« 2008年11月 | トップページ | 2009年1月 »

2008年12月

政治と心の健康と/「地球が静止する日」

「地球温暖化」というのは、実際問題、どの程度進んでいるんでしょう。

―――――

判りきった謎かけをしているのではなくて、わたくし、不勉強ゆえ、本当に知らないのです。

―――――

「地球が静止する日」

―――――

大学で宇宙物理学を教えるヘレン(ジェニファー・コネリー。この人の「俳優」としての努力には、まったくもって、頭が下がる。「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ」の頃から続く、「何も出来ない無力な美少女」という扱われ方を完全に打ち払い、「美しき演技派」の地位を確立しました)。

突然、彼女の前に、政府機関の者らしい男が現れ、有無を言わさず、不気味な施設へと連れて行かれる。

そこには、自分と同じように集められた、様々な分野の学者がずらり。

宇宙から飛来する謎の物体が、急速に地球に接近しているというのです。

衝突すれば、甚大な被害が予想される。

国防長官(キャシー・ベイツ)も、打つ手なし。

ヘレンは、衝突の瞬間、死を覚悟しますが、物体は驚くことに、スピードを変え…

―――――

なぜ、この映画がいまリメイクされたかは、あまりにも明白です。

―――――

宇宙から訪れる驚愕の地球外文明が発する人類への、いや、主に「アメリカという支配体制」への警告。

―――――

イラク戦争を通じての、そうして温暖化対策に対する国際ルール作りを通じての、「アメリカという国家の孤立」。

―――――

「孤立」に対して、意見を異にする人たちが、寄ってたかって作ったのでしょう。

―――――

つまり、これは、SF映画であると同時に、あからさまな「政治的映画」である、とも言える。

―――――

政治映画と政治「的」映画とは、もちろん、はっきり違いますが、強いメッセージ色を帯びているのは、どちらでしょう?

―――――

「アメリカ映画が社会的、政治的な主題に取り組むのは、いまにはじまったことじゃない。ずっとむかしから試みてきているが、相変わらず大衆をひきつけることができずにいるというだけのことだ」

――アルフレッド・ヒッチコック

―――――

ヒッチコックのこの発言は、現代の日本やアメリカに、どの程度当てはまるのか。

―――――

早い話し、この映画は、どこまでウケるか。

―――――

こういう企画に、希代の大根役者・キアヌ・リーブスを起用したのは、ぴったりです。

―――――

宇宙からの使者。

―――――

どこか無機的な表情と、ぎこちない動きは、この映画の主役を張るのに、資格充分(ちょうど「ターミネーター」のシュワルツネッガーが、非人間的な無表情で、そのままアンドロイドに見えたように)。

―――――

ところで、

―――――

この映画のテーマに、話しを向けましょう。

―――――

いま、現実に起きている様々な、「地球的規模」の問題に想いを馳せるとき、絶望に陥る人もいるかもしんない。

―――――

政治的・外交的にも、そして経済的にも、「世界の盟主」をもって任じたアメリカという国は、現在、袋小路に落ち込んでいるかに見えます。

―――――

この上は、もう、人間以上に進歩した文明を持つ「地球外生命」に登場してもらって、問題解決の示唆でも与えてもらうより、ほかはない。

―――――

と、いうような考えを持って作ったのか、知りませんが、少なくとも、「そうした考えを反映しているように見える」作品に触れると、

―――――

それは、要するに、キリスト教の終末論ではないか!

―――――

と、言いたくなりますし、実際、この作品は、終末論のような顔をしています。

―――――

この映画は、1951年公開のロバート・ワイズ監督作品「地球の静止する日」のリメイクです。

―――――

オリジナル版のほうは、「空飛ぶ円盤」の出てきた最初の作品でもあります。

―――――

1951年と言えば、日本が第二次大戦の戦勝国とサンフランシスコ平和条約を結んだ年。

―――――

既に1948年のベルリン封鎖以来、米ソは冷戦に突入しておりましたが、激しい共産主義の台頭に対して、「自由主義」という御旗をかかげ、ある意味、「大きな敵」がいるからこその燃え立つような若い気概を発揮していたのが、この頃のアメリカです。

―――――

オリジナル版には、前進主義、進歩主義に対する非常に楽観的な信頼がありました。

―――――

「人類は、自らの生み出した文明の価値とあやまちに正しく気付くことが出来るし、その「気付き」によって、世界を「在るべき姿」に変えていくことが可能だ」、という楽観視です。

―――――

こうした進歩史観は、このリメイク版では、ずいぶんと暗く沈んだ、ひとすじの「願い」のようなものとして、祈りを込めて、作られている。

―――――

これが、気になる。

―――――

世界が、いや地球人類の文明が、いま知られている様々な問題を乗り越えて、あらゆる方向に進化する可能性は無限にあるし、そういう無限の可能性を「文明」というものは、もともと持ってる。

―――――

これは、SFの基本的な発想です。

―――――

「無限の可能性」。

―――――

そうした基本的な主題でさえ、痛々しい「祈り」と化してしまうほどに、現在というやつは、萎縮し、閉塞してるのだろうか。

―――――

一方で共産主義との戦いに無尽蔵とも言える資本と暴力を費やしながら、片方で、自由主義の美しくも希望に満ちた未来を唄いあげる。

―――――

これが50年代のアメリカが標榜していた態度だろうと推察しますが、いまはどうやら「時代が違う」と言えそうです。

―――――

今回の映画は、もちろん、型通りのハッピーエンドを向かえますが(まさか、これを「悲劇で終わる物語」と思って観る人は、いないでしょう!)、その結末が持つ「楽観の力」は、「極めて」と言っていいほどに弱い。

