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2009年4月

Power to the PEOPLE!!!/「スラムドッグ$ミリオネア」

武田百合子さんのソ連旅行記「犬が星見た」(中公文庫)の中に、日本人の「顔つき」についての、印象的な描写があります。

―――――

遠くからこちらへ歩いてくる日本人を見ていると…

―――――

顔がみぃんな「米」印だ、

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というんですね。

―――――

外国の人は、歩きざま、他人と目が合うと、自然に社交的にほほえんだりする。

―――――

そうでなくとも、穏やかな顔して歩いてる。

―――――

ところが、

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日本人ときたら、遠くからでも分かるくらい、顔の中心部に向かって、こう、くしゃーっと(わかりますよね?)…

―――――

苦虫噛み潰したような、仏頂面で、不機嫌そうに、せかせかと歩いてる、と、

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それを「米」印だとおっしゃった。

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もちろん、まだ、顔文字なんて、無い時代の本ですよ。

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なんと、感性の豊かな表現をする人なんだ…、と思いました。

(高度成長期の日本人は、そういう顔をしてたんですね。いま、どうだろう)

―――――

武田さんは、その感性で外国を新鮮な目で見て歩き、ひるがえって、日本を活写されたわけです。

―――――

で、

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こういう、「ものすごく連想力豊かな旅行者の視点」と同じような目線で描いたのが、この映画ではないだろか。

―――――

「スラムドッグ$ミリオネア」

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インド。

混沌と、むせるような「人いきれ」の覆う国。

始まりは警察署。

捕まった主人公ジャマール(デーヴ・パテル)が、尋問を受けています。

理由は、彼が出演した視聴者参加クイズ番組、「クイズ$ミリオネア」で、不正をはたらいて答えた容疑。

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貧民街出身の無学なジャマール。

―――――

彼は、なぜ、次々と問題に答えられるのか?

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警官の執拗な尋問に、彼はこれまでのいきさつを語りだす。

兄サリム(マドゥル・ミッタル)と過ごした少年時代…

想いを寄せる娘、ラティカ(フリーダ・ピント)のこと。

果たしてジャマールは、本当に不正をはたらいたのか?

賞金は、どうなる?

ラティカとの、恋の行方は?…

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いやぁ!

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圧巻です!

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カメラと編集が、とにかく圧巻。

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この映画を観るまで、僕は、「ムンバイ」という街があることすら、知らなかった。

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ムンバイの窮屈な街路を埋めつくす、人、人、人…

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それだけでもう、この都市、この国の「エネルギー」が、伝わってくる。

―――――

…ですが、その「ハッとさせる驚き」というのは、

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この街に初めてやってきた「余所者」の観点だと思うんです。

―――――

ダニー・ボイル監督は、自分が「インドの中の異邦人」である、という弱点を最大限、逆手に取って、

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ゆさゆさと、爆発するような、人々の生活臭漂うムンバイやボンベイの、血肉溢れる躍動感を撮っている。

―――――

撮り手が、コキチャナイ子どもらや、それを搾取しながらしたたかに生きるスラムの大人たちの姿に、いちいち、わくわくしたり、ドキドキしたり、興奮しながらカメラを回していたらしいのが、分かります。

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その感激は、異邦人だからこそ味わえて、撮影できた感激ではないでしょか。

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まったく未知の土地へ「旅行者」として訪れて、当然のことながら勝手が分からないので、右往左往する羽目になり、しかし、

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その過程で、昔からその場所に馴染んでいる地元民たちが気にも留めないような何かの対象に気付き、ハッとしたり、ドキッとしたり、

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そのたびごとに、鋭い観察眼を発揮して、ひとを感心させるような記述を残していく…

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そんな旅行記が、あるでしょう?

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椎名誠さんや星野道夫さんの文章に、そんなところがあるじゃないすか。

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「ガンジス河でバタフライ」という、長澤まさみさん主演の(クドカン脚本の)、えれぇ面白ェドラマもあったし。

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そうして、まことに自然な流れとして、藤原新也さんの「メメント・モリ」(三五館)を連想します。

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この映画は、そういう、ちょーアタマが良くて鋭敏なセンスの、「観光客」の視点に仲間入りしてる、と言えるのではなかろうか。

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ひじょーに洗練された酒脱な都会的センスと、ものすごく猥雑な「庶民のエネルギー」の――なんと言うか――「幸せな結婚」を見る感じ。

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思えば、ボイル監督がスコットランドでチンピラたちを撮った「トレインスポッティング」も、どこか「エジンバラ」という街に対する、異邦人的視点の光る映画でありました。

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イギリス北西部のランカシャー州に生まれ、ケルト文化の根強いウェールズの大学に学んだ人、ならではの、「余所者」としての「街に対する面白がり」が、「トレインスポッティング」には、溢れていたように思います。

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こういう、「どこへ行っても、余所者の観点を持ち続ける」人を、

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本物の都会人

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と呼んでいいかもしんない。

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都市というのは、ある種、「あぶれ者」の集まる場所です。

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♪ ふるさとを離れ、

♪ 流れ流れて

♪ たどり着いたよ

♪ この街に

♪ 明日には

♪ ここに居るのか

♪ わからない

…てな感じです。

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近郊都市に定住してる者から言わせてもらうと、

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都会人てのは、どっか流れ者的な感性の、カタマリであります。

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今度の「スラムドッグ$ミリオネア」は、流れ者ダニー・ボイルがすべての観客に訴える――すべての観客がちょっとは持ってる「放浪者精神」に訴えかける――、ダイナミックな観光映画と見ましたです。

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最後のワンカットが、素晴らしく洒落てます。

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(あー、蛇足をひとつ。

僕もたいして博識じゃないですが、雑学クイズに詳しくない方のほうが、この作品のラスト20分を、より楽しめると思います。

僕はジャマールが「ファイナル・アンサー」って言う前に、「やったぁっっ!!」て、心の中で、叫んじゃったんだ。

そこだけ、惜しい!)

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(でも、すごく感心させられるものを見せていただきました)

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2009年度、アカデミー監督賞ほか、8冠に輝く。

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Jack

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特別寄稿2/「統合失調症にかかったかな」というときは

プロフィール・ページに書き込もうかと思いましたが、長過ぎるので、ここに記載しておきます。

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誰かの役に立つかもしれない。

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「統合失調症」という言い方は、2002年に、日本精神神経学会によって改められた呼び名です。

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それ以前は、「精神分裂病」と言っていました。

(詳しくは、「統合失調症」で、wikipedia を参照ください。そう、僕だって利用すんのよ)

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きちんとした理由があって改名されたのですが、体験から言うと、正直な話し、「分裂病」のほうが――この病気について無知な大多数のひとに与える恐怖感が強すぎる、という困ったデメリットがあるのですが、それでも――、「言い得て妙」ではないか、と思っています。

―――――

なにしろ、自分の「心の中」に、明らかに自分自身で制御できない他者の「声」が聞こえてきて、話しかけたり、ときには討論を持ちかけたり、勝手気ままに振る舞うのですから。

―――――

僕の場合、小泉純一郎総理(当時)やブッシュ大統領(これも当時)、ブラッド・ピット(ジェニファー・アニストンと結婚していた)などから話しかけられて、ほとほと困った。

―――――

ブッシュ氏は、混迷する国内外の情勢に対処しようとする余り、精神のバランスを崩しかけている、と相談を持ちかけ、ブラッド・ピットは、アメリカの強権的姿勢に「個人的には反対する」と言い、ジェニファーとの仲が破綻しかけている、と訴えた。

(どっちも、いかにも「有りそう」な話しでしょう? 不思議なことに、狂気といっても、事実を参考にしたりするんだな)

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「彼ら」は24時間お構いなしに、僕の精神の中に割り込んできて対話を求めました。

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こうした絵空事のような相手だけでなく、例えば、僕がご厄介になった警官が、ふと後ろを向いて――つまり、僕に背中を向けた拍子に――、突然、「心の声」で話しかけてきて、度肝を抜かれたこともある。

