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2009年2月

お得なパンクを/「少年メリケンサック」

ジョニー・ロットンかジョン・ライドンか。

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そもそも、なぜ、彼は、ひとを惑わす「改名」などという挙に出たのか?

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「少年メリケンサック」です。

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メジャーレーベル「メイプルレコード」の契約社員、栗田かんな(宮崎あおい)。

契約期間満了を前に、ネットで掘り出し物的バンドを見つける。

アキオ、ハルオ、ジミー、ヤングの四人編成。

その名も「少年メリケンサック」。

ただならぬ個性を感じます。

社長(ユースケ・サンタマリア)に報告すると、大喜び。

「すぐ、契約をとってこい! そしたら、お前はディレクターだ!」

かんなは張りきって、このバンドに連絡をつけますが…

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やぁ、よいものを見せていただきました。

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パンクというと、チープ、単純、爆裂、轟音、暴力、破綻…

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と、なにか、そんなイメージがありますが、

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これは、宮藤官九郎監督(当然、脚本も)が本当に「冴えてる」ときにハッキリ見える

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あー!、ぶっこわして、スカッとしてぇ!

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と絶えず思っているらしい発散希求と、完全に重なります。つまり、

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この映画がその概略を発表されたときから期待されていた「テンション」が、多くのひとの期待どおりに、実現されていると思う。

(宮藤監督は、ご自身でも「グループ魂」なんてバンドをやってらっしゃいますから、この映画は、音楽に対する深い理解も交えた「真骨頂」と言えそうです)

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ところで、

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「パンク」と言えば、「セックス・ピストルズ」でありますが…

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あんまり予備知識なく、このバンドが残した「作品」に触れるとき、奇妙な感想が浮かびませんか?

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「アナーキー・イン・ザ・UK」にしろ「ゴッド・セイブ・ザ・クイーン」にしろ…

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エネルギッシュだなぁ、
青春だなぁ、
っていうような、全くズレた感想が…

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このバンドが現役だった当時は、「社会への反逆」とゆーよーなテーマを抱えていたのかもしれませんが、

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今では、そうしたアジテーションの部分というのは、まことに都合よく(ん? 誰にとって?)風化して、活力というか、「勢い」だけがCD化されていると思う。

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CDに焼き付いているのは、例えばプログレッシブ・ロックなどが、やたらごてごてと飾り立ててしまった「音楽の混迷」を解き放とうとする、強い意志です。

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いや、意志というより、やはり単なる「エネルギー」か。

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音楽の恍惚を回復しよう、という、ときに切ないまでの真摯(しんし)なエネルギーだけが保存されているのです。

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パンクとは、何か?

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この映画を見て、エネルギーを感じると同時に、可能な限り繊細な、冷静な質問を、慎重に投げかけたくもなるのですが、

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「パンクとは何か?」

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と、問うとき、フと、P・K・ディックというSF小説家のことを連想する(唐突な連想ですか?)。

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それは、この映画が、見かけほど単純ではなく、かなり真面目に「パンクがロックの真髄であるとは、どういうことか」を考える内容になっているからなのですが、

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ディックというひとは、もともと、切れ味鋭い短編小説の名手であり、

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たいへんに作劇術に優れていた、と言いますか、つまりは

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ストーリー・テラーでありました。

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それが、書いても書いてもさっぱり売れず、そのせいかどうか、年齢を経るだに、どんどん作風がやけくそになっていった。

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あー、もー、

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どーせ売れんのなら、好き勝手なことやるもんね!

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と、思ったかどうか分かりませんが、どんどん理屈っぽく思弁的になり、物語のかたちは崩れ、いったいなんのことを書いたのやら、「麻薬でもやりながら書いたんか?」と言いたくなるくらい凄まじい、大冊の、わけの分からない思想書のようなものを作り上げることに執着していった。

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つまり、小説家としては、どんどん破綻していったのでした。

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それでも作品には、えもいわれぬ不思議な魅力があったのですが、この

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「破綻しながら魅力がある」

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というか、

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「破綻してることも含めて、魅力があるのだ」

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というところが、音楽で言うパンクを連想させるものでした。

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トシ食うにつれて、「パンクの度合い」が高まっていったんですから、このひとには、若者の羨望を集める資格がある。というか、

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不良オヤジとして、事実、その作品は、若さを保存しております。

(チャールズ・ブコウスキーなどでなく、ディックを取り上げたところが、わたくしらしさでございます。おっと)

(そんなことは、どうでもいいことですね)

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で、

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この、「少年メリケンサック」です。

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これが、この映画の面白いところなんですが、この映画、

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「わ! 破裂した!」

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破綻するかな…

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と思うと、しない。

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何度も何度も、

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「わ! 今度こそ破綻する!」

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と、思うと、しない…

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エネルギーが解き放たれ、放出されて、筋の流れが「寸断される!」と思うと、ぐいっと「戻る」

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というような印象なのです。

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そこが歴戦の強者、宮藤脚本の強みであり、「凄味」なのだと思うのですが、ちょっとね…

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「うん…ほんとは破綻しちゃってもいいんじゃねーのか?」

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と、ちょっとね、
そんなふうにも思いました。

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ロックなんだしさ。

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テッテ的にぶっこわしても、いーんじゃねーの?

