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よく出来た脚本とは言えない。

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こういう映画――クルマとインターネットと髪の長いいいオンナとロックと反抗精神――つまり、実体はアンチ・ニューエイジな「男の子趣味」――に現代的なリアリティを与えるには、「新しい文化」の中で得た“肉体”を持つ、「新しいヒーロー」が必要です。

―――――

かつて、そのような役を担ったのは、シュワルツェネッガーだった。

―――――

あの大迫力、

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ショットガンを持って立つだけで新時代のシンボルたり得た「世紀末の金剛像」、

―――――

進化する時代の様相をあれほど的確に捉えた「肉体性の魅力」は、いったん溶鉱炉の中へと姿を消し、以前よりかなり小粒な――見方によっては、前よりも小回りの利く――外見を伴って、Google検索に代表される新しいカルチャーをフォローしきれないハリウッドの「期待の星」として、戻ってきました。
それが、つまりは、

―――――

ヴィン・ディーゼルという男であり、彼の立ち位置だと思うんですね。

―――――

この映画でドミニク役を勤める彼にとって、最新の改造車を操り、裏社会に潜む麻薬組織と対決するなぞ、軽いものです。

―――――

「軽い」というのは、ヒーローになることが、彼にとって容易だと言っているだけでなく、

―――――

彼が体現するカルチャーの質そのものが、機械の如き現代社会の中に埋もれて、相対的「比重」が軽くなってしまっている、と…

―――――

スカッとしに入った劇場で、ただただ「うーん…」と唸らされた2時間から、そういう連想が浮かんだわけです。

―――――

この映画の作り手たちは、観客の中にある言葉にしにくい関心事が「いつの時代にも変わらぬロマン」などでなく、「機械に追い詰められつつある人間の、現在なりの生き方」であることを解っていない。

―――――

作り手は解っていないが、ディーゼルという男は、身体で「それ」を表現してる。

―――――

機械と人間の対峙――機械との関係を通して変わる人間の本質――が、人々にとって「気になる話題」である限り、

―――――

ディーゼルは「軽い比重のヒーロー」をしばらくの間、演じ続けていくでしょう。

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誰か、そのせめぎ合いの本質を体で表せる「本物」が現れるまで。そう。

―――――

(つまり、ワルいけれどもこの人の存在は、過渡的なものではないでしょか)

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Jack

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空洞/「しんぼる」

やー、やっと観られた!

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「しんぼる」です。

―――――

観たかった。

―――――

いろいろ都合で劇場に行けず、「まぁ大人気のようだし、もうしばらく放っといても、上映はしてるだろう…」と、高をくくっていましたら…

―――――

ん?
なんだ?

―――――

あれあれ、
「大人気」ってわけでもないのか…

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yahooのレビュー見ました。

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そうか…
賛否両論、ていうやつか…

―――――

いかんな、どうやら、早く観に行かないと、終わっちゃうな。

―――――

…てんで、観てきました!

―――――

結果…

―――――

やー! 僕は、「賛」のほうですね!

―――――

「賛」の上に「大絶」を付けたいです。

―――――

かーなり面白いじゃないの。

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取り上げたテーマの「料理の仕方」が、たいへんエレガントで、見せ方も、要所要所でとても巧い!とうなること、しきりでした。

―――――

その「テーマ」について、いろいろと言いたくなる映画でもあるんですが、あー、言っちゃうと、「ネタバレ」ってことになるんだろうな…

(しかし、「ネタバレ、ネタバレ」って、いつから言い出したんでしょう? そんなにうるさいこと言ってたら、淀川センセや植草甚一さんの映画解説なんて、まったく成り立たないことになるし、内容にチビッと触れるだけでもピリピリと目くじら立てるなんて、「映画を巡る環境」を楽しんでないね。どうかしてます、ほんと)

―――――

メキシコの田舎に住む、とあるプロレスラーとその家族のお話。

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特にどうということもない日常が、淡々と綴られます。
今日は試合のある日です。

―――――

一方、

―――――

なんの関係があるのか、まったく説明の入らぬ場面。

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真っ白な壁で四方を仕切られた大きな部屋。

―――――

天井は遥か見えないほど高く、上空からは太陽が照らす如く、明るい光が差している…。

―――――

この部屋に、パジャマ姿の男(松本人志)が閉じ込められている。

―――――

観ていくと分かりますが、この映画、「なぜ閉じ込められたか」を問うことには(まるで人生のように)意味がない。

―――――

男は、なんとかして部屋から出ようと試みますが…

―――――

さて、メキシコのお話と、この部屋のエピソードは、どういう脈絡で一本の映画にまとめられているのでしょうか?

