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2009年6月

音楽の泉/Black Eyed Peas「The E.N.D」

「歴史」

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という考え方は、ロックの中に、在るでしょか?

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カヴァーソングを歌う、というロック・ミュージシャンは、昔からいた。

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ジョン・レノンがチャック・ベリーを歌ったり、ヴァン・ヘイレンがロイ・オービソンの曲をアレンジしたり、「カヴァー」というのは、珍しくはありません。

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さらに言うなら、ストーンズもビートルズも、初めはアフリカン・アメリカンの人たちが歌っていた「生活音楽」としてのリズム & ブルースを「かっこいい!」と思って音楽の道に入ったところがありますので、「ルーツに対するリスペクト」のようなものは、既にある。

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が、

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ちょっとカタく言いますが(カタく言う必要があるんですが)、彼らのしたことは、

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「歴史を刻む行為」

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だと言えるでしょうか?

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僕は、「HIP HOP」という形態が登場するまで、ポピュラー・ミュージックの世界に、「歴史」という考え方は無かった、と思っています。

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Black Eyed Peas です。

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Black Eyed Peasの最新アルバム「The E.N.D」です。

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前の「MONKEY BUSINESS」や「Elephunk」のほうが、実は好きなんですが、それはともかく(そのへんは、僕のトシと関係がある、と思っています)。

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今回のアルバムでは、DVD付きバージョンが発売されておりますので、安室奈美恵さんについて書いたとき(2008/8/17 「芸能・アイドル」参照)と同様、まぁこれも映像作品に入れちゃおう、ということで…

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HIP HOPと言えば、「ラップ」に「スクラッチ」、「サンプリング」と、様々な手法を取り込んできた音楽ジャンルでありますが、

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このうち、「サンプリング」について、申しましょう。

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わたくし、サンプリングという手法を初めて耳にしたときから今に至るまで、根本的には理解できていない人なのです。

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いや、電子音楽や現代音楽や、あるいはYMOがやっていたようなサンプリングなら、分かる。

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それは木々のざわめきのような「自然音」や「人の声」などを録音し、シンセサイザーによって自動的に音階をつけ、「誰も考えつかなかった新しい器楽」として、曲の中に組み込むことを意味しました。

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HIP HOPのサンプリングは、これとはまったく異なります。

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既に在る「ヒト様が作った音楽」の中から、特徴的なフレーズを切り出し、それを複数回組み合わせて、どう聞いても原曲と大きな違いがあるとは思えない作品を作って、その仕上がりを、

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自分たちのオリジナルの「新曲」として、提示してくるのです。

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そのとき問題になっているのは作曲手法というよりも、

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編集の方法

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だと言えます。

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Black Eyed Peasで言うと、「MONKEY BUSINESS」に収録された1曲目の「PUMP IT」は、映画「パルプ・フィクション」や「TAXi」のテーマソングとなった「ミザルー」という曲を、ほぼそのまま丸写ししたものだし、

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同じアルバムの最後のほうに収められた「UNION」という曲は、なんとスティングの「イングリッシュマン・イン・ニューヨーク」の歌詞だけ変えて「ラップを添えました」、と言ったほうがいいような代物です。

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「孤独な英国人」を歌った歌を採用し、「世界の連帯」を謳いあげる…。

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ここに、編集の意図があるわけですが、思い出すのは、美術の世界の出来事です。

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マルセル・デュシャンは、どこからか手に入れた男子用小便器を美術館に持ち込んで、

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「泉」

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とタイトルを付けるだけで、自分の作品として、世に認めさせてしまいました。

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HIP HOPのサンプリングは、このデュシャンの発想と、基本的にはよく似てる。

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何を作ったか

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ではなく、

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なにを採用したか

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が、より問題にされているのです。

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男子用小便器がアートとして認定されたあとでは、人々は、街角の公衆トイレにも「創作物」としての要素が置かれているのだ、と

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初めて認識することになるでしょう。

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「作品」という概念が無かった世界に、その概念が導入された“瞬間”を、僕たちは、知ることになるのです。

(それは、デュシャン本来のイタズラっぽい意図からすれば、イト可笑しく、ズレたことかもしれないんですけども…。

いや、こりゃまた、別のハナシ)

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これを、サンプリングという手法を使う、現代のポピュラー・ミュージックの世界に置き直して、見てみましょう。

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「ルーツ」とは、なんぞや?

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この問いを、誰にも解るかたちで発したのが、HIP HOPだと言える。

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ビートルズにせよストーンズにせよ、はたまたヴァン・ヘイレンにしたところで、

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「R&Bの影響が認められる」

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ということを漠然と指摘され、「“ある流れ”が感じ取れる」ということを、感覚的に、外から批評されていただけだった、と思います。

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HIP HOPは、サンプリングという手法によって、自らの出生地がどこにあるかを高らかに宣言した。

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ルーツ =「自分らの前に横たわる歴史」を、引っ張ってきたのではありません。

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歴史を参照したのでなく、その原曲を採用することによって、「ここに、歴史が創られた」と、いささか大言壮語めいた「発表」を行ったのです。

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これはポピュラー・ミュージックの在り方にとって、デュシャンの「泉」が世に出たときと同じくらい、革命的な出来事です。

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音楽が「歴史を構築しよう」とすることは、すなわち、「ロック」の否定でないのか。

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「♪ ロールオーバー・ベートーベン」と歌って、堅苦しい歴史に支配されてきた音楽を、

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「音楽史についての教養」がモノを言った音楽を

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解放したのがロックだったのじゃなかろうか。

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HIP HOPのサンプリングとは、ロックにとって、「淡い憧れ」でしかなかったようなルーツというものを、極彩色のクリアな映像のようにはっきりしたかたちで位置取りし、

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自分たちのよって立つ「ポジション」を明らかにしようとしたものです。

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それは「♪ ベートーベンをぶっとばせ!」と歌ったロックが、「分かりやすさ」をどこかへ置き忘れ、

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既に死に体となって久しいことを受けての動きでないだろか。

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それは、音楽というものが高度に多様化し、複雑化し、ジャンルはおろか、「なんのための創作なのか?」という根源的な疑問が生じているときに、

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ひとつの大きな異議申し立て =「アンチテーゼ」として機能する、とても解りやすい「簡略化」の発想ではないだろか。

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自分らがどういう意図を持って、

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誰を参考にし、

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誰に向けて作品を作ったのか、

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それを「クリア」にする手法なのです。

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フと思い立って、僕たちの周りを見れば、誰がなんのために作ったのか、高度なディシプリン =「学習された教養」を求めるような創作物が、いつの間にか、いっぱいです。

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作ったときから既にして「産まれてすみません」と言っているような、罪過と償いを同時に体現しているような、分かりにくく鬱屈した表現の時代は、もう終わりにしませんか

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…と、いうのが、HIP HOPのサンプリング手法の本質ではないか、と考えます。ふっふ。

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今回、アルバム「THE E.N.D」で、Black Eyed Peasは、サンプリングという手法を封印しました。

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宣言して自分たちのポジションを明らかにする必要がなくなったから、と見ましたね。

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「BOOM BOOM POW」というシングルカットもされ、全米No.1になったアルバムの1曲目に、彼らの意図は、よく出ている。

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「♪ あんたは千年、遅れてる」だって。

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いーじゃないの ♪
いいんじゃないの ♪

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流行りのデジタル・サウンドを全面に採り入れて、

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今どきの音楽地図の、いちばん突端の部分を俯瞰してお聴かせしましょう

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、というわけです。

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ワールドミュージックを意識したりする、これまでの細かい目配りは敢えて捨てて、