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などと思うのは、僕がコマーシャリズムをよく理解していない「観客」であるからでしょう。

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破綻しかかりつつ、ちゃぁんと分かりやすく、コマーシャル・ベースに乗ったものを作る。

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これを、「したたかさ」と言わずして、なんと言おう。

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思えば、セックス・ピストルズ大波乱の「仕掛け人」として、ロックとヴィヴィアン・ウェストウッドというファッション・デザイナーを結び付けたマルコム・マクラーレンなる「プロデューサー」がいたからこそ、パンクは一層の話題性を持ったのでした。

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宮藤監督のやろうとしたことは、言わば、ロックンロール・プレイヤーとしてのジョニー・ロットンと(つまり、純然たる「表現者」としての自分ですね)、一方「どうやって売るか」を考えるマクラーレンの立場を、一旦分断して、双方煮詰めた上で、

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で、このふたつをひとりでしょい込もうとしたようなものです。

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コマーシャリズムの世界にいる表現者なら、それは誰しもが取ろうとする立場でしょうが、

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ちょうど上手い具合に両者の間でバランスを取り、

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作品に結実させるというのは、なかなかな「妙技」なのではないでしょか。

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今回、劇中で演奏される楽曲のほとんどの歌詞を、宮藤監督本人が書いている。

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SMAPに歌詞提供されて以来、音楽への想いは、深まっておられるようです。

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佐藤浩市さん、田口トモロヲさん、はしゃぐ、はしゃぐ。

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キム兄、渋い。
三宅弘城さん、勝地涼くん、おもしろい。

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宮崎あおいちゃん、魅力爆発ですね、

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笑う、泣く、叫ぶ、甘える、うんこぶつけられる。監督、やりたい放題です。

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見終わると、監督の、(あの風貌からは、想像しにくい)自己主張、

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「これが、俺の考えるパンクです!」

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という、如何にもパンク的な、繊細で同時に骨太である「精神性」が打ち出されているのに気付きます。
ちょっとしたオドロキです。

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見る人は、セックス・ピストルズの音楽を聞くのと同じくらいに、「得」をするんではないでしょか。

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(そうです。「得をする」映画だと思うんですよ)

(ついでながら、佐藤浩市さんの若き日を、いま月9ドラマの「ヴォイス」に出てる佐藤智仁くんが演じてるんですけどね。

僕は最近になるまで、このひとのこと、知らなかったんですけども、いやぁ、

またひとり楽しみな若手がいるのを知りました)

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Jack

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取りつく島/「マンマ・ミーア!」

「雨に唄えば」って曲は、あの傑作映画が出来る前からあった、スタンダード・ナンバーだったんです。

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ご存知でした?

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元からあったスタンダードを、これ以上ないくらい見事に映画の柱に組み込んで、どしゃ降りの中の最高のダンス・シーンに仕立てたのは、監督スタンリー・ドーネンと、主演のジーン・ケリーのアイデアでありました。

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この映画をひとつの頂点として、バスビー・バークレーやスタンリー・ドーネン、はたまたジーン・ケリー、フレッド・アステアといった人たちが知恵を絞った1930年代から50年代のミュージカルは、みな「新しいアイデア」に満ちておりました。

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新しいアイデア?

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はい、例えば「雨に唄えば」には、超有名な「ブロードウェイ・メロディ」という、十数分続く、ダンスシーンがございます。

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このシーンのラストは、圧巻です。

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大勢のダンサーに囲まれてジーン・ケリーが唄っているかと思ったら、曲のラストで突然彼だけがぐぐーっと大アップになる。

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そのままケリーとカメラは手前に向けて移動し始める。

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まるで、彼ひとりが宙に浮き上がっていくような撮り方なのです。

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当然バックダンサーたちは、地上で踊り続けたまま。
どーっと後ろに下がってく。

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ついには、街を模したセットまで俯瞰になり、その中央でひとりクローズアップになったケリーが、

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「♪ That's the Broadway Me-lo-dyー」

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と歌って、大フィナーレ。

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CGなど無い時代ですから、このシーンでは、クレーンの上に、ケリーとカメラが一緒に乗り、

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観客の度肝を抜く映画的技巧を凝らしていたのです。

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映画ならではの見せ方を工夫しよう。

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これが、ハリウッド・ミュージカルの心意気でありました。

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「踊る大紐育」
「イースター・パレード」
「巴里のアメリカ人」
「バンド・ワゴン」
「いつも上天気」

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どれでも、けっこう。

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未見の方は、ぜひ一度、実験精神に満ちていた当時の、ハリウッド製ミュージカルをご覧になるのを、おすすめします。

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で、

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本題です。
さて、ここに、

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スウェーデンが過去送り出した最高のポップグループ、アバの曲ばかりを集めて、ミュージカルにしちまった、という映画がある。

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サントラ盤のCD売り上げも絶好調。

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そうです。

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とうとう「マンマ・ミーア!」です。

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どこまでも、青く輝く海。

さんさんと照らす太陽。

アメリカをはるか離れたギリシャの小島。

ここに二人の中年女性、ロージー(ジュリー・ウォルターズ)とターニャ(クリスティーン・バランスキー)が訪れる。

かつての歌手仲間で、いまは小さなホテルを経営するドナ(メリル・ストリープ)を訪ねるためです。

ドナの二十歳になる娘、ソフィ(アマンダ・セイフライド)の結婚式が近いのです。

だが、この訪問と時を同じくして、島を訪れる怪しげな三人の中年男あり。

ビル(ステラン・ステルスガルド。「宮廷画家ゴヤは見た」のゴヤ、大変身)、

ハリー(コリン・ファース、「ブリジット・ジョーンズの日記」、「ラブ・アクチュアリー」。ハンサムと言えばハンサム)、

サム(ピアース・ブロスナン、言わずと知れた、元ボンド)の三人。

いったい、この離れ小島に、何用でしょう?

実は、三人には、ある共通点が…

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こりゃ、もう、あれですね、

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なんにも考えないで、「ひたすら、ご陽気になってください」

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と、言ってるも同然の映画です。

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「まるでギリシャ喜劇みたい」っていうセリフが劇中にありますけど、確かにバッカスが作らせたような、ただただ、能天気な中身です。

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ギリシャ劇以外にも連想するものはあって、シェイクスピアの「お気に召すまま」とか「十二夜」とか、

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あと、モーツァルトの「フィガロの結婚」とかですね、

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男と女を巡る軽演劇の伝統にのっとってみたらしいのが、分かる。

―――――

が、これら軽演劇が、当時の世相への皮肉たっぷりに、つまり社会批判の毒を強烈に持っているのに対し、

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まぁまぁ!
さぁさぁ!