―――――

いまという時期に、大きな平和、という問題を扱うのは、それが、「そう簡単にハッピーな結論は引き出せない」という状況のなかで、野心的な企画なのだと思いますが、

―――――

「簡単にハッピーにはなれない」じれったさが、これを観た感想を、すっきりしないものにしているのです。

―――――

が、

―――――

敢えて言うなら、すっきりしないものが残るからこそ、たまには、こういう「超巨視的」な観点から刺激を受けるのも悪くない。

―――――

考えても結論が簡単に出ない問題をひとつやふたつ、心の中に留めておくのは、たぶん、現代人として、健康的なことだろうと。

―――――

(まぁ、そういうことを、「心の健康を極端に害した」経験のある者として思う次第です)

―――――

(よいお年を)

―――――

Jack

| | トラックバック (0)

恋焦がれて/「K-20 怪人二十面相・伝」

あの…「わははははは」って笑い方、真似したくなりません?

―――――

なるでしょう、
「わははははは」。

―――――

だいたい、「わははははは」、って笑ったこと、ありますか?

―――――

僕は、ないです。

―――――

「あはは…」なら、あるんだ。

―――――

「あはは…」の「…」が、ポイントです。

―――――

なんか、力が抜けるような…

―――――

中途半端な、しまらないような…

―――――

つまり、「気抜け」してるだけなんですね。
ははは…

―――――

映画の二十面相は、「わははははは」というよりは、「わぁははは、はは!」と笑ってます。

―――――

「わははははは」というのは、それを聞くと、いろんなことを連鎖反応的に思い起こさせる、いわば「記号的」笑いです。

―――――

「記号的表現」とは、観客たちを「大衆」へと変貌させ、映画館を「街頭テレビの設置場所」へと置き換え、そして、映画という、その成り立ちからして「保存物」であるような表現を、今まさに起きている事件・出来事へと差し換える。

―――――

つまり「記号的表現」は、それが触れる人・ものを、アクチュアルでライブな何かへと変えるのです。

―――――

「K-20/怪人二十面相・伝」

―――――

「アンフェア the movie」の佐藤嗣麻子、監督・脚本

―――――

第二次大戦のなかった、別世界の日本。

1949年。

帝都・東京を騒がせているのは、正体不明の大泥棒、怪人二十面相です。

そんな折り、

サーカス団のスター、曲芸魔術師の遠藤平吉(金城武)は、その敏捷さを買われて、ある日、カストリ雑誌の記者を名乗る謎の男(鹿賀丈史)から、怪しげな頼みを受ける。

近々、婚礼の決まっている名探偵・明智小五郎(仲村トオル)と財閥の令嬢・葉子(松たか子)との、結納の儀を、こっそり写真に収めて欲しい、と。

金に窮していた平吉は、頼みを引き受け、ビルの屋上から、二人の様子をうかがって、カメラのシャッターをきりますが…

―――――

この作品の「欠陥」を指摘しようとすれば、スラスラと、言葉が出てくることでしょう。

―――――

曰く、スピード感に欠けたシークエンスの連続…ぎこちない台詞のやり取り…冗長なだけでリアリティに乏しい、懐古趣味的な社会主義リアリズム風観点、など…。

―――――

そうしたことを、とりあえず置いておいて、この映画の魅力のほうを語りましょう。

―――――

まずVFXも交えた美術でしょう。

―――――

画面内に「すき間」があることを感じさせない、充実した美的センス。

―――――

凝りに凝った美術と、金城武という特異な俳優のもたらす魅力は、脚本と演出のたどたどしさを補って余りある。

―――――

↑この2つが、映像の流れの中で組み合わさるとき、いくつもの記号的表現は、たくさんの「連想」を生み出す魔術を持って、迫ってきます。

―――――

卓抜なアイデアは(原作があるので、原作に依るのかもしれませんが)、怪人二十面相が「マスクとマント」を着けている、という設定にしたことです。

―――――

「マスク」、「マント」。

―――――

最もシンプルで力強い、「記号的表現」です。

―――――

記号的表現とは、つまり、観る人の無尽蔵な「思い出」と、交換可能な表現だ、ということ。

―――――

なに?
マスクとマントで思い出すものなんて、そんなにない?

―――――

いやいや、

―――――

ひとりひとりの思い出なんて、たかが知れた量でしょうが、これが数十万人の思い出の「総体」となると、どうでしょう。

―――――

「無尽蔵」だと、思いません?

―――――

バットマンや黄金バット、怪傑ゾロ…、それに江戸川乱歩の小説「黄金仮面」に登場する、仮面の怪人などの記号的表現です。

―――――

それらに連なる、いくつもの「仮面とマント」の「謎の男」のイメージが、ロマンが、湧いてくる。

―――――

この映画は、いつの世でも人をワクワクさせてきた「記号的表現」に満ちている。

―――――

戦前を思わせる黒々とした「帝都」のデザイン。

―――――

それは、戦前風であると同時に、手塚治虫の初期作品に描かれた、「実現しなかった未来都市」の夢をも包んでいる「懐かしい大都会」の景観です。

―――――

この映画を、「冒険活劇」に分類して、事足れりと出来るでしょうか。

―――――

過去の冒険浪漫譚の「記憶」をなぞることで、この映画が出来ている。

それはそうです。

―――――

ですが、「記憶」、とは、なんでしょう?