―――――

この辺りの事態については、2008/8/08 と 2008/7/02 記載の分をご覧ください。

―――――

こうした出来事が突然起きるなら、自分の正気を疑うこともあり得るでしょうが…

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インフルエンザが微熱から始まったりするように、

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統合失調症も、また、例えば

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「誰かが、ネット上で、自分の悪口を書いている…」

―――――

とか、

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「悪口だけでは飽き足りずに、誰か、自分のあとを、四六時中、付け回しているようだ…」

―――――

とか、

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そんな簡単な、被害妄想から始まったりするのです。

―――――

妄想が事実無根であることに、気付かないのか。

―――――

被害妄想が拡大すれば、

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「トイレの中を覗かれた」

―――――

とか

―――――

「風呂場に隠しカメラがあるらしい」

―――――

とか

―――――

「キッチンの物音を聞かれている」

―――――

など、
どんどん膨らむばかりです。

―――――

しかし、そうなっても、本人に「理性」はある。

(これが「精神分裂病」を言い改めることになった、ひとつの理由です)

―――――

理性的に判断して、あり得ないようなこと、例えば、

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興信所に頼んで、自分の部屋の盗聴器や隠しカメラをテッテ的に探してもらったけど――数万円から十数万円かかります――何も発見されなかった。
なのに…

―――――

自分のことを、くまなく知っている誰かが居るらしい…

―――――

ここに至って、ついに、あなたの精神は、

―――――

超能力の存在

―――――

に思い当たる。

―――――

まさか…

―――――

そんな馬鹿な…

―――――

理性的に考えて、あり得ない!

―――――

が、

―――――

ここでタイミングよく、「他者の声」が飛び込んできたりするんだなぁ。

―――――

僕の場合は、女の声だった。

―――――

「お願い! 信じてくれないと、私たちが、殺されちゃう!…」

―――――

幾世代も前から、超能力者は、存在した。

―――――

その人たちは、陰ながら世界の情勢に関与してる。しかし、

―――――

常人には、そのことは、絶対に極秘である。

―――――

しかし、僕は、自分自身としては透視もテレパシーも使えないのに、この巨大な秘密を知ってしまった…

―――――

今こそ、数世紀に渡る超能力者たちの秘密を公開すべき、とする勢力…

―――――

この混乱の時代に、守り抜いてきた「事実の秘匿」を、容赦ない手段で守ろうとする保守派たち…

―――――

僕は、地球規模の壮大な争いごとに、巻き込まれていくことになる…

―――――

「彼女」は、そんな僕に対して、両派が立てた連絡役だったのですが…

―――――

僕の強すぎる精神に何度もコンタクトを繰り返したため、

―――――

なんと彼女が――僕の中で――発狂してしまいます。

―――――

壊れたスピーカーのように、頭の中で鳴りやまぬ女の絶叫。

―――――

アメリカは、危険分子(僕のこと)を抹殺するため、艦隊を派遣する。

―――――

ただちに「害意はない」というメッセージをこちらに送れ。
さもないと、そこを核で攻撃する。

―――――

しかし、お前にも超能力が使えると分かれば、これも危険なので、やはり攻撃する。

―――――

さぁ!
どうする!

―――――

…と、ざっとこんなのが、僕の症状の、ほんの一部でありました。

(ね? 「24」や「ダイハード4.0」なんて、子どもじみてて、見ちゃらンないしょ?)

―――――

で、

―――――

今回、お伝えしたいのは、そうゆうことではないんです。

―――――

どんどん拡大する被害妄想は、本人が妄想と気付かないので、周囲の人間が、無理にでも引っ張って、医者へ連れていくしかない。

―――――

精神科、もしくは神経科を受診するのが、良いでしょう。

―――――

本人だけを受診させるのでなく――理性があるんですから、本人の弁だけでは、単なる重度の被害妄想と、統合失調症との区別がつかないこともある――いちばん身近で見ている人間の「観察眼」も必要だったりするんです。

―――――

特に初診のときは、注意深く、気付いたことを細大漏らさず、医師に報告してみましょう。

―――――

さもないと、僕のように、あちこち飛び回った挙げ句、結局は、隔離入院ということになりかねない。

―――――

治療には、抗精神薬が使われます。

―――――

が、

―――――

この抗精神薬の使い方が、病院によって、まちまちなんです。

―――――

僕の場合、トータルで3つの病院を受診しました。

―――――

そのうち2つは、警察が関わってます。

(あー、たいした話しじゃありませんが、わたくし、逮捕歴もあるんです。放浪してる最中に、無銭飲食しちゃってね。不起訴・放免になりましたけど)

―――――

そうそう、
抗精神薬の話しでした。

―――――

抗精神薬には、現在、「定型抗精神薬」と「非定型抗精神薬」があります。

―――――

そもそも抗精神薬とは、脳内の神経伝達物質ドーパミンなどの分泌量を調整するためのものですが、

―――――

調整の度が強すぎて、体に激しい副作用が現れる場合があるのです。

―――――

「神経に作用する」ということは、

―――――

「運動神経にも作用する」ということだったりします。

―――――

僕の場合、最初に使用された薬「ロドピン」が強すぎて、覚醒はしたのですが、代償として、

―――――

立つことも座ることも、ままならなくなりました。

―――――

手が震えて、字も書けなくなった。

―――――

次に、退院後、最初にかかっていた病院で――僕の主治医は、ロドピンの使用に驚きました。「こんなに強い薬を使うなんて!」――「リスパダール」という薬と、念のため「副作用止め」の薬を処方されましたが、これも体に影響が出てしまいました。

―――――

手足の震えが止まらない。

―――――

最終的に「ジプレキサ」という非定型抗精神薬を処方され、やっと(徐々に)正気を取り戻すと共に、体の不調も、なくなりました。

―――――

大事なことは、ですね、

―――――

抗精神薬というのは、たくさんの種類があるので、使ってみて、体に変調をきたすようなら、ただちに医師に訴えて、別の薬に換えてもらうべきだ、ということ。

―――――

最新治療では、薬は一種類に限るのが常道ですが――多種類使うと、どの薬が効果があったか、分からなくなってしまうので、

―――――

しかし、病院によっては、複数の薬で、ひたすら精神の異常を抑え込むだけ、というところもあります。

―――――

また、定型抗精神薬よりは、非定型抗精神薬のほうが新しく、副作用が少ないと言われていますが、効果がどのように現れるかは、ひとの「体質」によるところも大きいのです。

(体とは、「個性」そのものなんですよ)

―――――

ロドピンもリスパダールも、ジプレキサと同じく、非定型抗精神薬です。

―――――

しかし、反応には、大きな違いがある場合があるのです。

―――――

また、リスパダールは、比較的最近になって開発された、評判のいい薬ですが、僕の場合には、合わなかった。

―――――

入院した体験から言うと、薬物治療だけでは治らない場合もあるようです。

―――――

が、

―――――

繰り返しますが、様々な薬と、いろんな病院がありますので、身近に「もしや、精神に問題があるのでは…」という人がいたら、精神科か神経科を受診し、薬のせいと思われる体調変化などが本人に生じたら、病院を変え、今までの受診内容を詳しく医師に伝え、薬を換えられるか相談なさることを、お薦めします。

―――――

統合失調症は、一度かかると、付き合いの長くなる病気です。

―――――

僕の場合、現在は、ほぼ、健常者と変わらぬ生活を送っていますが、主治医からは、

―――――

「薬の服用をやめると、症状が復活する怖れが大きい」

―――――

と、言われています。

―――――

ところで、

―――――

しょぉーじきな話ですが、

―――――

若干、「浮かれていた」頃を、懐かしむ気持ちもないわけでもないんだよな…ふふ…

―――――

世の統合失調症患者に対する誤解を、助長してはいけませんが、

―――――

なにしろ、真っ暗な公園で、木に話しかけられたりするんですからね…

―――――

24時間、声に悩まされ、何日も、一睡も出来ないという肉体的な辛さを除けば、有り体に言って、

―――――

おもろいことだらけの経験でありました。

―――――

願わくば、あなたとあなたの大事なひとが、こんなおもろい事態に巻き込まれたりなさらぬよう。

―――――

(いや、まじめにね)

―――――

Jack

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プロフィール公開しました。

そゆこと。

―――――

Jack

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特別寄稿/草なぎくん釈放を受けて

もう話題にしていい、と思ったので、草なぎくんの起こした騒動につきまして。

―――――

このあと、なにやら、関係ない話しが続く、と思われるかもしれませんが、ひとつ、お付き合いくださぁせ。

―――――

「単純明快な物言いの中に、“表現”のひとことではくくりきれない“創作の醍醐味”が現れる」

―――――

「創作物は、断片にされ、“部分”という細切れにされたとき、“作者の伝えたかったメッセージ”という狭い枠を離れて、メディア(媒体)として、輝きだす」

―――――

今年の年頭、2009/1/01 に、おおむね、そういう意味のことを書きました。

―――――

これについて、「言い足りないな」と感じてましたが、いま、急に――草なぎくんの釈放に絡めて――書くべき内容を思い付きましたので、補足したいと思ったわけス。

―――――

さっそく、行きましょう。

―――――

冒頭挙げた2つの内容。

―――――

これらに対して、すぐ問題となってくるのは

―――――

「オーサーシップ」、

―――――

つまりは、

―――――

原作者としての自己同一性は、どうなるのか?

