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2009年9月

小劇場的転移術/「キラー・ヴァージンロード」

ウケてるお客さんも多かったから、たぶん監督第一作としては、失敗じゃぁないんでしょう。

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僕はと言えば、「流れの中でのバランスの悪さ」を感じたなぁ。

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ただし、そのバランスの悪さをひとくちに「欠点」とは呼べないのですが…
んん?

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けなしてるのか、どうなんだ?

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例によって、仔細に見ていきましょう。

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俳優・岸谷五朗さんの監督・脚本(共同)一発目です。

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とても、演劇的発想の映画です。

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と言いましても、例えばベルイマンやルキノ・ヴィスコンティのような荘厳なオペラを連想させる、といったものでなく、

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うんと大衆的な「小劇場」のニュアンスが満載です。

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小劇場で演じられる芝居というのは、実際にはとても下世話な猥雑なものでありながら、演じている側の人たちは難しい(高尚な)演劇理論を持っていたりするでしょう?

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演劇人というのは、こむずかしい理論を振りかざして論争するのが大好きだったりいたします。

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下町人情を描くドタバタ喜劇が、実はスーザン・ソンタグの理屈を下地にしていたり…。

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そういったテイストの映画とお思い下さい。

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わたくしの年長の友に、小劇団の座長をしている方がおりますが(ずいぶん前のことになりますけど、ボカ、エキストラで出演してしまったこともあるんだな)、以下、演劇の空間で起きる出来事、「主従の転移」について、述べましょう。

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演劇というのは、基本的にはプロローグからエンディングまでの「日常から独立した時間の流れ」を扱います。

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なに、映画だってそうなんですが、演劇の場合は「観客のライブの反応」が劇の進行――異空間であるはずの場の時間の流れ――に、その時々、場面、場面で影響を及ぼしていく点が違ってる。

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舞台上に笑いや拍手を送る間、空間は自然に客席と舞台とが一体化し、その場の支配者の座は観客へと移る。

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一方、ほんの数秒笑いが止むのを待つ間、舞台の上は時間が止まり、俳優たちは「客席の反応を受け取る聴衆」の立場へと移行する。

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演劇的異空間の時間の流れは、ざっと言いましても「混沌」としており、映画のそれより、はるかに複雑な構造を持っています。

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この複雑な構造を映画の中に、グイッと強引に押し込もうとしたのがこの、

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「キラー・ヴァージンロード」

はい。

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上野樹里が殺人犯!

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小さいときからグズでドジで、「どんじりビリ子」の渾名を持つ主人公。

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やっと巡ってきた結婚のチャンスを前に(結婚相手がEXILEのMAKIDAI)、ひとを殺してしまいます。

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「せめて結婚式だけは!」

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挙げたい彼女は死体を隠すことを決意しますが、そんなビリ子の前に「訳あって、どーしても死にたい!」女(木村佳乃)が現れて…

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彼女らに次から次へと絡んでくるのは、

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変態オタクのマンションの管理人(寺脇康文)、

なぜか付きまとう暴走族のリーダー(中尾明慶)、

アイドルマニアの青年(小出恵介)、

幻の蝶を探すペンション・オーナー(北村一輝)、

ひたすら追ってくる警官(田中圭)…

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等々、ささ、登場人物華やかなり。

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過去の映画の記憶も散りばめて、二人の女の奇妙なロードムービー、スタートです。

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えーと…

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観ていると、映画にとって「クローズアップ」というものが、どういう意味を持っているのか、改めて知らされたりいたします。

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これは、監督初体験のひとが僕らをハッとさせてくれた、興味深い一点です。

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クローズアップというのは「これからしばらくの間、このひとを中心に展開しますよ。このひとが主役へと交代しますよ」という「合図のカット」なんですね。

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テレビでクローズアップを見慣れていても、そういうことには気付かなかった。

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岸谷監督の手法はたいへん面白いことに、アップという手段がなぜか、ありきたりに見えず鮮烈です。

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演劇では、どんな端役であれ、あるひとりの役者さんがセリフを発している間、ほかの人たちは黙って待っているでしょう?

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つまり、ほぼすべての役者さんに、「主役になる時間」が与えられているわけです。

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これと同じ要領を、監督は、映画の中に持ち込んでる。

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しかし、これは群像劇ではない。あくまで主人公二人の珍道中を軸にしているはずなので…、

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そのなかに寺脇康文、小出恵介、中尾明慶、田中圭…といった人たちが「主役を張る場面」が挿入されると、なにか違和感がありますね。

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それと、もうひとつ。

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上野樹里さんにはまことにお気の毒ですが、どう控え目に言っても、木村佳乃さんのほうが目立ってると思うなぁ。

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この映画では、殺人を犯してしまい死体を隠そうとする上野樹里の前に、自殺しようとして死ねない木村佳乃が現れる…といった具合に、骨子として「罪を犯した者へ当たるスポットライトの移動 = 転移」が起きています。

(監督が意識してかしないでか、自殺が「罪」として描写されてます。キリスト教的概念の展開です)

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この一事からも分かる通り、「ああ…なんか、背後にややこしい“理論構築”がありそうだな」と思わせる。

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たぶん監督は、実際にはそれほど考え込んでいないのかもしれませんが、だとしたら、ぜひ、とことんまで考え込むべきだった。

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観てるとですね、あー、これは西欧人がヒチコックの描写を評して言う「罪の転移」が起きてるな、とか…

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オタク・カルチャーというものを、一種の「背任行為の愉しみ」と見る視線があるな、とか…

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そういった理屈っぽさが幾つも感じ取れるのですが、それが「大理論」の中にきちっと統制されているとは言い難い。

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そのへんの「整理不十分」な感じというのも、とても小劇場的だと思う。

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罪を犯した二人の逃避行を、その罪が「悪も正義も超越した華やかさ」をもたらす様子と共に、サイケデリックに描いてく。

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…のが、本作の大目標のはずなのですが、次々挿入される派手で力技の「笑いの場面」が入るたび、この映画は興味の対象を「その場面で主役をとる役者」の人間臭さへと移していくので、その横滑りのせいで、ときおり主人公・上野樹里を真ん中に据えた物語が置き去りにされる印象です。

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こういう「いろんなことが未整理」の映画の中で思いっきり「ぶっ飛べる」のは、自分自身について、ひいては自らの演技について、ある種、割り切った人たちではないだろか?