―――――

この作品の、目立ちにくいセンスの一端、「繊細さ」に関わることなので、十分注意した手つきで取り扱いたい、と思うのですが、

―――――

「映像の連鎖」で出来上がる映画は、ときに過去の名作に触れたときを思い出させる、つまり「記憶の追跡」であり、同時に、

―――――

観客を映画の中のアクションに巻き込む、という意味において、「行動の代理」でもある。

―――――

新作を見ながら、「はい、はい、あー、あったな、昔、こうゆう映画や漫画…」と感じることで、僕らは、ワクワクしていきます。

―――――

真似したかったよ、こういうの。

―――――

二番煎じ、と思わない。

―――――

なりたかったよ、こういうかっこいい、謎の男に。

―――――

で、それからこれ、かなり興味深い点だと思うんですが、この映画全体に溢れるのは、「アクション映画を作ろう」、「冒険浪漫を作ろう」ではなく、

―――――

「男の子の冒険活劇に焦がれていた、子どもの頃を思い出させて!」という、どちらかというと「少女趣味」と言ってもいいような、「気恥ずかしさ」が、作品を突き動かす原動力になっている点です。

―――――

名香智子さんや青池保子さんら、「男の冒険に素朴な憧れを示す少女漫画家」の描いてきた世界ですね。

―――――

そして、もうひとつ。

―――――

劇中、相変わらずの不明瞭な日本語で右往左往する金城武を観ることは、僕らに、「孤独とはなんなのか」を、思い知らせる。

―――――

実際、映画の中で、罠にはめられた金城武は、孤独な異邦人がそうするように、途方に暮れてみせるのです。

―――――

謎の男で、孤独な男…

―――――

ね。

―――――

どれ、とは言えずとも、昔貴女が熱狂した「男の美しさ」が、よみがえってくるでしょう?

―――――

それでは、まるで、「ハーレクイン・ロマンス」ではないか!

―――――

はい、当たりです。

―――――

かつてのコバルト文庫的、と言ってもいい。

―――――

それがですね、

―――――

僕はハーレクインも読みましたし、少女漫画に夢中だったときもあるし、コバルト文庫を面白がったこともある、

―――――

ので、

―――――

この、緊密でないけれど「背中がむずがゆくなる」ほど楽しい「気恥ずかしさ」をオススメして、貴女がどういう感想を持たれるか、ぜひ、聞いてみたいと思うんです。

―――――

たくさんの人の、漠たる思い、「怪しい記憶」を掻き立てようとするこの映画が、実際にどれだけ「大衆娯楽映画」として機能するのか、

―――――

この映画が明らかに「復活」をもくろむ「大衆」なる存在が、そうたやすく見つかるものか、

―――――

希望としては、そういうことを、「ちょっと怪しい地点」から、「謎の男」として見つめてみたい!

―――――

なんてね。

―――――

(こういう映画を、ひとくちに「面白い」と言って済ませられないところが、現代日本の、困ったところだと思うんです)

―――――

(僕の、困ったところではなくて)

―――――

Jack

| | トラックバック (0)

論理や!数理や!、痛快や!/「運命じゃない人」

算数の問題です。

―――――

1+2+3+4+5+6+7+8+9は、全部でいくつになりますか。

―――――

はい、この手のことに得意な人には、カンタンですね。
暗算するまでもない。

―――――

「運命じゃない人」です。

―――――

中村靖日

霧島れいか

山中聡

山下規介

板谷由夏

―――――

ほとんどが、知らない俳優さんです。

―――――

そんな俳優さんたちで、何を撮る?

―――――

同棲中のカレシとケンカ別れし、バッグひとつでアパートを出てきた娘。

ふらりと入ったファミレスで、ナンパを受けます。

一方、私立探偵を友人に持つ平凡なサラリーマン。

その友人に呼び出され、帰宅したばかりだというのに、仕方なく、待ち合わせの場所に向かいます。

この男女、どこでどう結び付くんでしょうか。

話は次第に広がり、飛躍して…

―――――

いやぁ!

―――――

大好きですね、こうゆうの!

―――――

「アフタースクール」(大泉洋、佐々木蔵之介、堺雅人、常盤貴子、田畑智子)がヒットしたおかげで、内田けんじ監督・脚本の劇場映画第一作であるこれが、近所のレンタル店に入りました!

―――――

その「アフタースクール」が、めちゃめちゃ面白かったし(傑作だと思います)、その前のこの映画が、カンヌでなにやら4冠に輝いたと言うし、大いに期待して見ましたが、まったく裏切られませんでした!

―――――

内田監督の戯作法を見ていると、なんらかの規則性、法則性を追いかけている、と、そんな感じがいたします。いや、いたし「ました」。

―――――

これは、「第一印象」というやつです。

―――――

その後、(僕にとっての)印象が、どう変わったか。

―――――

それは、あとで述べましょう。ところで、

―――――

もひとつ、算数の問題です。

―――――

2χ=5χ+18 のとき、χの値は、いくら?

