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2009年3月

ジオラマ作りを目指して/「ワルキューレ」

プラモデルを作る。

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今日は、このことから、「ものづくりに凝る」とは、どういうことか、について、です。

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今では、もっぱら、ガンプラが売れ筋でしょうが、僕が子どもの頃は、なんと言っても、第二次大戦の戦車や軍用機が主流でした。

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タイガー戦車やメッサーシュミット。

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フォッケウルフに、ケッテンクラート。

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なんのことだか、分かります?

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作りたかったのは、ドイツ軍のモデルなんです。

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ドイツ・ミリタリーというのは、ヒトラーやゲッベルスの考えもあって、「デザイン的に優れたもの」を採用する傾向が強かった。

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少なくとも僕は、米軍より、ドイツ軍に、憧れました。

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戦車や飛行機ばかりではありません。

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ナチ親衛隊やゲシュタポ、ドイツ特殊部隊の制服についても、「最高だな」と、思ってたんです。

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鉄道模型なんかもそうでしょうけど、「モデル」というのは、作りながら、それを模造化した大元の「物語」を妄想していくのが、楽しいんです。

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ん?
なんだって?

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楽しむ?

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「かっこいい」と思ってないと、楽しむ気持ちは、生まれてこない。

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戦争物語を、かっこいいと思う気持ち、ありますか?

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いや、子どもの頃の僕には、確かに、在ったんです。

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「ワルキューレ」

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これは、第二次大戦中のドイツを舞台にした実話です。

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僕の知る限り、フィクションは、ほぼ、排してあります。

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戦争も半ば。

戦況が連合国側に、傾きつつあった頃。

ナチスの支配に抗しようとする、軍内部の勢力あり。

恐怖政治から、祖国ドイツを救おうという人々です。

アフリカ戦線で片目、片腕を失う重傷を負ったクラウス・フォン・シュタウフェンベルク大佐(トム・クルーズ)はドイツ帰国後すぐ、抵抗組織の中核トレスコウ少将(ケネス・ブラナー)の知己となる。

抵抗派が立てた計画が、作戦名「ワルキューレ」。

独裁者ヒトラーを暗殺すると同時に、首都ベルリンを警護する国民軍をニセの指令で集結させ、官庁街を占拠する、というものです。

若きシュタウフェンベルクは、この謀略の中核となっていく…

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トムというひとは、どこまでも、「かっこいい!」役を追っかけてるときが――そういうときこそが、本当に、生き生きしてますね。

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伝説的反骨の志士シュタウフェンベルクに目を付けるとは、さすがです。

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テレンス・スタンプやビル・ナイのような老獪(ろうかい)な役者を脇に、堂々たる主演。

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この役は、トムを待っていたようなものです。

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ところで、

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この映画、よく出来ているんだけども、惜しい!

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それはですね、

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本来は結び付かない2つの要素を、混乱したままにそのまま提示してくれていたら、ヴィスコンティやコッポラの作品並みに、ド迫力になっていたろう、ということなんです。

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順を追って、お話ししましょう。

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まず、

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戦争物語に興味のない方。

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そういう方の関心を買うために、ちょっとした、「裏の事実」に、触れましょう。

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この映画のような戦争秘話は、詳しい裏話を知って見ると、さらに面白いと思うからです。

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手元のアンチョコ――(サンケイ出版。第二次世界大戦ブックス)――を開きながら、少し、ご紹介いたしましょう。

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映画は(驚くべきことですが)、ほぼ史実に沿っていながら、まるでよく出来たサスペンスのように暗殺・クーデター計画の遂行とその破綻を描き、間然するところがない。

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が、それには、脚本のちょっとしたトリックがありまして、

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あまりにもスムーズに進むこの作品では、「事実巻き起こった大混乱」が、上手に整理されているのです。
たとえば、

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史実としては、首都を遠く離れた山荘にあって暗殺を奇跡的に生き延びたヒトラーは、ただちに反乱を平定するよう動きます。

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彼は、ベルリンにいる国民軍総司令官フロムが、陰謀に加担していたのではないか、と疑念を持ちました。

(無実の容疑であり、実際にはフロムは、クーデター派により拘束されていただけだったのですが)

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で、新たに自分の最も信頼できる部下、親衛隊長官のヒムラーを新司令官に任命し、事態の収拾に当たらせます。

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爆弾騒ぎの、その日のうちの出来事です。

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ベルリンでは、まさに、ワルキューレ作戦が進行中。

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つまり、クーデター作戦のその当日、ベルリンには、もともとの国民軍総司令官フロム元帥と、クーデター派によって置かれた国民軍総司令官ヘップナー将軍と、ヒトラーによって緊急任命された国民軍総司令官ヒムラーと、

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「自分が国民軍総司令官だ」

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と思っている三人の軍人がいる、という混乱ぶりだったのです。

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僕、思うに、歴史の面白さというのは、「あとから知る、当時の混迷ぶり」にある気がする。

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これは、学ぼうとする者が「当事者」でなく、単なる「野次馬」だからこそ味わえる面白さでありましょう。