―――――

あのですね…

―――――

この作品の中身について、どう触れたらいいかな、えーと…

―――――

あの…「世界観」ていう言い方があるでしょう?

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恋愛映画でもアクション映画でも、「この作品の世界観は…」なんて言う。

―――――

もっと分かりやすい例を引くなら、「ハリーポッター」のようなファンタジーや「ウルヴァリン」のようなSF。

―――――

「世界観」の描き方が決定的な意味を持ちます。

―――――

で、

―――――

これは、松本人志という人が、「おれは“世界”というものを、こういうものだと認識してます」と表明している、一種のプライベート・フィルムです。

―――――

その認識というのは、ひとくちに言って、「世界とは、なんとも、おかしい」というものです。

―――――

もちろん、この「おかしい」には二重の意味が込められてる。

―――――

「おかしい」という単語に、「笑える」という意味と、「狂っている」というもうひとつの意味が、重ね合わされています。

(実際に笑えるかどうかは、別問題です。
コメディ映画としての角度からは、飛びすぎてて、僕は笑えませんでした)

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「笑っちゃう」ということと「狂っている」ということが並立するような、そんな映画的テクストとは、どのようなスタイルを取るものか。

―――――

今まで何人もの監督がこの問いに挑戦し、その中には、キューブリックの「博士の異常な愛情」のような大傑作や、スピルバーグの「1941」のような意欲の空回りした不発の作品や、いろいろとありますが、

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そうした様々なメタ・フュシカ(形而上学)的「世界への興味」を提示してきた映画群の中にあって、この「しんぼる」という作品がユニークなのは、

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「まず“世界”なるものを成立せしめている枠組みには、狂っているなりにルールがある」

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という観点を見せてくれるところでしょう。

―――――

閉ざされた部屋からの脱出を試みる男は、「あるシンボル」以外に何もないその部屋が、一定の規則に支配されているのに気づく。

―――――

彼は、その「支配の規則」にたちまち、順応していってしまいます。

―――――

そうすることが、「脱出」の鍵になるのではないかと考えて。

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メタフィジーク(哲学)的でありながら、現実に生きる「子どもから大人へと、今まさに変化しつつある人々」が、いかにも取りそうな態度の「暗喩」になっているでしょう?

―――――

支配の規則に気づき、それに乗っかり、さらに利用しさえすることで、彼はなんとかして状況を逆手に取り、「知らぬ間に与えられていたテリトリー」の“利用者”の立場に立とうとする。

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誰もが、社会人になるとき、経験しそうなことですね。

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ひとが社会人になる、ということを一面から捉えるなら、それは様々な新体験への感想を持つに留まっていた思春期を「脱出」し、自分の人生の「主役になろう」とする時期だ、と言えます。

―――――

観客であることから主役になることへの「立場」の移行。

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しかし、移行したところで、彼/彼女に「世の習い」のすべてが解るわけではありません。

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ありませんが、それでも人は、たいていのことについて、「解っているフリ」をしなくちゃならない。

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脱出の努力を重ねるうちに、人は知らぬ間に、そうした如何にもうさんくさい立場を選ばされてしまうのです。

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映画は、その辺りのことについて、一見ミニマルに、実は非常に巨視的に描いています。

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『〈主人〉は、構造の本質的欠如の場所に自分がいることに気づくと、自分がその剰余――構造からこぼれ落ちる謎のX――を掌握しているかのように行動する』

スラヴォイ・ジジェク「汝の症候を楽しめ」:鈴木晶 訳

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僕が「ああ、これは、ものすごく面白いなぁ…」と思った最大の要点は、

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追い詰められた末の狂気がどこへたどり着くかを「じっ…」と見つめていくと、結局、「2001年 宇宙の旅」のボウマン船長のような“役割”がある、という推論に行き着くんだな…というトコです。

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狂ったコンピュータ「HAL」が支配する宇宙船を脱出しようと必死になるその果てに、ボウマンは、巨大な秘密があるのに気づく。