―――――

という問題です。

―――――

「自己同一性」については、いろいろと解説のしようがあるでしょうが、今、この話題に関しては、

―――――

要するに、

―――――

「自分の作ったものを通じて得られる、“己れは何者であるのか”についての確信」のことである、と書きましょう。

―――――

ひとは、確信なしには、生きていけない。

―――――

確信を失うことは、心の安定を喪失する、ということであり、

―――――

喪失したひとは、下手をすると、自死を選んでも、不思議じゃない。

―――――

内田樹さんによると、ロラン・バルトが40年ほど前に『作者の死』を宣言して以来、日本の大学では、「オーサーシップ」などというものは存在しない、と教えるのが、定番になっているそうです。

―――――

しかし、著述家としての内田さんも認める通り、内田さんを含めた「作者」たちは、いま現在も、著作権の存在を認め、原稿料を受け取っている。

(バルトも、きっと、受け取っていた)

―――――

内田さんは、「オーサーシップの死」の典型例として、パソコンOSの世界の、リナックスを例に挙げる。

―――――

リーナス・トーバルズは、自分で生み出したソフトウェアで莫大な利益を得る代わりに、そのソフトウェアのソースコードを無償公開してしまった。

―――――

世界中の利用者が、自由に、自分に合わせて改作したりできるように。

―――――

やがて、トーバルズの意図に共鳴する人々が、ひとつの「場」を構成するようになり、みんなが「みんなが使いやすいもの」を作ろうとする、そこは「共有理念」の舞台となる。

―――――

これをもって、『作者の死』と呼べるのか。

―――――

僕は、違うと思っています。

―――――

第一に、「公開してしまえ」というのは、明らかに、トーバルズそのひとの「個性」のもたらした結果です。

―――――

自己同一性は、死んではいないのです。

―――――

第二に、このやり方では、誰かが「最終的な改作者は自分だから、著作権は自分にある」と主張したとき、どう対処できるのでしょうか。

―――――

ルール破りをして「独り勝ち」しようとする者を、止める手立てがありません。

―――――

従いまして、そのような場においては、誰もが、在るのか無いのかハッキリしないルールについて、それに抵触しないよう、

―――――

首をすくめて、きゅうきゅうとしていなければならないでしょう。

―――――

一見「自由」に見える場は、実は、「存在しない“何者か”から無言の圧力をかけられて、暗黙のルールが出来ている場」でもある。

―――――

こんなものは、到底、「表現からの解放」などと呼べた代物では、ありません。

―――――

これは、早い話しが、

―――――

「誰かが言い出したわけでもないのに、誰にも有無を言わせずに決まってしまった“抑圧”の場」

―――――

です。

―――――

そんな自由は、犬にでも喰わせてしまえばいいのです。

(手近に、いい犬は、いますか?)

―――――

第三に――これこそ、最も最悪な点ですが――リナックスが何かの理由で「暴走」などした場合、誰に頼ればいいのですか?

―――――

なに?
必ず親切なボランティアが居るはずだ?

―――――

素晴らしい。

―――――

その要領で、早いとこ温室効果ガスの問題も解決してください。

―――――

「放っておいても、解決案は出てくる」

―――――

そう思いますか?
本当に?

―――――

かつて、こんなことを書いたひとがいる。

―――――

車の通りの多い横断歩道がある。

―――――

渡れずに困っているお婆さんがいる。

―――――

みんな、見ないふりはやめて、手を引いてあげようよ。

―――――

だが、それは違う、と、そのひとは書いた。

―――――

必要なのは、不確かなココロよりも、安全な信号機ではないのか、と。

―――――

その実現のためにこそ、必要な人材や資金の調達…

―――――

やることは、(自分でやりもしないで)手を引くことを勧めるより、ほかにあるはずだ。

―――――

こういう「素直な発言」が出てこなくなったとき、

―――――

その共同体は「病んでいる」と、言っていい。

―――――

姿を見せない誰かが、言っています。

―――――

「きっと、善意が“まとめてくれる”さ」

―――――

「正体不明の何者か」が「声なき者たちのきゅうきゅうとする、暗黙のルールの支配する場」に向けて、何を発信しようというのだろうか。

―――――

僕の言った「脱・作品化」とは、

―――――

ひねくりまわして、自己同一性の怪しくなったあなたから、余分な考えを取り去って、「はだかの自分」を露にする発想のことなのです。

―――――

草なぎくんは、「暗黙の善意」がルール化されてしまったような首都の中で、「埋もれまい」として、もがいたのではなかろうか。

―――――

彼を救うのは恐らく、

―――――

「『草なぎ剛』だからって、気にするな」

―――――

という「脱・作品化」の掛け声でしょう。

―――――

で、

―――――

この話し、『作者の死』と、つながってると思います?

―――――

Jack

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甘く危険な香り/「レッドクリフ Part II - 未来への最終決戦 -」

カネの匂いがする。

―――――

「レッドクリフ Part II - 未来への最終決戦 -」

―――――

実は、ですね、

―――――

パート2を見る前に、「予習」でもしようと思って、一度劇場で観たパート1を、DVD借りてきて、また観たんです。

―――――

ビデオ視聴というのは、観る者を、映画鑑賞時より、ぐっと冷静・客観的にする、という特徴がある。

―――――

テレビという機械は、優れてひとを、批評家にするメディアであります。

―――――

以前、パート1を劇場で見終えたあとで、

―――――

「現代中国は、なにか、目的があって、ハリウッドで活躍する中国人(香港育ちの)ジョン・ウーを呼び寄せたのか」

―――――

と、書きました。

―――――

そのへんのことについて、少しクリアになった気がするので、今回は、そのお話を中心に。

―――――

曹操(チャン・フォンイー)率いる水軍80万が、赤壁対岸に陣を築いて数日。

孫権(チャン・チェン)の妹・尚香(ヴィッキー・チャオ)は、男に変装して、曹操軍の内情を探るため、敵陣に潜入している。

一方、劉備(ユウ・ヨン)と孫権の呉・蜀同盟は、今後の戦い方を巡って、亀裂が生じる。

さらに呉・蜀軍では、戦闘のための弓矢が足りない。

次々と降りかかる難題。

どうする孔明(金城武)、どうする周ユ(トニー・レオン)。

決戦を前に、周ユの妻・小喬(リン・チーリン)の胸の内は?

―――――

いやぁ…、

―――――

とにっ、かく、

―――――

凄い!

―――――

物量と、それをまとめる演出力が、並大抵じゃない。

―――――

間違いなくジョン・ウーの個人的作品史にとっては、代表作になるでしょう。

―――――

が、

―――――

これ、中国国内での評判は、どうなんだ?

―――――

…と、言いたくなるのは、ですね、

―――――

全編中国語で綴られる、ということを除けば、アタマから尾っぽまで、これは、どう見ても「ハリウッド映画」なんですよ。

―――――

今や我が国は、ハリウッドの映画作法ですら、カネで買える「身分」になった!