―――――

固いこた、言いっこなしで、盛り上がって!

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という調子で、内容は……
はっきり言って、ない!っ

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とにかく、徹底して、「なにもかも忘れて、ばか騒ぎして下さい」、って意図が露骨です。

―――――

しかし、

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ちょっと、引っかからないでもないんだよな…

―――――

これ、もともと、ブロードウェイの舞台なんですけど、映画化に当たって、

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これと言って、「映画的工夫が凝らしてある」という印象は、極めて希薄です。

―――――

確かに、カメラはよく動く。

―――――

随所に出てくる群舞も、楽しい。

―――――

しかし、

―――――

群舞と言っても、踊りの妙技を見せてくれるわけではないし…

(言ってしまえば、大勢で、やたら、はしゃぎ回るだけ)

―――――

おそらく舞台版のときにあったのであろう「ダンスで魅せる魅惑」は、けたたましいくらい数珠つなぎに掛かるアバの曲そのものと、くるくる動くカメラワークと編集とに、その役を譲り渡したかのようです。

―――――

しかし、

―――――

こういうのを、「映画的工夫」と呼んでいいんだろうか。

―――――

ちゃんと映画のためのオリジナル・ナンバーを作り、出演者全員が、よく鍛練の行き届いたダンスで魅せてくれた「ハイスクール・ミュージカル・ザ・ムービー」のほうを持ち上げたいですね、僕ぁ。

―――――

あちらのほうが、ハリウッド・ミュージカルの伝統を尊重してる、と言えると思う。

―――――

この「マンマ・ミーア!」のような作品を、「よく出来たおバカ映画」の系列と同等に並べたら、お叱りを喰うでしょうか。

―――――

よく、映画を見たあとの感想で、こういうの、ありません?

―――――

出来のいいコメディやアクションものを取り上げて、

―――――

「面白いけど、見終わったら、なんも残らない映画」

―――――

なんて言う人が、いるでしょう?

―――――

ああいう片付け方、僕は、大っ嫌い、なんですね。

―――――

なめてんのか!
おー!

―――――

ちゃんと、「楽しさ」が残っとるだろーが!
ばーたれ!

―――――

と、言いたくなるのが普通なんですが…

―――――

これに関してはなぁ…

―――――

徹頭徹尾、「腹にたまらない」、「劇場を出たら、さっぱりした気分だけが残れば、それでけっこう!」

―――――

と、言われている気がして…

―――――

なんと言うか、

―――――

取りつく島がありません。

―――――

(そういう芝居や映画がアメリカでもてはやされる理由は、分かる。

テロや戦争の続く暗い気分を吹き飛ばしてくれる、ということでしょう)

―――――

先日見た「ハイスクール・ミュージカル」について、

「いま、現に悩んでいる若い心は、この愉しさの中に、入っていけないかもしれない」

と言いましたが、

―――――

あれは、ある意味、悩める心にも語りかけている映画であります。

―――――

ちょっとでいいから、こっちを見て。

―――――

きみにも、きっと、愉しめるものがあるよ。

―――――

と、言ってるのです。

―――――

そこが、お節介な教育思想でもありますが(その思想は、若手俳優たちの躍動の影に、極めて上手に隠されているのですが)、それは、同時に「希望の種」でもある、と言える。

―――――

未来のことを気にするから、「若者に光」を、なんて「よけいなこと」を考えるわけで、そこへいくと、

―――――

この「マンマ・ミーア!」のほうは、

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とにかく!
いっとき、憂さ晴らしできれば、いいじゃない!

―――――

と言わんばかりのところがあって、そこが、

―――――

取りつく島がないのです。

―――――

酔っぱらったら、とにかく明るく騒ぎたい、という人が、「それとは、ちょっと違う」タイプの人を、「あっち行け」としたがったりする、そんな光景を連想します。

―――――

僕自身、酒は、たしなむ程度なので、「とにかく」明るく酔いたい「だけ」の人に出くわすと、まぁ、戸惑います。

―――――

「明るく酔いたいだけ」というのも、一種の「硬直」だと思うんだけどな…

―――――

この、完璧なまでに明るいだけの、つけ入る隙などない映画のことを、

―――――

なんか、硬直してないかぁ…

―――――

などと言ったら、やっぱり、お叱りを喰うでしょか?

―――――

(優れていても、硬直なものは、硬直だ)

(と、どうも、いかにも女の人たちが喜びそうな映画をけなすのは、気がひけるわけなんですが)

―――――

Jack

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THE BOYS ARE BACK!/「ハイスクール・ミュージカル・ザ・ムービー」

三作目です。

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三作目にして、

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とう、とう、映・画・になっちゃいました!

―――――

大好きです、これ。
このシリーズ。

―――――

本国でも、好評だったようで、まことに、めでたいことであります。

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テレビ番組の映画化については、おおむね疑問符を付けているわたくしですが、これに関しては、無条件に持ち上げたい(いや、条件はあるんです。あるんですけどね、これから言います)。

―――――

だいたいが、テレビ番組のときから、映画のような非常に華やかな作りでしたので、こうして本当に映画になったものを見ても、まったく違和感、「無理に引き延ばしてる、拡大してる」感はありません。

―――――

「ハイスクール・ミュージカル・ザ・ムービー」

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始まりは、トロイ(ザック・エフロン)とチャド(コービン・ブルー)の出場するバスケの試合から。

この試合が終われば、卒業間近。

ガブリエラ(ヴァネッサ・ハジェンス)とトロイの仲は、将来は、どうなるのか?

それぞれの想いを胸に、みんなして卒業制作のミュージカル舞台に出ます。

ひとりひとり、進路は、どうなって行くんでしょう?…

―――――

さすが映画になると、次から次へのミュージカル・シーンにも、金かかってる!

