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2009年7月

♪ 何もないな 誰もいないな…/「イントゥ・ザ・ワイルド」

もし、ここが現代日本じゃなかったら、

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とてもじゃないが、自分は、まともに生きていられなかった…

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ときどき、そう思います。

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このブログのプロフィール欄に、「酒には縁がない」と書きましたけど、「晩酌の趣味はない」という意味でして、ぜんぜん呑めないわけじゃぁない。

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…わけじゃぁないけど、我を失うほど酔っぱらったこともない。

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酩酊したくなるような性質のストレスを、抱えたことがないのです。

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僕は、自分が、現代日本の文明生活のおかげで「生かされている」と思っており、また、そのことに、かねがね、深く感謝しておりますので、その文明生活の中で、「酔って忘れたいような現実」に出くわすことなど、考えられないわけなのです。

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子どもの頃は、ひどい病弱でありました。

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喘息です。

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どうやら、からだの弱い者が産まれてくる家系らしく、親戚のなかには、30代で旧いタイプの吸入薬を使い過ぎ、肺をおかしくして亡くなってしまった人もいます。

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昔の喘息薬というのは、重い副作用を起こしたのです。

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もし、僕が、「あのとき」、喘息治療の名医と言われる先生に出会って、最新の吸入薬を処方されていなかったら…

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また、もし、僕が、精神病治療の、あまり発達していない国に産まれていたら…

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こうして生き長らえて、ほかの多くの健常者たちと同じ生活を送ることは、不可能だった。

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だから、僕には、うっとうしい現代生活を脱して、「どこか遠くへ行ってしまいたい」という願望がありません。あ、いや、

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詳しく言わないといかんな。

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「うっとうしい」と思うことは多々、ありますが、だからと言って、「あー! 温泉でも行って、なんもかんも忘れてさっぱりしてぇ!」というよーな気持ちになることが、めったにないわけなのです。

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この世界に感謝こそすれ、「逃げ出したい」と思うような「うんざり気分」に陥ることが、まず、無いのです。

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おシアワセなやつだ。
はい。

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そんな僕にとって、ヘンリー・D・ソローは、「ほとんど共感できないのに、気になる作家」のひとりです。

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初めて「森の生活」を読んだのは、8年ほど前。

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もう大人になってからでした。

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1817年生まれのソローは、ハーバード大学を卒業後、文筆業でメシを食っておりましたが、28才の夏、思い立って、マサチューセッツ州コンコードにあるウォールデンの森に入り、自分で小屋を立て、「洗練された」都会生活を捨て、鳥やけものの様子に日々、心打たれ、魚を釣り、思索にふけり、ほとんど人の訪ねて来ないその家で、2年2ヵ月を過ごすことになる。

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美しい描写。
みずみずしい筆緻。

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都会生活では到底味わえない「人間の暮らし」の日々。
だけど、

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年寄りではないがさりとて幼くもない、という年齢でこの本を初めて手にした僕は、読み進めながら、強い疑問を持ちました。

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なるほど、ソローの自然描写は素晴らしい。

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だが、

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なぜ「2年2ヵ月」なのだ?

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ありきたりの文明生活に疑問を抱いて森へ入ったというのなら、なぜ、また、森の外へと舞い戻ったか。

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彼は書いている。

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「たぶん、ぼくには生きるべき人生がもっとあって、それ以上の時間を森で費すことができなかったからだと思う」

(真崎義博訳 : 宝島社)

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人間の暮らし。

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このひとことに強く惹かれ、呼応する若者にとって、この本は、美しい贈り物だと思います。

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なんと言ったらいいんでしょうか。

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ごみごみした、妬みとやっかみと悪態の支配する都会を脱出…

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「人間の手がまだ触れない」命の源を目指し、森の奥へと分け入っていく…

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森の中で、ひとは、目の醒めるような生き生きした自然と、その中で懸命に生きる動物たちと、そして自分自身を「発見」することになる…

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「ぼくが森へ行ったのは思慮深く生活して人生の本質的な事実とだけ面と向かい合いたかったし、人生の教えることを学べないものかどうか確かめたかったし、死ぬときになって自分は生きていなかったなどと思いたくなかったからだ」

(上掲書)

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この本には、どれほど望んでもつかみきれない「憧れ」が満ちているのです。

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この憧れは、ソローの生前には、注目されたりしませんでした。

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彼は、文明化しようとする当時のアメリカにあっては、ただの変わり者だった。

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解説の青山南さんによると、ソローに俄然スポットが当たるのは、1960年代に入ってからです。

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ヒッピーに代表される反体制文化が出てくるなかで、ソローの行為は、若者たちの強い共感を呼び、「森の生活」は、一種のバイブル的存在となった。

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「「市民的不服従」という言葉がソローのものだと知らずにつかう若者たちがどっさりいた」

(上掲書:解説から)

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届かない憧れ。

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実は、「森の生活」をソローが書いたのは、ウォールデンの森を出たあとです。

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7年以上の歳月をかけ、文章を何度も何度も練り直し、推敲(すいこう)に推敲を重ねて、その上で発表している。

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パロールとエクリチュール、つまり、「言葉を発する」ということと、「書き物をする」ということは、行為として、本質的に異なります。

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文明のなかに生きる僕たちは、言葉を発することで、自らのなかにある自然を蘇らそうとし、書き物をすることで、文明と同化する。

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さよう。
現代人という連中は、引き裂かれているのです。

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そんな中、話し言葉を文体の中に取り入れていく、という意味は、文明生活の中で失われがちな「生きること」を思い出していくためです。

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うむ…おっと…

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そう解説しちゃっちゃ、野暮ですね。

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こんなふうに語っていては、もとより自然から離れてしまうし、「自然」とはなんだったのかも、解らなくなってしまう。

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ソローが書いたことは「本当の体験」ですが、本当の体験を文に定着させる過程で、「本当の暮らしを生きた感激」が失われぬよう、彼は細心の注意を払い、本の完成に、長い長い時間をかけた。

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で、

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僕は、そのような、極めて綿密な注意を払って作り上げた「文章のなかの自然」てものに、「手の届かない本物の自然に焦がれる文明人」の様を見てしまったりするわけです。

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憧れ。

ロマン。

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これらのひとことは、ソローが長年かけてつかもうとしたものを表すには、卑小に過ぎる。

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「イントゥ・ザ・ワイルド」

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大学をオールAの成績で卒業した青年(エミール・ハーシュ)。

両親は「車を買ってやろう」と申し出ますが、彼はそれを断ります。

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在学中に貯めた預金を慈善団体にそっくり寄付し、手持ちのカネを燃やし、彼はリュックひとつで荒野へ入る。

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実話がベースになっています。

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なぜ、青年は、荒野を目指す?

