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2009年5月

エンタの王子様/「セブンティーン・アゲイン」

「プログラム・ピクチャー」って、ご存知ですか?

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この言葉を説明するには、DVDはおろか、VHSもまだない頃まで、戻らないといけません。

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「映画と言えば、映画館で観るもの」だった当時、新作映画には、「抱き合わせの1本」が、付いていました。

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つまり、これが「2本立て」というやつで、1回料金を払って2本見られたんです。

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都合3時間ほど。

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昔の映画は、「1時間半」というのが、多かったんで。ただし、休憩も入れると、もっと長い。

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その頃の自分も含めて、昔の映画ファンの人たちは、体力があったんだな、と思いますけど――(ロードショーのとっくに済んだ旧作だけを上映する劇場もありまして、¥1000以下で、3本立てやら5本立てやらあったんですよ。8時間以上も同じ映画館で、映画を見続けるなんて、考えられる?)――、で、問題は、

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プログラム・ピクチャーです。

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要するに、上映の本命でない、みんなのお目当てでない「もう1本」の映画のことを、

―――――

プログラム・ピクチャー

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と、言ったんです。

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つまりは、付録みたいなもン。

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内容が面白くて「当たれば」儲けもの。

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「ハズレ」ても、どうせオマケなんだから、文句言わないでね、というよーな代物で、監督以下スタッフも、とーぜん出演者も、聞いたことがないような人がほとんどでした。

(そういう中に、たまにスピルバーグやトビー・フーパーのような若手監督の、実験作が混じっていたりしたのです)

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で、

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たまの例外はあるにしても、多くは、いかにも「オマケ」らしく、映画の中身のほうは、「んー…、どっかで観たことがあるような、ないような…」

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という感じでありました。

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で、で、

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そんなプログラム・ピクチャーの中でもときどき、

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ジャン・ポール・ベルモンドとか、エリオット・グールドとか、

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主役だけは大物級、という、掘り出し物があったりする。

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そういうのは、たいてい中身のほうも、面白いんです。

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そのへんを手がかりにして映画ファンは、

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「だれそれの出てる映画なら観に行こう」

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と、決めるんです。

―――――

ザック・エフロンの

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「セブンティーン・アゲイン」

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ハイスクールでバスケ部のスター選手、マイク(ザック・エフロン)。

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恋人の妊娠をきっかけに、大学進学をやめて、結婚、就職を選びます。

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すべての夢を犠牲にしても、彼女のことを愛していたから。

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それから十数年。

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おなかの出た中年になり果てたマイク(マシュー・ペリー、お久しぶり)。

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会社では昇進の機会が得られず、産まれた娘らは、いま反抗期。

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愚痴ってばかりの彼から最愛の彼女は離れ、離婚を言い出されてしまいます。

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こんなはずじゃなかった…

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と、不思議なことが、身に起きる。

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目が覚めると…

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17才に、戻ってる!

―――――

なんで?
いや、そんなことは、どうでもいい。

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失った青春を取り戻す。

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決心したマイクは、娘たちの通う高校へ、名前を偽って、編入しますが…

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いやぁ、これ、昔なら完全に、プログラム・ピクチャー扱いでしょう。

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高校の人気者で、バスケの名手っていう役柄ですから、

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どうしたって、「ハイスクール・ミュージカル」を連想させる。

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それはおそらく、俳優として成長したい・させたい「アーティスト志向」にとっては、ありがたくないステレオタイプのイメージ付着でありますが、

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そこを「気にしない」と乗り越えてしまえば、素晴らしい「アイドル・スター」としての道が開けている、と思うんだけど…

―――――

そう。
これは、そのアイドル本人にとっては、ちょっと酷な願いです。

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いろんな役をやりたかろう。

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イメージの固定は、嫌だろう。

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分かっちゃいるけど、願っちゃう。

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ザックには、歌って踊ってほしいです。

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この映画で、彼は、あまりにも「芸能の人」をこなしているので、よけい、映画と役柄に「レビュー的要素」が無いのを「惜しい!」と感じてしまうのだ。

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「プログラム・ピクチャーというものの存在」は、僕らに、映画が「芸能の特番」としての機能を発揮していたことを、思い出させる。

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たまの実験作などを除けば、――否、そうした風変わりな奇作さえも呑み込むほどに――プログラム・ピクチャーの造る「風景」とは、度量の大きな、ある意味では「なにが来ようと揺るがない」盤石な「庶民の娯楽の場」でありました。

―――――

そんなプログラム・ピクチャーに登場するのは、「芸能人」であって、「アーティスト」などではない。

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彼らが選び取り、演じるのは、徹頭徹尾、観客を楽しませる――そうして、観客たちが、おそらく普段は意識の端にも置いていない「生活」の姿に、意義があることを思い起こさせる――ことであり、

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それはまた、僕らにとっての「生活」というものが、「現代生活」へと固まりつつあった頃、あらゆる価値が金銭以外と交換できない息苦しい「無意味さ」へと変質するのを、力強く押し留める、一種の「魔法」を秘めた表現形式であったのです。

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芸能には、もともと、ひとの魂を鎮めたり、逆に、ひとが日頃は忘れている「己れの生命力」を、刺激によって放出させたりする力がある。

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(たぶん)本人がさほど意識しているわけではないのに、「芸能本来」の立ち位置に近いところに立っているひと・ザック・エフロンの存在が、この映画を呼び寄せ、この映画を快活なものにしたことは、ほぼ、間違いないと思います。

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そういう人が、過去のハリウッドにも、1人いた。

―――――

マイケル・J・フォックスですね。

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「芸能人」マイケル・J・フォックスは、その輝かしいオーラで代表作「バック・トゥ・ザ・フューチャー」シリーズを完成させると、ハリウッドの理想に従い、「アーティスト」になろうと努力しましたが、上手くはいきませんでした。