―――――

もちろん想像の域を出ませんがこの映画、「2001年…」から大きくインスパイアを受けている、と見ましたです。

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繰り返しますが、中途半端に終わるかに見えるこの映画には、きちんとした結論があります。

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「世界は、なんとも、おかしい」

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松本監督が芯からの芸術家だと思うのは、「おかしいから、こう生きるべきだ」とは言ってない点です。

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かつてトリュフォーが言った如く、「芸術家は何かの提言をするのでなく、ただ、見せるだけ」が仕事です。

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こういう映画を観て、「1800円かえせ!」とか言ってる連中の気が知れない。

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わざといたずらにペダンチックに書きますが、松本人志という監督は、「極めて充実した空洞」のような作品を作ってみせた。

―――――

「充実した空洞」

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というのが、モチーフとして優れて現代先進国的であることを述べて、今回は終わりましょう。

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その辺りについて、つまり充実した空洞について、もう少し突っ込んでみたい人は、この映画を観たあとに、「2001年…」と同じくキューブリックの「アイズ・ワイド・シャット」なんかを観るといいです。

―――――

(“なんにもない”っていうことに凄味を見るか、腹を立てるか…、なんとなく若いひとのほうが怒っちゃいそうな気もしますね。日本も含めた先進諸国が「若くない」ってことの、ある種の証しでもあります。

いま、若いひとには面白くない時代が続いているのかもしれない、ということが、ひとつ気がかりではありますが)

―――――

Jack

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夢見るように語らせて/「ココ・アヴァン・シャネル」

フランス語で「Directeur」、ディレクトゥールと言うと、部長・局長・所長・支配人…などの意味になります。

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「映画監督」と言いたい場合には「Realisateur」、レアリザトゥールと言います。

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「Realiser」、レアリゼという動詞が「実現すること」、ひいては「夢想を現前化させること」を意味していますので、レアリザトゥールという呼び名は、それだけでロマンティックなニュアンスを持っています。

―――――

フランス人が映画というものをどう観ているか、ちょっと「感じさせる」お話しじゃないでしょか。

―――――

ちなみに女性監督のことは「Realisatrice」、レアリザトリスと言うのですが、まさしくこのレアリザトリスの敬称がふさわしいと思うのは、

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「ココ・アヴァン・シャネル」

―――――

のアンヌ・フォンテーヌ監督です。

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19世紀の終わり。
20世紀の始まりの予感がある頃。

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孤児院にひと組の姉妹が預けられる。

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妹の名前はガブリエル。

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「ココになる前の(アヴァン)シャネル」。

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長じてお針子をしながら姉と共に酒場で歌う歌手となった彼女は、陽気な軍人バルザンと出会います。

―――――

なんとしてでも貧乏から抜け出して、パリに出る。

―――――

そう決意する彼女は、バルザンのもとへ、「押しかけ愛人」として住み込みますが…

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これはねぇ…

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フランス映画に常に革新の息吹きを感じていたい「作家主義びいき」の人なら、複雑な想いで観るだろうなぁ…

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僕?
僕はすっかりお気に入りです。

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どうかすると「保守的」と言ってもいい語り口が、この映画に関しては魅力的です。

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全編、「女による女の見方」が光っている、と感じました。

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日々の貧しい暮らしに追われるココ(オドレイ・トトゥ)を、顔に下から光を当てて、やつれた疲れ果てた表情で表現する残酷さ…

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彼女が初めてパリ社交界の女性たちを目の当たりにする際の高揚を、彼女目線で移動するカメラであらわす手法…

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その目は飾りの多い帽子やコルセット付きのドレスを追っていく…

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だが、やがて女性を締め付ける格好に疑問を持ち、ファッションへの才気を「社会への反抗」として伸ばしていく様をゆっくり繊細に捉える脚本…

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オドレイ・トトゥが次第に魅力を拓いてく。

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極めつけは、海を初めて見た直後の描写です。

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ネイビーブルーのジャンパーに縞々シャツの漁師を見るココ。

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次のシーンでは、もうジャンパーや縞シャツを着こなしてる!

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そうした衣服に関する細部の表現に加えて、彼女の生きざまに絡む「男」の描き方もうまい。

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特に人生享楽派のバルザンを演じるブノワ・ポールブールドがいい。

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ココの奇行に手を焼き、厄介者扱いしながら、いざ彼女が別の男に入れ込んでいくと焼きもちを妬くという…

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男性観察も堂に入ったものです。

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しいてケチをつけるなら、後半から登場するカペルなる青年との恋愛の描き方が平凡かな?