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彼が愛読していたのが、トルストイやソローの本だった。

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この物語を映画化したショーン・ペンは、俳優としても素晴らしいが、脚本家・監督としても、第一級だと感じます。

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憧れ。

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多くの人が憧れる「それ」をフィルムに定着するにあたり、ペンは映画という名の「文明機械」を、考えつく限りの方法で総動員し、駆使し、そうして「青年の見た自然」を再現しようと試みる。

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ただカメラが美しいだけではありません。

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見るもの聞くもの、体感するもの。

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青年がそのたびに振るわせる心の様子を、すくい取ろうとしているのです。

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どこまでも、何かを求める、まっすぐな憧れ…

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ペンの映画は、映画というものが本来、劇場やDVDプレーヤーを必要とする「文明機械」に過ぎないことを乗り越えようとする、たいそう野心的な挑戦でもある。

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技巧の凝らされた演出は、ペンという人が、今まで述べてきたような意味での「強い憧れ」を心に抱えた「文明人」らしい、ということを意識させずにはおきません。

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ん?

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なにか、おかしいですね?

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はい。なにか矛盾しております。

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ソローの本は美しく、ペンの映画は命の思索に満ちている。
なのに、

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彼らが綴る命の姿の美しさは、現在を生きる僕らに、何を授けてくれるだろう…

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実は、わたくし、狂っていたときに、地元から群馬の山奥まで、歩き通しに歩いたことがありまして。

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警察に捕獲され、精神病院で目覚めたときは(正確に言うと、最初の病院で目覚めたときです。あまりにもハイになってましたので、「とてもウチでは治療出来ない」と言われ、転院させられました。二番目の病院で起きたときはベッドに拘束されてました。

が、それはともかく短い行脚を終えたあと)、

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足が、冗談でなく、二倍くらいに腫れ上がっておりました。

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歩いているあいだは、まったく気付かなかったのです。

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痛くもかゆくもなかったですね。

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その短い「旅」で僕が得たものは、たいそう恐ろしい「本物の自由」でありました。

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本物の自由が、なぜ、恐ろしいのか。

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いまは説明する自信がありませんので割愛しますが、この映画を観れば、「自由」というものに付きまとう素晴らしい解放感と、そしてその裏腹に在る恐ろしさとの関係に、少し(うっすらと)、気がつけるかもしんない。

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ひとは、ときに何もかも捨て去って、無限の彼方へ旅に出る…そんなロマンを必要とするんでしょうか?

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僕には、残念ながら分かりません。

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命の輝きを求めれば求めるほど、研ぎ澄まされた「文明観」を求められるということを、僕は「生命論的苦痛」ではないのか? と、そう疑ってるんですが、

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誰かの歌にあるように、カレンダーも目的地もない「旅のための旅」、命の奥へと分け入る旅に、

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出てごらんになりますか?

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(もう一冊、夏のご推薦図書を挙げるなら、だんぜん、ジャック・ケルアックの「路上」です)

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Jack

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たんこぶ/「アマルフィ 女神の報酬」

はじめにお詫びを。

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今回は、映画のネタを割ってしまうかもしれないので(いや、そうと言わずに、ときどきやってるかもしれませんが)、最初にお詫びしておきます。

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それでも、ぜひとも聴いて頂きたいことがございます。

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ぜひ!言いたいことがあるんだけども、それを言うには、映画の核心に触れざるをえないかもしれんのだぁぁ。

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ああ、ごめんなさい。

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「アマルフィ 女神の報酬」

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クリスマス間近のイタリア。

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(少し脱線しますが、これだけで「ハハン」と思いましたです。

夏に劇場公開しておいて、12月頃レンタルしたりTV放映したりしようという算段ではないかな?)

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もうすぐローマで、G8開催です。

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当然、日本大使館はてんてこ舞い。

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参事官(佐野史郎)を中心に、現地外交官たち(大塚寧々、伊藤淳史ら)は、準備に追い立てられています。

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中でも安達研修生(戸田恵梨香)は、気苦労多々。

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来訪する日本の外務大臣夫人のデザートの好みで頭を悩ませているところへ、この時期に赴任してくる黒田外交官(織田裕二)の出迎えまで…

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だが、この黒田という男、なにやらいわくありげです。

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なぜ、この忙しい時期にやって来るのか…

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事情通のフリーライター(福山雅治)は、黒田を見つけて言う。

「あんたがここに居るってことは、何か派手なことがおっ始まる証拠だ」

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一方その頃、ローマでは、ある観光客(天海祐希)の親子がトラブルに巻き込まれておりました。

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美術館で鑑賞中、幼い娘がトイレに行った拍子に、忽然と消えてしまう…

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言葉の分からぬイタリアで、母親が頼る相手は?…

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黒田外交官は、この失踪に助けの手を差しのべますが…

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特に前半部がいい。

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消えた娘の謎を追って、かなり気を持たせる演出です。

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が、母親を心配する商社マンの男(佐藤浩市)が出てくるあたりから、話の展開は、正直、先が読めてしまう。

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配役のせいで先が読めるのは、致し方ないとして…

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きょう言いたいのは、そういうことではないんだな。

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公式サイトでも、「イタリア全土を襲う大規模連鎖テロ」が起きる、と紹介してありますので、そーゆー事件が起きるのだ、ということは勘弁願って、言わしてくだはい。

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で、

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今回、話題にしたいのは、その「大規模連鎖テロ」とやらの、「描写の仕方」でございます。

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単刀直入に申しましょう。

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なんで、日本の「娯楽」映画は、「暴力」の描き方が下手なのだ?

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あー、いや、
こういう言い方は、一方的だな。

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日本刀振りかざしてのヤクザの闘いとか、「ケンカ上等!」みたいな不良高校生の乱闘とか、そういうのは、いいんですよ。

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むしろ、日本映画の得意分野だと言っても、いいかもしんない。

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では、なにが下手かと言いますと…

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「ひとを殺してでも『祈り』をかなえよう」とするものが現れたときに、どうするのか?

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そのことについての態度が、はなはだ及び腰だということです。

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それは「暴力」の問題であり、「政治」の問題でもあります。

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ふたつに分けて、言いましょう。

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ひとつは、銃器が絡んでくる場合です。

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我が国には、「ゴルゴ13」のような漫画もあるのに、なぜ映画になると、ガンアクションは得手でないのか。

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そして、もうひとつ。

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「ポリティカル・サスペンス」とか「ポリティカル・アクション」とか呼ばれるジャンルの下手なこと。

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昔から、これらの分野にチャレンジする人はいたんですよ。

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小林旭や宍戸錠(エースのジョー)の無国籍アクション、片岡千恵蔵の私立探偵・多羅尾伴内、市川雷蔵のスパイ映画などなど。

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そうした作品は、どれも面白く出来ていますので、描写が下手くそになったのは、雷蔵や宍戸錠よりあとの世代のことだと申し上げてよいでしょう。

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僕はずばり言って、「団塊の世代以後」のことだろう、と思っています。

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具体的に言いましょか。

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ビートルズ解散の頃にハタチ前後だった人々です。

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この世代は、安保闘争や大学紛争など、「闘い」に、常に「理念」がついて廻る人々です。

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ベトナム戦争が「自由主義を守るための正義の闘い」なのか、それとも「米帝国主義による民族自立への侵略」なのか、コブシを振り上げる前に「まず、議論せよ」と、馴らされてしまった世代です。

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ケンカするのに、「理屈づけ」が必要だったようでして。

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それが「時代の不可抗力」だったのかどうかは、いま、問題ではありません。

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実際には国家的危機の存在しなかった「戦争について、その迫り来る空気さえも、よく解らない国」、日本にあって、

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国と国との付き合いの上で、否応なしに起きてくるかもしれない「争いごと」について、米国に守られながら、ぼんやりと空想するしかなかった人々が、自分たちよりあとの「文化の方向付け」を迷いながら「決定ごっこ」する以外、選択肢がなかったことが、その後の「娯楽下手」につながっている、と、

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僕は、そう思っておりますね。

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ややこしいですか?