―――――

と、喜んでいるこの映画の制作者たちの顔が、見えるようです。

―――――

そう。

―――――

もはや、はっきりしましたですね。

―――――

なぜ、いま、三國志という題材を、ウー監督を呼んできてまで映画化したか、と言いますと、

―――――

唸るほどのカネを使って、世界最高に派手な作品を仕立ててみたかったんだけど、いかんせん、

―――――

儲け方は知ったけど、使い方が分からない…

―――――

てんで、ウーに三國志を撮らせたんです。

―――――

「ちゃんと、カネを使ってみたい!」

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そういう憧れが、中国にあるのだ、と見ます。

―――――

しかし、その憧れを、ただ実現させるためだけに、これ以上ないくらい派手な映画を作ったり、史上最大と言われるようなオリンピックをやったりするのは、

―――――

ちょっと、「危険」なんじゃあるまいか?

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上海モーターショーが隆盛であるという。

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遠からず中国の自動車市場は、米国を抜いて、世界最大になるのだそうな。

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しかし、

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それは、ちょっと、急過ぎないか?

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日本の自動車産業は、敗戦後、ほぼゼロから始めて、トヨタ、ホンダ、日産などを育てました。

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東京モーターショーが、アジアの中心になるまでには、自国の産業を育成する、という、丁寧な紆余曲折があったのです。

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だが、中国製品のブランド力は、いま、育っている、と言えるだろうか?

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国内市場を、外国勢に食い物にされているだけじゃぁないのか?

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カネがうなっているうちは、それでも、いっこうに構わないと言えるでしょう。

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だが、それでは、真に国民が誇りとすることの出来る文化が育たないのではないか?

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中国映画第五世代と言われるチャン・イーモウやチェン・カイコーが優れた作品を発表してから、だいぶ経ちます。

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次に世界的に名を馳せる世代は、果たして育っているのだろうか?

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目をほかのアジアに移してみれば、

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おとなり韓国では、国家の手厚い保護のもと、多数の優れた映画人を輩出し、現在、韓国映画は、しっかりと国土に根付いた産業になっている。

―――――

一方、日本の今の映画ブームは、何年も前にインターネット興隆の時代を迎えて、民放テレビ局が危機感を持ち、多角経営に乗り出した結果です。

―――――

それが、何をもたらしたか、と言うと、若い二十歳前後の俳優たちに活躍の場を与え、

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それがまた、新しい映画を産む、という相乗効果をもたらしているのです。

―――――

では、中国では、どうなのか。

―――――

僕が発展著しい時代の日本の、一映画ファンだとしてみましょう。

―――――

文科省の肝いりで、カネに糸目を付けず、監督から主演俳優まで、外地で活躍するアジア人たちを集めて、超娯楽大作を作って外貨を稼いだ、と、

―――――

そう聞いて、「すごい、素晴らしい」の感想で、済むだろうか?

―――――

この「レッドクリフ」という映画の出来は、文句なしに素晴らしい!

―――――

しかし、それを作らせた「意図」と、それがもたらす「効果」のほうを、気にしないわけにはいかないでしょう。

―――――

三國志ばりに大きな目で見てしまえば、

―――――

よその国で既に確立された技術を持ってきて、箔をつけようとしてるだけなので、この作品は、中国映画の方向性を、ねじ曲げることにはなっても、国家的な文化を豊かにするほうには寄与しない、と言えるのではないでしょか。

―――――

たとえば「ブラック・レイン」という、日本を舞台にしたリドリー・スコットの映画が、アメリカでヒットしながら、日本映画の状況に対しては、なんら影響を及ぼさなかったのと同じく、

―――――

この映画は、ジョン・ウーにとっては、大きなメルクマールと言えるかもしれないが、

―――――

中国映画の状況に対する関与は、最小限のものとなるのではないだろか。

―――――

羨んでるのか?

―――――

うん。
ちょっと羨ましいな。

―――――

カネを使いたい、と思うとき、呼び寄せることのできる「自国系」が、外国に居て、期待通りに上手くカネを使ってくれる、というのが、なかなかに羨ましい。

―――――

日本で作られる大作映画と称するものは、「ローレライ」にせよ、「亡国のイージス」にせよ、ひどいもんでしたから。

―――――

それにしても、「国家」という考え方にこだわっていないように見えるのは、(今回は、けなしましたけど)、「インターナショナル」ということについての斬新な見方を提供している、

という観点からも語れるのかもしれません。

―――――

でも、「三國志」というテーマの選び方は、やっぱり国威発揚のつもりと映るし…

―――――

どっちなんだろう…

―――――

たとえばスピルバーグがユダヤ系だからと言って、イスラエルが彼を呼び寄せて映画を作るなんて、思いもよらないことです。

―――――

奇しくも、いま、テレビで、チャウ・シンチー(香港)の「少林サッカー」が放送されるのを知りました。

―――――

彼なんかは、中国政府の支援を受けたがったりするのかな?

―――――

Jack

―――――

(補足ですが、ユダヤ系とその現在については、内田樹さんの「私家版・ユダヤ文化論」という本(文春新書)が、たいへん示唆に富んでます)

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魅入る/「トワイライト -初恋-」

僕にとっての「十代」とは、怒りと苦しみと、誰にぶつけていいのか分からない哀しさと、ただ後悔だけがあとに残る、苦い時期でありました。

―――――

これらすべてに対する言い訳として、

―――――

「とにかく、一生懸命だったんだ」

―――――

と、言えば言えます。

―――――

あの時期に、いまの10分の1でも、わずかな分別があったなら…

―――――

そう振り返ることがある。

―――――

しかし、分別くさくなかったからこそ、ただ一度きりの十代を、自分がそのとき信じた通りに生きることができた、とも思うわけで。

―――――

青春は、かくも、複雑です。

―――――

「トワイライト -初恋-」です。

―――――

陽光降り注ぐアリゾナから、天気の悪いワシントン州の田舎町に越してきたイザベラ・スワン(クリスティン・スチュワート)。高校生。

引っ越しは、複雑な家庭環境のゆえでした。

―――――

雨と霧の似合うこの町の学校へ転入した日に、彼女は、クラスの変わり者のことを知る。

―――――

他人との接触を避ける少年、エドワード・カレン(ロバート・パティンソン)。

蒼白い顔の、美しい同級生。

―――――

始めから彼に興味を抱いたイザベラは、ある“事件”をきっかけに、ますますエドワードへの関心を募らせますが、彼のほうは、彼女を避けてばかりです。

実は、エドワードには、誰にも言えない、恐ろしい秘密が…

―――――

これは、分類しちゃうと、「ゴシック・ホラー」てことになる、のかな?

―――――

原作ステファニー・メイヤー、監督キャサリン・ハードウィック、脚本メリッサ・ローゼンバーグと、女性が中心になって進められた企画です。

―――――

なるほど、そこかしこに女性的な柔らかさを――あんまり、怖くないところも含めて――感じる。

―――――

それは置くとして、どうやらこの映画、日本では、ヒットと呼べる数字はあげていないようです。

アメリカでは、ブームにさえなったらしいのに。

―――――

こちらにおける不振を僕は、「宣伝」のせいではないか、と思ってました。

―――――

日本での配給元アスミックは、大きな会社ではないから、ド派手な宣伝に打って出るのは、しんどいのかもしんない。

―――――

なにより、公開前の、テレビとのタイアップが、なかった。

―――――

TVCMの量が少なかった(てか、知る限り無かった)し、情報番組などでの事前の特集も、あまり、見かけませんでした。

―――――

僕は思いましたね、

―――――

TVCMがないせいで、認知されていないんだろう、と。

―――――

が、

―――――

実際に本編を見て、考えが、変わりました。

―――――

これはぁ…

―――――

ふーむ…

―――――

日本人のメンタリティに訴えるところは、少ないかもな…

―――――

たとえ大宣伝をしていたとしても、結果は、同じだったかも…

―――――

なによりこの作品にとって、揺れ動く少女の「心の機微」が、最大の見所ですが…、

―――――

まさに、その点に、「外国のラブストーリーを、いま、日本で観ること」の限界を感じます。

―――――

具体的に言いましょう。

―――――

ここで、この映画を離れて、数ある日本の「青春ラブストーリー」を、ちょっと思い起こしてみてください。

―――――

…「花男」とかね、

…「1リットルの涙」とか、

…「セカチュー」ですか、

あと、「恋空」とか、

―――――

えー、全部見てるわけじゃないんですけど、こういった和製ラブストーリーが、ひじょーに上手に思春期の「恋心」を描くでしょう?