―――――

トロイにガブリエラ、シャーペイ、ライアンと、四人とも全米のティーンのアイドルですが、分けても、トロイ役ザック・エフロンの人気たるや、すごいらしい。

(「セクシーだと思う男優」の4位かなんかに入ってまして、オドロキましたが)

―――――

一作目を見たとき、脚本とソング・アンド・ダンスの素晴らしさに、深く感心し、我が国の「花より男子」などを例に挙げて、

―――――

「実際には、そんなに単純じゃない」

―――――

という毎日に取り巻かれてる学生たちが、自分らの暮らし振りに「明るいスポット」を当ててくれる人や表現を、待っているのだ、と述べました。

―――――

このときには、僕の中に、少し、「警戒心」のようなものがありました。

(2008年9/10のことです)

―――――

なので、この一作目を取り上げたときの、僕の文章は、いま読み返すと、ちと、恥ずかしい。

―――――

「警戒心」て、なんのこと?

―――――

それは、ですね、

―――――

「あまりに“アメリカ的”に過ぎる」表現方法に対する警戒心だったのです。

―――――

ひとは、本当に喜んでいるとき、「無敵」です。

―――――

このシリーズが、有無を言わせぬ圧倒的なパワーで打ち立てようとしているのは、「無敵の愉しさ」なのだ。

―――――

無敵かぁ…

―――――

いまどきのアメリカに、「無敵」でいてもらって、本当にそれで、いいんだろうか…

―――――

少しは、人生の苦渋や、世界の不条理を、分かってもらったほうがいいんでないか?…

―――――

「無敵の愉しさ」というのは、苦渋や苦悩を、すげなく追い払う態度でもある。

―――――

ここにあるのは「いま、現に、悩んでいる」という若い心が、おそらくは入っていけない愉しさでもあるのです。

―――――

というわけで、この映画の内容は、極めて単純明快ですが、

―――――

この映画を成立させた「背景」は、それほど単純なものではなさそうです。

―――――

その背景とは、おそらく、「大人から青少年たちへ、“いま”伝えるべきものはなんなのかを問い直しました」、といった思想です。

―――――

大人たちが困惑し、迷っている欧米世界に在って、

―――――

「子ども(青少年)らには、純朴過ぎるくらいの夢や理想を持ってほしい」

―――――

「愛や友情を信じる心を、いつまでも、大切にしてほしい」

―――――

という、願いです。

(いかにもディズニー映画らしい思想背景ですね)

―――――

これらを、少年少女たちに手渡すに当たって、押しつけがましくなく、また、「保守的だ!」という反発を招くこともなく、成立させるには、どうしたらいい?

―――――

いや、良いものが、トラディっショナルに、あーるじゃないの。

―――――

「ミュージカルが、“思想教育”に利用されている」

―――――

と、捉えるとき(それは、たぶん、“当たり”なのですが)、しかし、ここに現に実在している愉しさを、置き去りにした議論が、始まってしまいます。

―――――

ここに、こんなに素晴らしいものが、成り立ってるんだ(と、しつこく、今日は言いましょう!)。

―――――

「ミュージカルが、“思想教育”に利用されている」

―――――

今にして思えば、このような懸念が、一作目を見たときからあった僕の警戒心の源であり、

―――――

一方で、思想書まで援用しながら、その警戒心を取り払って近付こうとした愉しさの具現化が、確かに、ここには在るのです。

―――――

このシリーズを作った彼ら、ケニー・オルテガ監督以下の人々が、はっきりと考えているらしいのは、単に「子どもたちへ、良い作品を」ということでなく、上に挙げたような、「言い方を工夫しなければ、気恥ずかしいだけ」の清純な理念を若い世代に、そしてやがては彼らの子の世代へと、継承してもらうことなのです。

―――――

それが、アメリカだ、

―――――

と、彼らは断言するだろうか。

―――――

そう来ると、我が身と、我が同胞のことを考えます。

―――――

我々は、どうなのか。

―――――

我々には、ひたすら工夫なぞして伝え続けたい精神、理念、思想のたぐいは、在るか。

―――――

この分かれ目は、見かけほど簡単な別れ目ではありません。

―――――

この問いかけは、

―――――

「いったい、我々は、次の世代に譲るほどの何かを思想したことがあるのか」

―――――

という、途方もない問いかけになってしまうからです。

―――――

わたくし思うに、ここが、このポイントが、我が国とアメリカだけでなく、他の国と「アメリカ」を分かつ分岐点である、と思う。

―――――

例えば我が国にも、鎖国時代なぞには、伝え続けられていた伝承が、たくさんあったろうと考えますが、それは西欧風の意味で言う、「思想」などではなかったでしょう。

―――――

西欧世界との接触は、僕らの曾祖父から、「揺るぎないもの」を奪い取り、「どこか身の丈にそぐわぬもの」を残して、居座らせた。

―――――

で、その目で、いま、この映画を見るわけですが、

―――――

いいですね。

―――――

いいじゃないの!

―――――

21世紀の恐ろしい始まり以後、

―――――

僕らは、何が「アメリカ的」なのかを見極めようとする目を持つに至ってる。

―――――

自然な警戒心が、そうさせるのですが、

―――――

考えてみれば、恐ろしい体験によるショックを受けたからといって、

―――――

美点のすべてを捨て去る必要など、まったくありません。

―――――

そうか、
あちらでは、いま、「伝承」の価値を再考する時期に、入っているのか。

―――――

子どもたちに伝えようとするとき、歌と踊りのファンタジーに帰るというのは、いかにも、あちらの特徴じゃないか。

―――――

危機に瀕して、その国の特徴が現れる、というのは、別に警戒するほどのこともない。

―――――

こちらは、カタカナ文化の国でもある。

―――――

つまり、欧米の「こちらにとっての」魅力的な部分だけを上手に加工して、取り込んでしまう、そんな精神風土の我々です。

―――――

この付き合い方、僕らが自慢していい、「成功させてきた」外の世界との付き合い方、と申せます。

―――――

全部とは言わない。

―――――

こういう映画の、とびきり愉しい部分だけを(どこが、我々にとって快感なのか、それだけを)、上手に咀嚼(そしゃく)して、若者文化に活かせばよいのだ。

―――――

ん?
大人がそんなこと言ったって、可能でしょうか?