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ややこしいのは、僕のせいじゃありません。

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自らはなんでもかんでも部外者的立場に立って論評するのがお好きな割りに、自分のこととなると他者からの批評をするりとかいくぐろうとする悪質な癖の持ち主たちが、80年代前半の、日本が国際的に注目を集める時代の「文化の先導者」を担ってしまったことが、

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この国にとっての不幸であった、と、

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そう思っているのです。

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このような常態を脱却するには(なぜ「脱却」したいか、って? うっとうしくてたまんないからに決まってるじゃん)、この世代が投げ出すように無視してきた問題に正面から向き合い、「なにがいけなかったのか」を総括する必要がございます。

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「相棒 劇場版」もそうでしたが、この映画も、総括のために、「まず、『テロ』とはなんなのか?」を考えている。

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それだけ真摯で、良心的な作品を作ろうとしているのですが、それは、

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正直言って、「理屈抜き」で動かなければならない「娯楽」映画にとって、実に身動きの取りにくい、困った「アタマのたんこぶ」のようなものなのです。

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「銃を抜いたら、弾は放たれるものなのだ」

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撃つか撃たれるか、それだけなのだ、という単純明快さが、この「アマルフィ」なる映画には無い。

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いったん銃による解決を決心した者たちが、あんな簡単に説得されて、振り上げた腕を下ろすわけはないじゃぁないの。

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肝心な場面での、アクションでなく理屈っぽい「答弁」のやり取りは、いままでなし崩し的に積み重ねてきてしまった「特殊な時代」の総括が、それだけ困難であることを語って余りある。

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座ったまま、とくとくとして、戦いについて呑気に語るようないやらしさがないことが、救いと言えば救いです。

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それだけ、愚直に「娯楽というものを創れる土台」を探しているのが見えるからです。

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劇中、織田裕二はニコリともしない「渋い男」を力演しておりますが、正直、似合っているとは思えない。

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それがまた、こうした「娯楽」作品にふさわしいキャラクターを探すことの難しさを示しているかのようなのです。

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けなしてるのか?

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いや、そうではなく、こうした努力を楽しみに「見守りたい」と、申し上げたい。

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思い出すのは、70年代のテレビです。

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折からの「コロンボ」ブームで、日本のテレビドラマには、やたらと「よれよれのレインコートを着て、風采の上がらない名刑事」が出てきたものです。

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それが、どの役者にも、まったく似合ってなかったですね。

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その頃、やがて古畑任三郎や杉下右京が登場することになる、と想像したひとはいなかった。

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こなた、現代です。

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9.11事件のとき、団塊の世代の最初に採った態度というのは、実に無様なものでした。

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我々は、テロの時代に、「下手くそだ」とも、「不謹慎だ」とも言われない娯楽を(優れた娯楽なら、意図せずとも自然に現実を反映しているものです)持てるようになるでしょか。

―――――

「アマルフィ」の織田裕二は(へんな言い方ですが)、似合っていない役柄を、なかなか魅力的に演じている。

―――――

この愚直な映画自体も、身の丈よりやや高いところに目標を置いた、洒落っ気を目指した終わり方をいたします。

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イタリアの風光明媚に酔いながら、

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今後出てくるであろう「娯楽」映画を期待して待つ気にさせてくれるんです。

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(たぶん、そのときが来たら、みんなして言うことでしょう。

「なんで、出来なかったんだろうね?…」と)

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Jack

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(いまどきなら、「SP」なんて、面白いよね)

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新版イコノソフィア・アニメ編/「モンスター VS エイリアン」

いま、僕の手元に、二枚のまったく異なる手法で描かれた「女」(いや、正確に言うと「若い娘」)を主題にした絵があります。

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のん。
正しくは、二枚の作品(さらに言うなら、一枚はフォト・コラージュなんですが)について取り上げた、雑誌の記事があるわけです。

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一枚は、僕の美術の師匠だったこともある現代美術家・会田誠さんの日本画で、「巨大フジ隊員VSキングギドラ」という作品。

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東京の街を暴れ回るキングギドラに対して、ウルトラ警備隊の紅一点フジ隊員が、なぜかウルトラマンのように巨大化して組み合いますが、ギドラの猛攻にあい、あわや着衣が!貞操が!…、ああ、ギドラの首が、あんなところに絡んじゃって!という、まぁ、その瞬間を微細な線と色付けで描いた絵です。

―――――

そして、もう一枚は、英国人でありながらカリフォルニアを愛するアーティスト、デヴィッド・ホックニーの作品「ヌード」。

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女優テレサ・ラッセルの、性器まできちんと映った寝姿の写真を幾重にもばらばらにし、細切れに切り刻んで、もう一度、ひとつに合わせた、という作品。

―――――

ふだんは実に明るい色彩で、西海岸の生活を捉えたりする方ですが、自分の中に眠る「女について、モーレツに妄想したい!」という「少年性」がふつふつと湧いてきた…というような一枚です(たしか、このひとは、ゲイだったと思いますけど)。

―――――

会田さん、ホックニー、両者まったく違う作品ですが、どっちについても言えるのは、

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「美術ってものを、なかば神聖視してくれる、“分かったフリ”の大人たちに許しを乞うて成り立っているような、閉ざされた少年性についての作品だ」

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ということです。

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いつまでも青少年から脱却できない男にとって、「若い娘」とは、極めて意味の限定された性の対象に過ぎません。

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現実の娘たちと付き合うことで、性の対象は、初めて「女」性と意識される存在に変質していきますが、ふたりの芸術家は、「そうなる前」を問題にしています。

―――――

どちらも、「閉ざされた少年の心的世界」が、どのような広がりを持っているかを、たいへん整理整頓された手法で作品化しているのです。

―――――

もうひとつ言えること、言いましょう。

―――――

2つの作品とも

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「キッチュかもしれないが、ポップではないな」

―――――

ということです。
つまり、

―――――

どちらも、素直に考えたら不気味なアイデアを、非常に繊細な手つきで具現化してあるわけですが、これらはですね、

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あんまり美術に関心のない、ごくフツーの女のコが見たら、

―――――

「なに、これ? キモい…」

―――――

と言われて、終わってしまうかもしれない作品なのです。

―――――

なんとなれば、現実の娘と途切れたものを問題にしてるのですから、アタリマエです。

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アイデアの生々しさばかりが前面に出てきて、「どう表現してあるか」を問題にしてもらえないものを、

―――――

「ポップではない」

―――――

と僕は言っているわけですが、

(映画「エイリアン」のクリーチャー・デザインをして世界に名を馳せたH.R.ギーガーなども、僕は、「キッチュだが、ポップでない」と思っています)

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ん?
なんですか?

―――――

はい、そうですね。

―――――

ここまで言う以上は、これから「ポップとは何か、について」、僕なりの見解をお話ししようというのです。むふ。

(さあ、感性テストの時間だぞぃ!)