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一方、「戦記のかっこよさ」というのは、爆弾三勇士の逸話に見られるように、後付けで整理されているからこそ、ヒーロー譚になりうるのです。

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混乱してる、というのは「どさくさ」であり、「もたもた」「がやがや」であり、「おっちょこちょい」であったりする。

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うん。

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どーも、そのような色々は、この映画のトムに合わないですね。

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ブライアン・シンガー監督も、そう考えたんでしょう。

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ひたすら「かっこいい話」に仕立てているところが、トムらしさであり、この映画の「ちょっと物足らない」ところです。

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「かっこよさ」というのは、プラモデルを作る感覚です。

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モデルを作りながら、かっこいいなぁ、と「浸ってる」わけですね。

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が、

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かっこよさへの憧れ、とは、モデル作りの謂わば「初心者レベル」でありまして、

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もう少し進行してくると、模型の色付けを「汚し仕上げ」にしてみたり、戦車の周囲に瓦礫を積み上げてみたりとか…

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「ジオラマ」に凝るようになるのです。

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この映画の、「“創作物”としての戦争へのコミットの仕方」というのは、「プラモデルを綺麗に仕上げる」レベルにとどまっているのではないか。

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戦争を描くなら、混乱・混沌をこそ、「美しく」見せねばならない。

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美しく?

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はい。

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申しましょう。
以下に記すのはあくまで芸術家の態度であって、教師やジャーナリストは、こうした態度から離れなければならない、と思う僕ですが、

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かつて大林宣彦監督が、こんなお話しをされたことがあるんです。

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曰く、

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原爆のキノコ雲というのは、美しい。

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わたしたちには、映像で撮られた、感動的な美しさのキノコ雲しか、与えられない。

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どんなに「真実を映そう」としたドキュメントの映像でも、それが画面に定着した瞬間から、わたしたちは「真実とは別の何か」を見ることになるのであり、

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何かを「描こう」とする者は、そのことを十分承知した上で、「美しさの中の、妖しい恐ろしさ」を回りくどく伝えていくしかないのではないか…

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大林監督もまた、ひとりの芸術家であり、ものごとを誰かに伝えよう・教えようとする人には、

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「美しさ」以外にも、たくさん気をつけてほしいことがある、と強く言いたい僕ですが、

(つまるところ、ひとが「教師」であるときには、「美しさ」だけを伝えていては、文字通り「ハナシにならない」と思うのですが)

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この「ワルキューレ」というかっこいい(美しい)映画を見るとき、この大林監督のご意見は、参考になる、と思います。

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映画作りとプラモデル作りは、似ているのか?

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トムが「アイズ・ワイド・シャット」のときのような、「プラモデル作りの本当の醍醐味」を打ち出せるようになったとき、

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彼は、これまでの様々なバッシングから完全復活し、そして「変身した」と言えるようになるのではないか。

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トムの個人史の中で、

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この映画は、過渡期の佳品と位置付けられるかもしれません。

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がんばれ、トムよ。

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Jack

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コンセプトの悦び/「映画ドラえもん 新・のび太の宇宙開拓史」

かなり古い話なので、残念ながらネットを探っても確かな答が得られませんでしたが…

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僕の記憶によれば、赤塚不二夫、石森(当時)章太郎といった人気漫画家たちが、こぞって「マンガのかき方」という本を出していたことがあります。

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僕が見たのは、1970年代の中頃です。

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たぶん、対象年令は小学生だったと思うのですが、その中に、

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藤子不二夫先生も、おられました。

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藤子先生の教え方は、他の先生方と比べても、かなりユニークなものでした。

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マンガのかき方の学習法として、

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「ミニコミ」をかくといい、というのです。

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ミニコミとは、藤子先生の造語です。

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2ページから4ページくらいで終わるショート・ショート・ストーリー(つまり、「ミニ・コミック」ですね)を作ってみると、マンガ作成の練習としては、絶大な効果があるよ、というわけです。

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ひとに勧めるくらいですから、事ほど左様に、藤子マンガの真髄とは、ショート・ストーリーにあったと言っていいでしょう。

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「起」があって、「承」があって、「転」があり、「結」がある。

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藤子作品ほど、この約束事を、忠実に展開させたマンガ世界は、例がないと申し上げたい。

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が、

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ミニコミというのは、残念ながら、「長編マンガ」をかくための修練としては、かなり問題のある方法だったと思います。

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主人公が正ちゃんやのび太くんで、相棒役がQちゃんやドラえもんなら、いいんです。

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日常世界に持ち込まれた、ちょっとした「違和感」、日常を相対化する奇異な非日常の対象を描くには、ショート・ストーリーの技法は、たいへん有効です。

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しかし、壮大なテーマを掲げる「大長編」、波瀾万丈の冒険物語、となると…

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「短くスパッと決めて、おしまい」のミニコミの発想力では、なんとも対処し難い領域です。

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それでも、長い物語を、かきたいか。

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トラディショナルな、「伝奇物」。

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数十年に渡って、大長編への想いを持ちながらショート・ストーリーをかき続けた藤子不二夫、とりわけ藤子・F・不二夫先生は、どのように、長大な冒険物語に、たどり着いたか。

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「映画ドラえもん 新・のび太の宇宙開拓史」

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銀河系を遠く離れた、宇宙の彼方…

ロップルくん(声:櫻井智)とチャミー(佐久間レイ)が操る宇宙カーゴが、謎の巨大宇宙船に、攻撃を受けています。

焦ったチャミーは、攻撃を逃れるため、ワープのボタンを押してしまう。

その頃、

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地球で眠っていたのび太(大原めぐみ)は、あまりに鮮明な夢に、飛び起きる。

いま、宇宙の彼方で困っている少年は、何者か?