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それでも、それは、これだけ贅を尽くした映画の傷とは言えないと思います。

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フランス映画も、こんな風に「愛すべき人生」を描けるほどに「揺り戻し」たか…

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ここに至るまでに在った、幾つもの「ポスト(脱)・ヌーヴェルヴァーグ」の映画たちを連想しました。

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ヌーヴェルヴァーグというものをどう位置付けるかが、ひと頃のフランス映画界にとって、最大の難題でありました。

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一時代を飾ったポスト・ヌーヴェルヴァーグのフランス映画たちは、ベネックスの「ディーバ」にせよカラックスの「ポンヌフの恋人」にせよ、みんなどこか「メタ恋愛劇」といったおもむきのものでした。

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同じくベネックスの「ロザリンとライオン」なんて、まさしくメタ恋愛劇だったし、パトリス・ルコントの「橋の上の娘」なんてメタ恋愛劇そのものです。

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「メタ」恋愛劇って、なんのことかと言いますと、恋や愛について謳う前に、「まず、“愛する”とはどういうことだ?」という「大前提」を疑うことが介在していたのです。

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「すべてを疑って、小間切れの要素に分解する」というのがヌーヴェルバーグの映画作家たちに多く見られた態度です。

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60年代から70年代にかけてというのは、あちこちで既製の価値観が崩壊し、若者が独自の視点で何事かを創ろうとした時期です。

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フランスの若い映画監督(自ら「映画作家」と名乗りました)は、まずいったん、あらゆる物語を「出来事の総和」と捉え、その観点から出来事ひとつひとつを小間切れにして自由につなぐ、という手段に打って出た。

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そうすることで、あらゆる出来事について、「これって、つまり何のことなんでしょう?」という「議題」に仕立てることをやってのけた。

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その若さは、いま観ても、鮮烈です。

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しかしながら、ここに、ある問題点を見るとすると、作家たちが「あとに残るような“方法論”を提示しなかった」、ということになるでしょか。

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小間切れにされた議題たちは、それぞれがひとつひとつ、たいへん魅力的なパズルのピースを構成していたのですが、それらを発表する作家たちが主に「即興性」を重んじていたこともあり、手法として映画界に定着するものではありませんでした。

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困ったことに、魅力的な即興性を発揮したヌーヴェルヴァーグの映画たちは、それまでの、「どちらかと言うと観客の持つ常識に対して優しく進行する」オールドスタイルの映画群を、蹴散らしてしまいました――(それは映画の歴史に向けてオマージュを捧げようとした若い映画監督たちにとっては、本意でなかったはずなのですが)――。

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ヌーヴェルヴァーグがフランス映画を駄目にした、と言ったのは故・淀川長治さんですが、駄目にしたかどうかはともかく、「まず疑うことありき」といった考え方の衝撃は、たしかにフランス映画から「物語ることのカタルシス」を奪ってしまったと言えるかもしれません。

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「語る」という行為は、それが疑問のかたちで綴られた場合には、観客にとって「何かを投げかけられた」ものにはなるかもしれないが、「描写の奥深さにウットリした」とか、「痛快さにウサを晴らした」とかいったものにはなりにくいからです。

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(この点、ヌーヴェルヴァーグの映画作家たちが表現に関して鋭かったのは、彼らが激動の時代に在って、マンネリに陥りつつあった伝統的な「物語る」やり方をいさぎよく捨て、「ロマン」や「痛快さ」を達成するためにこそ小間切れの即興性を選んでいったことでしょう。たとえそれが何事かの方法論を打ち立てる、といった「建設的な」やり方でなかったにしても、です。エニウェイ、いずれにせよ)

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ヌーヴェルヴァーグの「負の遺産」とでも呼ぶべきものを受け継がざるをえなかったフランスの監督・脚本家たちは、愛や恋や怒りや悲しみや憂いやまどろみや、要するに「人生についてのストーリー」を再び「とうとうと流れる物語」として語れるようになる日を、いろいろ努力しながら待ち焦がれていたはずなのです。

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で、

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この「ココ・アヴァン・シャネル」は、もうそれが出来てる。

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このことは、マリオン・コティヤール主演の「エディット・ピアフ 愛の讃歌」でも感じたことでありますが、この映画を観て、「ああ、本当にフランス映画も新しい時代に入ったな」と確信いたしましたです。

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かつてゴダールは、自らを「ジャン=リュック・シネマ・ゴダール」と名乗り、ただひたすら「映画だけが尊敬すべきものである」という態度を採った。

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彼が尊敬するのは「出来事としての映画」であって、物語ではありません。

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しかし、どうやら時代は、謂わば「思潮としてのシネマ」という出来事の季節から、レアリザトゥール・レアリザトリスのつむぐ「フィルムに焼き付けた物語」のほうへと移行したようです。

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これは歓迎すべきことでしょうか?