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だからこそ、寺脇康文や木村佳乃というベテランが目立ってる。

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上野さんは(彼女だって、芸歴は決して短くないですが)、自分の演技スタイルを「自然体」で行くのか「のだめカンタービレ」でピタッとはまったような「天然ボケ」スタイルで行くのか、ちと迷ってる印象です。迷わせてしまった脚本も、責任あると思うなぁ。

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で、結論としてつまらないのか。

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いえいえ。

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監督にも演者にも、今後の可能性を感じる一本です。

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バランスが悪かろうと強引にまとめたこの作品に触れることで、岸谷五朗というひとが、いまどきの日本のテレビ・映画の世界にどんな不満を抱いているのか、ちょっと共感を寄せたくなる映画です。

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「小劇場的」と言った理由は、果たして伝わりましたでしょうか。

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妙な屁理屈こねてる感じ…
ほかの興味への横滑り…
「主役」の乱立…

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などなどは結局、小演劇にとっての「完成されてない魅力」であり、混乱を交えたハイテンションぶりは、決して「欠点」に終わるわけではないのですから。

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(こういうことを「整理整頓」して言おうとする僕に、疑問を感じますですか?)

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Jack

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どうぞ、ひと言/「BALLAD 名もなき恋のうた」

うーん…

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内容について言う前に、少し連想の輪を広げましょう。

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「なかなか話しの通じにくい素直な人」をご存知でないですか?

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もンのすごくいいひとで、下品にひねった冗談なんか言おうものなら、ポカンとされて、言ったこちらが、かえって赤くなる、という…

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で、どんなときにも、もう根っからの性質としてニコニコしてるわけなんです。

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ひとがたくさんの仕事を抱えて困ったりしてると、進んで助けの手を差しのべてくれる…

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ところが、いざ任せてみると「愚直」と言いますか、書類の束を一枚ずつ仕分けするような、のんびりとした仕事ぶりで…

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ご当人に悪気はないんですよ。

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あまりにも悪気がないんで、一緒になって仕事をやっていくには、もう、こちらも相手の素朴さに取り込まれる以外、ありません。

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そういう、周りを感化する素直さに満ちた人。

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あなたも今までに、そんな人に1人くらい出会ったことないですか?

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…と、そんな人物のことを連想させる一本です。

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「BALLAD 名もなき恋のうた」

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今回も山崎貴監督が、脚本まで書いて、VFXも手掛けています。

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川上真一(武井証)はちょっと「ビビり」の弱っちい小学生。

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最近、不思議な夢を見ます。

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美しい着物姿の女のひとが、湖のほとりで、なにやら一心に祈っているのです。

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実は、それは夢でもなんでもなく、遠い時代を隔てた不思議な交流でありました。

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ある日、大きなクヌギの木の根元で寝込んでしまった真一は、夢見た光景 = 戦国時代に来てしまったことに気付きます。

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そこで真一は、めっぽう強い武将、鬼の又兵衛(草なぎ剛)と彼を密かに慕う廉姫(新垣結衣)と出会うのですが…

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傲慢な大名、高虎(大沢たかお)が、廉姫を嫁に欲しいと言い出して…

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再び、うーん…

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これを「映画」として楽しめるのは、普段、あまり劇場なぞに足を運ばない人ではないかなぁ…

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まず、哀感たっぷりのラブロマンスを描く「技量」が、1964生まれのこの、僕と同年代の監督には、だいぶ不足してると感じます。それについては、あとでもう少し触れましょう。

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第二に、草なぎくんは、ミスキャストではないかなぁ。

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めっぽう強いが女に弱い、というひじょーに典型的な役柄ですが、「鬼」にゃ見えないよ、「鬼」には。

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ほかにも挙げるとすれば、全般的に間延びした展開と主人公三人も含めた各キャラクターの「味」の薄さ(というか、登場する各人に対する性格付けの、ぎこちなさ)。

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「タイムスリップ」という設定を活かしきれない平凡な構成。

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いろいろと文句をつけたいところは、多いです。

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この映画の原作だという「クレヨンしんちゃん 劇場版」を観ておりませんが、原作が漫画だったときの「ALWAYS」と比べて、実写化するに当たっての換骨奪胎の仕方が、今回はあまり上手と言えないようです。

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が、

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そういう、こちらの「文句を言いたい気分」てやつを打ち消してしまう不思議な魅力も、たしかにある。

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新垣結衣、草なぎ剛という二人の俳優の表情…

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どこか「おっとり」した、映画全体のニュアンス…

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いろいろ言いましたが、この映画には、結局のところ「難癖」を打ち消してしまう「個性」がある。

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その個性の正体とは…

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作品全体を通して、観客を不安にさせるような「嫌味」がまったくない!…ということで。

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きっと、監督は、いいひとなんでしょうねぇ…

(はて、どうなんだろう?)

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あまりに「のどか」な展開なので、呆気にとられているうちに、終盤の合戦場面に来ています。

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巧いんだか下手くそなんだか、わたくしのようなあまり素直とは言えない観客からすると、得体の知れない「おおらかさ」で、いっぱいです。

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それでも敢えていじわるく言うなれば、山崎監督が「ALWAYS 三丁目の夕日」正・続に続いて放つ「人間を信じましょう」キャンペーンの一環です。

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この映画も含めて、三作すべて、実質的な「ファンタジーである」と言えますが――いまどき、あっけらかんと「人間て素敵でしょう?」と謳っているのですから、これらがファンタジー以外のなにものでもないことの証しなのですが――、本作ではタイムスリップなどという余計な知的要素 = 考えさせる「ひねり」が加わった分、「感動的な素直さ」が欠けてしまったのではないか?

