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2008年10月

肉食の思考やら、世間やら/「イーグル・アイ」

(電話が鳴る)

「青木さんですか」

いいえ、違います

「ああ、どうも」

―――――

(別の日)

「もしもし、青木さんですか」

いいえ、違いますけども

「失礼しました」

―――――

いま住んでいる家に引っ越した当初、我が家には、たびたび、間違い電話がかかってきました。

―――――

青木さん

―――――

青木さんとは、何者なのか。

―――――

どうやら、僕らが越してくる前に住んでいた人らしい。

―――――

いや、大家から、前の住人については、聞いていない。

―――――

新しい電話番号が、似ているだけの人かもしれない。いずれにせよ、

―――――

青木さんとは何者なのか?

―――――

「イーグル・アイ」です。

―――――

コピー屋の店員ジェリー(シャイア・ラブーフ)。

実家からの電話で、家族が亡くなったことを知らされます。

悲しんでいる間もなく、身辺に奇妙なことが起き始める。

突然、銀行預金が莫大な額になり、自宅に大量の銃器が送りつけられ…

驚く間もなく、携帯に謎の相手から電話が。

「FBIが来る。30秒で、逃げなさい」

これは、なんの罠なのか?

同じ頃、全く別の場所で、シングル・マザーのレイチェル(ミシェル・モナハン)が、やはり謎の相手から、電話を受けておりました。

「子供の命が惜しければ、言うことを聞きなさい」

誰なのか?

ジェリーとレイチェルは、いったい何に巻き込まれたのか?…

―――――

で、お話し変わって、

―――――

僕が以前勤めていた仕事場について、申しましょう。

―――――

そこは、オフィスビルの、階数では真ん中辺りにあり、

―――――

業務の大半は、パソコン(ではなく「端末」)と、にらめっこ。

―――――

始終、社内の別部署や、社外のお客様から電話を掛けたり受けたりするものでした。

―――――

当時は、「セキュリティ」には、まだ、それほどうるさくなかったので、顔見知りの警備員に挨拶して通れば、名札やIDカードを忘れても、中に入ることが出来たんですが、

―――――

初めて東京都心部にある本社を訪ねて、その、本格的な管理システムに、田舎者として、恐れ入ったことがあります。

―――――

これは、もうだいぶ以前から、インテリジェント(情報)ビジネスにおいては、現実の、当たり前のことになってますので、知らない方は、そのおつもりで、お聞きください。

―――――

まず、第一に、表玄関には、人がいません。

―――――

受付も、なんにもなし。

―――――

デザインされた、ひんやりした、エレベーター・ホールが在るだけです。

―――――

「用のある人間しか、やって来ないし、用のある人間は、何階に行けばいいか、知っているはず」だからです。

―――――

分からないことがあれば、携帯で、行きたいオフィスと、コンタクトを取ればよい(この、「微妙に日常的な日本語から離れていく」ニュアンスを嗅ぎとって頂きたい。業界人の大半は、「連絡する」などと言うのを好みません)。