ドラえもん(水田わさび)は、夢のはなし、と取り合いませんが…

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「ホワイトアウト」で吉川英治文学新人賞を、また「奪取」で山本周五郎賞や日本推理作家協会賞を受賞した小説家・真保裕一さんが、今回、ドラえもん「のび太の魔界大冒険」のリメイクを書いて以来の脚本担当です。

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が、

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かなり目端の行き届いたこの脚本に「も」、文句を言いたい。

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真保さん(元・アニメ制作会社勤務)を含むほぼ全ての「ドラえもんアニメ」関係者が、まったく理解していない、

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さらに大胆に言うなら、原作者でアニメ旧版の脚本を書いた藤子先生自身も、おそらくは自覚していなかった点があります。

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それは、

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ドラマツルギーを基軸にした盛り上げは、藤子作品に対しては、「不要」だ、ということなんです。

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コンセプトだけ、在れば、いい。

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「どこでもドア」も、「スモールライト」も、あれらは要するに、「コンセプトの悦び」そのものなのだ。

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俯瞰やパンのようなカメラ移動…音楽による効果…

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アニメ的な演出の、そのどれもが、藤子マンガにとっては、コンセプトの魅力に対する視線を遠ざけてしまう、謂わば「不純物の混入」に過ぎません。

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「ミニコミ」に始まる藤子流ショート・ショートは、根本的に、「ドラマの発想」とは異なるのです。

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赤い月と青い月。

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ふたつの衛星を持つ、開拓星コーヤコーヤ。

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ふたつの月が共に昇るとき、潮汐の異常が起こり、大洪水が遠い南の湖から、肥えた土を運んでくる…

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旧版と今回の新作、そのどちらもが、この設定を「説明的」と考えたのか、あっさりとしか触れてません。

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が、

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「ドラえもん」にとっては、設定こそ、命なのだ。

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それは、巡り巡って、アシモフやクラーク、キャンベルの書いた「ハードSF」へと連なる「想いの集積」でもあります。

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反重力鉱石ガルタイトにより、石器時代から空を飛んでいた文明…

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この設定があるからこそ、鉱石奪取を巡る陰謀の物語が成立する。

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オーソドックスな語りは、コンセプトをより輝かせるための手段であります。

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そして、なぜ、のび太は、スーパーマンとして活躍出来るのか、という簡にして明なる理由。

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黄金期の西部劇を思わせる、殺し屋ギラーミン(大塚明夫)との決闘。

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これも、コンセプトの一部です。

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ここに在るのは、とても文章的な、それも新聞記事のような短文を連ねていく、「構築の快楽」なのです。

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過日、TVの「ドラえもん」でも、「決定! 心に残るお話30」なる企画が放送されていましたが、

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分かってる人は分かってるんだな、と思えたのは、「バイバイン」や「きこりの泉」、「ドラえもんだらけ」のような、純粋にアイデア勝負の作品が、エントリーしていたことです。

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「ドラえもん」の真髄は、「感動的なお話」などにあるのではない。

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いや、無数のエピソードの中には、感動的なお話もありますが、それは、

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「ちいさな概念の粒をつむいでいったら、説得力ある理屈が出来上がる」

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という、文章的思考とはなんなのかの始源について思い至らせる、「原理を見い出したときの、感動するほどの“発見の悦び”」なのだ。

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今回の映画。

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旧版でかなり物足りなかった要素が、大幅に加味されています。

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それでも、新たに盛り込まれたバーンズ博士(堀内賢雄)とモリーナ(香里奈)のエピソードなどは、ほんとは、不要だったと思う。

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わたしは、嘘は、申しません。

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「ドラえもん」を「安心できる面白さ」だ、などとのたまっている大人にこそ、

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面倒臭がらずに、原作にあたって欲しい。

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コンセプトの悦びを、こつこつと積み上げていくと、なんと、アイデアとアイデアが連鎖反応を起こし、長大な物語が出来上がる。

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そのことの、一番確かな証明が、原作です。

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おそらくは、生涯、「長大な冒険譚」の真実を理解しなかったであろう巨匠の、

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「構築することへの耽溺」が、とても悦ばしく楽しいものとして、

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執筆から数十年を経た今も、保存されている。

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大長編シリーズ屈指の傑作を、読んでほしい。

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あなたにも。

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Jack

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映画の感性、小説の理路/「ジェネラル・ルージュの凱旋」

「ジェネラル・ルージュの凱旋」

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チーム・バチスタ事件で世間を騒がせた打撃から、ようやく立ち直りつつある東城大学附属病院。