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音楽に夢中になる若い世代が入り浸るような、アングラ的なナイトクラブの感じで一杯です。

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すべてをデジタルサウンドに委ねて、朦朧と身を踊らせる「若さ」のための音楽。

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一見無機質な、機械的音響の奥から、

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いちばん活きのいい、ポピュラー・ミュージックらしいポピュラー・ミュージックをお届けします

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という宣誓が伝わってくる。

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いや、実を申さば、正直な感想として、

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あと二十年早く、このアルバムと出会いたかった。

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おそらくヘッドホンで、のめり込むように、ひとつひとつの音に耳を傾けたんじゃないだろか。

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息継ぎなしで全力疾走している雰囲気が、いかにも「若者のための音楽」です。

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「若さに対するメッセージ」というと、ついつい「夢を信じて、負けないで」なんて言いたくなったりしますけど、それを言わないで先鋭的につっぱらかってみせることで、「体現」している、という辺りも好もしいと思うんだなぁ。

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(ワールド・ツアーで、日本にも来るようですね。

どんなステージになるんでしょうか)

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Jack

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謎/「ターミネーター4」

やー、おどろいた、おどろいた!

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始まって1分もしないうちに、トイレに立っちゃったおじさんがいた!

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我慢できなかったんでしょう。

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まだ、最初のうちだからいいやと思ったのかな?

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おじさん、
あんたは、たいへんな損をした!

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この映画、最初の5分を見逃しちゃうと、後半の「核心」とも言えるシーンの意味が、つかめないでありましょう。

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「ターミネーター4」です。

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2018年、「審判の日」を過ぎた世界。

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機械対人類の戦争は、ジョン・コナー(クリスチャン・ベイル)の数々の苦闘にも関わらず、ついに現実のものとなる。

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だが、その前に…

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日付戻って、始まりは、とある死刑囚監房から。

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戦争の起きるずっと以前…

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死刑囚マーカス・ライト(サム・ワーシントン)。

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刑の執行直前に、彼のもとを訪れる博士が(ヘレナ・ボナム・カーター)ひとり…。

(ところで、なんで「ワー」シントンなんだ、「ワ」シントンでいいじゃないか、と思ってましたが、
「Wathington」じゃなくて
「Worthington」なんですね。
外国語って、つくづくわかんないことだらけだわ)

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この映画、宣伝では、クリスチャン・ベイルのほうをメインに押し出しておりますが、実際観ると、この死刑囚マーカス・ライトを巡る物語のほうが、内容の半分強を占めております。

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物語。

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そう。
きょうは「物語」と「謎」についてのお話しです。

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ターミネーター1作目を、思い出してくんなまし。

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あの映画で、シュワルツェネッガーが果たした役割とは、どんなものだったでしょうか?

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設定上は、「謎の男」でありました。

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ところが、ですね、

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いきなり深夜のロサンゼルスに、雷鳴と共に素っ裸で現れて、ただ服を奪うためだけに、チンピラのあんちゃんをぶっ殺しちゃう…というやり口に始まって、

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その「行動」には、一片の謎もなかったのです。

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シュワちゃんの存在というのは、ひとが「生きている」、ということを力ずくでぶち破る、一種の「革命」でありました。

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シュワちゃんでない普通のひとの、いやさ僕らの人生というものは、普通は謎だらけのはずですね?

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いま現在の自分の境遇というものが、どういう経緯で出来上がり、

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なぜ、世の中のどういう事情と、つながることになったのか、

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完璧に予測できた方は、おられるでしょか?

(あ、ひょっとして「つながりはない」なんて言う方います?

そんなことは、ありえません。人間は社会的な生き物です。僕らの誰にも、きっと、気付かない世の中とのつながりがある)

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ところで、今から言う「謎」とは「わけのわからないもの」のことではありません。

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これから言う「謎」とは――その本当の奥底にたどり着くなら、という条件付きで――僕たちを日常から生き返らせ、歓ばせてくれるはずのものです。

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「謎」とは、物事の奥の、その奥深くに秘められた、(いきなり言ってしまうなら)「たましい」のようなものに触れるときの「言葉の作用」を指しています。

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それは、奥の奥深くに在るものなので、充分以上に練りに練った文章(思考)で「降りていく」か、

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または、トンデモナイ破壊力で「中途の過程」をぶち破って到達するか、しない限り、探りあてられるものではありません。

(よいこなら、どちらもやめておきましょう。狂いますよ)

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僕らは日々の暮らしの中に埋もれないため、芸能と呼ばれる文化を作り、少しでも自然な人間らしさの回復を図る生き物です。

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芸能の中でも、おおざっぱに言いますと、周縁部にとどまって、「この奥に、ひとの命の宝の秘密が隠されていますよ」ということをうっすら撫でて終わるものと、

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過剰なほどの言葉の渦を巻き起こすか、または、問答無用に言葉の厚い壁を破壊して「核心に迫っていく」ものと、

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大別して、ふたつのタイプがございます。

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どちらがいい悪いではありません。

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うっすらと知らされるだけで、充分、心の快復につながるひとが、ほとんどなのです。

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「ドリトル先生」を書いたロフティングは、それを「安全な冒険」と呼びました。

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彼は若干の皮肉を込めてそう書いたのですが、繰り返しますが「撫でている」ものを選ぶのは、悪いことではありません。

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様々な言葉の仕掛け(レトリック)を通じて「謎」への旅を導こうとするものを、僕らは例えば「物語」などと呼んで、愛します。

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多くの場合、謎は物語に輝きを与えるための「便法」として用いられ、

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複雑巧緻な「ストーリーテリング」の一部分となって、役を終えます。

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これだけでも、ひとは、カタルシスを味わうのです。

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ですが、たまに、

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撫でてもらう程度では、命の宝に触れられないことを、激しくもどかしく思うひとがいる。

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そういうひとは、やがて、強く求めるようになるでしょう。

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命の宝の秘密が発する、あまりにもまばゆい光に直接さわろうとすることを。

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そのひとは、自分で何か、作ってしまうかもしれません。

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「芸能人」と呼ばれる人になるかもしれない。

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で、

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ここからが、きょうの謎の核心です。

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ジェームズ・キャメロンの「ターミネーター」やスピルバーグの「インディ・ジョーンズ 魔宮の伝説」は、今まで述べてきたような「物語」の範疇をはみ出して、

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「謎」に直接触れようとする挑戦だった、ということです。

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スピルバーグという人は、「インディ」の前にしろ後にしろ、ひたすら「謎」を問い詰めるような作品ばかり作っているようですが、

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そういうひとは、本当に、ほんのひと握りしかいないのです。

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キャメロンにしてからが、「ターミネーター」以外には、あれほど強烈に「謎」に迫る映画は、撮っていないかもしれません。

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で、

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この「ターミネーター4」ですが…

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うーん…

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これは、もう、謎の萌芽すら残ってないな…

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1作目が打ち立てた、瞠目の「謎だらけ、謎また謎」の、あたかもパンク・ロックの響きのような凄まじさは、もはや、ここにはありません。

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カネじゃないんだな、カネじゃ…

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どれだけ製作費をかけようと、パンクは出来るものじゃないんだな…

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いや、物語は、すごくよく出来てます。

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しかし1作目に仰天した僕らとしては、謎が「溶けてしまった」(おっと、これは2作目のお話しですね。
そう、あの溶鉱炉に落ちていったT-1000のように)そのあとの手練手管を見せられても、

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ふむ。
頑張ってるね。

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と、どこか「上から目線」で腕組みしたくなる想いを抑えることが出来ません。