―――――

第二に、各階の廊下(「通路」と呼ぶ)側には窓がない。ま、これは、どの事務所でも、似たようなものですが、

―――――

カーペットもなにも敷いてない通路と、のっぺりした壁が長く続く間には、「○○室」、「○○部」などの案内盤すら着いてません。

―――――

これも「セキュリティ」上の問題ゆえ、です。

―――――

目当ての部屋に入ります。
あなたは、どの部屋に入るべきか、知ってるのです。

―――――

電話が一台置いてある横を通って、仕切りの奥へ。

―――――

この電話は、日々訪れる来客が、部屋の奥にいる接客担当に、来訪を告げるためのものなんです。無視してください。

―――――

間仕切りで仕切られた内部に、来客用の応接セットが置いてある。

―――――

そこは適度に狭いスペースです。

―――――

あくまで、他人には、中を見せない仕組みです。

―――――

その応接セットの後ろ側にドアがあり、脇に、テンキーの付いたキーパッドが、取り付けてある。

―――――

教えられたコードを入力し、ドアロックを解除して、やっと部屋の中へ。

―――――

内部に広々とした空間がある。

―――――

今度はパースペクティブが一変します。

―――――

管理ブースに居る部長は、部屋の隅々まで見渡せる。

―――――

室内には、百人前後の係員たちが居ます。

―――――

それぞれの机は、部長の視線を邪魔しないよう、巧いこと、間仕切りで仕切られてる。

―――――

部長のデスクに置かれた「端末」には、今日1日の、各人の業務内容を表示させることが可能です。

―――――

加えて、

―――――

各人は、ヘッドホンとマイクを着けてる。

―――――

外部からの電話も、社内通話も、これでやり取りが原則です。つまり、

―――――

トイレ以外の用で、席を立つ必要が、ありません。

―――――

で、

―――――

初めて、こうした仕事振りがあることを知ったとき(もう20年近く前のことになりますが)、直感的に思ったものです。

―――――

いや、待てよ、と

―――――

出入りに、警備員はおらず(実はカメラで、覗かれてる)、部屋に入るまで、まず、どの社員とも出会わない。

―――――

仕事部屋に入るには、誰かに挨拶するのでなく、電子ロックを解除する(現在では、指紋認証や静脈認証を用いるのが、常識です)。

―――――

席に着いたら、ヘッドセットを着用し、誰かに用があれば、内線ボタンを押して話す。私語禁止。ということは…

―――――

この仕事の「理想」には、「人間と、じかに接しない」ことが、絡んだりしているわけだ…

―――――

「人間と接しない」ことが常態化していくと、その人間は、どうなるか

―――――

僕らの持っている感情、そう、「人間らしい」感情というものは、赤ちゃんの頃から、元々備わっているのでしょうか。

―――――

脳科学が、これにどう答えるか知りませんが、それは、自然な学習の結果、豊かになっていくものじゃなかろうか。

―――――

だとしたら、上に述べたような、システマティックな仕事をして1日の大半を終える日々が続くというと、

―――――

その人間は、次第に「学習したこと」を忘れていってしまわないのか

―――――

どうでしょう。

―――――

実は、こうした疑問に、俄然、興味を示しちゃう人が、います。

―――――

それは、「もともと、どっか、壊れている」人なんです。

―――――

良いほうの表現で、呼びましょか。

―――――

そういう人を、「芸術家」というんです。

―――――

彼、彼女が病院送りにならずに済んでいるのは、ただ単に、「表現のための“類いまれ”な手を持っている」という、その一点の理由に尽きます。

―――――

今まで述べてきたような環境を、一般的に「非人間的」と見たりするのは、芸術家たちが、その目で、ちょっと通りすがりに見て、その手で、見たものを、誇張して伝えることを、繰り返しているからです。

―――――

彼らの言うこと――「現代生活は、非人間的である」と言うこと――は、当たっているか。

―――――

はい、当たっています。

―――――

経験から述べますが、「仕事の方法」について思案する人々は、ほぼ例外なく、それを洗練させようとしていきますので、その過程で、「それは、人間的ではない」という問題に必ずぶち当たるはずであり、

―――――

これに解答を見つけようとしない人を、「非人間的」と断じても、よいのです。

―――――

しかし、面白く在るもので、人間には「洗練させたい」という志向への反逆の精神というのが存在します。

―――――

それを「肉食の思考」と呼びましょう。

―――――

人間・非人間という分け方が、西欧的なものだからです。

―――――

日本の現代ビジネスというやつは、長く続いて今もしぶとく根付いている、「和の社会観」の上に載っているものです。

―――――

人間・非人間などという分け方の、その底に、「世間」や「ご近所」、「人付き合い」などという、

―――――

簡単には分けられぬ社会観、「世界観」が広がっている。

―――――

この映画、興味深いのは、

―――――

「現代、って、非人間的じゃないですか?」

―――――

という論点を、極めて「洗練されたやり方」で、取りまとめている点です。

―――――

それは、自己矛盾というものであり、

―――――

例えば、アンジェリーナ・ジョリー、ジェームズ・マカヴォイの「ウォンテッド」が示したような、それこそ「肉食の思考」に欠けている。

―――――

高度管理社会への恐怖を高度に管理された映像編集によって表そうとしたことに、

―――――

最後まで、おそらくは作り手たちが気付かぬまま、終わるところが、これを「見事な作品」に仕立てているポイントであり、これが、

―――――

「巨大な冗談」になってしまった由縁でもあるでしょう。

―――――

こういう映画を「冗談として楽しむ」なんぞと言うと、イヤミなだけかもしれませんが。

―――――

(世の中は、とっくに、「肉食の思考」を必要とするようになっている)

―――――

(なんてね、

それは、表面的な問題です。

実際には、あなたは、毎朝エレベーター・ホールでバイトの学生たちと一緒になり、パートの奥さんたちは、私語禁止にも関わらず、自分らの子供や姑について、しきりと語り、そうして、なんと、部長自身が、個室的ブースにこもるのに退屈して、部下たちと話しに来る。

「洗練された管理」と「肉食の思考」と「世間的人付き合い」は、絡み合い、問題を複雑にし、結局は、「人間に出逢う」のだ、と、

わりかた、僕は、楽天的に捉えたりしてるんですが)

―――――

Jack

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アイドルを映せ!/「フレフレ少女」

アラフォー、アラサーとは言っても、アラツーとは言いませんね。

―――――

アラツー。

―――――

そう、二十歳前後の人たちです。

―――――

たいしてカネ持ってるわけでもないし、日常生活の中で、どんなキャスティング・ボードを握ってるわけでもなさそうなので、「消費者」としては、それほど、重きを置かれてない、ということでしょか。

―――――

これは、新しい現象ですよ?