―――――

出来ますとも。
昨今華やかな若い俳優たちの協力を仰げば、難しいことじゃありません。

(我が国で、いま、二十歳前後の若い俳優たちが豊作なのは、偶然だろうか?)

―――――

この「ハイスクール・ミュージカル」、

―――――

ザック・エフロン、ヴァネッサ・ハジェンス、アシュレイ・ティスデイル、ルーカス・グラビール、コービン・ブルー…

―――――

これからが楽しみな、若い俳優たちの、ショーケースの役割も、果たしている。

―――――

ある種、とても教育的な内容なのに、おとな目線の嫌らしさが感じられないのは、ひとえに、彼らキャストの素晴らしい躍動によると思う。

―――――

やれやれ、

―――――

三作目にして、ようやっと、落ち着いて、この爆弾のような愉しさに向き合う態度が、定まってまいりました。

―――――

手塚治虫さんが、ディズニー・アニメと宝塚歌劇に多大なる影響を受けて作り上げた「漫画」のような展開が、この映画を見た日本の若い才能たちにも期待できるでしょうか。

―――――

そういう「派生」が起きてくるのが、創作の醍醐味だと思うんですね。

―――――

これからが、とても待ち遠しい気がするのであります。

―――――

Yeah.

―――――

Jack

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クレッシェンド/「チェ 39歳 別れの手紙」

1960年代半ば。

―――――

キューバ革命の成功に酔うカストロ革命政府から独り離れ、ゲバラはキューバを出国する。

―――――

革命政府の閣僚ポストを、約束されていたにも関わらず。

―――――

彼の残した手紙が、一通。

―――――

…親愛なる同志、そして我が友フィデル…

…このようなかたちで去ることを、どうか、許してもらいたい…

まだ、私が役に立てる国がほかにもある…

私の革命は、まだ続く…

名を変え、髪を剃り、アメリカの特使と偽って彼が入国したのは、軍事政府が人民を搾取し続けているボリビアだった……。

―――――

「チェ 39歳 別れの手紙」

―――――

極力ぐっと抑えたドキュメンタリー・タッチは、前作と変わらずですが、いやぁ…

―――――

僕ぁ、今回のほうが、だんぜん大好きですね。

―――――

なんででしょうね。

―――――

これは、あくまでも史実に沿った映画なので、最後にどんでん返しがあるわけではありません。

―――――

悲劇で幕を閉じることは、分かっていますが、それなのに最後まで持続する張り詰めた緊張感に魅せられて、かぶり付きで見終わりました。

―――――

前回は出ずっぱりだったベニチオ・デル・トロ扮するゲバラですが、今回は、ラスト40分くらいまで、目立ちません。

―――――

敢えて言うなら、今回は、チェは、主な登場人物のひとりではあっても、主役ではない。

―――――

今回の主役は、結成から1年足らずで崩壊していくボリビア・ゲリラという「集団」です。

―――――

なぜ、キューバで成功した革命は、ボリビアで挫折したのか。

―――――

ソダーバーグ監督の演出は、まるで、よく出来た倒叙ミステリの如くに、クールに、ときに冷徹に、

―――――

なぜ、カストロ抜きの、ゲバラだけの革命は、成功しなかったか?

―――――

を追っていく。

―――――

と言っても、映画は、「なぜ?」という困惑のみを見せることに徹して(そこが、この作品のユニークなところですが)、なにがしかの解答を観客に押し付けたりはしません。

―――――

僕らは、だんだん失敗に向かってキツくなっていく革命軍 = 「寄せ集めで士気の上がらぬ集団」の様子を、ただ呆然と見つめながら、ある感慨に囚われていきます。

―――――

ゲバラの武装闘争は、ボリビア政府の宣伝もあって、最後まで、民衆の理解を得られない。

―――――

では、

―――――

なぜ、現代のアフガニスタンなどでは、タリバンのような集団が、支持されるのか。

―――――

革命の成就を描いた前作も、アメリカの一極支配が通用しなくなった現在を、チェという男を通じて、透視しようとする内容でしたが、

―――――

ネットで資料を漁っていたところ、

―――――

ソダーバーグの本当に撮りたかったのは、この第二部のほうだ、

―――――

という情報を見つけました。

―――――

確かなところは、分かりませんが、こちらの第二部を撮っていて、何かしら「足りない」と思ったので、第一部を作ったのだとか。

―――――

この情報が正確ならば、ソダーバーグらの意図は、タリバンのような人々への(アメリカ人としての)戸惑いを隠さぬまま、彼らの行動に寄り添うことで、その心情に近付こうとすることでしょう。

―――――

そのためにソダーバーグらの採った方法すなわち、

―――――

リドリー・スコットのように、イスラム原理主義勢力との対決を正面切って娯楽映画に仕立ててしまう、という遣り方を避けて、

―――――

「反米の原点を過去にさかのぼって探る」

―――――

ことをしようとした方法は、大正解だと思います。

(ところで、「イスラム原理主義」というのは、「キリスト教原理主義」と同じような捉え方をすると分かりやすいので、雑多なイスラム過激派群をひとまとめに呼ぶために欧米が作ってしまった用語で、実際には、そんな集団は、存在しない、という説もあるそうですが)

―――――

「善悪を分けられない」

―――――

というのは、「映画」という基本的には、単純短絡なメディアの創作にたずさわる人々にとって、大問題です。

―――――

過去にもアメリカは、そういう時代を経験しています。

―――――

ベトナム戦争の頃ですね。

―――――

このときには、「卒業」や「ハリーとトント」のような、

―――――

戦争と直接関係はないけど、悩める姿を正直に表す、という映画が作られた。

―――――

「タクシー・ドライバー」という映画が出来たのも、戦争の影から抜け出せなかった当時です。

―――――

いま、また、アメリカは、

―――――

「なぜ、自分たちは嫌われるのか」

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という「単」にして「迷」な問題に、向き合わざるを得ない事態に、陥っている。