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「物語」は、命の宝の秘密を捉える「謎」から、その周縁部に発生し、さらにそこから派生的な物語が生まれ…

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という具合に理に落ちる解釈が正しいかどうか、分かりませんが、これでカタルシスを味わう人は、

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たぶん、「謎」からは遠く離れて、平穏さの中に安らぎを見てきた人だ、と。

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そう断言しちゃおうかな、今回は。

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いい物語が出来ているので、ストーリーテラーとしてのマックG監督がわくわくしながら撮ったらしい様子は、それ自体は、ひとごとながら、喜ばしいものですよ。はい。

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Jack

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(物語の出来は素晴らしいので、たぶん監督はじめ制作陣は、いまいち興収が伸びないのをいぶかっていることでしょう)

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あったかくて、うるおってるよ/「アイ・カム・ウィズ・ザ・レイン」

開巻すぐに、ジョシュ・ハートネットの半裸が見られます。

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「アイ・カム・ウィズ・ザ・レイン」です。

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イ・ビョン・ホンにしろ、木村拓哉にしろ、出てくる男たちがすぐに脱ぐので、そーゆー方面に興味津々という方は、どきどきするかもしれません。

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2年前の事件で心に傷を負った元・刑事クライン(ジョシュ・ハートネット)。

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大手製薬企業の社主から、失踪した息子・シタオ(木村拓哉)の捜索を頼まれます。

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だが、ある事件をきっかけに、香港の悪党ス・ドンボ(イ・ビョン・ホン)も、シタオの行方を追い始める。

―――――

その過程で明らかになる事実。

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シタオには、驚くべき、ある“力”が…

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なんだか、書いてるのも、あほらしいなぁ…

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フィリピンの草原などが、重要な舞台だったりいたしますが、これはぁ、

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よーするに、極めてアジア的なる風景と生命を、ものすごく西欧的なる精神の面前にかざして、

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いっしょうけんめい解りやすく解説してみました、

―――――

という映画です。

―――――

なんだって?
はい、あほらしいですが、少し、慎重に解きましょう。

(慎重に解くことで、アジア的なるものの近くまで、行きましょう)

―――――

アジア的な風景と生命。

―――――

その核となるのは、ずばり、これです。

―――――

血と肉。

―――――

その、ねばねばとした、生々しい感触。

(さわってごらん…)

―――――

僕らは普段、こういうものを遠ざけて、生活しておりますね。

―――――

しかし、このふたつは、実際、僕らの中に在るのです。

―――――

こうしたものから離れれば離れるほど、現代に生きる人は、生活のためのロボットになってしまいます。

―――――

ところが、ですね、

―――――

一般的にはアジアに分類される国々――インドや東南諸島など――では、この「血と肉」が、あまり生活から分離しておらず、

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「死」さえも、暮らしのすぐそばにある、

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という話しを聞いたことは、ないですか?

―――――

そうして、そこに、どこか懐かしさを覚えたりはしませんか。

―――――

血と肉は、その昔、僕らの暮らしの中にあり、「言葉」の代わりにみんなをつないでおりました…

―――――

2009/5/14 に「鴨川ホルモー」を取り上げたとき、

―――――

「言葉のいらない幸せ」

―――――

のようなものを作るのが、芸術のひとつの理想だ、

―――――

と、おおむね、そういう意味のことを言いました。

―――――

「論評の言葉」というのは、あらゆる創作に枠をはめ、ものごとを窮屈にしてしまうからです。

―――――

が、

―――――

そういう指摘をしたとき、僕らは、なにか「言葉」というものが、論理としての概説を構成する「機能的なパーツ」であるかのように、つまり、

―――――

なんだか機械のような人工物であるかのごとく捉えますが、

(「言葉」に、正しい使い方、間違った使い方は、あるでしょか?)

―――――

言葉――表現――というものが芸術的でもなければ、機械的・機能的でもない、「野性」のようなものに近付くための、「過剰なる手段」と成りうるのだ、というお話しを語ってみましょう。

(「解説」というのは本来メカニカルなものなので、この文自体はいさぎよく、機能的に振る舞うことといたしましょう。ふふ)

―――――

例えば

―――――

僕らが、温泉旅行に出かけたり、森林公園を訪れたりするときに、

―――――

わぁ…

―――――

という小さな感動がやって来るはずですが、

―――――

このとき、言葉は付随してきませんでしょう?

―――――

感動に言葉はいらないですね。

―――――

純粋な心の揺れ動きがどんなものか、

―――――

あなたも僕も知っています。

―――――

言葉が失われた瞬間、僕たちは、小さな幸せに満たされる。

―――――

そのとき、僕たちは、自然の中に入った、と言えるのです。

―――――

ああ…

―――――

あったかくて、うるおってるよ…

―――――

素晴らしい。
ですが、少し付け足しましょう。

―――――

「入った」ということは、なるほど幸せな状態ではありますが、いつまでもそうしてはいられません。

―――――

ここに、僕らが「森の人」= オランウータンでなく、「人間」であることの、本来的な不幸がある。

―――――

やがては、そこを出て、「生活のための場」に戻らなきゃいけないから。

―――――

では、せっかく体感した自然の記憶、感動――いのちのスピリット――は、あなたの内側へと、ゆるやかに消えていくだけなのでしょうか?

―――――

そうではない。

―――――

そのようなとき、生活の中で消えかけていく「自然」を復活させてくれるのが、「言葉」なのだ、と考えます。

―――――

言葉を使おうと奮起するのは、その場に居なかった誰かに素晴らしさを伝えたくて、あとから最初の心の動きを追いかけて、一種の「過剰」を産み出しているのです。

―――――

人間にとっての過剰とは、「自然」と同義語だと言える。

―――――

言葉に、正しい使い方と間違った使い方は、あるでしょか。

―――――

正しく使うなら、「言葉を用いた過剰」は、僕らの「いのち」を生命と風景が過剰する生々しい自然へと近付けてくれるはずです。

(あったかくて、うるおってるよ…)

―――――

言葉とは、僕らの誰にも赤い血が流れていることを思い出させる「生命の用具」なのだ。

―――――

これは、(主に西欧的な価値観で言うところの)「芸術」とは、対立する見方です。

―――――

芸術が「言葉のいらない幸せ」を目指すとき、そこには、「うっとおしい言葉の鎖」から逃れたい、という想いがあります。

―――――

芸術は「言葉という過剰」をかき消すことで、「現在」という、がんじがらめの時代を飛び越えて浮遊する感性を、かたちにしようと試みる。

―――――

血と肉をフレッシュなままに味わおうとする欲望は、そこには、ありません。

―――――

なぜかと言うと、西洋では長いこと心身二元論をベースとして、

―――――

心こそ、尊いもの

―――――

肉体は単なる物質

―――――

という考え方が暮らしの端々に出ているからです。

―――――

言葉というのは、心を表すためにあり、心と同様に尊いものなので、その本質をいじくることが難しい。

―――――

一方、単なる物質である体にかえっても、そこには「意味」がありません。

―――――

いろいろと事情があってそうなったのですが、心も体も不自由なのが、西欧世界の悩みなのです。

(だから、「現代思想」が必要となるのです)