―――――

わたくし、山田詠美さんの小説や、吉本ばななさんの「つぐみ」のファンでして、それに少女マンガなんかも、わりに、好きなほうなんですが、この映画を見て、思ったね。

―――――

「NANA」を読め!

―――――

山田詠美を読め!

―――――

もっと、勉強せい!

―――――

なぁんてね。

―――――

村上龍の「トパーズ」なんかでもいいぞ。

(作家名の挙げ方で、僕の年代が、分かりますね)

―――――

ティーンズ・ムービーとしては、たとえば「ラスト・サマー」や「スクリーム」が持っていたような、ひりひりする「若さの痛み」感覚に欠けている。

―――――

ティーンズ・ホラームービーの設定上――この映画を「ホラー」とは言いにくいけど――、とても大切なのが、主人公を取り巻く家族の描き方です。

―――――

「スクリーム」シリーズで、監督ウェス・クレイブンが見事に描いてみせたように、

―――――

ティーンズ・ホラーにおける怪物や殺人鬼の存在とは、大人の目線から決して解き明かすことの出来ない「若者の心の屈折」が表出したものであるのです。

―――――

これは「十代」を離れれば離れるほど、分からなくなってしまうことなのですが、思春期に入ると、何もしなくても、「人生の最初のターニング・ポイントに入った」というだけで、その男女は「罪」を抱えることになる。

―――――

何故かって?

―――――

異性を意識するようになるからです。

―――――

単に意識するだけでなく、自分のからだも、否応なしに、性的に変化していきます。

―――――

これにともない、ほぼ全ての男女が、「うしろめたさ」を抱えて過ごすことになる。

(そうでなかったら、性に関する多くの話題が、「暗がり」でなされる意味が解りません)

―――――

このような変化に直面するほとんどの人は、家族に相談などしません。

―――――

正体不明の変容が、自分の身に起きているとき、心もまた、不安定となり、

―――――

家族は、そんな自分の境遇を理解しない「別世界の住人」のように思えてくる。

―――――

このような状況をベースに展開させて、「自分の悪夢に現れる怪人の物語」や「正体不明の快楽殺人鬼の物語」を編み出すことは、一部の「特殊な大人」の才能です。

―――――

彼らは、年幼かった頃の混乱と喪失感を、冷静に再構築し、充実した作品に、仕立てることが出来るのです。
では、

―――――

この「トワイライト」は、そんな風に、充実してる、と言えるのか。

―――――

これは、映画の描破力の不足ゆえか、はたまた、この日本に生きる僕が、「日本に生きるがゆえ」にピンと来ないのか、分かりませんが、

―――――

妖しさに「魅入られていく」

―――――

という物語の成り行きに、現代日本に暮らす僕として、リアリティを感じない。

―――――

自分とどこまでも異質な「他者」への激しく強い関心に心震わせていくことなど、いまの日本の若い世代には、縁遠い話しではないだろか。

―――――

この国では、「共感」こそが、重んじられます。

―――――

謎の他人に対して、謎があるからこそ興味を深め、コミットしていこうとするこの映画のヒロインの態度というのは、日本人的な「若さ」が求めるものと、大きな隔たりがある気がする。

―――――

相手がものすごいお金持ちだとか、やたら不良だとか、一見異質な対象の内に、はっとさせる「共感」を見つけて、トキメキが始まる。

―――――

それが、日本ではないでしょか。

―――――

言うなれば、

―――――

この国の若さが求めているのは、謎ではなく、どこまでも「相手のなかに、自分と同質の部分を見ようとする」己れの内で完結したような――縮めて言うと「自己陶酔」だと思えます。

―――――

ああ、自分は、こんなにも苦しい今を、精一杯、生きている。

―――――

いま、わたしは輝いてるんだ、

―――――

彼(彼女)も、同じなんだ…

―――――

と…

―――――

そう。

―――――

彼ら彼女ら(はい。あなたのことです)が、関心を持って見つめるのは、あくまでも他者の内に投影された「自分」ではないだろか。

―――――

自分に酔う「納得」が、欲しいのだろう、と思うんです。

―――――

え?

―――――

なんですって?

―――――

うん、これでは、実は、「恋愛」は、不可能です。

―――――

「恋愛」とは、そもそも、とても西欧的なもの。

―――――

我が国で昔から、そして今もお馴染みなのは、「懸想する」ことであり、それを

―――――

「恋する」

―――――

と、言い替えているだけのことだと思うんですね。

―――――

今、懸想する対象には、「異界からの闖入者」は、含まれていないのです。

―――――

この映画の描写は、果たして下手なのだろうか?

―――――

少なくとも僕には、

―――――

「ああ、これは、たいていの奴の物語とは言えないな…」

―――――

と、そう思えてならなかった。

―――――

ん?

―――――

妙な言い方、してますね。

―――――

(本当に)自慢するわけではないんですが、わたくし、狂気の世界をさまよった体験から――(2008/07/02 及び 2008/08/08 参照)――、自分のことを「異者」と見たがる癖がある。

―――――

で、

―――――

「癖がある」と他人事のように言うということは、いまの僕は、遺憾ながら自己陶酔の内に充足することも出来ないし、「異質な者」としてのアイデンティティーを確立させているわけでもないし、謂わば

―――――

そのふたつの立場の幕間に、「己れの立ち位置はないか」と捜すのが常態化してしまっております。

―――――

そのような僕が見てもこの映画、

―――――

共感すると言うよりは、妙に冷静に眺めちゃいました。

―――――

異人エドワードに、あまり接点を見られなかった。

―――――

見られなくて、かえってなんだか、「ホッ」といたしましたです。

―――――

冷静に眺めた、つまり「入り込まなかった」ことにより、

―――――

あ、

―――――

どうやらオレも、一応、日本人の仲間と自己申告してよさそうだ、と、

―――――

そんなまだるっこしい「共感の種」を見つけたわけなんですヨ。

―――――

(「共感」、ねぇ…

―――――

「共感」て、なんなんでしょう?)

(どんな展開になるのか気になるので、次回作が来たら、観に行くと思いますけど)

―――――

Jack

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アンダーグラウンド/「ウォッチメン」

諸説あるようですが、アングラ = 「アンダーグラウンド文化」とは、おおむね、1960年代の欧米で広まった

「自分でも正体の分からない欝屈や欲求不満を、芸術的表現によって発散し、また、そのような表現によって、社会に蔓延する矛盾を突こうとするムーブメント」

のことだ、と申し上げていいでしょう。

―――――

これを要約すれば、「アングラ = 前衛芸術」だ、と言えます。

―――――

ジョン・レノンとオノ・ヨーコが知り合ったのも、前衛芸術を通じてだった。

―――――

今日は、現代の世界において、

―――――

「アングラを成立せしめる基盤は、在るのか?」

―――――

という点について、です。

―――――

この映画の時代設定は、1985年…

―――――

なぜ、85年なんでしょう…

―――――

それについては、あとで述べます。

―――――

とりあえず、その頃へ戻りましょう…

―――――

と言っても、これは、かつて僕たちが経験した「現実」とは異なる、もうひとつの世界の話…

―――――

唐突なようですが、この映画における「そこ」は、歪んだアメコミの世界です…

―――――

そこでは、幾人ものスーパーヒーローが、世の番人、「ウォッチメン」として、歴史に介在してきています…

―――――

ケネディ暗殺…

―――――

ベトナム戦争の米国勝利…

―――――

(これは、アレゴリー = 「比喩的な寓話」というものです。

つまり、スーパーヒーローの活躍する「コミック文化」というアングラが、表の社会に顔を出し、政治的に、「大人の世界」に対して、強く影響を及ぼしてきた世界、という設定です)

―――――

だが、余りに世界情勢に介入しすぎた故なのか、ヒーロー活動は、禁止の憂き目にあいました。

―――――

今やアメリカでは、ニクソンが三期目の当選を果たし、

アフガニスタンに侵攻したソ連との間で、緊張が、高まっている…

核戦争の恐怖…

世は、終末観に満ちています…

おどろおどろしく設定されたダークな世界で、ある晩、現役を退いたスーパーヒーロー「コメディアン」(ジェフリー・ディーン・モーガン)が、惨殺される。

―――――

この世界で違法な活動(「アングラ」行動)を続けるヒーローのひとり「ロールシャッハ」(ジャッキー・アール・ヘイリー)は、事件に強い興味を抱く…

―――――

黒い帽子と黒皮のコート…

マスクに顔を包んだ「ロールシャッハ」は、事件の真相を追い求める…

やがて彼の単独捜査は、ほかのスーパーヒーローたち、ローリーこと「シルク・スペクター」(マリン・アッカーマン)、

ジョンこと「Dr.マンハッタン」(ビリー・クラダップ)、

ダニエルこと「ナイト・オウル」(パトリック・ウィルソン)、

エイドリアン・ヴェイトこと「オジマンディアス」(マシュー・グード)らを巻き込んで…

―――――

誰が、「スーパーヒーローの死」を望むのか?