―――――

僕が生きてきたこれまでの時代では、二十代の人たちが、消費の中心にいた期間が、長かった。

―――――

「ポップカルチャー」に区分されるあらゆる分野の売り手たちは、若者相手の商売をしてたのです。

―――――

一方、この「売り手」側に属する「演者」たちのことを考えてみますというと、いま、アラツーは、花盛りです。

―――――

音楽の世界でも、テレビ・映画の世界でも。

―――――

ちょっと考えただけでも、男たちは、ジャニーズ全盛だし、女性陣と言えば、

―――――

俳優さんに限りましょうか。

―――――

長澤まさみ、石原さとみ、水川あさみ、綾瀬はるか、上野樹里、井上真央、堀北真希、宮崎あおい、貫地谷しほり…

―――――

思い付くだけを並べただけでも、これだけ出てくる。

―――――

他にもいらっしゃるでしょう。

―――――

で、今回お話ししたい新垣結衣さんも、間違いなく、その中のひとり、なわけですが…

―――――

「フレフレ少女」

―――――

メガネっ子の文学少女、百山桃子(新垣結衣)。

フとしたことから、野球部のエース・大嶋(本多拓人)くんに憧れます。

ああっ、大嶋くんのそばに居たい!

けれども野球部のマネージャーは、既にいる。

むむ、どーしたものか。

そんなとき、屋上で、ひとり寂しく声を出す応援団副部長(永山絢斗)が目に止まる。

これだ、これしかないっ!

「あのー、入部したいんですけども…」

桃子は応援団の部室へ、飛び込みますが…

―――――

この映画の作り手たちに、ぜひ、言いたいことがある。

―――――

観客が、アイドル映画に、何を求めるか、分かってないね。

―――――

「引き」のショットが多い。

―――――

多すぎると言ってもいい。

―――――

せっかく新垣結衣が、応援団の団服着て、頑張ってるわけでしょう?

―――――

バストショットをたくさん撮らないで、どーすんのさ!

―――――

他の出演者たちにも、見せ場がある(柄本時生くん、内藤剛士さん)。

―――――

それはいい。

―――――

でも、ロングで風景を含めた全体を、落ち着いて捉えてるばーいじゃねぇだろっ!

―――――

もっと「撮る側」のコーフンを伝えてくれよう。

―――――

それともコーフンしてないの?

―――――

そいじゃ、新垣結衣の「コスプレ」に、なんの価値が、あんのさ。

―――――

「単純なアイドル映画」にしたくなかった、ということか。

―――――

しかし、それなら、「女の子が応援団に入って、奇声を張り上げて、奮闘する」というアイデアを、「核」に据えたのが、間違っている。

―――――

「天然コケッコー」や、「シムソンズ」とは違うのです。

―――――

この映画を一歩下がって考えてみるならば、

―――――

僕らは、そこに、「萌え」とは、なんのことなのかを、見い出すことになるでしょう。

―――――

「萌え」っていうのが、もはや、あんまり口にされないほど、定着してしまって、見えにくくなってますが、

―――――

その本質は、要するに、「変態」です。

―――――

この映画の作り手たちには、勇気が欠けている。

―――――

いいんだ、「萌え」で(「変態」で)。

―――――

そう割り切るだけの、勇気です。

―――――

これは、「映画とは、なんなのか」に関わる、重大な問いかけです。

―――――

映画なんだから「欲望の命ずるままに」、コーフンの対象を、追いかけてよいのです。

―――――

ここで、唐突ですが、「欲望の街」秋葉原について、申しましょう。

―――――

もとより、秋葉原が、一種の「ポップカルチャー発信地」になったのは、どちらかと言うと世間から白眼視されがちな若者たちが、

―――――

「だって、好きなんだもーん」

―――――

という嗜好を捨てなかったことに由来する。

―――――

そのような若者相手に、「萌え気分を狙った企画モノ」として、この映画は発想されたのではないでしょか。

―――――

大人たちの、浅薄な「若者理解」。

―――――

本心では「コスプレ現象」など、鼻で笑う、底の浅さが、この映画には、よく出ている。

―――――

と、まぁ、文句を言うのは、このくらいにしておきまして。

―――――

僕が見た上映時間に、女子高生だか女子中学生だか、女の子のお客さんが、けっこう居ましたので、その点に触れておきましょう。

―――――

今回の映画のポイントは要するに、

―――――

新垣結衣が男の服に着替えたっ、

―――――

…というところにある。

―――――

「服を着替えるだけでアピールできる可愛さ」というのは、今の今、

―――――

「普通の女の子」たちにとって、「自分らが手に出来る憧れ」たりえているのだろーか?