―――――

このような、

―――――

「あー、心も体も、不自由でたまんねぇなー! どっかに飛び出して、はじけてぇなー!」

―――――

と四六時中、不満を持っている人たちに、

―――――

「血と肉は、死とともに、あたたかいよ…」

―――――

などといきなり言っても、わかってくれるわけがありません。ふぅ。

―――――

そこで、過去に「青いパパイヤの香り」も作ったトラン・アン・ユン監督・脚本は、「おくりびと」の小山薫堂脚本とは対照的な方法に打って出ました。

―――――

「日本的な死生観を、西洋的な楽器演奏(ベースでしたね)を入口にお目にかけると、こういうものです」

―――――

と、言ったりせずに、

―――――

「西洋的な“罪の転移”と贖罪の観念を、アジアの草むらに移してみると、こういう姿に変わります」

―――――

と言ったわけです。

―――――

結果、

―――――

「去勢されたアジア」
―――――

とでも言うべきもの、あるいは、

―――――

「血肉への欲で、傷つけられた聖典」

―――――

とでも呼ぶべきものが出来ました。

―――――

西欧的な視点からも、アジア的な体感からも、どちらから見ても感じても、この映画は不充分なかたちしか持ってません。

―――――

繰り返される静かな狂気と――(そもそも狂気とは「静かなもの」ではありません。ここに重大な勘違いがございます)――、吐き出される血の描写は、観客の感覚を麻痺させるのみで、ひどく退屈です。

―――――

うんざりするような「狂った物語」を見終える頃、誰のあたまにも、たったひとつの――現代の「救い」をテーマにしたこの映画にとって、ひどく皮肉な――、唯一のホッとさせる「まともな不安」が浮かぶでしょう。
つまり、

―――――

「この、愚にもつかない観念に溺れる、頭でっかちな“アジア映画”は、木村拓哉という魅力的な俳優の、欧米へのショーケースとして、どうにか役に立ってくれるだろうか?」

―――――

(大熱演なんですよ。「報いを受ける」という役なので、役者として、報われてほしいです)

―――――

(いや、まじで)

―――――

Jack

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やるだけさ/「スター・トレック」

テレビ番組を視ていて、フと、「我に帰ってしまう」ことはないですか。

―――――

「退屈なドラマだなぁ…脚本、ヘタ過ぎ!…」

―――――

とか、

―――――

「この俳優、いつまでたっても、オーバーアクションが治らねぇなー…しらけるんだよ…」

―――――

とか、とか、

―――――

「あー、まただよ、ギャグ浮いてるし…」

―――――

とかですね、
はい。

―――――

わりと頻繁にありません?

―――――

でね、

―――――

映画の場合にも、そういったことはありうるでしょうが、テレビを視ているときとは比較にならないほど、イラつくでしょう?

―――――

テレビの場合には、本気でアタマに来たりは、少ないでしょう。むしろ、

―――――

「しょーがねぇなぁ…」と、半ばツッコミを入れる気分で、それでも最後まで、視ちゃったりしませんか?

―――――

「お金を払ったか、どうか」というのも、大いに関係ありますけれど、

―――――

これは、元来テレビというものが、明るい部屋の中で、雑音や、他に動く人・もの(飼い猫など)による「視線のさえぎり」に囲まれて視聴するメディアなので、元より集中はしにくい媒体だから、と申せます。

―――――

なんだって?
いや、つまり、

―――――

テレビと視聴者との関係は、「中途半端な付き合い」に終始しがちだと思うのです。

―――――

最近は、ホームシアターにするご家庭も多いようですが、基本的な構図は、変わるまい、と思います。

―――――

いま言った中途半端加減が、テレビとそれを見つめる者との間に、これまた中途半端な「言葉」を生み出す。つまり、

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ひとを「いいかげんな批評家」にするのです。

(おや。なぜ、この書き手 = ワタシは、自分を含めないようなモノの言い方をしてるのだ? ふふ)

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このような現象 = 視る人がすぐに「上から目線」になって、ふんぞり返る――即席の批評家になる、ということですね、はい――これは、

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「テレビ」というものの性質から言って、自然なことだと思うのですが――「テレビはクールなメディアである」by マーシャル・マクルーハン――さて。

―――――

そのような「テレビと視聴者との付き合い方」を拒否したがる――というか、「面白くない!」と思っている世代が、

―――――

「24」や「HEROES」を作ったのだ、と、ボカ思う。

―――――

好き嫌いはあるでしょうが、あれらのドラマは視る者に、

―――――

集中

―――――

を要求してくるでしょう?

―――――

「熱を入れて視てください!」

―――――

というわけです。

―――――

そういうことをテレビ番組が強く訴えかけて来はじめた。

―――――

これは比較的、最近の事であり、

―――――

「新しい世代」の登場なのだ、と考えます。

―――――

かつての「ツイン・ピークス」や「ER」に刺激された人たちが、芽を花に育てた、という気もする。

―――――

で、

―――――

そんな新しい世代の代表格が、

―――――

「LOST」や「エイリアスの女」のJ.J.エイブラムスではないだろか。

―――――

「スター・トレック」です。

―――――

エイブラムス監督の「スター・トレック」

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懐かしいテレビ・シリーズの、これは前日譚とも言うべき話。

―――――

彼の話題作として、「クローバーフィールド/HAKAISHA」がありましたが、あのときは、プロデュースだけだったので、長編映画の監督としては、2006年の「M.I:III」以来です。

―――――

宇宙暦23XX年。

―――――

連邦軍宇宙船 USSケルヴィンは、ロミュラン人の謎の攻撃により、破壊される。

―――――

船長カークは、乗員と、妊娠中の自分の妻を脱出させ、船と運命を共にする。

―――――

産まれてきた子の名は、ジェームズ。

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成長したジェームズ(クリス・パイン)は、やんちゃな若者になりました。

―――――

若さを持て余す彼は、思い立って、連邦軍に入隊する。

―――――

ジェームズが出会う人々。

―――――

ドクター・マッコイ
(カール・アーバン)

ウフーラ、スールー、チェコフにスコティ…

そして、スポック!
(ザカリー・クイント)

―――――

だが、乗り組んだ宇宙船 USSエンタープライズに、魔の手がかかる。

―――――

過去のあの日と同様に、

―――――

ロミュラン人の恐るべき罠が…

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いや、これ、ほんとに面白いです!

―――――

まさか、「宇宙大作戦」が青春映画に置き換わるとは思わなかった。

―――――

やるなぁ。
考えたなぁ!

―――――

こんだけ好き勝手に出来たら、映画作りも、さぞや楽しかったことでしょう。

―――――

このエイブラムスというひとの「映画の作り方」を見ていると…

―――――

いい意味で「テレビ的」と言いますか、

―――――

興味を持っているのは、「ヒトについて」だけなんだな…

―――――

というのが、よく解る。

―――――

SFだろうとスパイ物だろうと、「人間が活写されていなければ、興味が持てない」に始まって、

―――――

「ニンゲン誰しも、最後に行き着くのは、同類である『ヒト』に対する関心なのだ」

―――――

という、ややもすれば強引な結論にたどり着くのが、エイブラムスの視点のようです。

(この視座を客観的に眺めるには、「自分をも含めるような」申し訳なさそうな所に立っていては、何も言えないわけなんです)

―――――

彼の作り手としての「手跡」を、感じとれる気がします。

―――――

観客と「密着」するくらいに相手を「求めよう」とする、温度が高い手跡です。

―――――

この「温度の高さ」を、僕らは、映画とはまったく別のメディアの中に発見する。

―――――

それこそ、あなたが、いま目にしている、インターネットの世界です。

―――――

この世界のポイントは、「言論」に成りきらない「なんだか解らない言葉の山」を、「熱の伝導物」として、熱く生臭いままに、僕らの前に提示してみせたところにある。

―――――

先進各国が「インターネット当たり前」の時代を迎えて、ちまたには、ますます無数の、即席の批評家が溢れています。

―――――

注意すべきは、

―――――

「言いたいことをなんでも言える場所がある」

―――――

という「空間の提供」が先にあることによって、

―――――

「そうだ、おれにも、言いたいことがあった!」

―――――

と、開発される書き手が増えているのだ、ということです。

(おれのようにかい? ふふふのふ)

―――――

このような、生臭さをダイレクトに伝えるメディアを前に、それと向かい合う人たちには、2つの態度がとり得るでしょう。

―――――

ひとつは、熱くて臭い超大規模な言葉の山を整理整頓し、去勢し、方向付けをしてやろうとする、「洗練」を上に置いた態度です。

―――――

なに?
そんな態度をどう思うか?