―――――

考えちゃいけません。

―――――

さらっと、出ますか、答えが。

―――――

こういう設問に対しては、「ひらめき」が、最も大切なものなんです。

―――――

賛同していただけると思いますが、内田監督の脚本・演出に、どこか、「数理的なひらめき」を見てとります。

―――――

「アフタースクール」もそうでしたが、3歩進んで2歩下がる、といった感じの「構築的」「論理的」な構成が前面に出た作りが、非常に新鮮に映るのです。

―――――

そして、ここが興味深く、面白い点ですが、そういうひらめきがあるのに、映画全体の印象は、理屈っぽくない。

―――――

「理にかなった作り」を追いかけているのに、理屈っぽくない。

―――――

素晴らしい。

―――――

「アフタースクール」公開のとき、この監督の作風を(劇場映画2作にして、早くも、強烈な「作風」がある。素晴らしい)、単なるパズルゲーム好きで、人間洞察の深みに欠ける、とした、非好意的批評がありましたが、強く抗議したい。

―――――

それは違う。

―――――

この映画と「アフタースクール」の2本に在るのは、数学者が無機質な数の世界を「“この世”という世界そのものに対する物の見方」として、いわば逆転させて開いていくような、「数理の規則性がつむぎだす、“ドラマの実感”」であるのです。

―――――

↑ここまでで、僕が使っていない言葉がある。

―――――

「分析的」という言葉です。

―――――

内田作品に強く走る「ロジカル」な印象は、多彩な登場人物が織り成すドラマを分析的に、いったん分解して、改めてなんらかの理屈にのっとって「再構築」した成果なのか。

―――――

僕は、ミステリをよく読みましたので(いまは、ちょっとご無沙汰ですが)、ミステリというものが、いったん情緒的なドラマを分析・解剖して、ある理屈(犯罪のトリック)にのっとって再構築していくようなもの、ではないのを知っています。

―――――

そうではなくて、ミステリのドラマというのは、「論理的なトリック」が無数に派生させるドラマを、自由に拡げた結果、出来上がっているものなのです。

―――――

先ほど言ったことを、もう少しロマンティックに展開しましょう。

―――――

無機質に見える「数と論理の世界」には、ひとを魅了してやまない「叙情」の種が詰まっている。

―――――

コンピュータが、音楽や絵画やアニメを作り出すことを見ても、それは、明らかです。

―――――

CGアーティストの方などはよく(非人間的と言われることを嫌ってか)、「コンピュータは道具に過ぎない」などと言う。

―――――

遠慮することはない。

―――――

それは、違うでしょう?

―――――

コンピュータ、特にパソコンについて、2008/6/7付け「パイレーツ・オブ・カリビアン」の記事で、「異界とつながるテクノロジー」だ、と書いたことがありますが、

―――――

この箱型計算機には、それとは別の、自発性と創造性をうながすような、健全な「工作機械」としての面も、むろん、ある。

―――――

コンピュータを使って産み出す作品には、「分析的なものの見方」が実はふんだんに含んでいる「分析しきれないものを明らかにする」、そのことの明快さがあるのです。

―――――

だから、健全な創作家であるような人々は、ロジックやコンピュータに魅せられる。

―――――

「分析しきれないもの」が、あらわになることを求めて。

―――――

内田監督は、脚本を書くのに、パソコンを使うんでしょうか。

―――――

「ワード」を使って文章を書いたりするんだろうか?

―――――

するんでしょうね、おそらく。

―――――

コンピュータという工作機械の魅力は、「割りきれないものをあらわにする」ところにあります。

―――――

この箱型機械は、それが「異界へつながるためのテクノロジー」であるのと別に、「機能的社会の中にも、ちゃんと溢れている“ひと臭さ”」を掻き出すためにも使える、という特徴を持っている。

―――――

それは、何事につけルールづくめで、「筋を通す」ことでしか成立していないかに見える大人の世界に、「割りきれないもの」があることを、ある意味「暴力的」に開示してまで「ひとの暮らす社会が、本来、持っているはずの豊かさ」を明らかにするための「切り札」として、使えるのです。

―――――

ですが、そのような、「切り札としての痛快な機能」を、世の中は、使いこなしているでしょか。

―――――

コンピュータが「パソコン」と化し、インターネットが単に「ネット」と呼ばれるようになるにつけ、「暴力的なリフレッシュ」の大切さは、世の隅っこへ、置き去りにされている。そんなとき、

―――――

いや、内田監督の登場です。

―――――

このひとの新鮮さは、コンピュータという「ロジカルな道具」が「魔法の箱」だったときの、それに関わった人々の、豊穣なドラマを連想させる。

―――――

論理・数理は、ひとを輝かせ、世の中を暴力的に豊かにするためにこそ、存在してる。

―――――

さあ、

―――――

もう言ってもいいでしょう。

―――――

第一印象は、どう変わったか。

―――――

内田けんじという人は、論理や数理を追いかけているのではない。

―――――

追いかけるのでなく、「論理的なるアイデア」の無機質から始めて、「ひとの物語」にたどり着こうという「想い」が強烈だ、と、

―――――

そういうことじゃないだろか。

―――――

それは、観る人と描く人が、一緒に「回復する」ための、優れて現代社会を意識した戯作なのです。ところで、

―――――

答えは、−6 ですが…

―――――

ひらめかなかった大人のあなた。

―――――

算数の本で、勉強しますか?

それとも、内田監督の映画を見ますか?

―――――

どうします?