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彼はアーティストになるには、あまりにアイドルでありすぎた。

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こなた、ザックは、どうでしょう。

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歌って踊れるアイドル・スターの位置をキープして欲しいんだけど、現代ハリウッドの世界に居ては、難しいかもしれないな…。

(ブロードウェイに、進出でもしないかな)

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いずれの道を選ぶにせよ、この人は、今が最初の旬であります。

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芸能がもたらす「温かい視線の相互関係」を体感したい方は、ぜひ劇場へ。

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この温もりは、「芸術」には造り出せないと思うんだよな。

―――――

Jack

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(久々に、日本人にとっても親しみやすいアメリカン・アイドルの登場だと思うので、一映画ファンとして、この人のことは、見続けたいなぁ、と思う僕なのです)

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倫理とおカネの狭間で/「天使と悪魔」

「天使と悪魔」です。

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始まりは、バチカン市国。

世界10億のカトリック、総本家。

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神の愛と恩賜を伝える人、教皇が亡くなります。

―――――

次の教皇を枢機卿たちの中から選ばなくちゃいけません。だが…

―――――

時を同じくして、スイスのCERN・素粒子物理学研究所で事件が起こり、研究中の反物質のカプセルが強奪される。

―――――

外気(というか物質)に触れると、大爆発を起こす、超危険な代物です。

―――――

さらに、バチカンでは、秘密結社「イルミナティ」を名乗る何者かが、教皇候補の有力枢機卿4人を誘拐する。

―――――

「イルミナティ」…

―――――

それは、ガリレオの時代より存在する、科学信奉者たちの影の組織…

―――――

彼らは、信仰の総本山に、何をする気か?

―――――

バチカンは、ルーブル美術館事件で名を馳せた、ロバート・ラングドン教授(トム・ハンクス)に、事件解決を依頼します。

―――――

教授は、前教皇の侍従だったカメルレンゴ神父(ユアン・マクレガー)、そして
CERN研究所のヴィットリア・ヴェトラ博士(アイェレット・ゾラー)と共に犯人を捜す。

―――――

「イルミナティ」の真の目的は、何か?

―――――

盗まれた反物質は、なんのために使われるのか?

―――――

さらわれた枢機卿たちは救えるのか?

―――――

ラングドン教授は、「イルミナティ」の暗号「空気・水・火・土」が解決の手がかりであることを突き止めますが…

―――――

えーと…

―――――

これは、映画の出来・不出来でなく、単に好みの問題なんですが、僕は

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「ダ・ヴィンチ・コード」のほうが、好き、かな?…

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今回のほうが、スピード感に溢れていて、前ほどややこしくないので、

―――――

その意味では、前作より「進化してる」、

―――――

と言えるでしょう。

―――――

ステラン・スカルスガルドのような、今や名脇役の風格がある役者も、華を添える。

―――――

でも、ですね…

―――――

今回のほうが、ちょっと、「扇情的」と言いますか…

―――――

殺人事件が次々と起きるんですけど、なんて言うか…

―――――

さながら、「お上品なサイコ・スリラー」を見せられているようで(つまり、殺し方に凝ってるのね)、どうも、のめり込むには、抵抗を感じます。

―――――

この映画よりはるかに残虐な(言い替えると、悪趣味な)、「羊たちの沈黙」や「ハンニバル」や、さらには「セブン」なんかを興味深く観た僕なのに。

―――――

なんで、この映画には、ノれないのかな…

―――――

それは、繰り返される殺人が、

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男と女

―――――

老いと愛

―――――

社会生活と反社会人

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…ひいては「現在そのもの」

―――――

といった、僕のような異教徒にも共感できる地平で展開されず、

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こちらからはよく解らないキリスト教の、「教義の内部」で行われている、

―――――

という強い印象があるせいでしょう。

―――――

「自分にも関係ある」と思えないから、

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うひゃ! 残酷!

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うわ! ひでぇ!

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というところだけが、目に付くのだ。

―――――

あ、いや、

―――――

いま、異教徒と言いましたけど、

―――――

それじゃあ日蓮宗に絡んだサイコ・サスペンスでも見せられたら、わくわくするか。

―――――

やー、それはないな。

―――――

そーゆー問題じゃないだろー。前言訂正。

―――――

ミステリやスリラーが扇情的であるのは、「24」や「BONES」や、さらには、ポオの「モルグ街の殺人」まで、いつものことです。

―――――

そういうものが、「なんとなく苦手」になったのは、僕の側の変化もあるのだ。

―――――

またしてもの話題で恐縮ですが、これは、僕が、精神病を体験して以後の、(ある意味では)重要な変化です。

―――――

狂ってる最中、ひじょーに陰惨な妄想をたくさん抱きましたので、醒めるに従って、

―――――

もう、いいよ

―――――

と、思うようになったのね。

―――――

しかし、そういう個人的な好みの変化だけでなく、やっぱりコトが「カトリックの面白さ」に関わってくる面もかなりある、と思うので、そのへんを語りましょう。

―――――

ご存知の方も多いでしょうが、ダン・ブラウンの原作では、この「天使と悪魔」のほうが、先に出版され、「ダ・ヴィンチ・コード」が後に出ました。

―――――

この流れ通り考えると、「カトリックの歴史にまつわる犯罪が起きる」というシリーズとして、一作目はスリリングな追いかけっこが重視され、

―――――

二作目は、謎解きの趣向が、よりひねられて、「パズラー物」として、深くなった、

―――――

と、申せます。

―――――

パズルを解くように取り組む態度が、カトリシズムに接する姿勢としては、より深く練られたものだ、というお話しと、

―――――

それとは反対の立場のように見えながら、対になるかたちでカトリシズムに抵抗する、――内部で反旗をひるがえすことで、結果的には、表のカトリックの在り方を、活性化させていく――そんな方法があることについて、申しましょう。