―――――

で、この「チェ」です。

―――――

第一部を見たときは、

―――――

「見応えはあるけど、なんか、かったるいな…」

―――――

というのが、正直な感想でしたが、なるほどねぇ…

―――――

これも007とおんなじで、「ひとくち(一本)では、言い切れない」という問題というか、ある種の「創作の壁」にぶち当たったんだな…。

―――――

それで、「観客動員が見込めなくとも、興業成績に影響しようとも、時間をかけて説明する」という態度に、発展していったんでしょう。

―――――

これが、

―――――

「あらゆる問題についての、明快な“解”が失われた時代」

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に、単純明快な「娯楽の種」を見つけようとする人たちの、「誠実な態度」であるらしいのが、理解できます。

(「24」のように、非常に素直で傲慢な創作を、対極として、思い出してくださぁせ)

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「パイレーツ・オブ・カリビアン」にせよ、「ダークナイト」にせよ、内容は、簡潔明瞭な娯楽映画と思えないほど複雑で、そして「映画の尺」が長い。

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これらは、明らかに、「今」という時代に関係があるのです。

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「ひとつの難問の、答でなくその「性質」を説明しようとして、話しが長くなる」

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これが避けようのない創作姿勢であることを痛感するとき、「娯楽」にたずさわる人々が、いささか、途方に暮れつつ、知恵と力を振り絞るのであろうことが、想像できます。

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今回、語る内容に反比例させて、短く終わろう、と思ってるので、(既に、短くないですが)あとは簡単に、この「チェ 第二部」の目立つ点を挙げて、締めましょう。

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風そよぐ山あいのジャングル。

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胸まで浸かって、敵の銃火に怯えながら渡る川。

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前作で登場したので、今回も出てくると思ったら、ほぼ完璧に描かれない、妻アレイダとのエピソード。

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意外なところに、マット・デイモンやルー・ダイアモンド・フィリップス(お懐かしや!)の登場。

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この複雑な事情の革命と、計り知れぬ革命家の行動を、ここまで「充実の単純化」で描ききったソダーバーグの力量。

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こういう人の創作意欲が衰えない限り、アメリカという「創作物」の持つポテンシャルもまた、底を見ないだろうと思うんです。

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Jack

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再び、きみは対抗文化を生きるのか?/「20世紀少年〈第2章〉 最後の希望」

「20世紀少年〈第2章〉 最後の希望」

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前作のラスト、「血の大晦日」から15年後。

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悪魔的陰謀から東京を救おうとしたケンヂ(唐沢寿明)は、逆に争乱の首謀者として汚名を着せられたまま、行方不明となり、モンちゃん(宇梶剛士)、マルオ(石塚英彦)、ヨシツネ(香川照之)らは、散り散りとなり、ユキジ(常盤貴子)も、ひっそりと暮らしている。

オッチョ(豊川悦司)は、捕らえられている。

ただひとり、15年前には幼子だったカンナ(平愛梨)だけが、事件の真相を突き止め、ケンヂの汚名を晴らそうとしていた。

「血の大晦日」から人々を救ったとして、今や世界に認められる存在となった、「トモダチ」。

果たして、トモダチの正体は?

ケンヂも知らなかった、「しん よげんの書」の、内容とは?

物語は、さらなる巨大な、クライマックスへ…

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昨年2008年の9/2に前作を取り上げたとき、僕自身の、特殊個別的事情すなわち精神病の悪化により、原作が描かれたときに読んでなかった、とお話ししました。

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今回のパート2が、やがて公開されることは分かっていたわけなので、それまでに原作を読もうか迷ったのですが、結局読まないまま、今回に臨みました。

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最大の理由は、

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堤幸彦監督が、何をするのか、見てみたい。

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まっさらの状態で、堤監督の世界に向き合いたい。

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そう思わせるだけの魅力が、前作にありました。

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ん?
なんか、引っかかる言い方ですね…。

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「前作は良かった」と、言っとるのです。

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今回は、どうなのか。

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うーん…

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これはぁ…

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なんと言うか…

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少々、「ガキっぽい」んでないの?

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最後まできちんと見終えると、そういう印象も薄れますが、最初の1時間は、正直な話し、ちょーっと、子どもっぽく感じました。

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主演のカンナ役・平愛梨ちゃんは大熱演ですが、

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事件に途中から絡んでくる小泉響子役の木南晴夏ちゃんも、たいへん面白いキャラクターですが、

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この二人の役柄に合わせるかのように語られる「トモダチの陰謀」だとか、「人類滅亡の計画」だとかが、いい歳こいた「大人」の僕には、「児戯」のように聞こえるんだな。

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理由はですね、

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映画の作りが稚拙なせいではありません。

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子どもっぽく見える理由は、「ロック文化」という「破壊の思考」が、いびつに変貌した結果、魔術的で非人間的な世界が出来上がる、という設定の「説得力の無さ」を、どうにも払拭できていないからです。

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この設定そのものは、原作にも在る物でしょう。

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読んでないですが、おそらくは、漫画の中なら、そのような内容が、読者をしてうなづかせる「力」を持っていたのだろうと思われます。

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なぜ、映画になると、その説得力は、薄れてしまうのか。

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これは興味ある問題です。

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この問題を解くには、かつてのロック文化の勃興(ぼっこう)と、そこに「商売のタネ」しか見なかったハリウッドの態度を、思い起こす必要がある。

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映画で恋の歌なぞ呑気に歌うプレスリーには、ロックの持つ本来的な「攻撃性」の影もなかった。

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ハウンドドッグは、牙を抜かれた「ロック・スター」と化しておりました。