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両者共存を望むのが、いちばん穏やかな希望でしょうが、それはおそらく意味がない。

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今年で79才になるゴダールや81才になるジャック・リヴェット、さらには89才になるエリック・ロメールがこの先どんな映画を発表するのか、

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僕は、この「レアリザトリス」アントワーヌ監督の映画を観て、よけい楽しみになった気がしています。

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(「物語という名の夢の現前化」という行為が再び輝きを増してきた「新古典主義」と言ってもいいフランスの状況下に、いまや御大となった彼らがどんな「出来事」を見ているのか、知りたいと思うんです)

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Jack

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お修辞の時間/「ウルヴァリン:X-MEN ZERO」

ものすごくよく出来た、とっても面白い映画なんですけど、「?」ていう…

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おすぎさんも指摘していることですが、面白いけど「暗い」。

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なんで暗いのか、
また、「なぜ暗いのが気になるのか」が、妙に気になる。

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今日は、そのお話しをいたします。

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初めにちょっと回り道して、別の映画の話題から。

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スティーヴ・マックィーンが主演して1966年に公開された西部劇に、「ネバダ・スミス」というのがあります。

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「荒野の七人」が60年、「大脱走」が63年ですから、マックィーンはもう新しいスターになっていたと言っていいでしょう。

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このあと、「華麗なる賭け」やら「ブリット」やらを経て、「ゲッタウェイ」の円熟期へ進んでいくことになる。

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「ネバダ・スミス」は、そうした流れの中にある一本です。

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で、なんでそれを先に取り上げるかと言うと、

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この映画は、マックィーン扮する主人公の復讐劇なんですね。

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幸せに暮らしていた家族を荒くれ者の一団に惨殺された彼が、何年もかかって、自らお尋ね者にまでなりながら、散り散りに逃げた悪党たちを一人一人見つけ出し、殺していく、という…

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暗い?

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はい、暗いんです。
はっきり言って。

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しかし、このあらすじからもお分かりの通り、この映画は観客の「エモーション」に強く訴える作品として構想されておりまして、

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初見のときの僕は(テレビ放映でしたが)、「なんて、カッコいいんだ!」と唸ったものです。

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「独りあてどなくさまよいながら復讐のために生きる青年」、という像が、とてもスタイリッシュに見えたのです。

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アウトローのカッコよさ。

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ところで我々は「いちばん言いたいこと」を説得力を持って相手の内に浸透させるために、「修辞」を用いる生き物です。

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「ネバダ・スミス」が映像という修辞をもって観客に共感・賛意を求めたのは、青年期特有の内なる暗さ・愚かしさ・苦しみと向き合いもがく若者の姿だったろうと思います。

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誰にも思い当たるふしのある、心の底の影…
しかし、

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十数年後、レンタルビデオ店で「ネバダ・スミス」を見つけた僕は、嬉しくなって、すぐ借りて、その晩のうちに視たのですが…

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はぁ…
あれはサミシイ体験だった…

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久しぶりの再会…
だが、そこには、少年の日に心躍らせてくれた「カッコいいマックィーン」の姿はなかった。

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時代を経て、「映像化の工夫」が古くなり過ぎていたのです。

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例えば、主人公が夜の牛飼い小屋で、ナイフ一本で柵の上に仁王立ちして、悪役と対決する場面がありますが、

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ただならぬ雰囲気を感じ取り興奮する牛たち。

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落ちたらヒヅメに押し潰される。

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シュッシュッと、空を切るナイフ。

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暗闇の中での男と男の差しの勝負。

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そうした要素が全く盛り上がらなかった…。

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平板なカメラワーク。

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貧弱なサウンド。

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迫力あるはずの決闘場面が、のどかなシロウト映画に見えるほど単調で、修辞の力を失った画面はただ、「発想の陰鬱さ」を伝えてくれただけでした。