―――――

まぁ言わぬが花よ。

―――――

そして、もうひとつがCGやデータ音楽などの発達によって洗練されると共に「血肉溢れる感性」を失っていく「表現の世界」に、「人間の声」を導入し、もともとあったであろう「熱さ」の復権を求める態度だ、と、

―――――

かように思う。

―――――

これ以上、申すまでもないでしょう。

―――――

洗練に「ヒトの本来持つ熱さ」という刺激を取り込んだエイブラムスの映像は、今のところ、その確かな立脚点のゆえ、大成功を収めています。

―――――

あの…
そもそも、ですね、

―――――

ネットに書き込みできるとなると、

―――――

わりと気軽にさらさら書くでしょ?

―――――

ところが、そのさらさらが積もり積もると、それぞれの「言論としての立場」とやらは、次第にあいまいに、どーでもいいものとなり、

―――――

たくさんの「声」がある、という熱だけが、「場」の作り手に伝わるのです。

―――――

いいことか、悪いことか、何か対処すべきなのか、そこまではわかりませんよ。

―――――

ただ、そのような「熱の伝導」を的確にすくい取り、

―――――

洗練された「機械仕掛け」の中に上手に組み込むクリエイターが、米国では、既に、中心に座っている、と。

―――――

それは、保守的な物語に「新しい装い」を与えている。

―――――

ハリウッドを通したアメリカ文化は、本質的な姿勢を変えずに生きながらえる「やり方」を、もう見い出して、使っている、と。

―――――

この古くて新しい映画に触れて、改めて感じいった、というわけです。

―――――

(気がついたら、何かやるべきだと思いますけども。

僕らは、何をすべきなんでしょねぇ?)

―――――

Jack

―――――

(いや、あなた、

これは、しけた嫌味じゃありません。

僕に出来るのは――ひょっとすると、「いまのところは…」ということかもしれませんが、いや、決して、悲観して言うのでなく――、こうして気が付いたことを、あなたに贈ることだけなんです)

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アルフォンスはなぜ身体を失った?/「鋼の錬金術師」

僕の漫画読書量は、正直言って少ない。
―――――
だから、「鋼の錬金術師」こと「ハガレン」が「面白いらしい」というのは知っていましたが、手に取ったことはありませんでした。
―――――
この漫画に触れてみようという気になったのは、そうです、アニメ化されたテレビを観たからなんですね。
―――――
おそらく、YUIさんの歌う主題歌は、トップテンに入るだろうし、人気次第で映画化もされるだろう、ということで…
―――――
今回は、映画ではなくアニメと漫画についての、番外編です。
―――――
まず、ご存知ない方のために、この作品の、基本設定を、少しおさらいしてみましょう。
―――――
架空の軍事独裁国家。
そこでは、「錬金術」というものが科学として公認され、国家資格を持たされている。
しかし、錬金術にタブーあり。
曰く、人間を作ろうとしてはならない…
幼くして母を亡くしたエドワードとアルフォンスのエルリック兄弟は、猛勉強の果てにタブーを侵し、亡き母を蘇らせる術に、手を染める…だが…
おぞましい失敗…
エドワードは片腕、片足を、
アルフォンスは体のすべてを持ち去られる…
ふたりは、失った手足や体を鋼で包み、もとの姿に戻るべく、伝説の「賢者の石」を求めて、さ迷い歩くことになる…
―――――
と、ざっと、こんな感じと思うんですけど。
さて。
―――――
アニメと漫画では、並べられたエピソードの順序が、ずいぶん違う。
―――――
アニメだけの創作部分もあるようですが、しかし、それは必ずしもTV番組としてのマイナスではないように思います。
―――――
アニメは、原作のスピリットを生かして、いかにテレビの中で分かりやすいものを造るかに力点を置いていますので、この項では、漫画を参照しつつ、テレビの中にも登場する「要点」について、語ってみます。
―――――
僕らがあまり深く考えずに「若さ」というものを見つめるとき、そこには、普通、2つの願望が見えている。
―――――
ひとつは、輝いてばかりの表の世界 =「光の社会」にはどこにも居場所を見つけられないので、そこを抜け出たい、という願望。
―――――
暗く沈んだ気分の思春期に――多くのひとに、そういう時期があるものです――はまっているとき、快活さを重んじる表の社会、アラサー、アラフォーなどとほざいている社会というのは、キラキラとまぶし過ぎて、自分の居場所がないように感じるものです。
―――――
そんな世界に抑えつけられたように思う若さが、圧力から飛び出すことを望むのは、自然です。
―――――
そしてもうひとつは、狭苦しい範囲に限定され、動きを封じられた「からだ」から抜け出したい、という願望。
―――――
どちらも、「脱出の願望」です。
―――――
と、こう書くと、「それは、身の回りを旧弊な“意味”で固められているから、そこから抜け出したいのだろう」と、受け取れると思いますが、
―――――
この「鋼の錬金術師」という作品で描かれるふたりの少年の悩みは、どうも、そういうことではなさそうです。
―――――
この漫画の主人公ふたりは、からだを、「身体」というものを、取り戻したがっている。
―――――
「意味ある世界」へ戻りたい、と考えているのです。
―――――
「世界を無意味にしてしまうもの」とは、なんでしょう。
―――――
簡単です。
―――――
あなたに魔法が使えたら、あなたはあらゆる「意味」から解き放たれ、自由の身になりますね。
―――――
この作品では、錬金術というものが魔法ではなく、科学の一種であり、一定の「法則」の支配を受ける――だから、それが使えても、無闇と自由にはなれない、ということになっている。ふむ。
―――――
少し、具体的に空想します。
―――――
「魔法」とは、どんなものでしょう?
―――――
例えば、宙に浮かび上がったり…
ナマの肉体から幽体離脱して、すいすいと動き回ったり…
自分の分身 = クローンを作ってみたり…
―――――
ん?
―――――
それは魔法ではなくても、僕らの暮らすこの社会に、実際に、在りますね。
―――――
僕たちは、こうした
「宙に浮かび上がり」、
「ナマの対象から離れて」、
「幽霊のようにすいすいと動き回り」、
「気ままに自らのクローンを生み出していく」、
そんな不気味なものの正体を、知っています。
―――――
あなたも、そのもののために、いつも頭を悩ませているはずです。
―――――
それは、
―――――
そうです。
「お金」です。
―――――
ふたりがおそらくは毛嫌いし、信じようとしないだろう魔法 =「お金」について、以下、書きます。
―――――
貨幣というのは、もともと物品流通のための「引き換えチップ」の役割しか持っていなかった物です。
―――――
それぞれの商品とお金とは、一対一の関係で安定して結ばれておりました。
―――――
大量生産や薄利多売という考え方がまだありませんから、物の価値 = お金の価値は、生産者と買い手との一対一の自然なやり取りを通して、「かたち」を与えられ、穏やかに決められていたのです。
―――――
そうした穏やかな関係の中にあったはずのお金がなぜ、不気味な「自己増殖機能」のようなものを持ち始めたかと言いますと…
―――――
ことは「資本主義」の形成・発達に関わってくる。
―――――
流通を乗り越えて「利潤」をあげよう、という新しい発想が、「金利」という一種の錬金術を産み落とし、
―――――
お金は「物との交換のためのチップ」という実態的価値を離れて、
―――――
「お金がお金を産み、増やす」という仮想を自ら作り、イメージの世界での気ままな浮遊を始めるのです。
―――――
これは「イメージ」という本来、徹頭徹尾自由であった「無法地帯」への、お金というものの「侵食」です。
―――――
イメージの世界は、「価値を、夢想によってどのように見積もるか」という「はかり」以外の要素が通用しない、窮屈なものになっていくのです。
―――――
ちょっと、詳しく言いましょう。
―――――
現代に生きる僕たちは、「イメージ」というと、例えば「誰それさんのイメージ」といった風に(この場合は「キャラクター」という意味ですね)、実態を飾り立てるための「現実にとっての附属物」という捉え方しかしていませんが、
―――――
こうした捉え方では、「イメージ」も「現実」も、ともに存在が矮小化されてしまいます。
―――――
本来、「イメージ」というのは、徹底して捉えどころのない、(それでも無理に)言葉にするなら「虚無」に近いものだと言えるし、一方「現実」とは、イメージの力など借りなくとも、しっかりと大地に根を張った強固なもののはずなのです。
―――――
両者の接近を「現実」の側から眺めると、
―――――
「なんとなくの印象」というものの支えなしには、現実とは、その実体が疑わしい「イメージの派生物」にまで堕落してしまった、と言えるでしょう。
―――――
他方、「イメージ」というものの方は、現実を支える「物語未満」程度の役割しか、満たさなくなった、と言える。
―――――
ここで、もうひとつ、人々にとって、やっかいなことが起きる。
―――――
価値と境目があいまいになった「イメージ」と「現実」は、共に、「個人」という「考え方」の登場を急かし、そうして両者ともに、個人にとっての「自己実現」のための「場」である、という「痩せ細った役割」を担うことで、延命する羽目になったのです。
―――――
「生産的無意識のかわりに、もはや自己を表現することしかできない無意識(神話、悲劇、夢…)がいすわったのだ」