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山崎監督の目指しているところは、あまりにも明解です。

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相田みつをさんが色紙に書いたようなことを、映像に起こそうというのです。

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この映画が主張する内容は――そう。はっきりとした「主張」を持った映画なのですが――、それをどんなに疑問に感じる「知性」がなにを言おうと、まったく受け付けない「頑迷な正直さ」に満ちています。

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なんとなれば、実直、誠実、無垢、純真…といったものを、現在への強いアンチテーゼとして打ち出そうというのが山崎ワールドの意図なのですから、そこにどんな苛立たしい疑問を持とうと、最初から反論したい側に「勝ち目」のないことは、分かっています。

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つまり、山崎監督の映画に触れているあいだは、僕もあなたも、完全に「いいひと」になるか、劇場を出るかする以外、選択肢はないのです。

(苛立つとすれば、ここですね。映画というものが本質的には「逃れられない暴力装置であること」への無頓着さ)

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しかし、です、

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やれやれ、やっと、付け入る隙について話せるよ。

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さっきもちらっと触れましたが、今回に関しては、「タイムスリップ」などという余計なひねりが掛かっているので、観る側に「ん?」と考えさせる「余地」を与えてしまってる。

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これは、どう見ても、計算違いというものではないでしょか。

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それと――ここが、肝心な点ですが――、もし、登場するすべての人物が「いいひと」ならば、そこに「愛の哀感」を持ち込むのは間違っている。

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愛情の在り方というのは、この映画で描かれるほど垂直的なものではないでしょう。

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「いいひと」のまま「愛の深み」を描こうとするのは、明らかに相反しておりますが、この監督には、相反するものを強引に結び付けてしまうだけの力量が、まだない、と見ましたです。

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どうやら愛の地獄を見たことがないらしいこの監督の「人間」と「漫画やアニメというサブカルチャー」に対する信じがたい純情な理解の仕方に絶望的な断絶を感じながら、僕は劇場を出たわけですが…

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それでもどこかしら魅力のあるこの映画に向かって、何を言う?

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ここまで解説したあとで持ち出しても、まったくの迫力不足なんですが、それでもこのセリフしか、ありません。

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仕事場の同僚でもなんでもないからね、

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こういうときは、好き勝手にものが言えて、ほんとに楽だ。

要するに、

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この監督、あほちゃうか!?

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以上、長々と言った末の結論でした。
はは…。

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Jack

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目的/「サブウェイ123 激突」

「サブウェイ123 激突」

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原作を大幅に改変しちゃって、かえって「なぜ今つくるのか」疑問符だらけの映画になっちまった…。

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えー、この作品については、わたくし、特権的にものを言える立場にあります。

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ジョン・ゴーディの原作小説は、ほとんど「座右の書」と呼んでいいほど、何回繰り返し読んだか分からないし、その映画化・1974年のロバート・ショウ、ウォルター・マッソー主演の「サブウェイ・パニック」は、劇場で最低4回以上、テレビ放映では5〜6回視てますので、この作品の「専門家」として、もの申す資格があるのです。

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今回のリメイク、出来映えは、はっきり言って、くだらない。

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「L.A.コンフィデンシャル」や「ペイバック」、「ミスティック・リバー」の脚本家ブライアン・ヘルゲランドが起こしたストーリーは、ユーモアに欠けて「がさつ」だし、原作にも映画オリジナル版にもあった「大都市のナマの息吹き」を捉えていない。

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デンゼル・ワシントンとジョン・トラボルタという二大名優のやり取りは、平板で退屈だし、要するにこの映画、トニー・スコット監督の映像センスを別にすれば、観るべきところは、ほとんどないです。

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…というわけで、今回は、つまらない映画のことなど置いといて、素晴らしい原作小説の醍醐味について、記します。

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(なお、現在、小学館文庫から、今回の映画化に合わせて「サブウェイ123 激突」というタイトルの新訳が出てますが、僕が好きなのは、ハヤカワ文庫NV・村上博基さん訳のオリジナル版「サブウェイ・パニック」のほうなので、興味のある方はAmazonで古本を入手してください。以下、引用はすべて村上訳から写しています。この、村上さんの訳が、圧倒的にいいんです)

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まずは、地下鉄乗っ取りの主犯・ライダーが初めて登場する場面の描写。

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「ライダーはほんの一瞬ためらってから――自分が意識しただけで、よそ目にはわからない――改札口の擬貨(トークン)をスロットにおとしこみ、腕木を押して通りぬけた。プラットフォームへ歩きだしながら、あのためらいはなんだったのだろうと考えた。気おくれ? まさか。いまのは戦闘前の一譲歩、せいぜい献金みたいなもの。それ以外のものじゃない。人間どうせ生きるか死ぬかなのだ」

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うわぁ。

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何回読んでも、かっこいいなぁ…

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ニューヨーク市の地下を走るレキシントン・アベニュー線。
ペラム123号車。

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四人の男がこの地下鉄をサブマシンガンでジャックする。

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要求は百万ドル(リメイク版では1千万ドル)。タイムリミットは1時間後。

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無線のやり取り。

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「『交通局警察のプレスコット警部補だ。そちらは?』

『おたくの電車を乗っ取った男だ。指令主任にいってメモを見せてもらえ。ただし手間どるな』

待っているライダーの耳に、警部補の息づかいがきこえた。やがて――『プレスコットからペラム123へ。いま読んだ。おまえはきちがいだ』

『そう、おれはきちがいだ。そうきけば気がらくかい。きちがいのいうことだから本気にしないってのかい』

『いいか』とプレスコット。『本気にはする。しかし、どうなるもんじゃない。おまえのいるところは地下だ、トンネルのなかだ』」

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大金を奪っても、閉じ込められた地下トンネルから、ライダーたちは、どう脱出するつもりなのか。