―――――

どんな陰謀が、動いているのか?

―――――

と、いうわけなんですが、

―――――

…うーん…

―――――

「ウォッチメン」です。

―――――

この映画を支持する人にも、「300」に続いてこれを作ったザック・スナイダー監督にも、ぜひ、言いたい。

―――――

なぁーにを、そんなに、フラストレーションを溜め込んでるの!

―――――

この映画、ヒューゴー賞受賞の原作コミック――「グラフィック・ノベル」と言うそうです――は、86年の発表です。

―――――

映画は、原作が作り上げた「80年代半ば」という設定を現在に移し換えることをせずに、そのまま描いているのです。

―――――

86年と言えば、米国はまだ、レーガン政権下にありました。

―――――

以下の話しは、アメリカを含む西欧に特有の、いまの日本から見ると、ある種不思議な現象ですが、「クリエイティブ」や「アート」ってものが、メジャーな分野のものであっても、たとえば共和党政権下だと、なんとなくカウンターカルチャー気味になる、

―――――

と言うかですね、

―――――

「アングラ」カルチャーになっていく、

―――――

と、そういう傾向が見られるようなんですね。

―――――

レーガン大統領の就任から、次のブッシュ大統領(ジョージ・ブッシュ「父」のほう)の退任まで、12年ありました。

―――――

12年もの間、旧弊な「お父さん的価値観」が、上のほうで、ドン!と腰を据えていたわけです。

―――――

その間、ニクソン(共和党)的なる価値観より、ケネディ(民主党)的なるそれに好感を持つアーティストたち――そういうひとには、気持ちや考え方の若々しい人が、どうも、多い「らしい」のですが――は、アングラ的表現に走った、と。

(例を挙げると、80年代初頭から活躍したキース・ヘリングなんて、あんなにポップな作風なのに、まさしくアングラの人だったと思うし、

―――――

「インディ・ジョーンズ 魔宮の伝説」(84年)なんて、物凄くバカ金かけたアングラだし、

―――――

「レーガンのアメリカ」をちょっとからかったような、「バック・トゥ・ザ・フューチャー」みたいなものもあったでしょ?

―――――

さらに決定的なのは、82年にリリースされたマイケル・ジャクソンの「スリラー」なんて、アングラというよりは、「ストリート・カルチャー」を貪欲に吸収することで、のちのヒップホップにも多大な影響を与えるモンスター・アルバムになっていきました。

―――――

ついでながら、これは英国の話しだけど、カルチャー・クラブという「ポップ・アングラ・バンド」が出てきたのも、サッチャー保守党政権のもとだった)

つまり、ですね、

―――――

政治的な動向と、芸術的にホットな「状況」に、密接とは言わないまでも、かなり、関係があるらしい。

(かつては、我が国でも、そうだった。

学園紛争の頃ですね。

なんで、日本では、そのような連関が、いっときの流行で、終わってしまったんでしょう。

ちょっと興味ある問題です)

―――――

で、

―――――

この映画も、強烈に、「アングラであろう」としています。

―――――

ここで問題となるのが

―――――

「9.11を経験した後の西欧世界で、“アングラ”を保持する立場を持つことは、可能なのか?」

―――――

という、とてもシビアな設問です。

―――――

超暴力的なやり方で

―――――

「西欧以外の価値観がある!」

―――――

と見せつけられたあの件以来、米国型の「父権社会」というやつは、

―――――

「きしみながら、なんとか対面を保つ」

―――――

のが精一杯という様子でした。

―――――

飛行機ジャックを防げなかったこと…
アフガン空爆…
ビン・ラディン殺害失敗…
イラク侵攻…

―――――

頑として揺るぎないはずの父権が、がたがたになって、あわてながら失態を繰り返す様子を、僕らは、見せつけられていたわけで、そうなると、

―――――

光輝く父権に抵抗するかたちで存在理由を持つはずのアングラは、その「存在理由」のほうを問われることになるはずです。

―――――

「ここは、これまでの父子対立なんて些末なことには目をつむって、“文明の衝突”(ハンチントン)になんとか勝利するほうに、関心を集めようじゃないか」

―――――

という風潮が、ちょっと前までのアメリカだった、と、たぶん、言えると思います。

―――――

こうした議論に、参加する・しない、

―――――

さらには

―――――

こうした議論の前提そのものを疑ってかかる

―――――

と、立場はいろいろ取れるでしょう。

そう指摘した上で、言いますけども、

―――――

この映画の原作コミックが、80年代当時の「時代の限界」にとらわれながら、どこまで明文化しているのか、分かりませんが、

―――――

映画の中で、かなり興味を引く設定がある。

―――――

スーパーヒーローのひとり、「Dr.マンハッタン」が、科学実験の影響で力を得て、その代償として「無毛」の青い体となり、

―――――

精神のほうも、次第に人間らしい情緒を失っていく、という部分です。

(恋人の「シルク・スペクター」と、不気味なやり方でセックスに及ぼうとする、という場面があります)

―――――

で、その彼の力によって、アメリカはベトナムに勝利するという話。

―――――

これは、非常に重要な描写です。

―――――

それは、ベトナム戦争を通じてアメリカが、「自由と抑圧」などという西欧的な物の見方だけでは捕まえることのできない、「うっそうたる森」に象徴される非・近代的で非・文明的でもあるような、暗く、ぬめぬめとした「世界観」に出会って、そのショックを消化しながら「若者文化」を形成してきた、という、ひじょーに説明しにくい事柄について「さわっている」から、なのであります。

―――――

「死霊のはらわた」を作ったサム・ライミなんて人は、かなり前から、この異様な「感触的文化観」について、ピンと来ていた人だと思う。

―――――

彼を始めとして、一部の

―――――

「アングラの中の“本物”のアングラ」

―――――

と言っていいような人たちは、この真に先鋭的な「森の価値観」に気付き、かたちにしようと苦闘してきました。

(近年のライミが、アジアン・ホラーに注目したりしているのは、その流れで解釈できると思います)

―――――

この「ウォッチメン」は、かなり見応えのある映画と言えるけど、いま指摘したような観点から見ますというと、

―――――

たとえば「パイレーツ・オブ・カリビアン」(2008/6/7掲載)や「トランスフォーマー」(2008/7/11掲載)に比べて、

―――――

「あれらが“乗り越えた問題”を、蒸し返している」

―――――

と、言えるんではないだろか。

(だから、いまさら、なんのフラストレーションを溜めてるの? と言ったのです)

―――――

乗り越えられたものを蒸し返しているがゆえ、「マトリックス」のような「本物のブロックバスター」にはやや追い付かない興行成績に留まったのではないか、と思うし、

―――――

そのことは、米国社会や日本社会の「世間知」というものが、

―――――

この映画とは別の方角を向いて熟そう、という「意志」を見せている兆しではないだろか。

―――――

現代のアングラは、最も皮相で、最もポップなところのすぐそばにこそ、その存在意義を有している。

―――――

…と、こういうハナシを考えられただけでも、見てよかったな…とは思うんですが…

―――――

(あくまでも過激なこと、やってやるんだぁ! っていうスナイダー監督のね、意気込みは、並々ならぬものですよ。

それは、あるんですけども)