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「モンスター VS エイリアン」です。

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陽光まぶしいサンフランシスコ。

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結婚を間近に控えたスーザン(声:ベッキー/リース・ウィザースプーン)。

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結婚式当日、教会のそばで、なんと隕石の直撃を受け、奇妙な宇宙線を浴びてしまいます。

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おかげで、さぁたいへん!

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からだが数十メートルに巨大化し、家族にも新郎にも参列者にも逃げ出され、ついには軍に捕まってしまいます。

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連れていかれた秘密基地で出会う怪物たち。

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ゴキブリの能力を得ようとして、変身してしまったコックローチ博士。

半魚人のミッシングリンク。

スーザンよりさらにでかい虫の化け物ムシザウルス。

そして、生きたどろどろのスライム生物ボブ(ひゃっほう! 声:バナナマン日村勇紀/セス・ローゲンだ)。

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自らも人間としてではなく、モンスター「ジャイノミカ」として登録されてしまうスーザン。

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ああっ!
あたし、いったい、どうなるの?!

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悩んでいる頃、はるか宇宙の彼方では、地球侵略をたくらむ、恐ろしい宇宙人がおりました…

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やー!
これ、すごく、いいセンスじゃないの!

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「ハエ男の恐怖」とかスティーブ・マックィーンの出た「人食いアメーバの恐怖」(「絶対の危機」ね)とか、もちろん、「アマゾンの半魚人」とか、そのへんへの目配せもうれしいですが、

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なにより、巨大フジ隊員に比べて、巨大スーザンの存在は、圧倒的に、ポップだと思います。

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女のひとでも、楽しめるように出来ている。

(脚本チームのひとりが、マヤ・フォーブスという女性です)

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僕は、なにをもって「ポップ」だと言ってるか?

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懐かしの「セーラームーン」を、例に挙げてみましょうか。

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いまでもネットを漁れば、「セーラームーン」のアダルト版パロディ漫画を簡単に見つけられるはずですが、

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「そーゆー」たぐいの妄想をも簡単に引き付け、なおかつ、どーしようもなく「華」のあるものを、そう、ポップと呼んでいるのだよ。

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性しか知らないオトコの子が女のコに出逢えば、誰でも、否応なしに気付かされる。

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性的な妄執などは、男と女の付き合いの、ほんの背景に過ぎません。

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思想上のこととして「肉体的」だの「身体性」だのと言っているとき、すぐに「穴」のことだと勘違いする愚か者は、要するに、働けばよいのです。

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人生は、ポップなコミュニケーションに溢れてる。

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「ね、ね、ね、あのさ…」

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と話しかけられるだけで、

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「♪ うん、なーに? ぜんぶ許すから(なにを許すんだ?)なんでも言って ♪」

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という気になるのが、つまりは「ポップ」ということです。

(わっかるかなぁ)

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マリリン・モンロー、かつてのマドンナ、いまのブリトニー・スピアーズ、ビヨンセ、Perfume、しょこたん…と…

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はっきり言いますよ。いいですか。

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こういうひとたちは、みぃんな「オナペット」としての機能を持っていたし、持っている。

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しかし、

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そーゆーところしか見てないヤツには、キッチュ程度の短絡理解がお似合いです。

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幻想とは、もちろん性幻想も含めて、男と女が一緒に浸って遊ばなきゃ、輝いてくるはずないです。

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そういう共通項が持てるからこそ、「フーゾク」なんていう商売も、成り立つわけで。

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10年間、女だらけの職場にいて、出来る女や明るいだけの女や、ただ単に面倒なだけの女に囲まれていた体験を踏まえて申します。

―――――

女っていいよなぁ…

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と、素直に思える男にとって、

―――――

「女のコが巨大化して、怪物扱いされて、凄いパワーを発揮しちゃう!」

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というアイデアの、なんと単純で、ポップなことよ。

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おまけにちゃっかり「大きくなって、女性として強くなる」っていうフェミニズム調のテーマも掛けてある。

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本国では、大ヒットしたようですから、パート2の出来る予感もぷんぷんです。

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「魔女っ子メグちゃん」とかね、

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「クリィミーマミ」とか、

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「スケバン刑事」とか、

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アイデアは良くても、真面目に見てると退屈で気疲れするのも多いんですが、この「モンスター VS エイリアン」については、わたくし、わたくしなりのオタク人生を賭けて言いましょう。

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いやはや、見て損はないはずです。

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(あっ。子ども向け映画としても、よく出来てるんですよ。

劇場にいた幼児たち、一切騒がず、食い入るように画面に見入っておりましたもん)

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Jack

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おらが村のアーティスト/「ディア・ドクター」

無医村にお医者さんが着任すると、報酬はいくらもらえるか?

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僕は知りませんでした。

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その話しが、この映画の中に出てきます。

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「ディア・ドクター」

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村民2千人に満たない過疎の村。

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その村で、誰からも信頼されていた医師の伊野先生(笑福亭鶴瓶)が、いなくなります。

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なぜ、彼は、失踪したのか。

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看護師(余貴美子)も、若い研修医(瑛太)も、戸惑うばかり…。

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独り暮らしの農家のご婦人(八千草薫)を診察中だったというのに…。

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映画は、在りし日の献身的な伊野先生を振り返る…

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ミステリ仕立てです。

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ミステリには「答え」というものが必要でありますが、それは、この映画でも、きっちりおさえられているようです。

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自分がいなくなれば、村に医者はいなくなる。

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そうとわかっていて、なぜ、彼は、消えたのか?

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その謎を追うことが、単に過疎の医師不足についてばかりでなく、医療の「療」とは、なんのことなのか?を問うていく姿勢につながっている。

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観るものを惹きこんでいく姿勢です。

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いま、ここで言うミステリとは、なんのこと?

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はい、それ、ちょっと言いましょう。

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ミステリの本質とは、「答えを探す」ものであり、その意味で、失踪した伊野先生を探すこのドラマは、ミステリの本質を捉えており、さらに

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「なぜ、彼は、あわただしく逃げねばならなかったか」を追うストーリーは、謎の探求を通してテーマに迫る、というミステリの核心を突いとります。

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と、ここまで言って、以下は僕の体験から言わしてください。

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医者という人々は、アーティストに似ている。

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そう言っても、たぶん、原作・脚本も書いた西川美和監督は、否定したりはなさらないんではないだろか。

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僕自身が、喘息持ちで精神病患者であるところから、また親しい人を胃ガンで亡くしているところから、さらには父がリウマチ患者であるところから、

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内科、呼吸器科、胃腸科、整形外科、神経科に精神科、といったところを訪ねた経験がありますが、

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思うのは、ですね、

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ああ、お医者さんというのは、言ってみれば「アーティスト」のようなところがあるな…と。

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もうずいぶん前の話しになりますが、喘息用の吸入薬として用いているステロイド剤を、うっかり切らしてしまい、放置しておいたら発作が起きてしまったことがあります。

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僕の主治医の先生は東京でしたので、そこまで行ってる時間的余裕がない。

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仕方ないので、かなりあわてて近くの内科へ駆け込み、吸入薬のプラスチックボトルを見せて、