―――――

少し、キリスト教が生まれた頃に、想いを馳せます。

―――――

狩猟民族としての時代が終わる。

―――――

定住し、建物を建て、農耕のために測量をしたり、貨幣を流通させたりする。

―――――

やがて農業が否定されるようなかたちで商業が産まれ、村々は都市となり、近代的生活の仕掛けが整う。

―――――

こうしたことのすべてが、僕たち人間本来の「精神」が持つ自由さにとっては、無理な「居住まい」、不似合いな姿勢だったのだ、と考えます。

―――――

この不自由な居住まいに、人々を従わせるために考案されたものを「倫理」と言う。

(「倫理」から解き放たれるひとつの手段を貨幣とする。

お金さえあれば、自由になれます。

今も昔も、変わりません)

―――――

原初のカトリシズムとは――それがもたらした「倫理」というのは――、人間が進化のために選んだ近代的生活の、その不自由さ、不自然さを補い、人々に納得させるために発展したのではないだろか。

―――――

そうして「精神病」とは、どうあがいても埋めることの出来ない「人間」と「文明」との溝が、いかに深いかを示すため、ときおり降りてくる“しるし”のようなものだ、と見ることが可能です。

―――――

そうです。

―――――

狂気とは、ひとの持つ情欲のような性質と、近代生活の中で服を着た「表の顔」としての、かりそめの人間らしさを結ぶ“しるし”――“貨幣”にも通じる――シニフィアンだと言えるのです。

―――――

これは、僕だけの、ひとり合点な発想じゃありません。

―――――

カトリックの世界観に対して、ロジカルに、奥へ入ろうとするラングドン教授シリーズは、いま言ったようなことを背景に、

―――――

如何に狂気に捕まらずに、現代の倫理という「くびき」から自由になるか、を考えて創られてる。

―――――

倫理に対抗するひとつの手段は、それが生成してくる過程というのを論理的に――論理と倫理は、すぐとなりにあります――解き明かしてしまうことなのです。

―――――

しかし、

―――――

これが形骸化してくると、「倫理の構造を暴くための論理」というのを打ち立てていくのが、次第に、めんどくさくなってきます。

―――――

そのとき、ひとが思い出すのが、「肉の感覚」を刺激する扇情性です。

―――――

論理と倫理はとなりあわせ、と言いましたが、やたらと血が飛んだり、ことさら死の恐怖をあおり立てたりするのは、ロジックに対するフレッシュ(肉)…というわけで、論理による倫理の構造解体より、はるかに分かりやすい「対立軸」があるのです。

―――――

この安直な対立関係を使うのは、カトリシズムの発展型と言える現代資本主義社会のギマンを言いつのるにつけ、まことに便利なやり方です。

―――――

「本格推理小説」と言われる、純然たるパズラー物が、欧米ミステリの世界から、消えて久しい。

―――――

ひとつには、「論理的な遊び」がもともと「倫理の構造」を明らかにすることで、窮屈な現代人の生活を解き放つ効果を持っていたはずなのに、

―――――

いつの間にか、ロジックが「自由な遊び」の立場をズレて、倫理を必要以上に補強するような役割に堕ちてしまった、ということがあったでしょう。

―――――

「悪事」は暴かれ、「罪人」には、罰がくだる。だが、

―――――

なにが悪で、
なにが罪か。

―――――

「そんなことは決められない」

―――――

というのが、現代ミステリの主張です。

(ふと、鴎外の「高瀬舟」なぞ、連想します。

大正五年の小説であるにも関わらず、この辺りの問題に鋭く切り込み、古さのない話じゃないか)

―――――

悪の存在が、どんどんあいまいになるのが、ノワールやサイコ・スリラーの世界です。

―――――

しかし、これとても、

―――――

形骸化すれば、単なる露悪趣味に堕ちてしまう、そういう性質の「手段」なのだ。

―――――

現代の最前線にある娯楽はみな、

―――――

如何にして「倫理の構造」を解いてしまうか

―――――

、という尖った問題意識を持っている。

―――――

そうして、それらはどれも、「現在に対する、しなやかな観察眼」を失ったとき、たちどころに「形骸化」や「ただの悪趣味」に堕ちる危うい可能性を持った、「表現の闘い」なのだ。

―――――

(「狂気に捕まらずに」というのがポイントですが、シビアな「表現の闘い」に勝利したひとは、結果として、「お金」という狂気をたくさん手にすることになる。

今度はお金との格闘です。大きな皮肉。

「表現の闘い」に、終わりというのは、ないのです)

―――――

冒険小説まがいの「天使と悪魔」から「ダ・ヴィンチ・コード」へと進んだダン・ブラウンと、それを逆にたどって映画化したロン・ハワードは、それぞれ正反対の立場から、

―――――

カトリック = 倫理の構造を解いて、自由になるかたちを求めた、と言えそうです。

―――――

…あんまり気に入らなかった映画への感想としては、このくらいでよいかしら?

―――――

ところで、

―――――

どうして、絶えず倫理の解体が必要な、そんな方向へ、ニンゲンというのは進化してしまったんでしょ。

―――――

映画一本くらいでは、晴れない疑問。

―――――

(そうですね。

いまは、このくらいにして、また、別の劇場で、お会いしましょう)

―――――

Jack

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こばなし、今語り/「バーン・アフター・リーディング」

始めに言っちゃいましょう。

―――――

どーも、僕は、コーエン兄弟とは、波長が合わない。

―――――

「ノーカントリー」のときも、「なーんか、気取った体裁が、勘にさわるなぁ」と思ったんですが…(2008/7/26)

―――――

うむ。

―――――

この人たち、別に、ただ単に気取ってるだけではないようだな…

―――――

その本題に入る前に、例によって、ひとつの色眼鏡をかけていただきます。

―――――

悪趣味だ、とは思うんですが、ちょっと聞いてください。いや、

―――――

ある新婚の若夫婦が、ね、
(日本人ですよ)

―――――

ハワイまで、旅行した、と。

―――――

で、ホテルに泊まって夕刻になった…

―――――

奥さんのほうが、少し「風に当たりたい」てンで、散歩に出ます。

―――――

そして…

―――――

通りすがりの黒人のひとに、犯されちゃった。

―――――

どうすんだ。

―――――

旦那に言うのか。

―――――

それが、「言わなかった」というんです。

―――――

で、ずっと黙ったまんま、初めての夜を迎え…

―――――

何事もなかったように、日本に帰る…

―――――

で…

―――――

妊娠してるのが、わかった、と。

―――――

ここでね、

―――――

この話し、
終わりなんです…

―――――

ンな、あほな。

―――――

それから、どうなったんだぁっ!!