―――――

(などと、終わり方が蛇足ですが)

―――――

Jack

| | トラックバック (1)

カルトは田舎をだーい好き?/「ホットファズ -俺たちスーパーポリスメン!-」

「カルト」っていうと、アメリカ辺りでは、かつてのオウム真理教みたいな狂信者の集まり(本当に彼らは、狂信者だったのか)になっちゃうんでしょうけど、日本では違います。

―――――

日本語で「カルト」と言えば、「狂信者と言ってもいいくらいに、何かに熱中する、オタク的連中の、世にまだ認められない、チープさの漂う愛情行動」を、指しています。

―――――

「ホットファズ -俺たちスーパーポリスメン!-」

―――――

ご存知でしょうけど、昨年2007年に英国で公開され、大ブームを呼んだ(らしい)、クライム・コメディです。

―――――

日本では、どういうわけか(いや、「わけ」は分かる。あとで述べます)、お蔵入りしそうだったものを、公開を熱望するファンの「署名運動」によって上映にこぎ着けた、という曰く付きの作品です。

―――――

ロンドン警視庁きってのやり手、ニコラス・エンジェル巡査部長(サイモン・ペッグ)。

だが、そのやり手ゆえにうとまれ、上司(「ラブ・アクチュアリー」や「パイレーツ・オブ・カリビアン」のビル・ナイです。特別出演)から、郊外の少都市サンドフォードへ、左遷させられてしまいます。

犯罪多発の首都に比べて、極端にのどかな町。

エンジェルのやる気も空回り。

強盗も殺人も、数十年間一件もないので、同僚警官たちも、まったくやる気なし。

騒ぎなど、何も起きない…はず、だった…のですが…

―――――

テンション、たっかいなぁー!

―――――

たぶん、情熱込めて、作ったんでありましょう。

―――――

とにかく、エネルギーの量が、すごい!

―――――

たまに、こういう映画が出てくるんです。

「映画愛、たっぷりありますよ」と言わんばかりに、映画史的には軽く見られがちな作品群への、オタク的知識を披露する。

―――――

速射砲のようなセリフの応酬と、パンクのノリを連想させる、短いカットの連続する編集。いや、

―――――

パンクというより、この画像のつなぎ方は、コミックです。

―――――

とにかく、様々な映画の断片的な「記憶」が、挿入される。

―――――

「バッドボーイズ」、「ハートブルー」、「バックドラフト」に「スクリーム」や「オーメン」…

―――――

どれも、はっきりB級と言われそうな、「男の映画」へ向けられた、「偏愛」の視線です。

―――――

後半、これでもか!のアクション・シーンの連続は、見る人によっては、ちと、やり過ぎに映るかもしんない。

―――――

監督エドガー・ライトと主演サイモン・ペッグの二人で、脚本を書いています。

―――――

ジョエル・シルバーやマイケル・ベイの作る映画を、本当に大好きなんだろうな。

―――――

元007のティモシー・ダルトンが怪しい役で出ていたり、映画ファンには嬉しい設定が散りばめてある。ん?

―――――

…はて。

―――――

ここまで読んでくれた方。

―――――

なんとなく、ヘンじゃない?

―――――

なんとなく、突き放したようなコメントが続くでしょう?…

―――――

そうです。
そうなんです。

―――――

「そんなに大騒ぎするほどのもんかぁ?…」

―――――

というのが、僕の率直な感想です。

―――――

この映画がお蔵入りしそうになった事情は、分かる。

―――――

全編、英国の片田舎が舞台となり、ロンドン出身の敏腕警官が必死になればなるほど、周囲ののどかさと、ギャップが出てくる、と…

―――――

そこが面白い(はずの)わけなんですが、たぶん、配給会社のほうでは、「英国の田舎事情を知らないと、面白さが、伝わりにくい」と判断したわけなんでしょう。

―――――

そんなことはないんですが、別の(いや、「逆の」、と言ったほうがいいかな)問題がある気がする。

―――――

「地域社会の閉鎖性」といったものは、

―――――

僕らにとっては、横溝正史なんかを通じて、「お馴染み」過ぎる、ということなんです。

―――――

ちょっと分かりやすい例を挙げましょう。

―――――

「コヨーテ・アグリー」っていうジェリー・ブラッカイマー制作の映画があったでしょう?

―――――

あの映画で主人公は、のどかな田舎町を出て、大都会ニューヨークに向かうわけですね。

―――――

歌手になりたいんですが、初め、冷たく拒否される。

―――――

都会の現実を知るわけです。

―――――

「大都会というものは、すべてがシステマティックに動いており、新参者を受け入れる余地などない」

―――――

いや、それは表面的な見方であり、実は巨大なシステムの裏で、ゲリラ的に活動するサブカルチャーの多彩さがあることに、主人公は、気が付いていくわけですが…

―――――

これとまったく逆のことが、「田舎映画」には言える。

―――――

バイク旅行をする「イージー・ライダー」たちを受け入れなかったのは、アメリカの地方の「因習」だった。

―――――

片田舎という場所は、次から次へと新しいスポットが建設される都市部と違い、代々続く「伝統」に囲まれた、「変化を拒みたがる」場所です。

―――――

よそ者や異質な者を受け入れないのは、実は、ムラ社会・田舎のほうである、

―――――

と…

―――――

なぁんてね、

―――――

そういうことは、もう、みんな、知ってるでしょ?