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バチスタ事件解決を「手伝わされてしまった」心療内科医・田口医師(竹内結子)が、今度は、収賄を巡る院内騒動に巻き込まれる。

賄賂取りの疑惑があるのは、救命救急センターの若きトップ、速水部長(堺雅人)。

“血まみれ将軍”とあだ名される奇人です。

救命処置の腕は、超一流。

教授陣も近づけない権力者にして、傍若無人。花房看護師長(羽田美智子)以下、スタッフ(山本太郎、貫地谷しほり)はかしずくが、院内には敵も多い。

果たして、収賄疑惑は事実なのか。

謎の告発者は、誰か。

そうこうするうち、新たな事件が…

白鳥調査官(阿部寛)の登場は、いつ?

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“ジェネラル・ルージュ”に堺雅人さんをあてがったことは、この映画を引き締めるのに貢献している、と思います。

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不敵で影のある、そして、どこか破滅型の辣腕医師を演じて、ちょーかっこよろしい。

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また、そういう彼に「かっこよく見える場面」を用意した脚本を、「へたくそ」とは呼びにくい。

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映画自体の間延びしたテンポは、前作と、あまり変わっていないように見えますが、話題が救命医療の最前線であるだけに、前より作品が派手になりました。

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さて。

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まず、この映画とそれに対する原作小説の「在り方」の違いから、比較すると致しましょう。

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現役医師でもある海堂尊さんの原作には、読んですぐ分かる、極めて明快な創作意図があります。

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「救命救急」というビビッドに現代的な医療問題を、病院の内部から、様々に多面的な切り口で、読者に対して、ちょうどマジシャンが奇術の始めにカードを開いて並べるように、披露してみせよう、というのです。

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この小説が、ミステリの体裁をとってはいても、本質的には、現代医療の現場からの「問題提起」であるのに対し、

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映画のほうは、病院という特殊な場所にうごめく「人々」に関心を集中させた、物見高い「娯楽」です。

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もう少し、詳しく見ましょう。

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いちばんのポイントは、原作で、「よれよれの白衣を着た中年の医者」と評されている田口医師が、なぜ、映画では、トロそうに見えても若々しい「女医」に変えられたのか、ということです。

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「小柄で小太り」、「お世辞にもいい男とは言えない」、と書かれている厚労省の白鳥技官も、阿部寛さんとは似たとこなしですが、

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阿部さん竹内さん両者の演じるキャラクターの、原作との違いには、それぞれ異なるポイントがある。

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まずは、竹内さんです。

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なぜ「中年男」を若き女医に、入れ替えた?

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なに?
客寄せだろう、と?

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まぁまぁ。

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「まずは」と言っといて、なンですが、詳しくは、あとで述べます。

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映画と原作では、主人公の設定だけでなく、ストーリーの構成上、重要な鍵になるエピソードの「配列」が、まるで違う。

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速水部長の収賄疑惑は本当か?

「ジェネラル・ルージュ」と言うあだ名の由来は?
など。

さらに、小説にはない事件まで、付け加えられて…

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これらの紹介される順番が全く異なるので、有り体に言って、原作は、映画にとってのきっかけ、「叩き台」に過ぎません。

―――――

しかし…

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いいんだろうか…

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小説の中には、現在の医療行政すなわち厚生労働省のやり方に対する批判がしばしば顔を出します。

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それが、映画では、「悪役」が病院の赤字削減しかあたまにない院内の事務方に集約され、単純化されている。

―――――

原作の「言い分」は、片隅に追いやられている感じです。

―――――

つまるところ、2つは、まったく別の作品と見たほうがいいんですが、これを、

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優れた換骨奪胎と見るか、小説のかたちを借りた「医療現場のリポート」の姿を理解しない「悪しき改変」と見なすか。

―――――

それにしても、なぜ、映画制作陣は、「大幅な改変が必要」と、判断したのか?

―――――

原作の「弱点」を挙げるとすれば、巨大機構が内部で絡み合う様子を描くことに腐心するあまりでしょうか、

「こいつが主人公」

と、呼べるような強烈な人間描写が、エキセントリックな白鳥技官を除いて、どの登場人物に対しても欠けている。

―――――

(大森望さんは、「それぞれ抜群にキャラが」立つ、と書かれていますが、僕には、そうは思えない。映画関係者たちも、同じ感想だったのでしょう)

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どの人にも均等な目配りがなされている、という印象です。

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小説が「情報小説」である限り、それは欠点ではないのですが、

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「主人公の胸のすくような快刀乱麻を期待する観客」と、「それに応えようとする映画」、という古くからある関係にとって、これは致命的な「困った問題」と、言えそうです。