―――――

嫌な話しだけど、気になることは、気になります。
(え? ならない?)

―――――

で、

―――――

こういう話し、

―――――

実は、オンナのひとは好きでしょう!

―――――

だって、僕がこれを聞いたのも、女同士の集まりの場に、混ぜてもらったときなんだ。

―――――

「なーにをくだらない都市伝説みたいなウワサばなしに、夢中になっているんだか…」

―――――

と、正直、思いましたけど、これも正直な話し、「気にはなる」んだ。
(なりません?)

―――――

それでね、

―――――

こういう話しが語られる際、決まって、

―――――

「あたしの、ともだちのともだちの体験なんだけどぉ…」

―――――

なぁーんて言ったりするんだな。

―――――

噂話しの、ギョッとさせる、そしてハッとさせる怖さ、不思議さというのは、この、

―――――

なんの枝葉もない

―――――

、というところから発しています。

―――――

そうして、敢えて言ってしまうなら、その「魅力」というのも、

―――――

ぶっきらぼうに突き出される、味も素っ気もない単純さの「奥深さ」に発しているように思うのです。

―――――

この「味も素っ気もない」、単純な、物語一歩手前の――言ってみるなら――おはなしの「素因子」の如きものを提示しようとしているのが、

―――――

つまりは、コーエン兄弟です。

―――――

さらに、簡単に言い替えますなら、要するに、

―――――

現代のフォークロア(民話)を創ろう、としているのが、ジョエルとイーサンの、兄弟ふたりだ、と言えるでしょう。

―――――

少なくとも、この作品に関しては、そうだ、と言える。

―――――

「バーン・アフター・リーディング」

―――――

=(読後、焼却のこと)

―――――

という、またひどく思わせ振りなタイトルの映画です。

―――――

飲酒癖のせいで、CIAの情報分析官をクビになる男(ジョン・マルコヴィッチ。たぶん、この作品は、この人の代表作のひとつになる)。

―――――

彼が、やけくそ気味に書こうとする回想録が、すべての、ことの発端です。

―――――

彼との離婚を考えている妻(ティルダ・スウィントン。「ナルニア国物語」の白の魔女、大変身)。

―――――

彼女と不倫してる財務省連邦保安官(ジョージ・クルーニー)。

―――――

スポーツ・ジムのインストラクター(ブラッド・ピット)

―――――

彼の同僚で、全身美容整形をしたいがために、カネを欲しがる女(フランシス・マクドーマンド。コーエン映画に欠かせぬ人)。

―――――

さて、彼ら全員を巻き込み、CIAを困惑させる騒動の、顛末は…

―――――

「予想もつかない」

―――――

というのが売りの映画だけど、要所で、僕には、先が読めちった。

―――――

ま、それは、ともかく。

―――――

全編を通して、ほとんど「変わったヤツ」しか出てきません。

―――――

が、同時に、

―――――

最後まで、観客の共感を誘うようなキャラクターが登場しない。

―――――

理由は、本質がフォークロアなのだから、ということですが、

(皆さま。お小さい頃によく聞いた「民話」を思い出しながら、お聞きください)

―――――

この映画の「語りの中に出てくる人々」には、「愛すべき主人公」だとか、「味わい深い脇役」だとかいったような、ロマン派的物語に特有の形容詞が、まったく付かない。

―――――

「物語」と聞いて普通、僕らが連想するものが、あくまでも町文化、都市文化の中で繰り広げられる、近代的な――ある種、ひ弱な――「付け足しとしての夢」に過ぎない、というのを、思い知らされるわけなのです。やな映画だ。

―――――

(ジョージ・クルーニーやブラッド・ピットに、まったく思い入れ出来ないように撮ってるんだよ?)

―――――

物語が出来上がるときの、本当の発端、

―――――

おはなしの根元の根元、原初としての「生臭さ」にこだわっているらしいところは、その徹底ぶりが「見上げたモノ」だと言えますが、

―――――

やー!
好かんなぁ!

―――――

どうです?
「現在」って、怪しいでしょ。

―――――

「現代」って、奇妙でしょ。

―――――

…と、いうような主張が、非常にくっきりと、浮かんでくる。

―――――

そうして、そういう主張の中には、やたらと無風でシステマティックになってしまった「今」という世界に、哀しくも人間らしい、血肉に満ちた「動悸」を埋め込もうとする、明快な意図があるのだ。だが、しかし、

―――――

そういう主張をする以上、

―――――

この兄弟には、現在の映画を含むポップ・カルチャー全般に対する

―――――

軽蔑

―――――

の念がある、としか、どうしても思えない。
おー、やだ。

―――――

なーにを、二人して、意気がったり、とんがったりしちゃってぇ!

―――――

と、いったところが、僕の正直な感想です。

―――――

ハリウッドを明らかに嫌いながら、そこから離れるのでなく、中へ入って「現在への一撃」を喰らわせようとする彼ら兄弟の作戦は、

―――――

よく練られており、強くて、弾力があって、「押し出さないエネルギー」に満ちている、なぞと言えましょう。

―――――

あたま、いいねぇ。

―――――

よくよく、不満のかたまりだねぇ。

―――――

こういう映画作法に手もなくやられてしまうハリウッド人士にも、僕は、あきれますけども。

―――――

あー!
すっきりせんわ!