(ドゥルーズ+ガタリ「アンチ・オイディプス」 宇野邦一 訳:河出文庫:以下、引用は同書から)
―――――
こんなことになる前は、「個人」などという野暮な捉え方を持ち出さなくとも、ひとは、確固として暮らしていたはずなのです。
―――――
では、
―――――
なぜ、こんなことになったんでしょう。
―――――
ターニングポイントは、「お金」というものが自己増殖機能を持ち(つまり、「利潤」というものの追求ですね)、近代資本主義を形成し、
―――――
自分以外のあらゆるものを、
―――――
「自分と交換できるかどうか」
―――――
でしか計れない「不安定な価値」しか持たないもの、と規定してしまったところに端を発しています。
―――――
「お金なんか、いらないさ。ボクには夢があるんだもの」
―――――
と、いくら言ってみたところで、それは“理想”。
―――――
「その夢は、カネになるんかい?」
―――――
というのが“本音”、
―――――
ということになっている。
―――――
お金だけが「実体を持たないが、万能の価値を持つ」という特権的な機能を有し、
―――――
それ以外の「イメージ」も「現実」も、すべては意味があやふやとなって、
―――――
とりわけ、自分で家庭を作ったり、責任ある部署で働いたりという「手でさわれる体験」を持たない若い世代を直撃することになっている。
―――――
そのような世界にあっては、お金 = 資本というものの、改めての捉え直しが必要です。
―――――
「資本とは、まさに資本家の、あるいはむしろ資本家という存在の器官なき身体なのだ」
―――――
アルフォンスの“からだ”は消え去り、彼は、ただの「鎧」となる。
―――――
これをもって彼は、具体的な肉体という不自由な「くびき」から解放された、と言えるでしょうか…
―――――
それなら、なぜ彼は、「自分」というものの存在が失われ、あやふやになってしまったと心配するのか。
―――――
「ハガレン」では、アルフォンスの身体喪失は、どこか「儀式」のように描かれている。
―――――
失われた身体を求める彼と兄エドワードの旅は、フォークソング的に言うなら、ずばり、「大人への階段」です。
―――――
イメージも実体もあやふやな世界では、「自分」という“心”も、「身体」という“からだ”も、ともに、意味の再検討を根本からしなければならないほど、追いつめられ、消えかけている、と言っていい。
―――――
この世界では、自己増殖機能を持つ「お金」以外のあらゆるものが、「意味」という支えを失っているのです。
―――――
意味を失って、意味を渇望する――なにを欲しがっているのか説明できないが、「何かがほしい!」という強い欲求だけはある――、そんな世界の中においては、必然的に、こんな問いが出てくるでしょう。
―――――
自分が求めているものは、なんなのか
―――――
意味不明な「何か」を求める自分は、いったい、何者なのか
―――――
「欲望に欠けているのはむしろ主体であり、欲望は固定した主体を欠いているのだ」
―――――
国際的な事情はどうだか分かりませんが、少なくとも現代の日本に暮らす若者たちには、以下の話しが当てはまる、と言えるでしょう。
―――――
彼らは「からだ」とそれにまつわる「物語」――「生活」、と言い換えてもいい――を手放すことにより、最大限、活動的な自由を手にするが、同時に私たちの身の回りを取り囲むモノや人々と自分との一対一の、安定して幸せな関係を失うのだ、と。
―――――
このような「成長の儀式」を、「シビア」と言わずして、なんと言う?
―――――
現代日本の若者に課された「成長の儀式」とは、これほどに手がかりなく、精神的にきついものだと言うことか。
―――――
これは、僕たちが「現在」という狭い価値観の中で、煮詰まっている、そのことが原因だ、と
―――――
そう思うんですけどね。
―――――
「利潤」というものを独り歩きさせない社会は、歴史的にも、この地上にも、いっぱい在る。
―――――
願わくば、インターネットというものが、「現代資本主義以外の価値観」と出逢う機会を提供する…
―――――
そんなものであって欲しい、と…
―――――
今回はこれで項を終えましょう。
―――――
(あー、共産主義復活せよ、なんつうてる訳じゃぁないよ)
Jack

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軽い原罪/「重力ピエロ」

「春が、二階から落ちてきた」

―――――

この印象的な「フレーズ」で始まる映画は、

―――――

「重力ピエロ」

―――――

舞台は仙台。

―――――

「春」、とは人の名。

―――――

奥野家は兄弟ふたり。

―――――

奥野泉水(加瀬亮)と奥野春(岡田将生)。

―――――

仲の良い兄弟を見守るのは、優しいが決然とした父(小日向文世)と、美しい母(鈴木京香)。

―――――

幸せそのもののようなこの家族に、一片の影が射している。

―――――

一片と言いましても、

―――――

それは、尋常ならざる大きさの影です。

―――――

家族の運命…
家の者ひとりひとりの人生の成り行きまでも左右する、大きな影です。

―――――

物語の中で言及される、様々なピース。

市内を騒がす放火犯。

泉水が学ぶ、遺伝子工学。

街のあちこちに残る落書き =「グラフィティアート」。

美男の春につきまとう、女の子の「ストーカー」。

―――――

これらは、どう、結び付くんでしょう。

―――――

全てがひとつにつながるとき、奥野兄弟にも、岐路が…

―――――

えーと…

―――――

この作品のキーターム = 鍵を握る言葉は、いずれも英語。

―――――

「GOD」「Can」「Talk」とか「Unforgiven」とかね、

―――――

そもそも、落書きを「グラフィティアート」などと呼んだりして、「別の解釈」を付けようとするのは、どういうわけか。

―――――

ごていねいなことに、主題歌も、全編、英語です。

―――――

伊坂幸太郎さんの別作品の映画化「フィッシュストーリー」でもそうでしたが、この「重力ピエロ」も、そこかしこに、アメリカ文化への「憧憬」のようなものが、見て取れる。

―――――

それが――その淡い憧れのごときものが――、この伊坂印のミステリを、例えば松本清張的でない、笹沢佐保的でもない――要するに、男と女や血のつながる者同士の「絡み合う愛憎」だったり、どろどろの心を抱えた「にらみ合い」などからサッと救う――ポップな軽みを提供している、と思う。