―――――

登場人物の性格付けを、この原作の中から目立つ部分、抽出し、この原作よりも圧縮して強める必要がありそうです。

―――――

いや、

これは、僕の意見じゃありません。

―――――

それが、中村義洋監督が使った脚本の、基本的な考え方ではないのか、と言っとるのです。

―――――

対称的な、ある例を挙げましょう。

―――――

「ジャッカルの日」という、フレデリック・フォーサイスのデビュー作である小説です。

―――――

発表当時「ドキュメント・スリラー」と呼ばれたほど、人物描写がクールな、ドラマ性という観点からは、およそ、素っ気ない小説でしたが、政情不安なフランスを舞台に、大統領を狙う狙撃手と、彼を追いかける政府機関のスリリングなチェイスを描き、抜群の面白さでありました。

―――――

で、

―――――

これを映画化するに当たって、フレッド・ジンネマン監督は、原作の「ドキュメント性が強いからこそ面白い」という性質に、完全に従った。

―――――

余計なドラマなんかに、こだわらなかった。

―――――

その点で、この「ジェネラル・ルージュの凱旋」や「チーム・バチスタの栄光」の映画化の発想は、「古い」と言えるのではないか。

―――――

たとえ古くても、映画制作側が、原作からの「ドラマの抽出」にこだわったのには、こんなわけがありそうです。

―――――

それは、

―――――

ひじょーに理詰めな原作の、その「感性」が感じ取れるのは、この小説に、ちらちらと漂う「ユーモア」を通じて、なんです。

―――――

特に、白鳥と田口という二人の人物のコミカルなやり取りが無ければ、この小説は、まったくのところ「問題意識が鋭いだけ」の、本当の情報小説になっているはずです。

―――――

読んでいくと、作者が単なる医療現場の解説者にとどまらず、はっきりと、書くことを通じて、矛盾だらけの医の当事者として、「溜飲を下げている」のだ、と分かる場面が出てきます。

―――――

白鳥技官が、異端児ぶりを発揮して、頑迷な病院のトップたちをやり込めたりする場面ですね。

―――――

そこらあたりが、描写に熱のこもる作者と読者との接点です。

―――――

強く訴えたいことがあるから、読者が共感するわけなんですが、「訴えたいだけ」では、問題に対してシロウトの読者は、ついてこない。で、

―――――

ユーモアが織り混ぜてあるのです。

―――――

この「うっすらとしたユーモア」こそ、映画化の手がかりです。

―――――

つまり、前回もお伝えしたとおり、「イマージュ」の伝達に長けた、謂わばロマネスクな監督以下制作陣が、この小説を「種本」とするには、この中にある理屈っぽい筋道ではなく、「ユーモア」を拡げていくしかなかった、と思えるのです。

―――――

で、

―――――

端的に「ユーモア・ミステリ」であることを示せる役者の組み合わせ、とは?

―――――

阿部寛・竹内結子のコンビのうち、どちらのキャスティングが先だったのか?

―――――

どちらにせよ、これは画的にすぐ分かる、コミカルな取り合わせ。

―――――

原作の田口医師は、風采の上がらない中年、とされていますから、素直に考えれば、中村梅雀さんなんかが似合いです。

―――――

ところが、白鳥調査官についても、「小柄で小太り」なんですから、塚地武雅さんあたりの感じ(小柄じゃないけど)なんですよ。これは、

―――――

うん。
ちょっと困りました。

―――――

見た目の違いが、打ち出せません。

―――――

だから、男女にしたんですね。

―――――

困り果てる田口医師と、変人ぶりを発揮する白鳥技官。

―――――

困り果てる竹内結子と、怪人ぶりを遺憾なく発揮する阿部寛。

―――――

中年男の医師を若い女に変えたわけは、厳格な「閉じられた階層社会」である男たちの現場に放り込まれてうろたえるなら(僕の見方じゃありません。この映画の作り手たちが、病院を男優先の場だと見なしたようだ、と言うとるのです)、それは、若い女のほうが面白いからです。

―――――

一方の、変人・白鳥については、エキセントリックな役をこなしたらピカイチの阿部寛、という配役は、自然でしょう。

(小説には、竹内結子さんのおっとりした演技を連想させる、アヤシゲな看護師も、登場します)

―――――

何度でも言いますが、この小説は、小説のかたちを借りた、医療最前線のリポート。

―――――

一方、映画は、病院という閉鎖社会を一般人に垣間見せるための、物見遊山。

―――――

この、相容れないように見える立場を

「つなぐかもしれない」

と思える一節が、原作にあります。

―――――

「だから、大学病院はワンダーランドなのだ」

―――――

この一文を免罪符として、結局のところ、映画による派手なエンターティンメントへの改変は、僕が最初に思ったほど、改悪ではないのかもしれません。

―――――

少なくとも僕のような門外漢に、「医療問題への関心を持ってほしい」という原作者の希望が、届けられているんですから。

―――――

(見る価値は…

うん、ある、と思う)