(失礼しました)

―――――

(ほんとの過激さ、って、こういうのとは、別のところから来ると思うんだよな)

―――――

Jack

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下調べ

…せずに書くと、どーも、よくないな。

―――――

藤子・F・不二雄せんせのことを「不二夫」って書いちゃうし、

(赤塚せんせと、混ざったのね)

―――――

「スラムドッグ$ミリオネア」のときは…

―――――

わっはっは!!

―――――

ムンバイって旧ボンベイのことだったのね!

―――――

わはは!

―――――

しかし、おっかしーなー?

―――――

映画の中で、確かに、「ボンベイへ行こう」ってセリフが出てきたと思うんだけど…???

―――――

Jack

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うなぎ捕りみたいにつかまえて/「鴨川ホルモー」

2003年に亡くなったロバート・パーマーは、いかにも英国人らしいペダンティズムと俗っぽさと洒落っ気を併せ持つ、僕の大好きなミュージシャンでありました。

―――――

Tシャツにジーパン姿で、ギター持ちながら歌った「スニーキン・サリー、スルー・ジ・アーリー」もかっこいいんですけど、僕がリアルタイムに体験した彼のパフォーマンスというと、

―――――

なんと言っても、「アディクティッド・トゥ・ラブ」や「リップタイド」「ディシプリン・オブ・ラブ」のような、アクの強い大人らしさを前面に押し出した歌曲が印象的です。

―――――

アルマーニの高いスーツを着こなして(ホントに似合うんだ、それが)、バックにズラリと背の高い、露出度も高い美女をはべらし、

―――――

ビートの効いたロックを唸る。

―――――

「♪ きみには恋の修練(ディシプリン・オブ・ラブ)が必要だね」

―――――

なんて歌われると、「うおぅ! オっトナぁ!」と、

―――――

思ったものです。

―――――

そのロバート・パーマーが、デュラン・デュランのジョン・テイラーに誘われて、新ユニット「パワー・ステーション」に参加したときのこと。

―――――

テイラーがやろうとした曲の中に、T-レックスのカバー「ゲット・イット・オン」があったんです。

―――――

もちろんヴォーカルは、パーマーです。

―――――

で、

―――――

この「ゲット・イット・オン」て曲は、なんてェか、曰く言い難い不思議な歌詞なんですね。

―――――

普通に聞いてると、わけがわかんねぇ。

―――――

セックスの暗示だとか、ヤク中の状態を歌っているとか、諸説あるようですが…

―――――

この曲の作者、つまりT-レックスのリーダー、マーク・ボランが書く曲には、「ヘンなの」が多いんです。

―――――

「メタル・グルー」なんて、何を言ってるのか、さっぱりだし、「ライド・ア・ホワイトスワン」なんて、唐突に「白鳥に乗るよ」なんぞと歌われても…

―――――

おおい! わけがわかんねぇぞぉ

―――――

って感じ。

―――――

ほんと、麻薬でラリってるときにでも、書いたんか?

―――――

で、

―――――

「ゲット・イット・オン」を渡されたパーマーが、まさに「なんだ、こりゃ?」と思った、てンですね。

―――――

「一種のおフザケ・ソングだと思って、歌うことにしたよ」

―――――

「そう割り切った」

―――――

と語る彼のインタビューが、残っちゃってるんですが…

―――――

この映画を見て、久しぶりに、パーマーのこの答え方を思い出したわけなんです。

―――――

「鴨川ホルモー」

―――――

舞台はいにしえよりの都、京都。

―――――

始まりは、葵祭りの場面から。

二浪してやっと京大に入った安倍くん(山田孝之)がいます。

彼は帰国子女の高村くん(濱田岳)と共に、優しそうな先輩(荒川良々)からサークルの勧誘を受けます。

―――――

新歓コンパに行ってみると、大木凡人そっくりの女子(栗山千明)や双子の兄弟(斉藤慶太、斉藤祥太)、一発合格で入学したエラそうなやつ(石田卓也)など、新入生みな個性派ぞろい。

―――――

分けても美しい鼻の女の子(芦名星)に一目惚れした安倍くんは、すんなり入会を決めますが…

―――――

このサークルの活動は…

―――――

千年続くアヤシい神事、「ホルモー」を取り仕切ることだったのです…

―――――

えーと…

―――――

な、なんだ、こりゃ!

―――――

わけ、わっかんねぇっ!

―――――

そう。
わかんなくて、いいのです。

―――――

そう思わせるように、作られている。

―――――

謎かけの映画ではないんですが、僕の癖で、つい

―――――

「ホルモー」とは、つまり、なんだ?!

―――――

「ゲロンチョリ」って、要するに、なんのことだ?!

―――――

と、読みたがる。

―――――

夜な夜な、安倍くんたちは、集まって、何を「レナウン踊り」をしてるんだ?!

―――――

謎を解く手がかりが、この映画というひとつの「作品」以外、何もないなら、僕も、

―――――

「わかんないけど、どーいうものか、楽しい映画で」

―――――

と、終わらせたと思うんですが、へへ(おー!、ほんとかぁ?!)。

―――――

ひとつ、困ったことに――そう、まことにもって、困ったことに――、主演の山田孝之さんが、

―――――

「なんにも残らない映画でーす」

―――――

と、会見の席で、答えちゃっているんだな。

―――――

ふーむ…

―――――

聞き捨てならない。

―――――

果たして、その言葉を、額面通り受けとめて、いいのだろうか…

―――――

残念ながら、「現在」という世界を生きる僕たちは、山田さんの「軽いひとこと」を軽く聞き流すことが出来るほど――つまり、あの、ロバート・パーマーのように――大人ではありません。