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子どもではなくなった「少年」が、社会の成り立ちを、痛みと共に思い知らされ、純粋だけだった時期に想いを馳せつつ、空々しいだけの大人の論理に、悲壮なまでの抵抗を試みる。

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ロックのことを、

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「子どもだましのモンキー・ビジネス」

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と歌ったのは、忌野清志郎さんですが、そこに在ったのは、

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どんなにビッグになろうと、俺は支配体制側には組み込まれないぜ!、というツッパリであり、抵抗でありました。

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そう歌いながら清志郎さんは、ドームいっぱいの観客を楽しませていた。それは、

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大人の世界への幻滅を、素直な言葉で表現し(「素直な言葉」というのは、扱うのがとても難しいものです)、ばか騒ぎやって、楽しくヤリ続けてやるのさ、俺は、あとから来て同じように幻滅を抱えた奴らを、とことん楽しませてやるのさ、それで充分じゃないか、という宣言であったのです。

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ミもフタもない言い方をすれば、ロックとは「憂さ晴らし」と「俺は、ここにいるぜ」というただひとつの自己主張のための音楽であり、どんなに大きくなろうとも「王道にはなれない」(ならない)文化でございます。

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一方、「世界征服」とか、「人類滅亡」とかいったSF的奇想の本質を暴くなら…

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いい例が、ひとつあります。

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ショーン・コネリー = 007、1964年の大傑作「ゴールドフィンガー」。

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金塊王オーリック・ゴールドフィンガー(ゲルト・フレーベ)は、アメリカの金塊貯蔵所・フォートノックスを襲い、莫大な量の金を放射能汚染させようとする。

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名付けて、グランドスラム作戦。

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あまりにも漫画的なこのアイデアが、この映画では、まぶしいほどに光を放っているのは、なぜか?

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それは簡単に言って、「007」の存在も、どこかユーモラスな大悪党ゴールドフィンガーの存在も、共に、「遊び」であることを心得た、「大人の余裕」であったからなのです。

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「そんなことは、あり得ない」はずの話を、様々なジョークと小細工を交えて、最終的には大がかりに語ってみせるのが、大人の余裕というものです。

(大人なら、さぁ遊ぶぞというときに、いちいち「これは、あそびだけど」なんていう、うざったい断りを入れたりはしないものです)

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世界征服も人類滅亡も、本気でやろうとするなら、あそびでは済まないし、単なる自己主張だけで終わるはずのものでもない。

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ロック的なる「破壊の欲動」が、「あそびでは済まない現実」を自分なりに消化し、ついにはある日、メインカルチャーに、とって替わる。

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僕らは、これを本気で目指した集団が、過去に、現実の日本に存在したことを知っています。

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しかし、「彼ら」は、ついに「大人の余裕」なんてものを、身に付けることがなかった。

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最後まで破壊の欲動から離れられず、この日本の現実ってものと、折り合いをつけることが出来なかった。

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出来なかったからこそ、テロリスト集団と化してしまったのですが、堤監督のこの第2作は、そのへんの問題についての「総括」が、不明瞭なのではないだろか。

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「ロックの本質」とは、実はユーモアとは、相容れないものです。

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ミック・ジャガーやスティーブン・タイラーは、年齢を経ると共にそのことを悟って、「演奏する音楽はロックだが、やってることは、エンターティンメントだ」という具合に、上手いこと変身を遂げた、稀有の人です。

(スティングは、大人になるにつれて、ロックの持つ、若さゆえの「狭量さ」から、離れていった)

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今度の「20世紀少年」は、ロックという文化の持つ本質についての考察がボヤけているせいで、どこかぎこちなく、子どもっぽく感じるのでなかろうか。

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アクションと短いシークエンスの連なる後半に入ると、ちゃんと惹き込まれるんですけどね。

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それは「原始ロック的」な暴力性を、映画が取り戻していく過程にも見える。

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やっぱりロックは、過激でなくっちゃ。

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最後は期待させる終わり方をしてくれます。

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やれやれ、良かったよぉ。
疑問符で終わらずに済んで。

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何がロックなのか、判らなくなっている時代に、こういう映画を作ることが、もしかしたら「空想科学冒険」なのかもしれない、

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などというシニカルな感想も浮かんだりするんです。

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ふむ。

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Jack

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脚本(ホン)はネットを認めない/「誰も守ってくれない」

これはぁ…

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拾い物ですよ。

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けれん味たっぷりのタイトルと、「重苦しいですよ」と言わんばかりのCMに惑わされて、敬遠してる方は、かなり、損をしておられる。

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「誰も守ってくれない」

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都内住宅街で起きる、幼女殺人。

犯人は、すぐ捕まります。

18才の少年でした。

捜査の応援にかり出された二人の刑事、勝浦と三島(佐藤浩市、松田龍平)。

だが、彼らが任されたのは、加害者である少年の家族の保護だった。

加害者宅を取り囲むマスコミ、野次馬。

二人は次女の中学生(志田未来)を特に守るため、密かに、彼女を連れて自宅を出発しますが…

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わたくし、「踊る大捜査線 THE MOVIE」や、その続編などに、ほとんど「映画的興奮」を感じない者ですが、いやぁ!

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これには、かなり、やられました!

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君塚良一脚本としては、「バブルへGO!!」と同じくらい、好きですね。

(ですが、ちょっと複雑な感想も抱きましたので、後述しましょう。

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とりわけ、のっけから1時間くらいは、非常にテンポ良く運び、特に、加害者となった者の家族を、警察がどう扱うのか、おそらくはていねいな取材に裏打ちされた事務的な描写がたたみかけるように続き、かなり、惹き込まれます。

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今まで知らなかったことが、いっぱい。

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そーか、そーか。

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家族が犯罪を犯しちゃうと、こんな、とんでもねー目に合うわけか。

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どこまで、捜査の事実に即してるのかな。

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「とんでもねー目」?