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一方、市長以下関係部局の確執のため、身代金の準備は遅々として進まない。

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人質たちの運命は…

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といったところが内容ですが、ポイントは、ですね、

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これは特殊な状況下に置かれた無数の人々を描き分ける、極めつけに優れた群像劇であり、乗っ取り犯ライダーも、交渉にあたるプレスコット警部補も、「主役ではない」という点です。

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(主役はいないのですが、なんというか“極点”は、くっきりさせてある小説です。後述します)

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どれも数ページという短い各章は、登場する人物たちの名前がタイトルとして割り振られ、乗っ取り組、地下鉄交通局の人々、警察、市長と側近、そして人質となった乗客たち…

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それぞれの心の内と行動を描いていきます。

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さらには無責任に口を出す大勢の野次馬たち…

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この小説が書かれたのは1973年。

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ウォーターゲート事件の捜査が、ホワイトハウスにまで及んできた時期です。

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アメリカは、混沌とした失意の時代を過ごしてました。

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対外的には、敗色濃厚なベトナム戦争の泥沼が続いており、国内的には不況の波が全土を襲い、人種差別の暴力的撤廃を叫ぶブラックパンサーのような組織が勢力を伸ばし、フェミニズムは声高になり、社会主義に関心を持つ若者がたむろし、警察は威信を失い、誰も大統領の言うことを信じない…

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そういう時代背景です。

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社会全体が慢性的に希望を見失い、明日が見えないとき、人々はてんでに、あらぬほうへと、さ迷い始める…

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しかし、それが実に不可思議なことに、最下層から上流に至るまで、すべての人々の「あがき」とも言えるギリギリの活況をもたらすのです。

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この小説が描くのは、ひとりひとりが未来にも将来にも、なんの展望も持たず、自分の周囲数フィート内のこと以外まったく関心を払わないにも関わらず、様々な思惑が同時進行で複雑に絡み合う、人、人、人がごった返すむせかえるような大都市の熱気そのものなのだ。

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で、そうでありながらこの傑作をユニークなものにしているのは、「主役はいないが、“中心”はある」という描き方です。

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自分の仕事に自信が持てず、自堕落になっている警察官…

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明日の知れない毎日を、ただやり過ごすだけのベテラン売春婦…

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苦渋をなめるばかりの毎日に決着をつけたいが、なにごとも踏み出せず勇気の持てない元・運転士…

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雑多な人々に様々な思いがありますが、ただひとり、なんの「思い」も抱えずに虚無の中にいる男がいます。

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作者が「空洞化した時代の象徴」的存在と位置付けて描く男。

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それがライダーという男。

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「そもそもライダーの理論は、彼の生活を律する、いたって単純な哲学に発しているのだ。その哲学を彼はめったに口にしない。請われてさえ語らない。いや、要請にせよ強請にせよ、請われてはよけい語りたがらない」

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無機的な少年時代を過ごし、ベトナムでの従軍を経て、プロの傭兵となる男。

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その男が大都市ニューヨークの度肝を抜く犯行に及んでいく。

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「父母の死――彼はふたつを別種のものとも別個のできごととも思っていない――が、それだけで彼の哲学をうんだのではないにしても、種をまいたことはたしかだった。当時十四歳の彼が、かくべつ悲しむこともなく両親の死をうけとめたのは、彼らの結婚生活に愛情の不在を感じとり、そこから異常な冷静をすでに身につけていたためであったろう」

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こういうやつが世の中をひっくり返す大騒ぎを起こす、っていう展開に、強烈な説得力と色褪せない魅力を感じる。

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「生きるか死ぬかさ、少佐。(…)生きるか死ぬか。これはむこう見ずのことでも、こわいもの知らずのことでもない。好んで死をもとめるというのでも、死になんら神秘も喪失もみとめないというのでもない。ただ人の世の煩瑣なことがらを大部分切りすて、命といういちばん不たしかなものを、現実的な定式に還元しただけなのだ。可能性探求なんて七面倒なものはない。ただのっぴきならぬイエスかノーがあるだけだ」

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短絡だなぁ。

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これは、短絡というものの魅力です。

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人間は、本当は、こんな単純に割りきれませんね。

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読んでいるうちに気が付きます。

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ゴーディがこのライダーという男を通して見つめているのは、70年代という時代に在って、ぐずぐずに崩れようとする「西欧の理念」のその最深部で残り火のようにしぶとく燃え続ける欧米流の「人生の意義」としての二元論であるのだ、と。

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善と悪、とかね、

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誠実と裏切り、

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老いと若さ、とか、

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そうした二項的ものの見方のどれもが色を失い、人も街も味わいをなくしていくと見えるとき、最後の一手としてこの作者が持ち出すのが犯罪者の「虚無」なのだ。

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最後の最後に、それでも消えない二元論を人生の柱とするライダーを話の“極点”として描写するゴーディの筆緻は、結果として「国家の未来」などという大義が見えなくなっても、それでも息づく活気に溢れた辛酸と疲弊の支配する逆説的な街のエネルギーであるのです。

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この男は、なぜ、地下鉄ジャックなどという犯行に走るのか。

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「きっとその戦略戦術面の困難が魅力だったのだろう。タンジールではさほどではなかった退屈が頂点に達していたのだろう。それだけの金がはいれば、気に染まぬ身すぎをせずともすむからという点は、ほぼたしかだった。非常な危険が気をそそったのは、さらにたしかだった。が、究極的には、動機はどうでもよく、そこから発する行動だけがねらいだったのだ」

―――――

というわけで、今回はこれで終わります。

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続きは読んでみてください。

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目的、ありますか?