―――――

この映画、若いエネルギーで作ってる割りに、作品の根本を支えるロジックのところで、「昔から言われてきたこと」に、頼り過ぎている気がするな。

―――――

今は、地方に住んでいても、インターネットを通じて、外国とも大都会の闇とも、簡単に通じ合える時代です。

―――――

考え方が古いんでないかなぁ。

―――――

僕の記憶が確かなら、連続幼女殺害事件の犯人・宮崎勤は、地方の奥地に住んで、東京で事件を起こしていた。

―――――

↑そういうことを思い出させる、ということ自体、「田舎のねずみと都会のねずみ」じゃありませんが、どっか、感覚的に、「現在」と絡んでいない気がします。

―――――

映画が誕生して百年以上、テレビやポップ・ミュージックが誕生して数十年経っている。

―――――

これらは、今や、どう考えても、現代文化の中心です。いや、

―――――

徹底して言うなら、「かつてサブカルチャーと呼ばれたもの」の登場により、現代文化は、「何が中心で、何が周縁か」、はっきり分けられなくなりました。

―――――

この映画の「オタク性」は、そうしたごった煮的現代の実相に、向き合っているとは、思えない。

―――――

むしろ、そのような現代性を嫌って、整理整頓された田舎に「引っ込んだ」かの印象です。

―――――

カルトが大都会の喧騒を嫌って田舎に引っ込むなんて、悪い冗談なんじゃないかなぁ(そこが「新しい!」と言えば言えますが)…

―――――

事件は解決され、映画はハッピーエンドを迎えますけど、優れて「現代的であるかどうか」を問うなら、「踊る大捜査線」のほうが(映画版は映画的興奮に乏しいが)、今日的だと思いますよ。

―――――

この映画がウケるのは、「カルトというもの」が価値を持ち、光を放った頃を連想させる「郷愁」に満ちているから、かもしんない。

―――――

「郷愁」か…

―――――

つまらないわけではないので、迷いますが、やっぱり言おう。

―――――

「郷愁を誘うカルト」なんて、年寄り臭いものに署名運動するくらいなら、ほかに、もっと、エネルギーをかける場があるんじゃないの?

―――――

(などと、おじさん臭いことを言ってみたりなんかして)

―――――

Jack

| | トラックバック (0)

ノスタルジア/「WALL・E/ウォーリー」

『「のっけてくれないなら」と声音をやわらげて、「もうぜったいお話してあげないから、いいわね。ぜったいだから!」
ロビイは、この最後通告の前にはあっさり無条件降伏をして、こくこくはげしくうなずいたので、首の金属がびいんとうなりをあげた。彼はそうっと少女をかかえて、平らな広い肩の上にのせた。」

(アシモフ 「われはロボット」 小尾芙佐訳 : ハヤカワ文庫)

―――――

おもちゃで遊んだこと、ありますか?

―――――

どんなおもちゃで遊びました?

―――――

昔、「変身サイボーグ」っていう男の子向けの人形がタカラから発売されて、爆発的なヒットになったことがあるんですけど(1970年代のことです)、

―――――

まぁ今で言う、「フィギュア」の走りですね。

―――――

もっと元祖的存在として、「GIジョー」っていうアメリカ兵の人形がありましたが、僕が夢中になったのは、「変身サイボーグ」のほうでした。

―――――

かっこいいんですよ、

―――――

全身透明なボディの内部に、銀色に輝く、なにやら機械的な部品が光って見えてまして。

―――――

で、この人形が、「透明サイボーグ」でなく、「変身サイボーグ」という名前だったのは、この半透明ボディに、例えば仮面ライダーの服とマスクをかぶせたりして、文字通り、「変身」させることが出来たんです。

―――――

人形と言わずとも、プラモデルのジオラマ作って、真剣になったりしたこと、ありますか?

―――――

人形遊びで、ワクワクしたことがあるかどうかというのは、その後の人間形成、とりわけ「SF」と「アニメ」というものに対して、どう接するかを大きく変える、と僕は、そう思っているわけなんですが…

―――――

「WALL・E/ウォーリー」とは、どんな映画か。

―――――

舞台は数百年先の未来。

地球上に、人間は、いません。

荒れ果て、廃棄物だらけになったため、みんな、いなくなったのです。

自動充電で動くゴミ処理ロボットだけが、黙々と、自分の仕事を続けている。

機体名、WALL・E。

誰もいない地球の、かつての大都会で、彼は、いつしか、感情を持つようになりました。

自分の出すキャタピラー音以外静かなこの星で、彼の友だちと言えば、一匹のゴキブリだけ。

そんな日々が、これからも、永遠に続くかに思われましたが…

―――――

始まってから40分くらい、ほとんど無声映画。でも、気になりません。

―――――

画面を眺めているだけで、楽しい。

―――――

映画全体の色彩が、ため息が出るほど美しいです。

―――――

ラスト・クレジットのバックに、セザンヌの絵のパロディが出てきたりしますから、「絵的に美しいものにしよう」というのは、制作側の、はっきりした意図でしょう。

―――――

荒廃したゴミだらけの地球や、それと正反対にきらきらした太陽系の星々の様子…、巨大宇宙船の内部のデザイン…、すべてが素晴らしい。

―――――

ピクサーの仕事というのは、本当にいつも、素晴らしいですね。

―――――

「トイ・ストーリー」、「バグズ・ライフ」、「ファインディング・ニモ」…

―――――

失望させられたことが、ほとんどないです。

―――――

彼らの仕事の、その中に、

―――――

「映画というものを、それがもともと持っていた、驚きと興奮に満ちた“実験装置”へと回帰させよう」

―――――

という、明確な意図を見ます。

―――――

大胆で、それでいて「ノスタルジック」に感じるのは、その意図ゆえである、と思う。

―――――

彼らピクサーの作品を見ていると、「シネマ」というものが、見世物、遊び道具として、街行く人を呼び寄せた頃に想いが飛ぶ。

―――――

映画という装置が、彼らの考える通り「実験装置」として輝き、初めて人を驚かせたとき、それは、こんなふうな「子ども心」に溢れたものだったのではないでしょか。

―――――

ちょうど、低学年の子が、人形遊びやジオラマ作りに夢中になり、

―――――

まるで何かの実験にでも取り組むように、その世界に入り込んでいくように。

―――――

低学年の子?