―――――

この「ポップな軽み」、

―――――

= 外来言語に依存することによって、初めて成立する「浮遊感のある思考」について、申しましょう。

―――――

たぶん、どこの国でもそうだと思うのですが、

―――――

「外来言語」

―――――

とは、土着の因習や、無意識のうちに僕らに染み付いてしまっている「観念の範囲」から離れる――離れたい――とき、たいへん便利な言葉の束です。

―――――

「言葉」というものは、一語一語、それぞれ「ある対象」と一対一の関係を結び、僕らの世界を、確固たるものにしています。

―――――

しかし、

―――――

そのような、言葉と対象の一対一の関係だけでは捉えきれない、「こぼれ落ちていく感性」のようなものがあるのです。

―――――

このことを「こぼれ落ちていく感性」の側から説明しようとすると、いくら言葉を費やしても足りませんし、なにより思考の迷路にはまり込む可能性が高いので、

―――――

一対一、として安定している土着言語の立場から、逆照射してみましょう。

―――――

その立場とは、「外国語を習う人の立場」です。

―――――

外国語を習っていくと、次第に、「どう捉えたらいいんだ…」と、困惑することが増えてきます。それは、

―――――

「カタカナ」の存在

―――――

です。

―――――

僕の場合は、フランス語を勉強してるので、フランス語について言いますと、例えば、

―――――

「シルク・ドゥ・ソレイユ」

―――――

と書いて、日本では、

―――――

「シルク・ド・ソレイユ」

―――――

と、読むのが一般的ですが、これは、明らかな誤読です。

―――――

しかも、二重に間違えてる。

―――――

そもそも、「シルク・ドゥ・ソレイユ」と書いたら、「ド・ソレイユ」と読むのは誤りだし、第一、

―――――

原語では、

―――――

「Cirque du soleil」

―――――

と書くのです。

―――――

これは、「ドゥ・ソレイユ」と言うより、「デュ・ソレイユ」と読むほうが近い。

―――――

フランス語のアルファベットでは、「d」を「デ」と読みます。

―――――

「デュマ」=「Dumas」という作家がいましたので、「du」については、「デュ」と発音するのが、原音に最も近い。ところが、

―――――

今や完全に、「ドゥ」で、通っています。

―――――

さらに言うなら、原音の「du」の「u」は口をすぼめて、「ュ」と「ィ」と「ゥ」の中間のような発音になるのが、正確です。では、

―――――

いったい、「ドゥ・ソレイユ」というのは、「どこに在る言葉」なのか?

―――――

日本語ではありません。もちろん。

―――――

しかし、フランス語でもないのです。しかり。

―――――

いったい、「カタカナ」とは、地上の、どこに在る存在を示す何語なのか?

―――――

ところが、

―――――

実際問題、これは、「日本語」なんですよ。

―――――

「浮遊する言葉」でしょう?…

―――――

それが指し示そうとする対象と、ぴたり結ばれてはいないでしょう?

―――――

ここでは、言うなれば、意味が「迂回」されているのです。

―――――

「バイオリン」とか「ビール」とか、「そんな言葉はないよ」と言いたくなるカタカナ語は、いっぱいある。

―――――

あれらは全て、日本語ではないのに、実際問題、日本語だ、という、たいへん不思議な単語です。

―――――

こういう単語が「文節」の中に混じることによって、文章 = 思考は、「浮遊する自由感」を獲得していく。

―――――

意味が迂回されているがゆえ、このような言語は、「対象との一対一の関係」、という、厳然たる役割から解放され、自由に宙に浮かぶのです。

―――――

こうした自由さ――「浮遊する論説の自由さ」――をもって、この作品は、奥野家という家族を襲う大いなる悲劇を救おうと試みる。

―――――

ですが、

―――――

断言しましょう。
ひとの生き方、すなわち「意味の在り方」は、「言葉の位置」をずらしたくらいで、変えられるものではありません。

―――――

それでも伊坂作品が、いま、新しい姿で文化現象の真ん中に出るようになった「日本映画」という世界――その世界に属する人々の関心を強く呼び、

―――――

多く映画化されるのは、なぜでしょう。

―――――

「変わらない意味」に対して、「意味の迂回」を試みるポップな軽みは、必然的に、

―――――

若さの思考

―――――

と、なり得ます。

―――――

それすなわち、抵抗の試作だからです。

―――――

抵抗しつつ、浮き足立ってる(浮遊してる)わけなので、これは

―――――

一過性の表現

―――――

です。

―――――

二十年後には、消えているかもしれません。

―――――

二十年後には、消えているかもしれないものを、なぜ伊坂幸太郎さんは、いや、もとい、森淳一監督は、援護しようとなさるのか。

―――――

いま僕の言っている「若さ」とは、実は、

―――――

気恥ずかしさ

―――――

から来るものです。

―――――

一度、「シルク・ド・ソレイユ」と呼ぶことに、なんとなく決まってしまったそのものを

―――――

「デュ・ソレイユ」

―――――

なぁーんつぅたら、恥ずかしい、っしょ?

―――――

居酒屋行って、

―――――

「あ、おれ、ビアーね」

―――――

などと言うヤツがいたら、お友だちになれますか?

(待てよ?…おもしろいかもな…まぁ、いいや)

―――――

自衛隊の存在からもお分かりの通り、戦後の日本は、「正面から対象と向き合わない」ことで、なんと、浮遊する――厳然たる役割から解放された――「自由に汲み取れる意味」を豊かに膨らませる道を選択してきた、不思議な若さを持つ国なのです。

―――――

つまりは、それこそが、日本流の

―――――

ポップ・カルチャー

―――――

だと言える。

―――――

この映画のテーマとなっている思考について、

―――――

松本清張や笹沢佐保や、あるいは遠藤周作なら

―――――

「原罪」

―――――

と、呼んだかもしれない。

―――――

だが、原罪と向かい合おうとする「人の姿」が、この作品では、どこか軽い。

―――――

原罪に対して、どろどろと対決しようとするのでなく、軽く投げ打とうとする若者たちの姿を通して、

―――――

この映画は、軽くて、そしてどこかはかない、もろい思考を

―――――

いつまでも失わないで

―――――

と、メッセージする、静かな主張に満ちているのだ、ふぅ。

―――――

… なんて、いろいろ言いましたけど、

―――――

実は、ね、

―――――

なんだかなぁ…

―――――

まったくもって見当外れの方向で立ち止まったり、ごちゃごちゃ悩んだり、ツマラヌ手間をかけてるのぉ!