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Jack

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責任←→ムセキニン/「20世紀少年〈最終章〉ぼくらの旗」

この映画について語る前に、大いに関係のあるお話しですが、僕は松本サリン事件や坂本弁護士一家殺害事件や地下鉄サリン事件や国松警察庁長官狙撃事件を起こしたあの教団のあの教祖は、出来るだけ早く死刑になるべきだと思っています。

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わけは簡単で、彼に死んでもらわなければ、様々な観点からの「評価」が、確定しないからです。

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あの男を「殺人の指揮官としてでなく、宗教者として、どういう人物だったか論じるべきだ」といった角度の意見があるようですが、そういった見方も含めて、棺を覆いてみなければ、彼をどう位置付けるかが定まらない、と思っています。
(おや? なんですか? 落ち着かないそぶりで)

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「あの」宗教を考えるとき(なぜ、はっきりと名前を言わないんでしょ?)、大きな鍵を握るのは、「ポップカルチャーとサブカルチャーの差異を、どう捉えるか」という点です。

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ご存知ない方・憶えてない方のために言いますと、あの集団のやったことは、アニメもどきの発想で毒ガスを作ってしまった、という点も、世界の終末を「予見」して空気清浄器のようなものを作製していた、という点も――これもアニメの「宇宙戦艦ヤマト」を連想させる――、いきなり選挙なんかに出て白装束で踊りまくったという点も、「怪しい存在」としてマスコミから目を付けられると逆に、テレビに出まくって、宣伝効果を充分に狙った論陣を張った、という点も、多くの点で、ポップカルチャーとサブカルチャーの「せめぎあい」を思わせる手法だったのです。

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「サブカルチャー」と「ポップカルチャー」を分けることに、意味があるか?

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大いにあります。
2つは、同じものではないのです。

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「ポップカルチャー = サブカルチャー」と見ることは、あの一時期、日本中を大混乱に陥れた「動き」の姿を見誤る恐れがある、とボカ思う。

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では、2つは、どこがどう違うのか。

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はい、振り分けするなら、ポップカルチャーとは大人たちによって「消費の対象」と認知された流行現象。

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サブカルチャーとは子どもたちの側が、大人への対抗文化として持ち出してくるものの諸要素と申せます。

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サブカルチャーがポップカルチャーに、いつか成りうる、と信じたところに、あの男を奉じた人々の「哀しき誤解」があった。

(そろそろ、映画の話しに移りましょう)

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「20世紀少年〈最終章〉ぼくらの旗」

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いまや、『トモダチ』による支配は、世界中に及んでいる…

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(20世紀日本の記憶を次々なぞるような、サブカルチャーへの壮大な言及が、このシリーズの大きな魅力。それは本作で絶頂を迎えます)

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前作でトモダチに立ち向かったカンナ(平愛梨)は、いまや地下抵抗組織のリーダーとなっている。

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広大な壁に封鎖された東京へ、オッチョ(豊川悦司)は漫画家(森山未來)と乗り込んでくる。

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春波夫(古田新太)のマネージャーとなっているマルオ(石塚英彦)、
柔道の道場主ユキジ(常盤貴子)、
世捨て人のようなヨシツネ(香川照之)…

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複雑に人間関係が絡み合い、全ての謎が明らかにされ、いよいよ全人類滅亡計画の全貌が…

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ケンヂ(唐沢寿明)の登場は、いつ?

―――――

えーと、ですね…

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とても、力作、です…。

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途中まで、本当に「傑作じゃないか?」と思って観てましたが、「ん?」と思う展開がありまして…

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「それは…そんなこと描くのは…そういうふうなエピソードをこの話に持ち込むのは…どうなんだ?…」

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と、ボカ思った、あ、いや、要領を得ませんね。

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サブカルチャーとポップカルチャーの断裂を「さみしいことだ」と見る観点が、この映画の作り手にはあるようです。

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さみしさを越えて、両者をつなぐことは出来ないかな

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、というのが、この三部作全体を統括する結論めいたものにされている。

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ここで、もう少し、ポップとサブ、2つの「カルチャー」という観点の「関係」に触れましょう。

―――――

サブカルチャーの側からポップカルチャーというものを眺めるなら、端的に言って、それは「堕落」であります。

―――――

エルヴィス・プレスリーがマドンナになり、B'zやサザンになる、ということは、いやさ、赤塚不二夫が村上隆になる、ということでもいいけれども、それは、ある時期子どもたちを熱狂させ、大人たちが頑固に守ろうとしていた嘘っぱちの世界に「くさび」を入れたという「時代の空気」を見失う、単純な堕落なのです。

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これを避けて、なおかつサブカルチャーというものを次の世代へ譲る唯一の方法は、そのサブカルチャーを「それが出てきた時代の空気感」と共に、パッケージングすることです。

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パッケージして、保存する。

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ひと言で言っちゃいましたが、言うほど簡単じゃありません。

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「時代をパッケージする」ということは、どこかに「ある視点」を見つけて、その視点に立った現在なりの「表現」を起こす、ということです。

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「現在から見て、その時代をどう描くか」が、パッケージ・デザイナーの手腕に求められることになるのです。

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パッケージ・デザイナーとしての堤幸彦監督は、十二分に、その役割を果たしている。

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…と、途中までは、思って観てたわけなんですが…

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堤監督は、自分が、ひとりのデザイナー =「時代の流れを見つめるヒョーロン家」の立場に立つだけでは、満足出来なかったらしい。

―――――

もしかすると、そのような立場は、既に原作者である浦沢直樹さんが、漫画の中で見せている態度だから、という事情があったのかもしれません。

―――――

映画は、「カルチャーを越えるもの」を提示しようと試みる。

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独りきりの悲しさ…、
新発見のワクワク感…、
そして、誰にも経験のある小さな勇気…

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「大人にも共感できる子どもの世界の出来事」を描くことで、ポップとサブの垣根を越える「人間にとっての普遍的な“希望の記憶”」を残そうとするのです。