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「これと同じものは、手に入らないか?」

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と、尋ねたところ、そこの先生(女医さんでした)が血相変えて、

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「あんたね! こんなものにいつまでも頼ってると、肺に穴があくよ!」

―――――

と、すごい剣幕なんですね。

―――――

こっちはぜーぜーごほごほ、苦しくって、反論どころじゃありません。

―――――

先生は、ステロイド剤というものが如何に危険な薬剤であるかを延々と僕に説教し、治りたければ、根本からあなたの体質を変えるしかないと言って、僕に当座の処置として、点滴を打つことに決めました。

―――――

まいったな…

―――――

点滴につながった僕は、ぜーぜー言いながら、どこでもいいやと近場の開業医へ飛び込んだのを後悔しました。

―――――

東京の先生にかかっている俺のほうが、この女医さんより、詳しいじゃんか…

―――――

ステロイド剤が危険な薬物だったのは、数十年も前のこと。

―――――

現在では改良され、副作用はゼロに近い。

―――――

無知な田舎医者にかかったせいで、時間を無駄にしちまった…

―――――

こんな点滴で、どうなるもんか…

―――――

いや、ところがですね、

―――――

その点滴が、効いたんです。

―――――

発作が治まるのに数時間要しましたけど、たしかに点滴で苦しさから、解放はされたわけです。

―――――

女医さんは、明日から体質改善の治療を始めるので、必ず来るようにと言い含めて、僕を病院から「追い出し」ました。

(もちろん二度と行きませんでしたよ。安くて最適な効果のあがる治療法を知っているのに、わざわざ、カネがかかって、おまけに肥満の原因になったりする「体質改善の注射」なんぞ、受けに行く馬鹿はおりません。しかし)

―――――

とぼとぼと帰りながら、すっかり楽になった呼吸をしながら、僕は、いまの事態をどう考えたらいいか、悩んだものです。

―――――

あの女医さんには、喘息治療の最新知識が、たしかに不足してると言える…

―――――

しかし、時間はかかったが、こうして、俺は治った…

―――――

これは、知識の有る無し以前に、「医療」に対する取り組み方の違いではないのか?…

―――――

いま、改めて思い出しておりますが、

―――――

デジカメ全盛の時代に、敢えてフィルムにこだわるプロがいるように、

―――――

医療というものも、その医師が、ポリシーとして、「療」をどう捉えているかが、治「療」という行為に表れるのだ…

―――――

と、僕はいま、患者歴の長い者として、そんな風に考えます。

―――――

引退された、僕の東京の主治医は、ステロイド剤の効果を認めながらも、民間療法に関心を持ち、

―――――

「乾布摩擦とカラシの膏薬が喘息に効く」

―――――

という話しを真面目にする方でした。

―――――

むろん、最新知識を絶えず勉強して、そのうえで民間療法やら昔ながらの療法やらを取捨選択しているのと、はじめから物知らずなのでは、まったく意味が違います。

―――――

しかし、だからこそ、

―――――

「どこか、医者という存在は“アーティスト”に似ている」

―――――

と思うのです。

―――――

世の中の動向がどうあろうと、自分の目と勘を頼りに仕事をこなしていくアーティスト。

―――――

あの女医さんも、おそらく、地域医療の従事者としては、充分に機能してるのだろう。

―――――

そうなると、問題は、患者として、「どの医療を買うか」ということにかかってきます。

―――――

ちょっと絵に慣れた者なら誰も手を出さないような安っぽい風景画が、10万を超える値段で売られているのを見たことはないですか?

―――――

あれは、ですね。

―――――

ずばり言って「田舎者のための玄関飾り」なんです。

―――――

そういう役割として、需要と供給を満たしてるのです。

―――――

いつもより、いっそう皮肉に傾いてる?

―――――

そうかもしれません。

―――――

しかし、今回のこの文は、なにも皮肉を言うために書かれているのじゃありません。

―――――

通常は「科学の一ジャンル」として見られがちな医学というものが、ヒューマンエラーも含めて「ひとの手跡」の強く刻印される分野だということ。

―――――

それのお世話になる僕たちに、医療に対する新しい目が必要かもしれない、というそのことについて、

―――――

伊野先生と村民の関係を追う西川監督の視線は、カバーしているのじゃないか。

―――――

見つめあう鶴瓶さんと八千草薫さんの言葉にならない会話の中に、「医療 = 科学」という枠組みからはみ出すものを探そうとするこの監督の姿勢を見る気がするのでした。

―――――

(ちなみに、僕の喘息は、ステロイド剤さえあれば、まったく問題ない状態です)

―――――

Jack

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貴女の深夜にとびきりお洒落な演出を/わたしは「キャンパスナイトフジ」に見入った!

いやなものを見ちまった…

―――――

あのですね、

―――――

フジテレビでやってる「キャンパスナイトフジ」っていう、あんまり面白くない、金曜深夜の番組があるでしょう?

―――――

知ってるひとは知ってると思いますが、これは、80年代に放送していた「オールナイトフジ」っていう長時間番組の、なんというか、「追憶版」です。

―――――

「オールナイトフジ」って番組も、面白くないことについては、「キャンパスナイトフジ」といい勝負だった…というか、

―――――

むしろこの「追憶版」に比べて、圧倒的につまらなかった。

―――――

それでも、当時の十代は、かなり熱心に「オールナイトフジ」を見てました。あ、いや、

―――――

「熱心」というのは当たらないな…

―――――

見ていてもつまらない番組なので、「ただ、つけてた」と言うほうが正確です。

―――――

なぜ、つまらない番組をつけていたのか、と言うと、

―――――

説明するのが、ひどく難しいんですが、放送を通じて、

―――――

「本当のことを伝えよう」

―――――

とする意識が、作り手のなかにあったように思います。

―――――

出演している女子大生たちも、「キャンパスナイトフジ」のように、ヘンにテレビ慣れしてない、

―――――

だから、ぎこちないわけですが、彼女たちを通して、僕らは、

―――――

昼間のテレビが伝えない、「わけのわからないナマもの」が、「時間のなかを漂っている」気がして、

―――――

だから、よく、つけてました。

―――――

深夜番組ですから、誰でもお分かりの通り、「えっちな時間帯」というのも設けてありまして、

―――――

例えば、新作アダルトビデオの紹介を、女子大生がたどたどしく喋る、なんてコーナーがありました。

―――――

ただ喋るだけでなく、ビデオの内容、つまり、あへあへ言ってる女のコの「イキそうな顔」が、テレビに映しだされたりするわけです。

―――――

もちろん、いちばん危なっかしい場面は除いて、「あぁっ…あぁっ…」てもだえてる場面が、ダイジェストで紹介されるだけですけどね。

―――――

で、それをモニターで見ている司会の片岡鶴太郎さんや、とんねるずの「チョッとゆるんだ顔」が、アップで抜かれたりして、女子大生たちが、「やだー」なぁんて言う様が放送される、という…

―――――

それだけですよ。

―――――

ただ、それだけのことで、スタジオには、妙な緊張感が走り、それが画面のこちら側で視聴している僕らにも、なんとなしに伝わって、ついつい、視ちゃう、ということがありました。

―――――

いまにして思えば、ある意味、不思議な話しですが、この放送の、このコーナーには、「性」というものの、いちばんプリミティブな、基礎的な「空気感」が表されておりました。

―――――

そのことに気付かされたのは、なんと、たった今です!