―――――

Jack

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めまい/「チーム・バチスタの栄光」

執刀外科医(吉川晃司)、第一助手(佐野史郎)、第二助手(玉山鉄二)、看護士(井川遥)、臨床工学技師(田口浩正)、麻酔医(田中直樹)、病理医(池内博之)。

―――――

以上が、心臓手術のスター軍団「チーム・バチスタ」のメンバーです。

―――――

27件もの超難しい心臓疾患手術を成功させてきたこのチームが、最近は3件立て続けに患者を死亡させている。

―――――

何か、当事者では気付かない「事情」があるのではないか。

執刀医の桐生准教授は、チームと関係のない第三者による調査を院長(國村隼)に依頼します。

白刃の矢を立てられたのは…

―――――

…と、いうわけで心療内科医・田口先生(竹内結子)と、厚生労働省の白鳥調査官(阿部寛)、登場です。

―――――

果たして、連続死は単なる事故か。

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それとも、誰かの故意によるものか。

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「チーム・バチスタの栄光」です。

―――――

いやはや…

―――――

劇場にこの映画を見に行った友人が、吐き捨てるように何度も

「最低だ」

と、言ってましたが、わっはっは!

―――――

いや、そのわけが分かりました。

―――――

退屈。

―――――

素直に見たら、たぶん誰のあたまにも、その二文字が浮かんできます。

―――――

集中力を切らさずにこれを見続けることが出来るのは、日頃、映画など見ない、つまり「ストーリーテリング」というものに、関心を払わずに、「画面に映るもの」に子どものような興味を持つことの出来る人です。

―――――

特に開巻30分、まったく埒があかない単調な展開は、映画好きに、苦痛を与えずにはおかないでしょう。

―――――

しかしながらこの作品、

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ご存知の通り、なかなかのヒットをものし、レンタル店では、今もって人気作。

―――――

すでに続編まで公開される始末です。

―――――

「L change the WorLd」について書いたときにも触れましたが(2008/8/24)、全体として退屈な映画がもてはやされるとき、

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たいていの場合は、「俳優の魅力」で「もっている」と言えるのだと思います。いや、

―――――

正確には、少し違うな。
物事は、正確に言いましょう。

―――――

「俳優の魅力で“もっている”」映画の実体に迫りましょう。

―――――

この「チーム・バチスタの栄光」という映画。

―――――

鍵を握るのは、むろん竹内結子と阿部寛のお二人ですが、かなり時間が経ってからでないと阿部さんは出てこないので、それまでは竹内さんお一人で「画面をもたせる」ことになる。

―――――

これが、キツい。

―――――

竹内結子という俳優さんが、どこか「受け身」の演技をする人らしい、ということが、シロウトの僕にも分かって、そこがまぁ、興味深いと言えば、興味深い。

―――――

つまり、誰かとの掛け合いで光る人らしい、ということです。

(はて? 掛け合いでない演技なんて、あるのだろうか)

―――――

「ひとりでは、キツい」ことをさておけば、竹内さんの、どこかトボけた独白の続く演技は、このひとの、ほんわかした魅力を伝えて余りある。

―――――

では、阿部さんが出てきてからは、どうなのか。

―――――

阿部寛・竹内結子のコンビは、ウマが合うのか?

―――――

それが、必ずしも合っているとは思えない。

―――――

「噛み合わなさ加減」の主な理由は、演出のせいでしょう。

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妙に間延びしたテンポで、阿部さんを除く各俳優さんのセリフは極力、抑揚なく発せられる。

―――――

阿部さんひとりが浮き上がってる…と、いうほどでもないのですが、それぞれの俳優さんが、他の人に関心を持たずに「ひとりごと」を並べている印象です。

―――――

凸凹コンビが、反目しあいながらも「やり取り」をし、事件解決に奮闘する様子を、スムーズに描いてくれたら、素直に楽しめたはずですが、「アヒルと鴨のコインロッカー」も手掛けた中村義洋監督は、そういう定石を、ある程度、サービスとして提示しつつも、どうやら「わずらわしさ」しか感じていなかったと、お見受けする。

―――――

もっと独自の発想で、違うことがやりたかったんでありましょう。

―――――

やりたかったこと。

―――――

この、想像力をいっこうに喚起してくれない映画に対して、精一杯の想像力を働かせれば、

―――――

それはこういうことだと思われます。

―――――

大病院で診察を受けたこと、ありますか?

―――――

大病院の中というのは、実に、入り組んだ作りになっています。

―――――

どこまでも続くかに見える白い壁と、ベージュの廊下…

―――――

カタカタと鳴る、手術道具を運ぶ台車の音。

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誰とも分からぬ患者を運ぶストレッチャー。

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生気の欠けた無表情で、待合室にたたずむ患者たち(病気なんですから、生気が欠けているのは、当たり前です)。

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機械のような朗らかさで患者の名前を呼ぶ、看護士たち。

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こうした、金属的で非人間的な「大きな空間」に、自分も「はまり込んだ」と感じるとき、

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どこか目眩(めまい)を覚えたりしませんか?

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自分は助かるのか?…

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いったい、いつまで、続くのだろう…

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このような「整えられた、しかし、とても病んだ空間」というのは、

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いかにも、現代を映している、と感じません?