―――――

早い話しが、

―――――

「ヘタな解釈をして、この映画の“純粋芸術”なところを汚さないでくれ」

―――――

「よけいな屁理屈をこねずに、この映画のナンセンスぶりを楽しんでくれ」

―――――

…と、言われたように、僕には聞こえたんですね。

―――――

「どんな意味も、くみ取れないように作る」

―――――

というのは、芸術の、ひとつの理想です。

―――――

「追いかけても追いかけても、手の届かないもの」

―――――

というのが、どんな読み解き方でも捉えどころなく「自由」で、日頃、作法(「ルール」と言ってもいい)に取り巻かれている「人間」を根底から解体し、「自分自身」の不自由さからも脱出させる、

―――――

そういう「光」を見せてくれるから、ですね。

―――――

そのようなノンセンスな表現の前で、「人間」という「存在」は、「ニンゲン」という浮わついた「形容詞」に姿を変え、さらには「ヒト」という単純な「ことば」に還元され、そうして、

―――――

ついには「なんだかわからないもの」へと昇華して空へと昇り、もはや、いかなるうっとうしい言語の指示も受けずに、気楽に、かき消えていくのです…

―――――

ただし、

―――――

理想というのは、「理想郷」というのが、「どこにもない」のと同じように、企んで作ることが、ほとんど不可能と言えるほど、遠く彼方に在るものです。

(こんなふうに解説するそばから、「理想」は、ぐんぐん離れていきます。

「論評」というものが、「自由」というものを壊さずに語る、というのは、実はとても至難の技です。

僕の知っている範囲では、そんなことの出来た人は数人しか、いません。

いずれも、「自由」の発明圏であるヨーロッパの人たちです)

―――――

で、

―――――

この、万城目学さんの輝かしいデビュー作を映画化した「鴨川ホルモー」は、「どんな方法でも捕まえられない、捉えどころのない“自由”」をかたちに出来ているだろか?

―――――

そんな…

―――――

素手でうなぎを捕るような、はなれわざを…

―――――

(この「はなれわざ」。「やってやれないことはない」というのが、ミソでしょう)

―――――

考えますに、媒体が小説である場合には、ひとりのひとが、アタマの中で構成していくものですから、基本的には、他者の干渉を受けませんので、綴られるノンセンスは、自在であることでありましょう。

―――――

ですが、

―――――

映画の場合は、簡単じゃない。

―――――

大勢の人が参加する協同作業でありますから、完成までの目標というか、大前提として「作品を成立させるテーマ」について、みなの合意が必要じゃないでしょか。

―――――

それでもなお、映画「鴨川ホルモー」は、理屈っぽくなく出来たのか?

―――――

肝心のその点について、僕の意見は、差し控えさせていただくとして、

―――――

昔からの映画ファンの方には、ですね、

―――――

「キャッチ22」とか

―――――

「まぼろしの市街戦」とか、

―――――

思い出しながら観ると、より楽しいですよ、と申し上げたい。

―――――

どちらの作品も、笑われる対象としての背景に、「戦争」があり、

―――――

一方、こなた、「ホルモー」の土台には、かつてのオウム真理教をも連想させる「傍若無人な宗教」への目線がある。

―――――

これは、偶然ではありません。

―――――

おそろしいもの、ブキミなものに接するとき、

―――――

ひとは、最後には、ノンセンスを探したりするんです。

(「ホルモー」に出てくる小鬼たちが、とってもかわいい。ご注目ください)

―――――

Jack

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文化について、ネ…/「デュプリシティ -スパイは、スパイに嘘をつく-」

「ルパン三世」、読んだこと、ありますか?

―――――

アニメじゃなくて、原作のルパン。

―――――

言いたいのは、峰不二子について、なんですが…

―――――

今でこそ、「峰不二子」と言うだけで、どんな女かピン!と来る、と思いますけど――セクシーかつキュートな「女豹」――銃器やクルマの知識が抜群――あるときはクールに、あるときはとびきり可愛く、ベッドタイムも最高のオンナ――しかして、神出鬼没、ルパンを上回る知恵者で、たびたび彼を裏切るが、なぜか、いつでも許されちゃう!――と。

―――――

このようなイメージは、最初から在ったものではないんです。

―――――

ヒントになったのは、カトリーヌ・アルレーやイアン・フレミングの世界かもしれません。

―――――

モンキー・パンチさんは、どうやって、あんな女性像を作ったか。

―――――

名前も初期の作品では「峰不二子」に固定してないし、どんなキャラクターなのか、徐々に造られていった、――試行錯誤があったんです。

―――――

で、

―――――

すぐお分かりの通り、彼女が代表するのは、ひとつの「オトコの抱く理想像」というものであり、

―――――

例えばジャニーズの――もっと言うと、宝塚・男役の――看板アイドルの方々が「ムスメの憧れる“オトコという理想像”」を精一杯努力して演じる姿と、対極をなしています。

―――――

この理想像というやつは、どちらも、現実の間尺に合わせてみれば、無理のある姿であり、

―――――

きょうは、この「現実の間尺に合わない理想像」というものを必要とする――おおげさに言うなら――「文化」についてのお話しです。

―――――

「デュプリシティ -スパイは、スパイに嘘をつく-」

―――――

始まりは、ドバイのアメリカ大使館。

ローマ、ニューヨークと、舞台は、次々変わります。

元・英国情報部MI6の男(クライブ・オーウェン)と、元CIAの女(ジュリア・ロバーツ)。

トイレタリー用品の業界を巡る、熾烈な企業スパイの攻防戦。

(この設定からして、やんわりとユーモラス)

―――――

互いに相手を探り合う業界の大会社、B&Rとエクイクロム。

(双方のCEOを演じる二人がクセモノです。
かたや「フル・モンティ」や「フィクサー」のトム・ウィルキンソン。
もう一方は、この手の映画には「またしても」のポール・ジアマッティ。
ンとに、警察の密告屋から、お医者さんからギャングの親玉から、なんでも演っちゃうんだから)

―――――

二人の元スパイは、大企業同士の、新製品を巡る争奪戦に、どう絡む?