―――――

いま、マイケル・ジャクソンの特集番組をNHKで見終わって、チャンネルをフジに換えたら…

―――――

やってたんです。
「キャンパスナイトフジ」

―――――

天気予報のコーナーが終わるところでありました。

―――――

ただの天気予報じゃない。

―――――

こちらも、あの「オールナイトフジ」と同じく深夜番組ですから、それなりのアダルトな工夫が仕掛けてある。
―――――

いつも、つまらないから最後まできちんと視たことがないので、この天気予報を視たのは、いまが初めて。

―――――

いやぁ、
「眼がテン」とは、このことです!

―――――

アダルトな工夫っていうのはですね、要するに…

―――――

胸元を強調したタンクトップの女のコが、

―――――

バランスボールに乗って「天気予報」をやる、というコーナーだったわけなんです。

―――――

バランスボールに腹這いになって。

―――――

自然と胸が強調されるでしょ?

―――――

カメラはそこを覗きこむように撮るわけです。

―――――

で、

―――――

そのコーナーの最後にね、

―――――

そのコがバランスボールに乗ったまま、上半身を床に付けて、なかば逆立ちの格好で、

―――――

「大股びらき」になる、と

―――――

ほんでもって、

―――――

開いた股越しに、後ろに置かれた花火が勢いよく、ぱーっと、きらきらと翔ぶ、という…、

―――――

つまり、その状態を正面からカメラで撮ると、股関節を中心に、ボール越しの開いた脚だけ映ってて、ちょうど股間の真ん中から花火が勢いよく「噴射」してる、と見えるんですね。

(この説明で、伝わります?)

―――――

なんということをするんだ…

―――――

と、僕は、アンタンとした気分に襲われたのでした。

―――――

これは、セックスというものの「コード化」ではないか…

―――――

こんなにも肉体そのものから遠く離れた表現に、なんの価値があると思っているのか?

―――――

当たり前のハナシですが、この表現は、えっちでもなんでもありません。まったく、そそらない、と思います。

―――――

もちろん、なにひとつ「本当のこと」も、映ってないと思います。

―――――

こほんな腑抜けにされた、身体性のない「おしゃれ」なだけの表現に行き着くほど、テレビというのは無味乾燥になってしまったのかよ!…

―――――

「キャンパスナイトフジ」を作っているのは、おそらく「オールナイトフジ」を視ていたような人たちじゃないか(いや、もっと若いかな)。

―――――

いずれにせよ、「オールナイトフジ」から30年…

―――――

なんで、こんな風になっちゃったのか…

―――――

テレビの中では、もはや洗練された話芸や、極めて垢を抜かれた性表現しか、通用しなくなっているのか?

―――――

これじゃぁ、インターネットに視聴時間を奪われるのも、仕方ないなー、と。

―――――

(あとで、何かの話しにつながるかもしれません。

取り急ぎ、ここにメモしておこう)

―――――

Jack

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うらやましい/「それでも恋するバルセロナ」

女について、語りましょう。

―――――

僕が男なので。

―――――

…などと言うと、男であれば無条件に、女について、語れるかのような、

―――――

さらに言えば、「女が語る女」について、無視しているかのような、あ、いやいや、

―――――

もっと言うなら、「女が語る男」や、「男が語る男」は、どうなんだ!

―――――

というハナシになりかねませんが、へへ…。

―――――

ひとつ、そこを、突き抜けていただきたい。

―――――

なぜって、これから、

―――――

「とにかく、女について語るのが好きっ!」

―――――

っていう、ウディ・アレンのお話しをしようてんでごじゃますから。

―――――

最新作。
「それでも恋するバルセロナ」。

―――――

あぁ、っと…。

―――――

中身に触れる前に、ひとつお断りしたいのですが…、

―――――

アレンというじいさん、いやさ、男は、ただの女好きとは、かなり違う。

―――――

女好きは、まぁ有り体に言って、女を抱ければ、気が済むんですね。

―――――

しかし、アレンという男はですね、

―――――

「とにかく、語るのが好き」

―――――

なんでありまして、通常の女好きが「プロセス」として楽しむような、“途中経過”のなんやかやを、

―――――

そこをこそ、楽しみたい、と。

―――――

しかも、あーた、

―――――

「自分でする」んじゃなくて、なんと、

―――――

覗いて楽しみたい、と。

―――――

「あー、もう、抱きしめて、なでくりまわしたいっ」…

―――――

「…と、いうことについて、とっくりと、語ろうじゃないか」

―――――

と、そう、おっしゃる方なんです。

―――――

とんでもなくスケベな男だ、と、僕は、かねがね思っておりまして。

―――――

英語には、こういう男を表現する、いい決まり文句がございます。

―――――

そう。

―――――

Dirty Old Man ですね。

―――――

さて、物語。
行ってみようっ。

―――――

舞台は、スペイン、バルセロナ。

―――――

カタルーニャ文化の研究にやってきたアメリカ人、ヴィッキー(レベッカ・ホール)。

古い言い方で言うなら、身持ちの堅い女性です。もうじき、結婚をひかえております。

―――――

同行者のクリスティーナ(スカーレット・ヨハンソン)。

どっちかと言うと、恋愛について、奔放なタイプ。

(まぁったく、もう…、この配役だけで、アレンがスカーレットのことを、とにかく「そういうふう」に「いじりたがる」というのが、よーく、わかる。
ンとに、もう…
アレンにかかると、「演出」という行為が、いかにエロティックなのか、よーく、わかる)

―――――

二人に声をかけてくる芸術家、フアン・アントニオ(ハビエル・バルデム。
「ノーカントリー」の不気味な殺し屋とか、「宮廷画家ゴヤは見た」の悪徳神父を覚えてますか?
まったく別人!
役者も役者なら、役をあてがった監督にも拍手です。
色事師を演じて、まさに、はまり役)。

―――――

この男、いきなり、仰天の申し出をしてきます。

―――――

「これから三人でメイク・ラヴしないか?」

―――――

だってさ!
スペイン野郎は、ナンパも派手だ。

―――――

当然、ヴィッキーは、取り合いませんが、いや、待ってくださいよ…。

―――――

クリスティーナは、まんざらでもなさそうです。

―――――

どっちかと言うと、興味津々。

―――――

「彼って、セクシーだわ…」なんて…

―――――

このあと、どうなるんでしょう?

―――――

フアンには、なにかとうるさいらしい別れた妻マリア・エレーナ(ペネロペ・クルス。アカデミー助演賞受賞)がいるのですが…

―――――

えー、ちょっと、話題それまして…

(「女を語る」と言っときながら、僕のような凡人には、なかなか、徹底できません。はい)

―――――

スペインが舞台だから、というわけでもないんですけど、画家のミロの晩年など、連想します。

―――――

僕は、ミロの絵が大好きですけど、

―――――

はっきり言って、お年を召してからの彼の絵は、どれもこれも、似たり寄ったりの作品ばかり。

―――――

チカラ入れてねぇんじゃねぇの?…と元イラストレーターのわたくしは思ったりするわけですが、それが、あなた、

―――――

ミロ・クラスになると、もう、本物の巨匠の手すさびと言いますか、

―――――

どこまで本気で、どこまでお遊びなんだか、

―――――

いや、つまり描く絵がどれもこれも、みんな面白いんだなぁ。

―――――

おんなじようなスタイルで、似たり寄ったりの主題をかいてることは間違いないんですよ。

―――――

それが、なんと言うんでしょうか、マンネリという悪口を言う気に全くならないほど、面白い!