―――――

いやいや、

―――――

違いますね。

―――――

いくつになっても、人は、人形がかもし出す不思議な世界観や、ジオラマの持つ空想力に惹かれるのです。

―――――

この映画で描かれる、ウォーリーやイヴ…それに、大小さまざまな形のロボットたち。

―――――

…なんだか、変身サイボーグやジオラマに熱中した頃を、思い出します。

―――――

「ロボット」に、どうして、ロマンを感じるんでしょう。

―――――

ここで描かれるロマンというのは、複雑な論理を削ぎ落とした、最もプリミティブな情感です。

―――――

アンドリュー・スタントン以下スタッフが、ロボットに対して、「憧れの原点」とも言える「親しみ」を持っているのが、分かる。

―――――

いや、「こうあってほしい」、「こういうロボットとなら、友だちになれる」、というか…

―――――

それは意外なことに、原初的な「機械人形」のようなロボットです。

―――――

その機械人形には、ごく当たり前に、「ハート」がある。

―――――

根拠など、ありません。

―――――

ただ、作り手が、そう信じて、機械に魂を吹き込んでいるのです。

―――――

それは、「トイ・ストーリー」に出てくる人形ウッディやバズのような「おもちゃ」を動かす(アニメートする)描き方と、基本的に創作態度が変わらない、ということです。

―――――

おもちゃへの子どものような興味と、映画のその原点までをも振り返りながら作る、「記憶の収蔵庫」としての新作。

―――――

映画史を振り返りたくなるほどの「記憶の集積」に満ちた展開をなぞるうちに、

―――――

僕らは自然と、「人間が忘れようとしている大地とのつながり」というこの作品の持つテーマへと、導かれているのです。

―――――

(感動は、短めに伝えましょう)

―――――

Jack

| | トラックバック (0)

スパーク!/「トロピック・サンダー/史上最低(サイテー)の作戦」

僕自身の体験に依りますすが、誰でも、「考え深くなるというのは、考えもの」です。

―――――

なんだって?
いや、ね、

―――――

子どもの頃は、いちいち「考えて行動」してないでしょう?

―――――

それが大きくなるにしたがって、

―――――

「なんのために、学校に、行くんだろう…」

―――――

とか、

―――――

「なんのために、会社に、行くんだろう…」

―――――

とか、
それから例えば、自分のパートナーとの仲が怪しくなってくると、

―――――

「なんのために、こいつと、付き合ってるんだろう…」

―――――

とか、
そうして仕舞いには、

―――――

「なんのために、生きてるんだろう…」

―――――

とか。

―――――

ひでぇ。

―――――

ご覧の通り、考え深くなっていくということは、次第に、悲観的に、ペシミスティックになっていくということなのです。

―――――

これを乗り越える方法は、ふたつしかない。

―――――

ひとつには、それぞれの疑問に対して、十二分に、徹底的に考えた「解答」を与えることです。

―――――

「疑問を抱え込んで、持ち越している」から、どんどん哀しくなるのです。

―――――

が、残念ながら、

―――――

ここに至って、誰もが深く思い至る。

―――――

ある程度訓練された「方法論」に頼らないと、上に挙げたような、端的でしかし深い問いかけには、答えようがありません。

―――――

そこで、「文学」や「哲学」の出番です。

―――――

ありがたいことに、人類数千年の世界史の中では、僕のような小さな人間の考えそうなことは、たいてい誰か先に、悩んでくれた人がいる。

―――――

ヒト様の考えた深みの「跡をたどる」だけでも、悩んでいる僕らにとっては、「充分過ぎる答え」が得られる(ひでぇ。明快過ぎる説明だ)。

―――――

ところで、

―――――

「考える」ということが、ひたすら肉体から離れていく「精神の活動」であり、理に落ちる「説明付け」のための行為だとすると、

―――――

その、ちょうど反対、対称に位置する「ものごと」って、なんでしょう。

―――――

それは、ひとことで言って、「笑い」です(おお、ひでぇ。また明快過ぎる)。

―――――

笑いは、「考え」のように整然とした、落ち着いた思考の流れからは、生まれない。

―――――

「腹が痛くなる」ほどに笑う、っていう肉体的な言い方が(いや、誰にでも、そういう「経験」というものが)ありますが、笑いというのは、説明好きな「精神の活動」が、どうやっても解き明かすことの出来ない「不条理な」ひらめきが爆発する瞬間のことを言う。

―――――

「ルネッサーンス」と言うだけで、なぜおかしいのか、

―――――

これを無理にでも、説明しようとする人は、単なる「野暮」と呼ばれます。

―――――

「トロピック・サンダー/史上最低(サイテー)の作戦」

―――――

落ち目のアクション・スター(ベン・スティラー)、

お下劣オナラネタで人気のコメディアン(ジャック・ブラック)

役のためならば肉体改造も辞さない、やり過ぎ演技派俳優(ロバート・ダウニー・Jr.)

これら、ひと癖もふた癖もある俳優たちを組ませて、戦争映画で、ひと儲け企むプロデューサーがいる(トム・クルーズです! ひでぇ! ハゲヅラにデブちんのカッコ!絶品です!)。

舞台は、ジャングルの、真っ只中。

だが、若手監督は、個性派ぞろいの演者たちをまとめきれず、撮影は難航中(なんだか、撮影が何度も頓挫しかかったことで有名な、「地獄の黙示録」を連想させる)。

映画の原作者(ニック・ノルティ)は、提案します。

「やつらを、最高にリアルな舞台に叩き込め!」

俳優たちと監督は、さらなるジャングルの奥地へと分け入りますが、なにやら怪しげな現地住民と出くわして…

―――――

いや、これ、めちゃめちゃひでぇ面白さです!