二転三転するストーリーの、結末は?

―――――

って、さて。

―――――

これに主演してるジュリア・ロバーツが、まさに、峰不二子チャンのような役なんですね。

―――――

僕は、日頃から

―――――

「無理のない男でありたい」

―――――

と思ってますので、今回も、不二子チャンに代表される、「オトコの抱く理想像」のほうを語りましょう。

オトコのことでないと、分かんないから。

―――――

始めからネタを割ってしまいますが、峰不二子のような女がなぜ理想になるか、と言いますと、

―――――

「あとくされ」

―――――

が無いから、ですね。

―――――

ちょっと考えれば気が付きますが、恋愛はゲームではないし、誰しも、ときに冷静ではいられないし、アタマに来てケンカしたりもするし、

―――――

しちめんどくさいことが、いろいろ、ございますでしょう?

―――――

たくさんの我慢をしなきゃならないし、――つまり、それまでの「自由」気ままな自分ではいられないし――我を見失って、かっこ悪く、無様な姿をさらけだし、

―――――

ときに、泣いたりなんかもしちゃうでしょう。

―――――

左様。
それが、自然というものです。

―――――

で、

―――――

「自然」を超克しようとして産まれてくるのが、

―――――

「文化」

―――――

というものでございます。

―――――

だまし、だまされ、裏切られ…

―――――

それでも、くっつく、手練れな二人

―――――

というのが、「大人の文化」というものです。

―――――

ん?

―――――

はて?

―――――

いや、今回は、どーも、脈絡がヘンだなぁ…

―――――

言ってるそばから疑問符しますが、いまのひとこと、正しいですか?

―――――

「大人」の「文化」ね。

―――――

少年少女の世界では、裏切ったら「絶交!」ということになる。

―――――

そうして、「赤い糸」を信じるか、なんていう話しをしたりするわけですが、

―――――

これは、「真実」を求める態度です。

―――――

一方、裏切りも、織り込み済み、なのが、つまりは「文化」でありまして(石田純一って、偉大だなぁ)、

―――――

うーむ…

―――――

こう、たどっていくと

―――――

「文化」というのを欲している「大人」というのは、どういう存在だということになるのでしょうか。

―――――

大の大人が、恋愛でゲームに興じ、相手を出し抜き、

―――――

「やったぁ! 一杯喰わしてやったぁ」

―――――

だなんて、オトナ気ない、と、

―――――

思いません?

―――――

「大人の」文化なはずなのに、喜び方が子どもじゃん。

―――――

この奇妙な「価値の転倒」は、最初に「あるがままの自然」を、「文化」をもって乗り越えようとした態度に起因しています。

―――――

男を手玉にとる女。

―――――

その女の、さらに裏をかく男。

―――――

これは、ゲームというより、「ごっこ」とでもいうべきものです。

―――――

「してやられたぁ!、あの女、まんまと俺を、出し抜いてズラかりやがった!…」

―――――

「アラ、やられたワ…今度は一本、取られたわネ」

―――――

なぁんて、

―――――

子どもっぽいじゃないですか。

―――――

人間は、年をとる。

―――――

年を重ねるに従って、からだにも心にも「年輪」が現れるのを、「自然なこと」として、受け入れる。

―――――

いや、

―――――

そう簡単じゃありません。

―――――

そのような成り行き任せを克服しようとして――つまり、ちょっとややこしい言い方をしますと、肉体の不幸と快楽を知ったそのあとにも関わらず、「童子のようなハシャギ方」を回復したくて――編み出され、考え抜かれ、開発されてきたものが、

―――――

峰不二子を生み出したような「文化」である、と思うのです。

―――――

で、

―――――

「文化」と言ったわけですから、これは、個人の趣味、嗜好を越えて、それなりの「拡がり」を持っていなくちゃなりません。

―――――

今回は、このトニー・ギルロイ脚本・監督作品に

―――――

我が日本の「ルパン」と、一脈以上に通じ合うものを見たわけで、

―――――

だから「文化」と言いました。

―――――

「文化」を欲するオトコというのは、洋を問わずに居るんだな。

―――――

ところで、

―――――

終わりに、ちょっと付け足します。

―――――

「羊たちの沈黙」という映画を、思い出してくんなまし。

―――――

あの映画の中で、互いを必要としながら、「信頼」などではない全く別の、歪んだ関係で結ばれた男女の姿が描かれましたが、

―――――

あれは、ここまで述べてきたような「文化」にとって、

―――――

通俗的なフェミニズムなどより、はるかに痛打であった、と思います。

―――――

「羊たちの沈黙」を通過したあとの社会に在って、「オトコの文化」は、まだ可能か?

―――――

はい、それは、劇場で確かめておくんなさい。

―――――

Jack

―――――

(あ。あともうひとつ。

打ち壊され、粉々に瓦解したように見えて、しぶとく再生してくるものを、「文化」と呼ぶべきなのでしょう。

この「デュプリシティ」と「羊たちの沈黙」を、ブリッジのようにつなぐ存在として、アン・リー監督の「ラスト、コーション」という「肉体そのもの」がモチーフの恋愛映画を思い出すと、3つの作品を通して、「ある流れ」が浮かんでくる、と思います。

―――――

ひとつは、通じ合うことを、大幅に制限されている男女。
最もエロティックで、痛々しい関係ですね。

ひとつは、純然たる肉の交わりが心をも犯し、侵犯されていく男女。

そして、これです。
この映画です。

―――――

大人の男女のラブ・ゲームは、再び遊戯として、文化として、復権することになるのだろーか。

SF的奇想や(「ハンコック」)、アニメチックなおとぎ話(「魔法にかけられて」)の如き変則手法に頼らずに「男と女」の遊びごとに正面から取り組んだトニー・ギルロイという人は、なかなかの目利きであるには違いない。