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僕は、これこそが、中村監督の、描きたかったものだと思う。

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起伏のない場面展開も、派手な仕草を極力抑えた俳優たちの演技も、「無機質で現代的な異世界としての大病院」を、印象づけるためのもの。

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海堂尊さんの原作を読んでませんが、おそらく、大病院の非人間性にメスを入れるものではないか。

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監督は、原作が文章で伝えたものを、一種の「イマージュ」として、観客に渡そうとしたのじゃないか。

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しかしですね、

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そのような推察が、当たっている、として、ですが、

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イマージュにこだわり過ぎると、消えてしまうものがある。

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それは、人間の「肉感」です。

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殺人かどうかを追いかける「ドラマ」なんですから、そこには、「生きた人間」が居なくちゃ、困る。

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欲も、嫉妬も、野心も、様々な歪みを抱えた人間の姿がなければ、なによりも、「犯人」を描くことが出来ません。

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話し、飛びますが、ジェフリー・ディーヴァーの小説を原作にした「ボーン・コレクター」っていうスリラー映画を思い出します。

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様々な点で、納得の行かない映画だったんですが、僕が最も腑に落ちなかったのは、犯人が残虐な殺人を続けるに及ぶ「動機」でありました。

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ひとは、たかが、あれしきの理由で、誰かを死に至らしめたりするものだろうか?

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人殺しに凝る理由が、簡単過ぎやしないだろうか。

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え?

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なんですって?

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そうですね、

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おっしゃる通り。

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現実の世界では、謂わば「愉快殺人」とでも呼ぶべきものが、実際に起こっており、

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新聞でも、テレビでも、「動機の(根拠の)薄い殺人」が報道されることは、珍しくありません。

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しかし、「ボーン・コレクター」の犯人は、殺し方に異常なほどのこだわりを見せ、警察に挑戦状を送る、など、シリアル・キラーとしての性格を十二分に発揮しながら、

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最後には、ある種、極端に「まともな」、単なる妬みが動機であるのを打ち明けるのだ。

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やっかみが動機であるような、実に正常な神経の持ち主が、異常快楽殺人犯のような、凝りに凝った犯行に及ぶか?

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「この映画は、人間に対する見方が、浅い」

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それが、「羊たちの沈黙」という傑作小説を読んで、映画も見て、「こりゃ、すげぇ!」と唸った僕の、「ボーン・コレクター」に対する結論でありました。

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そうして、いま、また、同じような感想を、「チーム・バチスタの栄光」に対して、抱いています。

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大病院という異世界のイマージュを見せることにこだわる余り、この映画は、人間描写を犠牲にした。

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それでも魅力が残っているのは、変な言い方ですが、観客である僕たちが、映画の中に、

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俳優の個性を覗こうとする、「受け手としての努力」を発揮するからです。

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ますます変な言い方ですが、なんのことはない。

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この映画の魅力というのは、「俳優たちが魅力的であってくれ」と期待する受け手の願いが作り出す、「幻想」のようなものなのです。

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2時間もの間、実際には画面の中に存在しない(演出意図により、打ち消されている)「俳優たちの魅力」を探そうと、僕らは努力しますので、

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見終わると同時に、どっと疲れる。

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ありもしないものを、探しだして、「支えよう」と、集中するせいなのです。

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そういう行為を徒労と言います。

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それでも、こうして長々語ったのには、わけがありまして、

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吉川晃司という、非常に魅力的な俳優を「再発見」したことが、

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この映画における中村演出の功績かもしれません(まったくの徒労じゃないわけです)。

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イマージュなんかにこだわらなければ、中村監督という人は、役者を遇するに長けた方なのかもしれない。

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さて、
続編は、どうなのか?

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Jack

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運にこだわる/「ベンジャミン・バトン 数奇な人生」

Tall story または Tall tale とも言いますが、欧米には、いわゆる「ほらばなし」の伝統がございます。

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古くは「ミュンヒハウゼン男爵の冒険」。

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風よりも早く走れる男とか、ひと息でお城を吹き飛ばす男とか、奇想天外な人物が活躍する、でたらめの限りを尽くしたお話を、その時代時代の世相と絡めて語る。

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「ガリバー旅行記」なんかも、その伝と言えそうだし、ジュール・ヴェルヌの「八十日間世界一周」なんかもそう。

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そして、

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近年では、なんと言っても、「フォレスト・ガンプ」にそのとどめを指すでしょう。

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その「フォレスト・ガンプ」の脚本家エリック・ロスの新作が、

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「ベンジャミン・バトン 数奇な人生」

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バトンは Button ですから、洋服の「ボタン」と同語です。

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そのことも、内容に関わってます。

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病院のベッド。

横たわるのは、老婆のデイジー(ケイト・ブランシェット)。

かたわらには年若い娘のキャロライン(ジュリア・オーモンド)。

デイジーお婆さんは、長いこと封印してきたある日記帳を読んでくれるよう、キャロラインに頼みます。

そこには、デイジーの出逢った最も奇妙な男ベンジャミン(ブラッド・ピット)の綴った手記が…

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監督は、デビッド・フィンチャーです(ディヴィッドなのか、デイビッドなのか、デビッドなのか?