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「メッセージの暗さ」だけがそこには残り、もともと在ったであろう「惚れ惚れするようなスタイル」はカビが生えていたのです…。

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と、ここまで言ってから、今日の映画、

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「ウルヴァリン:X-MEN ZERO」

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数世紀を生き続けるミュータント兄弟。

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弟ローガン(ヒュー・ジャックマン)と兄ビクター(リーヴ・シュレイバー)。

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幼少時からダークな宿命を背負った二人は、他のミュータントたちと共にアメリカの特殊部隊に参加しますが、その残忍な任務遂行に嫌気の差したローガンだけは、止める隊長を振り切り、独り、部隊を抜ける。

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愛する女を見つけ、片田舎で静かに暮らし始めたローガンの耳に、兄の仲間殺しの噂が入る。

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なんのために?

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考えている暇もなかった。

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やがて最愛のひとケイラにも、ビクターの魔の手が…

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これは後悔と苦渋と、復讐の物語です。

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「ダークナイト」や「ボーン・スプレマシー」といった、謂わば「暗さが売り」の映画を観て、十二分にその魅力を感じ取る僕ですが、この映画には映像とサウンドの修辞を超えた――つまり、スタイルをもって飾りきれない――独特の懐疑的「内容」がある気がします。

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その「内容」とは?

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はい、わりと簡単でして、それはSF小説を読み慣れてきた読者ならお馴染みのテーマ――「根源的に異なる者同士が“隣人”として共存しあうことは不可能なのか」という――、最初から議論の対象にさえならないことが分かっている悲しき反復のテーマです。

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残念ながら、これは単純化して言うことの出来ない話なのです。

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そのままアクション映画の形へ起こして飾ることの出来ないテーマなので、映画は思い切った「変換」を行っている。

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なぜ変換されたのかが、ちらちらと見えるので、「ああ、本来描きたかった内容に、修辞(映像化のテクニック)が追い付かなかった結果だな」と思わせるというわけです。

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詳しく見ましょう。
まず、

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変換された、もともとのテーマですね。

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「異なる者たちが隣人となれるか」って、どういうことだ?

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それは徹底して理性的に問い詰めていくなら、宗教や文明の「異質」がもたらす破壊的な局面を「知」というものをもって人類が乗り越えられるか――そのとき「知」そのものも何事か従来からの姿より変質を遂げるのか?(この「変容」についての問いかけこそ、SFが得意とするもの)――、という極めてシビアな論題のはずですが、

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情緒的に流して捉えてしまうなら、単に違う時代に違う場所で思春期を送った二人が、いつか分かり合えるだろうか、という狭い範囲の「世代間ギャップ」の話題に過ぎなくなってしまう、そんなものです。

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この映画は、正編「X-MEN」シリーズに在った「異なる者たちが共存の可能性を探り合う」という内容を、「呪われた運命の兄弟が陰謀に操られながら確執する」というメロドラマのレベルへと格下げしてしまった。

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格下げしたことで、話はグンと分かりやすくなりましたが、もともとシビアだったテーマを情緒的な愛憎劇に置き換えたことで、「無意味な闘いに翻弄される男たち」という、どうにもやるせない「情念として悲しい暗さ」を持つ映画になってしまいました。

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派手な爆破のシーンがあろうと、高揚感たっぷりのアクションシーンがあろうと、目立っているのは、「発想の陰鬱さ」です。

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「ダークナイト」や「ボーン・スプレマシー」と違うのは、暗さと正面から向き合うのでなく、「付きまとう“結論”の困難さ」を振り払いたくて、つまり「なんとか前向きな方向へとエネルギーを向けたくて」、様々なアクション、CGを駆使してある――脚本も、その線に沿って書かれている――という点です。

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で、そのような「暗さを払拭しようとした努力」――それすなわち「映像という名の修辞」です――が完璧ではないので、観ている最中、隠そうとした悲惨さがフと見えて――(なぜなら、おそらくは作り手の側に「懐疑」があるから)――、それが妙に気になったというわけです。

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ふむ。

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この映画を十五年後に見直したら、果たして僕はどう思う?