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それは、この映画を観る青少年に向けた「未来へのメッセージ」でもあるわけですが…

―――――

僕の正直な感想を記します。

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…誠実かもしれないけど、退屈な蛇足だな。

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サブカルチャーの氾濫とその瓦解を素直に追うだけで、たいしたエンターティンメントになったろうに。

―――――

一方で瓦解のカタルシスを描きながら、「最後の最後には、心と心の結び付きが大事だよ」なんて言うのは、矛盾してるし、どっちつかずのところが、かえってムセキニンでもあるように思います。

―――――

未来なんて、勝手に出来ていくものなのさ

―――――

不器用なメッセージなんて、要らないよ

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…と、いう姿勢を採ったほうが、子どもの世界に、より、寄り添った作品になったように思うんですが…

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「人と人とは、本来、どう向き合うべきか」を説教臭く描くことで、この映画は観客から離れてしまう。

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「無責任の瓦解」を見せれば、そのあとは、なにか考えるにせよ、ただ「面白かった!」と劇場を出るにせよ、観客みんなにゆだねられていることですから、創作物としての責任は、そこで終わって、果たされている、と思うがな…

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で、

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最初の話しに戻るわけです。

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「あの男」が正式に死を迎えるまで、サブカルチャーの氾濫とその瓦解をどう位置付けるかは、答えの出ない問題ではないだろか。

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「ある時期、ああいう男が世を乱した」ということを、遠い昔語りに出来る日が来るまで、責任とムセキニンの間を揺れ動く創作家たちの態度というのは、定まることがないのかも…

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(それを「悲しいことだ」と捉えるか、または「ある特殊な同時代を生きてるなんて、面白いじゃないか」と無責任にはしゃぐか、「表現者」っていう連中は、困った地点に立つものです)

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Jack

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お血血と健康/「グッド・バッド・ウィアード」

温室効果ガスの25%削減、という目標は、どれだけべらぼうなものなんでしょう?

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僕には想像もつきません。

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奇妙な連想が成り立つと思うのは、「地球規模での問題解決――すなわちそれを“革命”と呼びます――と、地域別の問題処理とは同時に達成されるべきであり、またそのはずのものだ」という考え方が、あの懐かしきマルクス主義と同一の論法で展開されている、と感じるときです。

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ソ連よ。
滅びるのが20年、早かった。

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懐かしき論法、懐かしき感性は、ときに新しい衣をまとって、蘇ることがある。

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僕らが「懐かしき論法」に沿って呼び醒まそうとする感性とは、いかなるものか。

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また、なぜ、そのような論法を求めるか。

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きょうは、そんなお話しです。

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「グッド・バッド・ウィアード」です。

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お久しぶりの韓国映画。

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あの、「続・夕陽のガンマン」に捧げたオマージュです。

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なぜ、いま、ウェスタンか。

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まぁ、聞いてください。

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ときは第二次大戦前の中国・満州。

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日本軍が埋めたという財宝の地図を巡って、その横取りを狙う馬賊の頭目(イ・ビョンホン。また、いいとこで脱ぐ。ちょっと「レッド・サン」のアラン・ドロンを思わせる色男ぶり)、
彼を追う賞金稼ぎ(チョン・ウソン)、
そして事実上の主役なのに狂言回し的に振る舞うケチな強盗(ソン・ガンホ)。

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序盤の列車のシーンから、次々、派手な場面の連続です。

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さて、
お宝を手にするのは、いったい誰だ?

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えーと…

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たいていの日本人と同じく僕が、初めて韓国映画を意識したのは「シュリ」からでしたが…

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あの一本で驚かされて、それ以来、韓国映画は、ここにいる日本の観客にとって、あまりに猛スピードで爆走する、ひとすじの大きなうねりでありました。

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「シュリ」にあったのは、映画的な文法の整理の無視、のけぞるほどの短絡、観る者をただ座らせたままにはしておかぬ挑発する血気…

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文法より情動を!

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文脈より憑依の力を!

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映画とは血の沸騰だ!

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…といったところが、あの映画の作り手たちをうながしていた根本だったろうと思います。

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それが…

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「猟奇的な彼女」

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とかね、

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「カンナさん大成功です!」

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とか、

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見てると、思うんです。

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ああ、洗練されてきたな。

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スマートなほうへ、スマートなほうへ、進んでいるな。

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この2つの映画は、日本でもリメイクされました。

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つまり、韓国的「血の沸騰」よりはグッと穏やかであろう社会が、それを取り込む意欲を見せたのです。

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これは一種の危機であります。

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エモーションを映画にとってのほとんど唯一の動機付けとして躍動してきた人々にとって、存亡の危機なのです。

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なにが「危機」なのか。

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お分かりでない方は、たぶん、コーヒーとはスターバックスで飲むものであり、アイスクリームと言えば、サーティワンよりもコールドストーンを思い浮かべる、といった方でしょう。

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お分かりになりませんか?

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言いましょう。以下、栄養学は無視してください。

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あなたが飲んでいるお洒落な一杯のコーヒーは(いや、「お洒落だったのだ」ということすら、お忘れでしょう?)、飲むほどに、あなたの血糖値を下げていくのだ。健康的になるんですよ。

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「健康的」になっちゃうんです。

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知らず知らずに、「そっち」へ行っちゃう。

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ジョン・ウーのように絶えず「いかに華々しく生きるべきか」を考えていない僕らというのは、おおむね、お金が入れば、ファッションやインテリアのことを考え始める平凡な社会人だと申せます。

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だが、そう、バブルの時代を経験した日本人なら、思い出せる。

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ファッションやインテリアに埋もれる暮らしは、徐々に徐々に、ひとの生き方の活力を奪い、疲弊させ、商品だけが徘徊するグロテスクな人間不在の世を作るのだ。