―――――

ベン・スティラーはスタローンの、ジャック・ブラックはエディ・マーフィーの、ロバート・ダウニー・Jr.は(たぶん)デ・ニーロのパロディを演じる。

―――――

妙に考えオチのネタが連発されるので、大笑いは出来ないんですが、脚本が、たいそう練ってある。

―――――

それぞれのギャグに付与された「観点」と、そして、「話しの運び」という「全体を統括する“考えの筋道”の立て方」が、めちゃめちゃ面白いのです。

―――――

主演と監督をこなし、脚本にも参加したベン・スティラーが、どれだけ「お笑い」ってものを愛し、なおかつ、テッテ的に研究してるのか(それも、愛するがゆえだと思うんですが)、ひじょーによく分かる映画です。

―――――

で、

―――――

結局はこの映画の解説として、つながりますので、最初に挙げた、「考えが深まらないと、哀しさが取れないのか」という話しに、戻りましょう。

―――――

「考えること」、「考えても答えの出ない様々な問題を、持ち越すこと」から、簡単に脱出する、何かいい方法は、ないですか?

―――――

脱出しないと、人生は哀しいままです。

―――――

「簡単」ということが大事です。

―――――

考えること、すなわち「言語を使ってする、“精神の行為”」が、置き忘れているものは、なんですか。

―――――

それこそ、「肉体」であります。

―――――

この映画は、人生のヤヤコシサに対して、「簡単に答えたい」ので、だから、最も肉体を酷使する場所、すなわち「戦場」へと向かうのです(「ランボー」が、そうであったように)。

―――――

そうして、複雑で抽象的な「精神の行為」の活動を横目に、それとは徹底して、対称的なものを追いかけようとするので、結果として、笑いが生まれる、

―――――

という構造です。
(ひでぇ。こんなこと言ってる俺は、野暮そのものだ)

―――――

野暮?

―――――

いや、待ってください。

―――――

確かに「笑い」というものの前で、生真面目に「精神の行為」として「理に落ちる説明付け」を続けることは野暮なんですが、

―――――

それでも構わず、これを続けていくと、人は、「説明しても説明しても説明しきれない」、割りきれない「非言語的で不条理」なような「最後の何か」が残ることを、見つけたりする。

―――――

一方、新しいネタを求めて貪欲に破裂し続ける「笑い」は、深化するほどに不条理の度合いが高まり、そのぶん、爆発力は弱まりますが、同時に「非言語的」成分の密度も、濃くなっていく。つまり、

―――――

「ひたすら深く考えることの結果」と「ひたすら面白ぇことを追いかけて、“笑い”を作ろうとしたことの結果」は、お互いが「出逢う」ことを発見し、なんと、スパークするのです。

―――――

「考え深いギャグ映画」の誕生です。

―――――

繰り返しになりますが、考え続けていると、不意に、天の啓示のように「結論としての不条理」が降りてきたり、

―――――

逆に、どこまでも不条理を追っかけて笑いを探り続けていると、なにやら「まるで、ひとつの思想のような」、ただ単なる爆笑で済まない、そんな「ひらめき」にたどり着くことがあるはずだ、というわけです。(ひでぇ。今回は、明快そのものだが、ちょーややこしい!)

―――――

この映画に登場する映画人たちが描こうとしているのは、1969年のベトナムを舞台にした戦争映画。

―――――

「映画を作ることについての映画」です。

―――――

僕らは、この映画を通じて、ベン・スティラーって人が、「戦争」ってものをどう「考え」ているのか、

―――――

とりわけ、「ベトナム戦争」ってものの茶番について、今、イラク戦争の時代に、どう見つめているのか、知ることになる。

―――――

そうして、「良心的な戦争映画」でヒットを狙う、ハリウッドの体質についても。

―――――

スティラーは、この作品のアイデアを20年かけて練ったという。

―――――

わかる。
こんな「難しいテーマ」について、こんな簡単な言い切りは、一朝一夕に出てくるものじゃないと思う。

―――――

「プラトーン」や「プライベート・ライアン」が、からかわれる。

―――――

その「からかい方」に、どっか、好感持ちますね。

―――――

さっき、考え過ぎることから抜け出す方法は「ふたつ」しかない、と言いました。

―――――

ふたつ目とは?

―――――

面白くも哀しくもない結論ですが、それは、

―――――

「時の経過にゆだねる」

―――――

というものです。

―――――

時間がすべてを解決する。

どんな悩みも、過ぎ行く時間の流れには、勝てない。

―――――

足掛け20年費やして「ベトナム戦争に対する態度」を笑うすべを身に付けたスティラーは、次の20年が経ったとき、9.11テロやイラク戦争について、何か発言するでしょか?

―――――

「煮詰まり過ぎた世界システムの破裂」でもあった9.11を誰かが笑う日が訪れるまで、僕らには、待つしか打つ手がないんでしょうか。

―――――

いや、こういう映画が出来るんなら、待つことにも意義はある、と思うんですね。

―――――

スティラーよ、そのときまで、お下劣コメディアンでいておくれ。

―――――

(ひでぇ。要するに、戦争映画で笑うなんて)

―――――

Jack

| | トラックバック (0)

« 2008年11月 | トップページ | 2009年1月 »