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映画にとっての映像化の技術や音響効果は、これからも進歩を続けていくことでしょう。

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最新のエフェクトで溢れたこの「ウルヴァリン」も、やがてはスタイルが古くなる日が来るはずです。

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そのとき、提示の仕方として、カビの生えた表現を超えるものとして残る「内実」が、ただ陰気なだけの、暗いだけのものに見えたりしないか。

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…暗さに「甘いロマン」を見る目というのは、風化しやすい視線じゃないか。

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最初に挙げた「ネバダ・スミス」が、いい例です。

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暗さを見つめるなら、徹底して厳しくないとね。

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さいわい、映画は厳しい結論を提示して終わる。

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そのシビアさが、この「暗さを振り払おうとして、払いきれない」映画にとっての「救い」である気がして、改めて正編のシリーズでも見ようかという気にさせるのです。

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アメリカ映画の中で、「陰気な思考とどう向き合うかは」、ここしばらくのトレンドですね。

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(また誰か新しい才能が出てきてドカーンと振りほどいてくれるまで、糸は絡まり続けるでありやしょう)

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Jack

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ステロイド剤と抵抗力の話しから/医療を左右する要素について

いやー、まいったまいった…

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新型インフルエンザかと思って、かなり、やきもきしたよ…

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いえ、うちの父が風邪引きまして。

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微熱だし、食欲も落ちてないので、医者へ行くのを数日待ってみたんですわ。

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PL顆粒っていう風邪薬(僕が以前に内科で処方された分の残り)を飲んでたんですけど、体温が37度前後で、それ以上下がらなかったんです。

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父にはリウマチの持病がありまして、程度は軽いんですが治療のためにプレドニンというステロイド剤を常用しております。

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で、風邪引きのあいだにそのステロイド剤が切れかかったんで、えい、ちょうどいい機会だから、ついでに内科にも診てもらって、風邪治療とリウマチ治療と1日で両方こなしちゃえ…てんで、二軒の医者へ連れてったんです。

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寝てたほうがいいのか、あちこち引きずり回して風邪を悪化させないか、心配ではあったけど…

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でね、
結果として、

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いやー、お医者さんてのはいくつか回ってみるもんだ、てのは本当ですね。

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最初に行った内科では、「別に喉も赤くなってないし、PL顆粒をもう少し継続して飲んでれば、治癒するんじゃないかな」と、言われたんです。

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たんの絡む咳をしてるんですが、大丈夫でしょうか?

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「うーん、『たん』て言うのは、肺のバイ菌を体外に出す役目も持ってますから、むやみと止めないほうがいい場合もあるんですよ」

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はぁ、なるほど。

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「お父さんの場合、咳のせいで熱が上がるほどでもないようだし、もう少し様子を見ましょう」

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と、これが内科の診断だった。

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その先生は、父がリウマチなのも知ってて、そう言ったんですからね。ところが、

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そのリウマチ薬をもらおうとして行った整形外科で…

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「ん? 咳してるね? 風邪でも引いた?」

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あ、はい、微熱なんですけど。

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「待った。レントゲン撮ろう」

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ええっ?
なにか悪いことでも?

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「うん。ステロイド剤を服用してると、どうしても体の抵抗力は落ちるんだ。肺炎を起こしてないか、一応レントゲン撮っておこう」

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うひゃー。

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さっき安心したばかりなのに…

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さいわい、肺にはたいした異常はないとのことでしたが、

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「抵抗力が落ちてるのは確かだから、念のため、バナンていう抗生物質の処方書くよ。内科で出された風邪薬と一緒に飲んでみて」

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数日して体調に変化がないようなら、もういちど内科に行くように、と言われて帰りました。

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さて、それで…

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風邪薬だけで治癒する、と言った内科の先生が正しかったのか、それとも念には念を入れて抗生物質も飲んで、と言った整形外科の先生が正しかったのか?

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とりあえず父の風邪は、平熱近くまで、下がりました。

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僕の感覚で言うと、内科のその先生はおおらかに構えたひとであり、

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整形外科の先生は、どちらかと言うと心配性の慎重派です。

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つくづく、「医療」ってのは、科学以外の「医師のキャラクター」が支配する面が大きいんだなぁ…

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これって、ほかの理系的分野にも言えることかもしんないなー。

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…というわけで、ここ数日の顛末記でした。

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実は僕自身も、父の風邪をうつされちゃって、鼻水がえらいことになったんですけど、治りましたので、早速、映画一本観てきました。

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後日、また。

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Jack

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