―――――

うーんと努力した結果(いや、好きなことに打ち込むことを、「努力」っつって、いいのかな)、ものすごく高いところにたどり着いてしまい、そこから、降りずに創作に励んでる、と、そう言えばいいでしょか。

―――――

なにを描いても、うんと高いところから発信してるので、おんなじと言えばおんなじだが、面白さのレベルも、いつも、おんなじだ、と。

―――――

でね、

―――――

そういう、人もうらやむ状態になっているのが、現在のアレンだ、と。

―――――

そう思うわけなんです。

―――――

女について、なぜ語るのか?

―――――

これは、かんたん。

―――――

「手に入らないから」ですね。

―――――

では、なでくりまわしたら、手に入れたことになるんでしょうか?

―――――

あー、
それも実に、かんたんです。

―――――

なでくりまわしても、舐めまわしても、

―――――

絶対に手に入らないのが、女です。

―――――

普通は、ここで、あきらめます。

―――――

誰かひとり(場合によっては何人か)、なでまわす対象を「具体的」に手に入れて、それで、「女」という幻想を満たそう、

―――――

いいかげんなとこで、打ち止めにしよう、となさるわけですが、

―――――

それは、あくまで、単なる「あきらめ」であって、僕らは、女に近づいてさえいないのです。

―――――

近づけないもの、手に入らないものについて、いつまでもこだわるのは、「男」らしくない。

―――――

…というのが、大方の恋の結末です。

―――――

が、

―――――

このアレンという男、あの華奢なからだで、驚くべき執念(「精力」つったほうがいいかしら)の持ち主です。

―――――

「手に入らないもの」について、想いを馳せるのは、実は、カナシイ。

―――――

目の前にいるのは、「女」という名の「不可能」なのだ。

―――――

…と、ちょっと訳知り顔になりたいわたくしなどが、そう思って済ませるところを、

―――――

この男、
アレンて男、

―――――

「そうだ。女について、話そうよ」

―――――

と、時間さえあれば、それしか言わない。

―――――

底知れない。

―――――

身持ちの堅いヴィッキーは、ご想像どおり、あらま、くずれてしまいますが、その「くずれ方」を「えへへ」と笑って、空想するアレンです。

―――――

恋にまっしぐらなクリスティーナは、これまたご想像どおり、前妻との、やっかいなトラブルに巻き込まれていきますが、「うふふ」とにやついて、ハナシをいっそうこじらせるアレンです。

(なんとなれば、脚本も、アレンです)

―――――

最近は、ロンドンに入り浸ってると思ったら、今度はバルセロナかい。

―――――

スペインで、なでくりまわして。
ああ、素敵。

―――――

カナシイところは、突き抜けた。

―――――

Dirty Old Man の好きな話しは、まだまだ、尽きないようなんです。

―――――

(うらめしやましい。うらやましい)

―――――

Jack

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Sport /「トランスフォーマー/リベンジ」

アメフトの試合を、ときどき、NHK-BS が放送するじゃないですか。

―――――

わたくし、ルールの細かい点が分からないままに、

―――――

「野っ・蛮ン・なスポーツだなぁ!…」

―――――

と思いつつ、ときどき楽しんで、視てるんですが(ジャイアンツが好き)…

―――――

で、分かってる人には解りすぎてることを、ひとつ。

―――――

このアメフトというゲーム、力任せなことは間違いないんですが、それだけではないようで。

―――――

パワーと同時に、「緻密」な作戦が必要なようなんです。

―――――

クォーターバックの選手は、ライン外のヘッド・コーチと、しょっちゅう無線で交信してるじゃないですか。

―――――

ほいでもって、秒単位で、どう動くかを決めるでしょ?

―――――

「力」というのを、どう使うかが、このスポーツの見所らしい。

―――――

スポーツというものは、なんによらず「力わざ」のところがありますが、

―――――

僕は、アメフトを視ていると、

―――――

「力をどう使うかを考える“スポーツって思想”を他ジャンルに適用したら、さぞかし、爽快なものが出来るだろーな…」

―――――

と、よく思うんです。

―――――

で、そういうことは、シロウトの僕でなくとも、考えるヤツが、

―――――

いた!
いた!
大メジャーに、いた!

―――――

マイケル・ベイです。

―――――

出ました、マイケル・ベイ監督の

―――――

「トランスフォーマー/リベンジ」

―――――

はじまりは、17000年前。

既に機械生命体は地上に飛来しておりました。

彼らは、どこへ去ったのか。

なぜ、地球は、侵略の脅威をまぬがれたのか。

お話変わって、現代です。

機械軍ディセプティコンの小規模な襲来は、続いている。

人類に味方する機械将軍オプティマスと共に、米軍は秘密掃討作戦を展開中です。

一方、前作で、オプティマス隊を勝利に導いた青少年サム(シャイア・ラブーフ)。

もう、あの闘いから2年が経過し、見事、念願だった大学に合格します。

晴れてカレシ・カノジョの中になったミカエラ(ミーガン・フォックス)とは、遠距離恋愛になりますが…

大学寮への引っ越しの日、彼は、闘いの思い出が詰まった上着に、金属のカケラが付着しているのに気付く。

それに触れた途端、身体中に走る、おかしな霊感。

何かの秘密が、開かれてしまったのか?

その頃、遥か遠くに離れた宇宙では、機械生命体の真の統率者ザ・フォールンが、いよいよ地球への侵攻を始めようとしておりました…

―――――

上海、フランス、エジプト、ヨルダンと…

―――――

大々的な海外ロケも、ふんだんに、これぞハリウッド・メジャー!という作品です。

―――――

このシリーズのテーマとなっているのは、

―――――

「有り余る力を、どう使うか」

―――――

ということです。

―――――

「力」ね…。

―――――

そういうものは、「いろいろと気にして」いたら、発揮できないものなんです。

―――――

「気にしない」とは、つまり、いったい、どういうことか。

―――――

そのへんについて、今日はすこし。

―――――

実は、ですね、
僕、英語もちょっと習ってたので…

―――――

(例によって、狂ってたときのことです。
―――
一応、理由がありまして、仏語 → 日本語とダイレクトに訳すよりも、仏語 → 英語 → 日本語の順で考えたほうが解りやすい場合がある、と気付いて始めたわけです。
―――
オマケみたいな習い方だったので、モノになってませんけど)

―――――

あのですね、

―――――

僕らは日頃、「欧米」などと言って、アメリカとヨーロッパ諸国をひとくくりにしておりますが(「ヨーロッパ」の範囲も、ひどく曖昧なのですが)、

―――――

例えば、フランス人のものの言い方・考え方にしばらく触れて、それからアメリカ人と接すると、

―――――

ああ!…

―――――

と、ほんとに「ホッ」としたりいたします。

―――――

あッかるいなぁ!
オープン・マインドでフランクだなぁ!