―――――

と、

―――――

僕は、自分の少年時代から相も変わらぬ様相で「意味のあいまいな繊細さ」を標榜する「“お馴染み”の若さ」に、うっとうしさと疲れを覚えて、劇場を出たのです。

―――――

新しき日本映画の新しき「スタッフ」たちが、こんな古ぼけた新しさに感じいっているうちは、

―――――

いま現に鋭さの中にある若さ、というのは、いつまで経っても報われない

―――――

と、そう結論づけることも忘れずに。

―――――

(「時間が経てば消し飛んでしまう若さ」を温存しようとする馬鹿げた「センス」に、苛立ちさえ覚えながら)

―――――

(現代の若さが持っているかもしれない「シビア」さに対して、この繊細さは、ある意味では、あまりにのどかだと言える)

―――――

(だが、しかし、加瀬亮と岡田将生というふたりの若い俳優は、実に「センシティブ」に演じている、と)

―――――

(それは「イッツ・コレクト」です)

―――――

Jack

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照れずに愛して/「僕らのミライへ逆回転」

米国ジャズの歴史に燦然と輝く巨人、ファッツ・ウォーラー。

―――――

ファッツ・ウォーラーは、アメリカのどの町の、どの家で産まれたか?

―――――

僕も知りません。

―――――

いや、ネットで調べれば、事実は、簡単に判明しますが、ちょっとお待ちくださいませ。

―――――

一辺の事実よりも、素敵な物語が、見つかります。

―――――

「僕らのミライへ逆回転」

―――――

観たかったんですよ、これ。

―――――

都合で劇場には行けず、レンタル借りようと思いながら、延び延びになってました。

―――――

原題は、「Be Kind Rewind」、つまり、

―――――

「優しく巻き戻して」

―――――

というところでしょうか。

―――――

いや、これも実際には、アメリカのレンタルビデオ(テープ)店で普通に使われていた決まり文句、「巻き戻して返してください」の意らしいんですが、そこに、ひとつの「家庭に入り込んだ映画文化」に対するメッセージ性が、読み込んであります。

―――――

このような、タイトルを付けるときのデリケートさが、いかにも脚本・監督ミシェル・ゴンドリーのしるしです。

―――――

「エターナル・サンシャイン」を観て以来、この人のことが、とても気になっていたので、この映画も、観るのを楽しみにしてました。

―――――

このゴンドリーという人の作風というやつは、ちょっと

―――――

「屁理屈」

―――――

こねて、楽しんでるようなところだと思うんですね。

―――――

「屁理屈」と「理屈」が、どう違うかは、ずばり、作品を見れば、解ります。

―――――

レンタルビデオ店「Be Kind Rewind(ていねいに巻き戻してね)」。

―――――

古くからある店なんです。
VHSしか、置いてません。

―――――

店主のフレッチャー(ダニー・グローバー)は、ファッツ・ウォーラーの心酔者。

―――――

ちょっと事情がありまして、ファッツ没後60周年の記念イベントを見に行く、とだけ言って、店を空けます。

―――――

店番を任された、店員のマイク(モス・デフ)。

―――――

マイクの友だちで廃品のリサイクル屋ジェリー(ジャック・ブラック)。

―――――

発電所の前にトレーラーハウスを置いて、住んでます。

―――――

このジェリーの存在が、騒動の始まりでした。

―――――

ヘンなことを言うヤツでして、

「FBIが、発電所の電磁波を使って、市民を洗脳してるんだ!」

この俺も洗脳されそうだから、発電所をぶっとばそう!

―――――

本当に忍び込んだジェリーは、ぶっとばすどころか、逆に、強力な電磁波を浴びてしまい…

―――――

そのまま店に来るもんだから、電磁波のせいで、

―――――

VHSテープの録画が、ぜんぶ、消えちゃう!

―――――

さぁ、たいへん。

―――――

ビデオを借りにくる客に、テープを出さないわけにはいかない。

―――――

いっそのこと、

―――――

俺らで、中身を作っちまえ!

―――――

ふたりは、即席のビデオ監督兼出演者になりますが…

―――――

ふーむ…。

―――――

期待にたがわず、素晴らしいじゃないの!

―――――

傑作です。
文句なしです!

―――――

「スウェーデンの輸入ものだ」っていうセリフ、

ひじょーに、おかしい。

―――――

全編、くすくす笑いの連続です。

―――――

そこかしこで挿入されるエピソードが、どれも実にほほえましく、そして、楽しい。

―――――

重要なことは、これは、パロディ劇ではないのです。

―――――

もっと、ひねりがきいてます。

―――――

劇中でふたりが「リメイク」する映画、どのくらい観てますか?

―――――

「ゴーストバスターズ」に始まり、
「ラッシュアワー2」、
「ロボコップ」
「2001年宇宙の旅」、
「キングコング」、
「シェルブールの雨傘」、
「ボーイズ'ン・ザ・フッド」、
「ドクター・モローの島」、
「ブギーナイツ」、
「ラスト・タンゴ・イン・パリ」…

―――――

玉石とりまぜて、ふんだんに。

―――――

極めつけは
「ライオン・キング」の撮影シーン!

―――――

加えてボカ、この監督さんの「俳優の選び方」にも、興味がある。

―――――

主演の三人はもちろん、

―――――

ひょんなことから、マイクとジェリーのリメイク騒動に参加するアルマ(メロニー・ディアス)。

―――――

いかにも、こういうお店の常連客っぽい、ミア・ファロウ。

―――――

さらに、あの超有名大作映画のあの女優を、こんな役で出演させて!

―――――

「俳優選びに凝る」

―――――

というのは、各シーンの撮り方に凝りたいから、だと思うんですが、

―――――

観ていると、キスのやり取りが出てくるんですけども、その場面の、なんとデリケートで辛辣で、屈折したこと!

―――――

「ひねってる」とか「デリケート」とか、「屁理屈」とか、いろいろ言ってみましたが、全体としてこれは、

―――――

ハリウッドの大作志向への、ひじょーに繊細な、チクリとした批判にもなっています。

―――――

コーエン兄弟のような、ふてくされた気取りは、ボカ、すっかり嫌いになりましたけど、こういう洒落っ気たっぷりのご意見なら、単純にのけぞります。やるじゃないの。

―――――

「映画愛」と、ひとくちに言いますが、それって、なんのことでしょう。

―――――

素直に言うならこの映画、

―――――

「映画愛についての映画」

―――――

と、言える。

―――――

そこを素直に言わないのが、

―――――

「屁理屈」の「屁理屈」たる、由縁です。

―――――

「屁理屈」とは、つまり、

―――――

「愛が高じて、変形されてしまった理屈」

―――――

の、ことです。

―――――

いったいに、自分が

―――――

「映画ファンである」

―――――

ということは、
照れて言うようなことでしょか?

―――――

「映画ファンです」ということを照れて言うようになったなら、

―――――

それは、じゅーだいなサインです。

―――――

あなたは、なんと、愛ゆえに、

―――――

「作者になりたい」

―――――

と、思いはじめているのです。

―――――

「映画愛が高じて、やがて映画制作に取り組むようになる人たち」の情熱を、こんなにも豊かな想像力と説得力で、親しみやすく示した例も珍しい。

―――――

「エターナル・サンシャイン」もそうでしたが、この映画も、

―――――

「あれぇ…このまま、切なくエンドマーク?…」

―――――

と、思わせておいて、終わり方、うまぁーーーい!!

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いかにも、

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「“愛”なんて、照れくさくって」

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と、言いそうなひとたちのエンディング。

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照れずに拍手したくなりますから、楽しみにご覧あれ。

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Jack

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(さんざん、いろんな話題で楽しませてから、このラストですから、しびれますよ、ほんとにもう)

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