―――――

(「80年代」という原作の時代を動かさなかったのは、21世紀という現在が、

あの頃に比べて、はるかに多様で、複雑化していて、容易に「アングラ的ポジション」をカルチャーの中にも、社会の中にも、見つけることが出来なかったからじゃぁないか、と…)

(そうだとすると、アングラとしては、いちばん肝のところで、「前向き」じゃないんじゃないか…)

―――――

(と、疑問を持つわけなんであります)

―――――

Jack

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狂ってみても、/「フィッシュストーリー」

始まりは、1975年…

―――――

セックス・ピストルズが画期的な音楽で、世界にデビューする、1年前…

―――――

舞台は東京…

―――――

TV番組「秘密戦隊ゴレンジャー」が、子どもらに、大人気です。

―――――

一方、お話飛んで、2012年、東京…

―――――

驚くなかれ、「アルマゲドン」や「ディープ・インパクト」も真っ青の大事変が、起きています。

人類滅亡!
…のその騒ぎの中、都内のとある中古レコード屋で、コレクターズ・アイテムに聞き入る店長と客ひとり。

どうせ世界が終わるなら、

最後まで、ロックを聞き続けてやるんだ、と…

そう決意する客に、店長が差し出したのが、まさに1975年の幻のアルバム…

その75年では、ロックバンド「逆鱗」(なんと読むか分からない方は、本編をご覧ください)が、売れない活動を続けています。

彼らの録音する曲が、その名も

―――――

「フィッシュストーリー」

―――――

さて、問題です。

―――――

ロックとゴレンジャーと地球滅亡…

―――――

いったい、どう、結び付くんでしょう?

―――――

「フィッシュストーリー」です。

―――――

なんだかんだで、またしても、「ジェネラル・ルージュの凱旋」の、中村義洋監督です。

―――――

別に、この監督の作品を追いかけてるつもりもないんですが、どうも僕の興味を引くような対象を、よく映画化される。

(ん? そういうのを「追っかけてる」と言うのかな?)

(どうも、興味があるくせに冷淡な態度を取ったりするのは、へたな恋愛のようで、良くないな)

―――――

原作は、「アヒルと鴨のコインロッカー」に続いて、伊坂幸太郎さんです。

―――――

海堂尊作品を映画化するより、こちらのほうが、中村演出のテイストに、合っていそうな気がしますが…

―――――

さて、「アヒルと鴨…」もそうでしたが、この映画についても、全体の構造について、とても言いたい。

―――――

しかし、ラストをバラすようなことは、言えない。

―――――

しかし、言いたい。

―――――

だから、謎めかして、こう言いましょう。

―――――

なんか、観ていたこちらが、タヌキに化かされて、からかわれたような終わり方をする映画です。

―――――

劇中で起きるあらゆる出来事が、偶然のように、ひとつにつながる。

―――――

作り手たちは、偶然のようにできてくる、時空を超えた「ひとの輪」を面白がっている。たぶん。

―――――

偶然のように見えて、すべては、結局は、「必然だったのかもしれないョ?」

―――――

というのが、この映画の「タヌキっぽい結論」です。

―――――

で、これで、ここまでが、今回の本論です。

―――――

細目に移りましょう。
この面白い作品に、ちと、いじわるなナンクセつけてみたいんだわさ。

(だから、こういう態度は、良くないんだってばさ。

わかった上で、お付き合いください。さて)

―――――

音楽をきっかけに動き出す、この映画。

―――――

本作にとって、「パンク・ロック」は、テーマというわけではないですが、「ライト・モチーフ」と言っていいくらいには大きなファクターとして取り上げてあるので、

―――――

どうしても、最近観たばかりの、別の日本映画を話題にしたくなったりします。
つまり、

―――――

比較対照するものを見られたので、改めて考えるわけですが、宮藤官九郎監督・脚本のパンク映画「少年メリケンサック」は、もっと、なんと言うか、「散文的」で「直感的」だったなぁ、と思い出したりするわけです。

―――――

「散文的」?

―――――

はい、散文的というのはつまり、古い言い方で言うと、「翔んでる」、はじけてる、ということです。

―――――

ひとをからかうような映画を作る人には、はじけていて欲しい、と思う僕ですが、

―――――

「少年メリケンサック」に比べて、こなた「フィッシュストーリー」は、特に「音楽」というものの扱い方が、「翔んでない」のではないだろか。

―――――

どちらの映画にも、アクの強い作り手の個性を感じさせる「ヘンな展開」が用意されてる。

―――――

だが、しかし、

―――――

こういう話しに関しては、アドバンテージを頂きます。

―――――

僕自身が「ヘン」になったことがありますので、はっきりと言えますが、

―――――

音楽についてもそうですが、宮藤作品に比べて中村作品は、登場する「人物」たちが「翔んでない」。

―――――

「おかしな状況」に取り巻かれて、人々は当然のように、おかしくなっていくはずなのですが(本当ですよ)、中村作品に登場する人々は、総じて常識的。

―――――

観客の「理解の範疇」を飛び越える「飛び抜けた行動」に出たりはしない、ということですね。

―――――

散文的に翔ぶよりも、監督・脚本の用意した「おかしな物語」を生きるだけで、精一杯、という感じです。

―――――

そう。

―――――

中村映画の人々は、ヘンなのではなく、周りが見えなくなるほどに、「あまりにも一生懸命」すぎる「だけ」なのだ。

―――――

で、気付くんですが、監督は、必死になればなるほどおかしな状況になる人々の物語を、「人間ゲーム」のように築いている。

―――――

この「人間ゲーム」というものが、意外と、「翔んでない」と思うんです。

―――――

いや、面白いんですよ。
面白いし、盛り上がるんですけどね…

―――――

…なんか、引っかかるんだよな…

―――――

こういう言い方をすればいいでしょか。

―――――

中村監督は、自分の描いている内容について、完璧に説明できたりするんではないだろか。

―――――

しつらえられた状況は特異だけども、その中を生きる人々の行動は、「正常」な知性と感性の範囲で充分納得がいく。

―――――

では、ひどく理性が勝った作風かと言うと、そうでもない(「ひどく理性が勝っている」作品をお望みなら、内田けんじ監督の「アフター・スクール」を強くお勧めいたします)。

―――――

正直な印象を言うと、中村作品にあるのは、

―――――

「狂」の世界を覗いてみたい、

―――――

という「憧れ」ではないでしょか。

―――――

たとえばゴダールが撮るような作品を連想すると解りますが、「映画の興奮」は“物語”の中にあるけれども、「映画の快楽」は、散文的でシュールな、なんと言うか「ひらめき」を重んじる、即興性あふれる“文体”の中にあるように思います。

(ここで、この“文体”という言い方に対して、「映像としてのエクリチュール」という表現を当てはめたくなったりします)

―――――

すべて合点がいく上等な「人間ゲーム」は、あらゆることが「腑に落ちて」しまうがゆえに、「少年メリケンサック」のような、音楽の本質に迫ろうとする「理性を超えた体感映画」に、一歩、及ばないのではないだろか。

―――――

「少年メリケンサック」同様、この「フィッシュストーリー」にも、魅力的な俳優陣が登場します。

―――――

伊藤淳史
高良健吾
渋川清彦
濱田岳
森山未來
多部未華子

―――――

みんな「人間ゲーム」を「人間の物語」にすべく努力する、才気溢れる人々です。

―――――

で、僕の結論として、

―――――

うん、わかった。

―――――

憧れがあるわけね。

―――――

いっぺん、狂ってみたいもんだ、と。

―――――

狂うほどに愛してみたり、

―――――

狂うほどに走ってみたり、

―――――

そゆこと、してみたいわけね。

―――――

しかしですね、

―――――

狂うほどに愛するのは、素敵なことかもしれないけど、

―――――

「愛するほどに狂っていく」のは、恐ろしいことなんだよ、と、

―――――

この「“狂い”を覗いてみたい」と言ってる感じの無邪気な演出家に、届くものなら、我が声を伝えてみたいな…

―――――

と、願望したりする僕です。

(あー、「声を届けたい」というのは、この映画のカギでもあるな)