―――――

と、感じ入る。

―――――

一方、ネイティブのフランス語講師と付き合うとき、まずもって、

―――――

「フランス人て、笑わねぇなぁ…」

―――――

と思ったりしたんですね。

―――――

なかには、怒ってるのかと思うくらい仏頂面のひともいまして、それがひどく、とっつきにくかった。

―――――

前に 2009/4/29 に「スラムドッグ$ミリオネア」を取り上げたとき、日本人の顔つきについて、いかに仏頂面なのか、

―――――

「顔が米印」

―――――

って書いた武田百合子さんの話しをしましたけど、「フランス人も似たようなもんなのか?」

―――――

…ヨーロッパのひとは優しく微笑んでるんじゃないのかよ、とヘンにひね曲がった「親近感」を持ちました。

―――――

(なんにでも例外はあるので、ここで言っていることは、司馬遼太郎さんが言ったごとく、一種の「おとぎ話」として、聞いてください。
―――
日本人にもフランス人にも、にこやかな人はもちろん、います。とーぜんです。
―――
実際、わりと快活なほうのフランス人に、「あなた方、笑わない習慣でも在るんですか?」と、仏頂面のひとについて報告したら、
「そりゃぁ、おまえ、パリジャンと話したんだよ」
と、一笑されました。
―――
パリっ子は気取ってンのよ、というわけです。
―――
そう言われてみると、ピーター・メイルの南仏についての本もあるし、フランスは元来、農業国で、穏やかな気質のひとが多い、という話しも聞いたことがあるし、

まぁ、そーいうことです)

―――――

で、ですね、

―――――

例外はある、違う見方も成り立つ、と分かっていただいた上で言いますが、

―――――

ドゥルーズやデリダの本て、まぁ、混み入ってるったらありゃしない!

―――――

なんて神経質なひとたちなんだ…

―――――

ひとこと、ひとこと、「これ言ったら、誤解されないかなぁ…」みたいに極度に心配しながら、重箱の隅をつつくみたいに、あーでもないこーでもない、と、ごちゃごちゃした議論を進めてく…

―――――

思想書なんて、ややこしくて当たり前、と言われそうですが、
それはそうなんですが、でも例えばパース(アメリカ人)なんかのモノの言い方は、

―――――

「混み入った話しをするにあたり、極力、ダイレクトな言い方をしよう」

「受け手にとって、ストンと腑に落ちる論述を展開しよう」

―――――

という「決意」のようなものが、感じられる。そうして、

―――――

「大丈夫。腑に落ちる言い方は、確立できる」

―――――

という明るい「確信」のようなものが、みなぎってます。

―――――

アメリカ人ではないけれども英語で書いて、とてもアメリカ的な考え方をする、スラヴォイ・ジジェクという人がいますけど、おんなじような楽天主義を感じます。

―――――

どうも、アメリカ国とフランス国では、日頃から背負わされている「世界」、ひいては「社会」の堅苦しさ、重苦しさが違うらしい…

―――――

アメリカ人の考える「論理」とは、極めて明快に、「闇を打ち払う“破”」を意味しているのじゃないか。

―――――

フランス人にとっての「論理」とは、見せかけの人間らしさが何万重にも取り巻いてしまった「勘違いした“言葉の鎖”」をほどいて、その中にちいさく保存されている「こころ」のようなものに、そっと触れる、そのためこその手段じゃないのか、

―――――

と、そんな風に思うんです…

―――――

闇を打ち払う「光の論理」とは、言い換えるなら、「パワーの言語」です。

―――――

かなり感覚的な言い方をしますけど、アメリカという国には、「背負わされているモノの、あまりの巨大さ」と、それゆえ、その巨大さに対応しようとする言葉の、ある種の「おおざっぱ加減」を感じます。

―――――

可能な限り、遠くまで、届かせよう

―――――

というのが、英語(というかアメリカの強い影響のもとに育った英語)の構造的に持っている特色です。
つまり、

―――――

「ローカル」

―――――

という考え方は、英語の中には無いのです。

―――――

なんだか平凡な結論にたどり着いてしまいましたが、これこそ、つまり「気にしない」ということであり、

―――――

つい見落としがちな、重大なポイントです。

―――――

僕たちは、誰でも、ひどくうんうん唸りながら、なんとかして

―――――

「個性」

―――――

というものに行き着こうとする生き物です。

―――――

日本人の言う「個性」とは、「集団の意志を邪魔しない限りにおいて」許されるものに過ぎません。

―――――

フランス人にとっての「個性」とは、「たとえ家族であっても、個人は個人」という、日本人からすると、どこかさみしいような、めんどくさいような、ヤヤコシサを感じます。

―――――

で、

―――――

そういう「“個性”に関するめんどくささ」が、アメリカ語の中には「無い!」っ。

―――――

アメリカ語にとっての「個性」とは、イコール、「ローカル」ということ。

―――――

PCソフトを英語以外の他言語に翻訳していくことを「ローカライズ」と言いますが、あれはすなわち、「個性化」と、同義です。

―――――

ローカルという考え方が無い、ということは、アメリカには、他の国のひとがそれを巡って悪戦苦闘するような、「個性」という考え方が無い。いや、

―――――

アメリカ的な「個性」というのは、外国からすると、非常に特殊な、「議論の対象にならないような、肉体的なもの」だと言えるのじゃないか。

―――――

「大前提として染み付いているので、問い詰める必要がない。議論にする意味も解らない」

―――――

といったところじゃないか。

―――――

こういう国(「国」と言って、いいんでしょうか?)の人たちが、「力の配分」についてだけ考えて、他国の人間を驚かせるものを作ってしまう、というのは、なにか、分かる気がいたします。

―――――

もっとも、そのような「本質的なアメリカらしさ」を本当に表現できる人は、数多くはないわけで、

―――――

その意味で、マイケル・ベイというひとは稀有な人です。

―――――

作品がいつも、どこかしら「スポーツのような爽やかさ」に満ちているのは、要するに「おおざっぱ」だからなんですが、ただ「おおざっぱ」と言って済ますだけでは、彼の映画が、一方で、実に緻密に出来ている理由がつかめないことでしょう。

―――――

言ってしまえば「Sport」というのも英語であり、現代に在っては極めてアメリカ的に加工された「考え方」です。

―――――

今回の「トランスフォーマー」は、ほとんど戦争映画と言ってもいいほど「闘いの映画」なんですが、それを「暴力の映画」にしていないのが、ベイというひとの力量であり、

―――――

アメリカという国の、不思議で凄まじいところだと思うんですね。

―――――

「スポーツみたいな映画にしたい」

―――――

と願っても、アメリカ人じゃない人々にとっては、どこかでアメリカ的に言うところの「ローカル色」、つまり「気にした部分」が出てしまうはずなので…

―――――

(字数が足りないから、このへんでやめますが、これ、考えていくと、いくらでも拡がります。

ジョン・フォードの影響を受けて黒澤明が作った「七人の侍」より、そのアメリカ版リメイク「荒野の七人」のほうが、「スポーツ精神」に溢れてる、と思うんです)

―――――

Jack

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