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ほんとに、半端じゃないです。

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後半、テンポは落ちますが、そのぶん、殺人事件の加害者・被害者、双方の葛藤を描き、静かな中にも緊迫感を保って、間然するところがない。

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今のところ、君塚良一監督の、最高傑作と言えると思う。

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モントリオール映画祭で、脚本賞を受賞したのも、むべなるかな。

(脚本は君塚さんだけでなく、鈴木智という名がクレジットされています)

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出演陣にも触れましょう。

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佐藤浩市さんは、最近、やたらと映画で、お目にかかりますね。

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佐藤浩市、堤真一、役所広司。

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日本映画界は、この三人に、牛耳られているんでしょうか(今や、そこに、妻夫木聡さんが加わろうとしています)。

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しかし、出てくると、説得力があるんだから、仕方ない。

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この映画でも、佐藤さんは、過去のある刑事を演じ、渋い演技で魅せてくれます。

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そうして、彼と同等くらいの扱いで、この映画を成功に導いたのは、

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加害者の妹役、志田未来ちゃんの存在でしょう。

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物語のキイ・パーソンですが、絶えず状況に翻弄され、ひたすらうろたえる、という演技。

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なんでも、どシリアスな役柄なので、彼女から生々しい孤独感を引き出すために、監督は、わざと、周りの演者が、ヘンに親しく接しないよう「厳戒体制」を敷いたそうですが(監督本人が、ラジオの番組で、そうしゃべってました)、その効果のほどはともかく、彼女の演技力は十二分に引き出されてる。

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その他、佐々木蔵之介、柳葉敏郎、石田ゆり子といった人たちが、それぞれ適役を演じ、「君塚映画」の充実を、いやが上にも、感じ取ります。

(特に松田龍平さん演じる若い刑事は、テレビ版のときも良かったし、なんというか、不思議な魅力がありますね)

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さて、

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ここまで、褒めちぎりましたから、ちょっと気になること、言いましょう。

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見ていると、だんだん気が付きます。

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「踊る」シリーズや、そのスピンオフ「交渉人 真下正義」を見て、おやっ? と思う「ある批判的な視線」が、この作品にも、濃厚なのです。それは、

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端的に言いまして「若さの否定」と申し上げることが出来るでしょう。

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ちょっと話し、飛びますが、この映画の佐藤浩市刑事の人物造形を見ていると、レイモンド・チャンドラーという作家の作った、フィリップ・マーロウという探偵を、思い出します。

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マーロウ物は、たくさん映画にもなってまして、ロバート・ミッチャム、エリオット・グールドといった人たちが演じてますが、決定版は、なんと言っても、「三つ数えろ」のハンフリー・ボガートじゃないだろか。

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この三人を考えて頂いても、お分かりの通り…

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マーロウという男は、中年に差し掛かった、少しくたびれた「ダンディズム」の持ち主です。

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彼の有名なセリフとして、

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「タフでなければ生きていけない。優しくなかったら、生きていく資格がない」

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という言葉がありますが、これは、

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ある女に、「あなたみたいな優しい人が、どうしてそんなにタフでいられるの」と聞かれての、答えなのです。

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ここから汲み取れるのは、ある程度、年齢を重ねた男の、「プロフェッショナリズム」というやつでしょう。

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かたくななプロフェッショナリズムは、当然のことながら、「アマチュアリズム」を嫌う。

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現代のアマチュアリズムが、どこに集中するか、お分かりですか?

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それこそ、インターネットの世界です。

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「相棒 劇場版」でもそうでしたが、どうも、テレビの世界でご活躍の方々は、自分らが属しているのが、大きな権力装置である、というのを、「棚上げする」とは言わないまでも、かなり過小に見積もって、

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「ネット社会の闇」を、強調する傾向があるようにお見受けする。

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巨大でしかも揺るぎないように見える「システム」に、どっぷり浸かっている人々にとって、「混沌とした若さ」は、不気味な脅威としか受け取れないのでしょうか。

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ここで、僕はマーロウとは別に、もうひとり、ジル・ドゥルーズという人を思い出します。

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1980年代、ポスト構造主義の思想家として名を馳せたフランス人ですが、この人、

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テレビが大っ嫌いだったんですね。

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果たして80年代のフランスのテレビが、どういうものだったか分かりませんが、ドゥルーズは、バラエティ番組なぞ、「愚劣」で「おぞましい」とまで、言っている。

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別に、アタマが固いのではありません。

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この人には、テレビを「サブカルチャー」と見なす、ある種、「お気楽」な視線がなかったのです。

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どうやら、テレビというものを、「支配」や「圧力」の亜種と考えていたようです。

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我々は、日々、テレビの誘導に添って笑い、泣き、怒り、テレビの望むように感じるよう、知らぬ間に訓練されている。

―――――

それを、ドゥルーズは、「おぞましい」と言い切った。

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この「笑顔のファシズム」の網を抜け出すよう、発展・拡大しているのが「ネット」であります。

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そこに含まれる「闇」とは、若さが当然のように持つ暗闇です。

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若い発展型のメディアであるがゆえ、暴走も闇も抱えている。

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この映画のマスコミ批判は、正直言って、語り口は巧くとも、通り一辺。一方、

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ネットの不気味さについて取り上げたヵ所は、大手放送局をよく知る人の目で見た不気味さが、リアルです。

(せっかく褒めたのに、僕は、何を言おうとしてるんでしょう?)

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この映画の完成度の高さに舌を巻くと同時に、この作品でハッキリとおとしめられている「若者の世界」に複雑な「感傷」を持たざるを得ない、僕であります。

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いや、映画は、ほんとに、サイコーですよ。

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ですが、このサイコー振りは、「若くない日本」を強く感じさせるな。

―――――

そういうこと。

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(かつて、自宅のパソコンにハッキングを受け、それがノイローゼを通り越して、統合失調症発症の一因ともなった人間として、このように発言します)

―――――

Jack

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