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が、

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次第にスマートさに変身していくことを露にするのも映画なら、社会がどこを見渡してもスマートなばかりで息が詰まりそうなとき、警鐘を鳴らし、風穴をあけ、「血の息吹き」を吹き込むことが出来るのも、映画の果たせる重要な役割だ、と思うわけです。

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おそらく、この「グッド・バッド・ウィアード」は、そんな意図で作られている。

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あぁ、しかし、

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これは「シュリ」に比べれば、やはり格段に洗練されてる。

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列車強盗に始まり、砂漠の決闘にまで行き着く各シーンの流麗なつなぎ方。

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アイデア豊かなガンアクション。

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オートバイと馬の暴走が巻き起こす興奮よ。

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そのどれもが、いいセンスじゃないか。

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従来の映画の文法をぶっ壊すことにこだわって、「誰も真似できないのに意識せざるを得ない」新たな「映画の文章」を書いてしまった監督が、ゴダールというひとですが――つまり、彼の文法の破壊というのは、誰をもうっとりとさせる、とても洗練された話法に満ちていたのですが、

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こなたキム・ジウン監督は、血の沸騰を取り戻すのに、セルジオ・レオーネ = マカロニ・ウェスタンの記憶をどかん!と持ってきた。

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なぜ、いま、西部劇なのか、という疑問は、僕には浮かびませんでした。

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それは、分かりすぎるくらいに分かる。

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この勇壮なスケール感溢れる一大アクション・イベントが、ずるずると洗練されてきた韓国映画に、「もう一度踏み留まって、血の沸騰を思い出そう!」という呼びかけを行っていること、そうして、そんな呼びかけすらも、洗練の洗礼をまぬがれてはいない、不安定で危うい地点に立っているらしいこと。

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この二点だけ考えても、この映画は、いま、見ておくべき一本ですョ。

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蛇足ながら、「なぁるほど」と思ったことを、あとひとつ。

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この映画、日本軍が「その他大勢」の悪役として、ばったばったと倒されていきますが…

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毎度毎度、娯楽戦争映画というとナチスのことを取り沙汰されて、徹底的にコケにされてきたドイツ人の気分てやつが、少し分かる気がしますです。なかなか痛快だったりします。

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(…って、そんな言い方が、またまた気取ってるじゃあないかっ!)

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Jack

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倒されても何度でも/「トランスポーター3 アンリミテッド」

おッとこらしいなぁ、ジェイスン・ステイサム。

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セーム・シュルトと闘っても、たしかにこの人なら勝てるんじゃないかと思わせる。

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えー、今日は、
「トランスポーター3」です。

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前回「共同体の成員として、どう自由を得るか」というお話しをしましたが…

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いけねぇ…

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忘れてたよ…

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ちゃんと「教室も含む」なんて書いたのに、ヌケてるなぁ…

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例えば問題となる人物が中学生で、現在「いじめ」を受けている、などという場合、「概念を創出して自由になるうんたらかんたら」という言い分は、まったく無意味であるでしょう。

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その共同体は出口のない「格子なき牢獄」のような場所であり、成員たちに有無を言わさぬ服従を求める帝国主義的権力行使の最たる場であり、大人たちのどんな言説も、「今そこにある危機」に対して、なんの意味も持たないでしょう。
そうなんだよなぁ…

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僕ぐらいの年になってしまうと、3年などというのは「あっという間」の時間の流れなんですが、中学生にとっては、「永遠」とも思える苛立ちと苦渋の日々のはずなのです。

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Black Eyed Peasのリーダー、ウィル・アイ・アムは、ストリートギャングがたむろするハーレムで育った。

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世界には親を亡くし体の一部を地雷で失い、まともな医療が受けられずに死んでいく子がいくらもいる。

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…などという「遠い空の向こう」の話しも、いま現在、切迫した状況にあるひとにとってはなんの参考にもなりません。

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いまこれから白々しい新聞や雑誌の身の上相談のようなことは書けませんので、その代わりに、今日は「強さ」について、申し述べたいと思います。

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いま現在独りで格闘しているひとも、生き延びることができたなら、やがて遥かな未来、大人になって、今度は「守るべきもの」のために闘わなければならないときがやって来る。

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そういうときが、必ず来る。

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「トランスポーター3」です。

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ヨーロッパで開かれる環境会議。

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ときを同じくして、トランスポーター = 運び屋フランク・マーティン(ジェイスン・ステイサム)にひとつの依頼が。

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なにやら怪しげな空気を感じたフランクは、依頼を断り、仲間のマルコムに頼むよう、依頼人に勧めます。

―――――

この事がフランクを、事件に巻き込む。

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日を経ずして、マルコムが彼のもとへ、ひとりの娘(ナターリア・ルダコワ。まったくの素人だったとは思えぬカメラ度胸です。そばかすだらけの面構えも、妙に魅力的)を連れて駆け込むことになろうとは。

―――――

娘は何者?

―――――

謎の依頼人と環境会議との関係は?

―――――

フランクは否応なしに、マルコムの代役として走らざるを得なくなりますが…

―――――

この映画にある「ダンディズム」について、以下、述べます。

―――――

ダンディズムについては、「レッドクリフ Part I」のときにも触れましたが(2008/11/19)、ジョン・ウーのそれとベッソンのダンディズムとはかなり違うので、以下、その点を。

―――――

ジョン・ウーのダンディズムとは、どこまでも花道を行く「男の生き方の夢物語」のようなものなんですが、ベッソンの場合には、華やかさとは相容れない人生観・世界観を象徴する、「複雑さに対するときの“強さ”」を表していると思う。

―――――

ん?
なんだって?