―――――

(ジャン・ジャック・ベネックスってフランスの監督さんがおりまして、このひとの「ディーバ」って映画が大好きなんですけどね、

同じひとの「ベティ・ブルー」って映画は、激しく大キライなんですよ。

人間て、わかりません。

―――――

いや、狂ってみても、わからんものは、わからんのです)

―――――

Jack

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物語の中で物語る彼は物語に飽き足りない彼らにうながされ…/「ベッドタイム・ストーリー」

今日から、全国の小学校で、英語の授業が始まったようですが、それはともかく…

―――――

ロサンゼルスに住むスキーター・ブロンソン(アダム・サンドラー)は、大きなホテルで修繕係をする青年です。

―――――

もともとは、このホテル、彼の父親のものでした。

―――――

しがない暮らしのスキーターに、ちょっとした生活の変化が起きる。

―――――

姉のウェンディ(コートニー・コックス)がアリゾナまで、仕事を探しに行くのです。

―――――

1週間、家を空けるので、ウェンディは、幼い娘のボビー(ローラ・アン・ケスリング)と弟パトリック(ジョナサン・モーガン・ハイト)の世話を、スキーターに頼みます。
(そんな! めんどくさい!)

それも、夜だけ。
(それでも、やっぱり、めんどくさい!)

昼の間はスキーターにも仕事があるので、姉の友人のジル(ケリー・ラッセル)が子守りをしてくる。

子どもらは、いま、二人とも、落ち込んでる。

姉は、つい最近、離婚したばかりです。

ダディがいなくちゃ、つまんない。

やれやれ、しょうがないな…

スキーターは、甥と姪を励ますつもりで、即興のベッドタイム・ストーリー(枕元のおとぎ話)を語り始めるのですが…

―――――

「ベッドタイム・ストーリー」

―――――

ディズニーの実写映画です。

―――――

僕は、ディズニーがたくさん作るTVアニメやドラマや映画のうち、ほんの一部しか見ていないので、どうしても、感想が、偏ります。
つまり、

―――――

ディズニー作品に、「はずれ」って、ないんじゃないの?!

―――――

この映画も、アイデアの豊かさと、しっかりした語り口で、魅せてくれる。

―――――

アダム・サンドラーは、なぜか、日本での知名度がイマイチなんですが、いや、そこのあなた。

―――――

知らずに済ませちゃ、もったいない。

―――――

この映画、ケーブルTV局ニッケルオデオンが主催する、2009年度のキッズ・チョイス・アワードというのを、受けています。

―――――

全米3000万の子どもたちが選ぶというのですから、受賞は、たいしたもの、と言えるでしょう。

―――――

別に原作があるわけではないようですが、こういう「よく出来た“大人の子ども心”満載の映画」に触れると、どうしても、思い起こすものがある。

―――――

「児童文学」の存在、というやつです。

―――――

ほかに言い様がないんですが、この「児童文学」という言い方から分かるように、我が国では、児童文学とは、

―――――

「文学的主体が“児童”という“教えらるべき”未熟な価値観を設定し、それに向かって、教え諭すもの」

―――――

です。

―――――

こういう考え方を持ち込んで、子どもたちがそこに「うさん臭さ」を見い出さないわけがない。

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あさのあつこさんの「バッテリー」のような例外もありますが、日本で国産児童文学が、影響力を持たないのには、ちゃんとした歴史的事情がありまして、

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主たる元凶は、第一次大戦末期に創刊され、芥川龍之介、有島武郎、北原白秋らの参加した雑誌「赤い鳥」が、いけないのです。

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「赤い鳥」がもたらしたものが、前述のような、教え諭すかたちの「文学」であった、と僕は、そう思っています。

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ところがですね、

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さらに、これを考え合わせると、わけが解らなくなるんですが、たとえばアメリカでは、「子どもが接してよいもの」に対して、こちらよりはるかに厳しいルールがあります。

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登場人物が、ちょっと汚い言葉を吐き、日本では漫画の世界で珍しくない「殴り合いの場面」がある、というだけで、「親同伴のこと」なんていう規定が付いたりいたします。

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いったい、両国の間で、「子ども」の観念は、どうなってるの?

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無理から理屈づけるなら、日本における漫画とは、「大人も巻き込んで、子ども心の“アナーキー”な快復を図るもの」。

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そうして、これこそが、「ハリーポッター」や「ダレンシャン」のような、欧米の児童小説にも共通する考え方ではないでしょか。

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2008/8/19に「テラビシアにかける橋」という児童文学が原作の映画を取り上げまして、「楽しいけど、結論が、説教くさい」と、言いました。

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欧米、特にアメリカには、「赤い鳥」が目指したような、

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子どもたちへ、“良いもの”、美しいものを

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という考えも、なるほど、ある。

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が、この「ベッドタイム・ストーリー」には、そうした“良いもの”を押し付けようとする親的な目線に対する「からかい」が、たっぷり盛り込まれているのです。

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スキーターの話すおとぎ話は、翌日、不思議なかたちで実現する。

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そのことに気付いた彼は、大人として、自分の欲目を語りに混ぜていきますが、話し好きな子どもらは、スキーターの大人らしい願望に満足せず、途中から、勝手に話を膨らまし、次の日それは…

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はい、

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つまり、これ、“児童向け物語”についての、メタ・ファンタジーなんですね(嬉)。

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キリスト教的観点から、あるいは、幼児教育の観点から「清廉なもの」を普及させようとする勢力が厳として在る、ということと、それに抗しようとするリベラルな一派がある、というあちらの事情を理解できないと、この映画の“存立”について、近づきにくいかもしれません。

(どうも、こういうことを言ってると、「おれは理解したぜ」という自慢話になりそうで、困りますが)

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ファンタジーを使って、「ファンタジーについての解説」をしてくれなくともよい。

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そういう国民的了解があるせいか、たとえば、ロアルド・ダール原作の愉快な人形アニメ「ジャイアント・ピーチ」は、日本で劇場公開もされなかったし、

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「プリンセス・ブライド・ストーリー」というロブ・ライナー監督の「ファンタジー的からくりファンタジー」も、ウケなかったと記憶します。

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そういう理屈っぽいものが誕生してくる土壌として、物語る主役が「小説」である世界を、想像出来ます。

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こちらの主役は、なんと言っても、「漫画」ですから(説明すると長くなりますが、漫画というのは、その成立条件からして、“メタ”なところがありますから)、

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だから、その上に重ねるような「理屈」は、いらない、というのが、日本の現代の精神状況かもしれません。

(原ゆたかさんの絵本シリーズ「かいけつゾロリ」などは、明らかに、日本に漫画文化がなければ、生まれなかった作品でしょう)

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「子どもたちに良いものを」という大人的押し付けをからかってやれ、というのも、実は、とても大人的な「反逆の思想」なので、僕としては、この映画を楽しみつつ、

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「…しかし、そうややこしい対立に巻き込まれた子どもらは、混乱したり、かえって“純粋なる物語のない不幸”に落ち込んだりしないのかな…」

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と、心配になりますが…

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もしかしたら、全般的に欧米の子どもたちのほうが、早く大人に“させられる”のには、ここまで述べたような、たいへん混み入った精神状況が、絡んでいるのではないでしょか。

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ときどき、僕が「言わずに問題にしている問題」ですが、複雑になってしまった大人の世界を、複雑なまま

(「大人になろう」とする者たちだけの“了解”の上に楽しんでいるなら、罪はないのですが、それをそのまま)、

まだ幼い「子ども」に譲り渡そうとするのは、「ムセキニン」というものではないのか、と、

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わたくし、そう疑うようになっていますので、

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願わくば、我が国の「子どもをめぐる精神状況」が、単なるあちらの後追いにならなければいいな、と…

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すでに充分過ぎるほど論理的な複雑さが、少年少女を取り巻いているんだから、と、

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そういうことを、この映画を楽しみながら、青少年期に「愚かな複雑さ」に感じ入ってしまい、今も引きずっているひとりとして、「成熟してない老婆心」を綴りたくなった次第です。

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(待て。

この映画は、要するに、どこが面白いんだ?)

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Jack

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