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小劇場的転移術/「キラー・ヴァージンロード」

ウケてるお客さんも多かったから、たぶん監督第一作としては、失敗じゃぁないんでしょう。

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僕はと言えば、「流れの中でのバランスの悪さ」を感じたなぁ。

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ただし、そのバランスの悪さをひとくちに「欠点」とは呼べないのですが…
んん?

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けなしてるのか、どうなんだ?

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例によって、仔細に見ていきましょう。

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俳優・岸谷五朗さんの監督・脚本(共同)一発目です。

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とても、演劇的発想の映画です。

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と言いましても、例えばベルイマンやルキノ・ヴィスコンティのような荘厳なオペラを連想させる、といったものでなく、

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うんと大衆的な「小劇場」のニュアンスが満載です。

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小劇場で演じられる芝居というのは、実際にはとても下世話な猥雑なものでありながら、演じている側の人たちは難しい(高尚な)演劇理論を持っていたりするでしょう?

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演劇人というのは、こむずかしい理論を振りかざして論争するのが大好きだったりいたします。

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下町人情を描くドタバタ喜劇が、実はスーザン・ソンタグの理屈を下地にしていたり…。

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そういったテイストの映画とお思い下さい。

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わたくしの年長の友に、小劇団の座長をしている方がおりますが(ずいぶん前のことになりますけど、ボカ、エキストラで出演してしまったこともあるんだな)、以下、演劇の空間で起きる出来事、「主従の転移」について、述べましょう。

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演劇というのは、基本的にはプロローグからエンディングまでの「日常から独立した時間の流れ」を扱います。

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なに、映画だってそうなんですが、演劇の場合は「観客のライブの反応」が劇の進行――異空間であるはずの場の時間の流れ――に、その時々、場面、場面で影響を及ぼしていく点が違ってる。

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舞台上に笑いや拍手を送る間、空間は自然に客席と舞台とが一体化し、その場の支配者の座は観客へと移る。

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一方、ほんの数秒笑いが止むのを待つ間、舞台の上は時間が止まり、俳優たちは「客席の反応を受け取る聴衆」の立場へと移行する。

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演劇的異空間の時間の流れは、ざっと言いましても「混沌」としており、映画のそれより、はるかに複雑な構造を持っています。

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この複雑な構造を映画の中に、グイッと強引に押し込もうとしたのがこの、

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「キラー・ヴァージンロード」

はい。

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上野樹里が殺人犯!

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小さいときからグズでドジで、「どんじりビリ子」の渾名を持つ主人公。

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やっと巡ってきた結婚のチャンスを前に(結婚相手がEXILEのMAKIDAI)、ひとを殺してしまいます。

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「せめて結婚式だけは!」

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挙げたい彼女は死体を隠すことを決意しますが、そんなビリ子の前に「訳あって、どーしても死にたい!」女(木村佳乃)が現れて…

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彼女らに次から次へと絡んでくるのは、

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変態オタクのマンションの管理人(寺脇康文)、

なぜか付きまとう暴走族のリーダー(中尾明慶)、

アイドルマニアの青年(小出恵介)、

幻の蝶を探すペンション・オーナー(北村一輝)、

ひたすら追ってくる警官(田中圭)…

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等々、ささ、登場人物華やかなり。

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過去の映画の記憶も散りばめて、二人の女の奇妙なロードムービー、スタートです。

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えーと…

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観ていると、映画にとって「クローズアップ」というものが、どういう意味を持っているのか、改めて知らされたりいたします。

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これは、監督初体験のひとが僕らをハッとさせてくれた、興味深い一点です。

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クローズアップというのは「これからしばらくの間、このひとを中心に展開しますよ。このひとが主役へと交代しますよ」という「合図のカット」なんですね。

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テレビでクローズアップを見慣れていても、そういうことには気付かなかった。

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岸谷監督の手法はたいへん面白いことに、アップという手段がなぜか、ありきたりに見えず鮮烈です。

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演劇では、どんな端役であれ、あるひとりの役者さんがセリフを発している間、ほかの人たちは黙って待っているでしょう?

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つまり、ほぼすべての役者さんに、「主役になる時間」が与えられているわけです。

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これと同じ要領を、監督は、映画の中に持ち込んでる。

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しかし、これは群像劇ではない。あくまで主人公二人の珍道中を軸にしているはずなので…、

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そのなかに寺脇康文、小出恵介、中尾明慶、田中圭…といった人たちが「主役を張る場面」が挿入されると、なにか違和感がありますね。

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それと、もうひとつ。

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上野樹里さんにはまことにお気の毒ですが、どう控え目に言っても、木村佳乃さんのほうが目立ってると思うなぁ。

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この映画では、殺人を犯してしまい死体を隠そうとする上野樹里の前に、自殺しようとして死ねない木村佳乃が現れる…といった具合に、骨子として「罪を犯した者へ当たるスポットライトの移動 = 転移」が起きています。

(監督が意識してかしないでか、自殺が「罪」として描写されてます。キリスト教的概念の展開です)

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この一事からも分かる通り、「ああ…なんか、背後にややこしい“理論構築”がありそうだな」と思わせる。

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たぶん監督は、実際にはそれほど考え込んでいないのかもしれませんが、だとしたら、ぜひ、とことんまで考え込むべきだった。

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観てるとですね、あー、これは西欧人がヒチコックの描写を評して言う「罪の転移」が起きてるな、とか…

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オタク・カルチャーというものを、一種の「背任行為の愉しみ」と見る視線があるな、とか…

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そういった理屈っぽさが幾つも感じ取れるのですが、それが「大理論」の中にきちっと統制されているとは言い難い。

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そのへんの「整理不十分」な感じというのも、とても小劇場的だと思う。

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罪を犯した二人の逃避行を、その罪が「悪も正義も超越した華やかさ」をもたらす様子と共に、サイケデリックに描いてく。

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…のが、本作の大目標のはずなのですが、次々挿入される派手で力技の「笑いの場面」が入るたび、この映画は興味の対象を「その場面で主役をとる役者」の人間臭さへと移していくので、その横滑りのせいで、ときおり主人公・上野樹里を真ん中に据えた物語が置き去りにされる印象です。

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こういう「いろんなことが未整理」の映画の中で思いっきり「ぶっ飛べる」のは、自分自身について、ひいては自らの演技について、ある種、割り切った人たちではないだろか?

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だからこそ、寺脇康文や木村佳乃というベテランが目立ってる。

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上野さんは(彼女だって、芸歴は決して短くないですが)、自分の演技スタイルを「自然体」で行くのか「のだめカンタービレ」でピタッとはまったような「天然ボケ」スタイルで行くのか、ちと迷ってる印象です。迷わせてしまった脚本も、責任あると思うなぁ。

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で、結論としてつまらないのか。

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いえいえ。

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監督にも演者にも、今後の可能性を感じる一本です。

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バランスが悪かろうと強引にまとめたこの作品に触れることで、岸谷五朗というひとが、いまどきの日本のテレビ・映画の世界にどんな不満を抱いているのか、ちょっと共感を寄せたくなる映画です。

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「小劇場的」と言った理由は、果たして伝わりましたでしょうか。

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妙な屁理屈こねてる感じ…
ほかの興味への横滑り…
「主役」の乱立…

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などなどは結局、小演劇にとっての「完成されてない魅力」であり、混乱を交えたハイテンションぶりは、決して「欠点」に終わるわけではないのですから。

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(こういうことを「整理整頓」して言おうとする僕に、疑問を感じますですか?)

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Jack

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