―――――

はい、別角度から言うなれば、このフランス人が「強さのシンボル」として「男」を持ち出してくるのは、そのほうが分かりやすいからで、それ以上の意味はなさそうだ、ということです。

―――――

「男たるもの!」なんて、拳を振り上げてるわけじゃないようだ、と思うのです。

―――――

はて?
「男」を例に挙げると、なにが分かりやすいのか。

―――――

抜け殻が(虚無感が)世の中に小さく咲いた「不条理」と出くわして、そのあまりのもろさを目の当たりにし、自分以外には、それを守れるものがいない、と思い込むとき、強くならざるを得ない、という――そのことの例えとして、分かりやすくなるのです。

―――――

え?
分かりにくい?

―――――

はい、
自分でも書いてて「分かりにくいだろうなぁ」と思いますが、これがあなた、「男の生き様」という話に変換すると、シュッと理解出来てしまうんだなぁ。

―――――

まず、「不条理」について言いましょう。

―――――

まともな理屈の通らぬ、すべてを混沌とさせる「不条理」などというものに、日々、敏感だというひとは、もしかすると精神に問題を抱えてる。

―――――

不条理というのは、日常生活のなかに、そう易々と顔を出してくれるものではないし、見つけたとしても、ひどく可愛げな「小さなもの」に思えるはずです。

―――――

しかし、実際には僕らの暮らすこの世界は、不条理につらぬかれてる。

―――――

憲法九条というのは、国内的にも国際的にも、不条理の固まりでしょう?

(ベッソンの映画にちらちらと政治的ニュアンスが漂うのは、たまたまじゃありません)

―――――

ああいうものが世の中の上にガンとしてあるのに世の中自体が訳が解らなくならない、というのは、「運用面」が、条理をつかさどる「男の理屈」に任されているからですね。

―――――

男の理屈というものをひとくちに言うなら、それは「階層化」する差別化の理屈です。

―――――

強いものが勝ち、弱いものが去る。

―――――

優秀なものが昇り、劣等なものは落ちる。

―――――

これから世の中へ出ようとする人にとって、はなはだ遺憾なことながら、「人生」というのは不公平のかたまりです。

(そもそも精子のときから、競争による不公平は在るでしょう?)

―――――

この「不公平のかたまり」であることが、世の「昼間」を支配するオトコどもにとって、重要なのです。

―――――

世の中は、不公平を条理と差別化の道具とすることで――つまり「オトコの理屈」を表に立てていくことで――、「本当のわけの解らなさ」を覆い隠して、「普通」を成り立たせております。

―――――

そこにひとり、「理想」を述べたてる人が立つとする。

―――――

男らしい理想 = 「邁進の夢物語」とは違う、ユートピアを唱えるような、繊細な感性の理想です。

―――――

フェミニズムに怒鳴られそうですが、そのような理想――「勝ち負けがはっきりしている“普通”」にとっての「理想」――とは、要するに「女の子のおしゃべり」みたいなものなんです。

―――――

ベッソン流の視点をば、適用するとしてみましょう。

―――――

適用するなら、「お気楽・平和・混在・友愛」などというものを持ち上げるのは(「友愛」というのは、新総理の信条のようですが)、所詮は「女の子のうわべ」がちやほやする、そんなヤワな理想に過ぎません。

―――――

ですが――これこそ、ひどく不条理なことですが――、そうしたヤワな理想を守るために、ときに「強さ」が試される。

―――――

不条理をなぜ、守らなければならないのか。

―――――

これをして、「ベッソンの民主主義ダンディズム」と呼んでみます。

―――――

現代社会に在って、「不条理を守ろう」とする行為以上に、「ダンディズム」というものが在りうるだろか。

(九条というのは、守られるべきだろか)

―――――

ここへ「男と女」という単純な視点を持ち込むと、分かりやすくなるのです。

―――――

男にとって、いつまでも不条理――なんなら「理不尽」と言い換えてもけっこうです――なものとは、なんですか?

―――――

はい、だからハードボイルド小説のような、ダンディズムを謳う創作の中では「女がヒロイン」で、男はナイトの役を果たすのです。

―――――

もうひとつ、言いましょう。

―――――

ひとがベッソンの語り口に惹かれるのは、なんらかのかたちで「辛さ」を引き受けざるを得なかった体験がある場合。

―――――

ただ仲間と楽しくやりたいだけのはずが、何ゆえ、謂われもない「いじめ」を受けねばならないのか。

―――――

しかも、それを乗り越えても、進む先には、さらなる不公平と不条理が待っている。

―――――

そのような世界を生き抜くときに、それでもひと筋の生き方を通すことを「ダンディ」と呼ぶ以外、なんと呼んだらいいでしょう?

―――――

人生は辛いこと、苦しいことが山盛りです。

―――――

そこを乗り越えたときに、一陣の風のような爽やかさを味わえる――、というのが、ベッソン流ダンディズムだと思うんだなぁ…。

―――――

それはつまり、この混沌とした世界の中で「普通」であることを通す、という極めて謙虚な、言ってみれば、「平凡にとどまる態度」でもあります。

―――――

だからステイサムやリーアム・ニーソンやジャン・レノのような、渋い男を呼んでくる。

―――――

ひと筋の生き方を通す、ということすなわちそれは、女性的な不条理にとっての「破」でもあるわけでありまして――つまり、不条理に耽溺なんぞしているひとは、いっぺん喝を入れてやらないと、そのまんま帰ってこれない、ということでして――そういうことを考えてそうなベッソンという人が、三回も結婚してる、と。

―――――

深いですね。

―――――

これは、人生の深みというものです。

―――――

人生の深みは、残念ながら、若いときには、解らない。

―――――

いま若くして苦しんでいる人が「乗り越え」られるかどうか、僕には言えない。約束できない。

―――――

ただ、乗り越えたとき、その先に待つさらなる苦難に向かっての「ひとつの態度」というのは、出来かかると思います。

―――――

何度打ち壊されても、首をもたげてくる「不屈の態度」というものが。あ、時間だ、終わろ。

―――――

(読んで疲れませんでした?

僕は、とぉっても疲れましたです)

―――――

Jack

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