はい、おしまい)

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なぜこの者は、関係ない話しをしょっちゅう書くのか?/「本当のことが知りたいだけ」の人のために

「なぜ、映画に関係ないことを、追加して書くんだ?」

―――――

という、実に素朴な質問を受けました。

(あまりにシンプルな問いかけなので、この問いに添えて、誰かに祈りを捧げるべきだろうか? と、思ったほどです。ハレルヤ)

―――――

質問者曰く、「映画に関する話し」以外は「どうでもいい」のに、お前は関係ない話しばかり書いている…と。

―――――

いや、それは誤解というものである。

―――――

「追加して」出てきた話しを書いているわけでもなければ、「関係ない話し」をしているわけでもない、と

―――――

言おうとして、

―――――

待てよ、と

―――――

思い直しました。

―――――

これは、そんな簡単な返答で言い尽くせるほど、「簡単な質問」ではないな…。

―――――

映画について語る、とは、いや、およそ、「何かについて語る」とは、

―――――

その「語っている対象」を見つめる視線によって、「変形」させてしまうことである。

―――――

僕が、一見、関係ないように見える話しをよくするのは、

―――――

この一文が、あなたにとっての他者からのメッセージなのだ、 ―― 他者が加えた「変形」を、あなたは見つめているのだ ―― ということを、厳格に示したいからかもしれません。

―――――

「語られたあと」で、その「語られた対象」を眺めるひとは、

―――――

僕が語ることによって(彼に言わせるなら)「付け加えた」色眼鏡を受け入れて、そのものを見つめるか、

―――――

さもなくば、新たに別の色眼鏡を拾ってくるか、選ばなきゃならない。

―――――

僕の話しを聞かずに無視したつもりでも、同じことです。

―――――

インターネットを利用する、とは「他人の手」を借りてものを見ること。

―――――

インターネットの海の中で、あなたは「別の変形」に出会い、それに触れて、

―――――

「こっちのほうが、さわり心地がいい」

―――――

という理由で、もはや元のままではない変形された対象を見ているのです。

―――――

YouTubeを閲覧するときでも、変わりません。

―――――

ネットを捜す。
ネットの中に耳を傾ける、目を向けるとは、そういうこと。

―――――

ひとの手を介して物事を見聞きする、とは、そういうことです。

―――――

これは、なんの話しなんでしょう?

―――――

「変形された対象を見る」?

―――――

そのとき、何が起こっているんでしょう?

―――――

見る側の立場でなく、見せる側、読ませる側の立場から言いましょう。

―――――

「語り」の中で、僕たちは、自ら「語っているつもりの、その対象」を抜け出して、

―――――

「語っている己れは何者なのか」

―――――

「“どういう世界”の中で、それは“対象”として扱われているのか」

―――――

を示すことしか、していない。

―――――

当然のことですが、それを見るあなたは、そのもの自身に、じかに触れているわけではないのです。

―――――

映画ほど、このことを、思い知らせてくれる対象は、ないでしょう。

―――――

そうして、映画ほど、「対象を変形させる視線を持つこと」が、「愉悦」や「快楽」として成り立つものも、ちょっと思い当たりません。

―――――

僕らは、一個のドーナツについて、それが、如何にほどよい甘さを持ち、

―――――

クリスピー感に溢れ、

―――――

筆舌に尽くし難いほど美味であるのか、語ることが出来るでしょう。

―――――

しかし、

―――――

どんな言葉も、実際にそっと指でつまんで、ふんわりと口に入れたドーナツの、

―――――

その「おいしさそのもの」に対しては、

―――――

あまりに無力であるはずです。

―――――

ドーナツは、食べられる。

―――――

映画は、もちろん、食べられない。

―――――

漫画の本は、「手に取って」読める。

―――――

映画は、もちろん、手に取れない。

―――――

「可視的なものと言表可能なものとのあいだには、ある裂け目、ある分離がある」
(ドゥルーズ「フーコー」宇野邦一 訳:河出文庫)

―――――

「映画」

―――――

とは、なんでしょう?

―――――

それは、端的に言って、暗闇の中の光です。

―――――

闇の中で過ごす、時間です。

―――――

劇場の支配人にとっての映画とは、フィルムという「実体」であるはずですが、

―――――

劇場に入る観客である僕らにとっては、ただ、光のうつろいゆく、過ぎ行く時間でしかないのです。

―――――

光の画面に視線を向ける僕たちは、感情移入したり、考え込んだり、ときに反発したりを繰り返しながら、(映画館で買うパンフレットやグッズ以外)何も手にせずに劇場を出るしかありません。

―――――

「面白かった?」

―――――

と、誰かが聞く。

―――――

「面白かったよ」

―――――

と、あなたは言うが、それだけでは済まない。

―――――

如何に面白かったのか、

―――――

如何に自分はコウフンし、

―――――

如何に自分は、楽しんだのか、

―――――

伝えずには収まらない。

―――――

あなた自身以外、そこには、映画の素晴らしさを伝えるどんな実体もないからです。

―――――

あなたは、映画という「光の時間の記憶」を頼りに、

―――――

己れは何処の何者なのか、

―――――

どんな世界に住んでいる(と思っている)のかを、語りだす。

―――――

なに?

―――――

そういう欲求を、お持ちでない?

―――――

あなたのために、泣きましょう。

―――――

手に入らぬ実体への渇望が、ひとをして、語らせる。

―――――

試されているのは、

―――――

あなたが

―――――

「生きているかどうなのか」

―――――

であるのです。

―――――

(って、ホントかよ?!)

―――――

(僕たちは、ときどき、生きてることを忘れます。

忘れないため、思い出すために、これを書き置いておきましょう。

あなた自身と僕自身、それぞれのために)

―――――

Jack

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