Wikipedia ばかりでなく、公式サイトにも、表記を巡って混乱があるようですが)

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わたくし、基本的には、このひとの作風が好きでない。いや、

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好きでないと言うよりも、このひとの「こだわり」が、理解しがたい。

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理解しがたいものを、

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「本当は理解しがたいけどね」

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という立場で、少し解剖してみましょう。

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「エイリアン3」でも「セブン」でも、また「ファイト・クラブ」でも、この作品にしても、

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このひとは、「運命」について考えつつ、描いている。

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そう見えます。

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その態度は、普通に見ると、ペシミズムと映ると思う。

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「ファイト・クラブ」の名前のない主人公、「セブン」のミルズ刑事、「エイリアン3」のリプリー…

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意に染まぬ運命を、受け入れていく人々。

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わたくしばかりでなく、アメリカ人一般が好きなタイプの主人公とも異なる、と言えるでしょう。

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米国でウケるのは、例えばテーブルにナイフで「NO FATE」(運命ではない)と刻みつけて、敢然と障害に立ち向かっていく「ターミネーター2」のサラ・コナーのような人物像であり、

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艱難辛苦を、悩んだ末の達観の果てに、包み込むように受け入れていくフィンチャーの、どこか仏教的な主人公たちは、はっきりと、「非アメリカ的」である、と申し上げてよいと思います。

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なぜ「運命に憑かれていく人々」に、また、そういう人の物語を作ることに、こだわりがあるんでしょう。

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…いや、このような問いかけでは、やや拙速に過ぎるようです。

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もう少し詳細に見ていきますと、フィンチャー描くところの人物たちは、悟りにも似た知覚で「運命」を感じ取り、それに流されるのでなく、「主体的に」それを選びとり、それと関わっていく。

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はたから見ると、運に翻弄され、悲惨な末路へと進んでいくかに見えますが、

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そうでなく、「常に主体が問題とされている」ことに気付くとき、そこにあるのは、アメリカ的な人生観、

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「運は自分で切り開くものだ」

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という人生観への、非常に深い問いかけなのだ、と見ることが出来そうです。

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なんとね。

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つまりは、このひと、大方のアメリカンに向かって、

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「きみ、どっか、歪んでないか」

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なにかが間違ってるよ、と言っているも同然だと思います。

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フィンチャーという人が、どこでそんな、「アメリカへの質問」を持つことになったのか、

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ちょっと、興味が湧きますね。

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よく考えてみると、フィンチャーの描く人物たちは、大雑把に言って、

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選ばなくちゃいけない

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という場面に立ち会わされるのだと言えると思う。

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自分の運命に、あくまでも抗うか、それとも受け入れて、それと積極的に関わっていくのか。

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このような問題について、統合失調症にかかる以前の僕は、いまとは考え方が違いました。

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以前は、

運を自分の手でつかめない場合もあるが、それは悲劇だ

と、ただ、それだけを思ってました。

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そういう僕にとって、創作物は、ある種の慰めに過ぎなかったと思います。
いまは違う。

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いま、僕は

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物語のような創作物には、悲劇にくさびを打ち込み、ひとに芯からの積極性を授けるちからが内在する、と思っています。

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世の中は、物語を、必要としてる。

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そうした理由から僕は、21世紀の今もひねこびた「サブカルチャー」への耽溺を続ける態度、例えばアメリカのTVドラマなどによく見られる態度には、興味を持ちつつも、与しません。

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「運命は自分の手で切り開くもの」

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そういう理想を創作物が語らなくなったら、誰が語るのか。

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そう思いつつ、再びフィンチャーについて書きますが、

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人は誰しも、選ばなくちゃいけない

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一生の中では、誰もがときたま、

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選ばなくちゃいけない

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という場面に立たされる。

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そのとき、フィンチャーの世界では、

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運命は自分の手で切り開く、

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と思わない主体が自ら運命(さだめ)に関わっていく。

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その先に待つのは、幸せな結末ではないかもしれない。

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しかし、主人公たちは、脅迫されて無理から運を受諾するわけではない。

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「受け入れた人生」を、あなたは否定するでしょうか。

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今回、フィンチャーはすこし、以前とは違って、成長を見せる。

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「人生は不思議で、どこまでも興味深い」

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そういう観点が出てくるのは、フィンチャー映画にとって、新しい発見です。

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運命をいささか悲観的に描いてきたこの監督の態度の変化は、この人と、この人が「問い」を投げかけてきたアメリカの、変化や成熟を表すものと言えるでしょうか?

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フィンチャーのペシミズムは、エリック・ロスの柔らかい Tall story により、上手いこと中和されているのでしょう。

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それにしても、

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人は誰しも選ばなくちゃいけない

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なぜ、その点にこだわるのか。

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それが「人生を描く唯一の方法である」とでも言うように。

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物語は見る者を勇気づけるべきだ、と思っている僕にとって、この論点は、まったくもって、不可解です。

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いかがでしょう。

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脅迫されたわけではないんで、「運命」を受け入れますか?

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(面白くなるかもしれませんよ)

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Jack

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