―――――

なんだって?
いや、ね、

―――――

今、流行りの女の子たちを大雑把に眺めると、

―――――

「かわいい」ことに、レベルと言いますか、格差がある、と思うんですね。

―――――

「小悪魔ageha」に登場するお姉ちゃん(と言っては、失礼ですが)たちのようなメイクというのは、宮崎あおい、堀北真希、新垣結衣といった、「なんにも顔いじらなくても、かわいい」人たちには、無縁なものでしょ?

―――――

キラキラ・デコの携帯とか、ゴテゴテのネイルとか、パンダみたいな隈取りメイクとか…

―――――

あれらは、「もともとは、たいしたことない」という人たちが、「浮かび上がる」ためのものだと、言っては失礼ですが、まぁそうだろう、と思います。

―――――

アキバ系に端を発するコスプレ「文化」が女子たちにも受け入れられ、

―――――

「変身願望」の一種として、定着をみるようになった裏には、

―――――

「見られたい、という意欲は、誰にも在る」

―――――

という「願望の再発見」がある、と思う。

―――――

インターネットとは、誰でも(変態でも、誰でも)容易に発信できるメディアであり、だからこそ、多くの人に広まったのだと言えますが、

―――――

困った…

―――――

「見られたい」人は、大勢いても、

―――――

「どこを見られたい」のか、自覚的に表現している人は、非常に少ないのではないだろか。

―――――

今、百万アクセスを記録するような「大物ブログ」たちは、どれも読む人に、

―――――

「そうか、こういう風に発言して、こんな具合に行動すればいいのか」

―――――

と示唆しているものばかりです。

―――――

ヒット・メディアを通じて、「その社会が個人に求める“振る舞い”を確認する」――その社会が個人に「許す」「ファッション」を学習する――

―――――

これは、「ブーム」ってものと、その仕掛け人にとって、古典的と言ってもいい常識のはずだと思ってきましたが、

―――――

残念です。

―――――

この「フレフレ少女」の作り手たちには、そのような古典的セオリーを使いこなすことも、乗り越えることも、出来ていないと、僕には見える。

―――――

新垣結衣ちゃんが「ポップ・アイコン」であるためにも、また、本格的な女優であるためにも、この映画は、大きな役割を果たさないでありましょう。

―――――

かつて妻夫木聡さんにとって、「ウォーターボーイズ」という映画が果たしたような、決定的な意味合いを、この「フレフレ少女」は、新垣結衣という人に対して持ち得ない、したがって、映画史上にも、その足跡を、残念ながら、残せないことでしょう。

―――――

単なる風俗映画と見られたであろう美空ひばりや加山雄三の主演映画は、その後、ホイチョイ・プロダクションのような、フォロワーを生みました。

―――――

「女子高生の制服から、ハチマキ姿の男子の制服まで着こなす新垣結衣」に憧れて学習した女の子たちが、街を闊歩(かっぽ)する様を、

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いや、見てみたかったよ、本当に。

―――――

Jack

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文脈/「ゲット スマート」

ヒロヒト陛下のことを知ってる方は、いま、どのくらい居るでしょう。

―――――

裕仁陛下、つまり前の天皇陛下、昭和天皇さまですね。

―――――

激動の戦前戦後を生き抜いた方だけあって、なかなかに「ひとすじ縄で行かない」お人柄だったようなんですが…

―――――

松山幸雄さんが、まだ生前、お元気だった頃の裕仁陛下のエピソードを書いています。

―――――

何かのパーティーの折り。

―――――

招待客の中に、銀行家のロックフェラー氏がいた、と思いねぇ。

―――――

さすが、アメリカ有数の銀行家にして大財閥の頭領。

―――――

陛下主催のパーティーにも招待される。

―――――

で、出席者と陛下の、ご歓談の時間になった。

―――――

ロックフェラーさん、場所柄をわきまえず、こう言いました。

―――――

「わが社の支店が東京にもオープンしましたので、ぜひ、ご利用下さい」

―――――

すると陛下、あの穏やかな笑顔のまま、

―――――

「定期ですか、貸付ですか?」

―――――

…えーとですね、

―――――

日本人でも、これ聞いて、ニヤっとする人がいるでしょうけど、ロックフェラーさんの反応は、違ったらしい。

―――――

大笑いしちゃったらしいのです。

―――――

陛下が、あんなにユーモアを解される御方とは、って、大いに喜んで帰ったというんですが…

―――――

困った…

―――――

「ニヤリとする」以上の笑いを、僕は感じない…

―――――

この話しで、わたくし、何を言いたいか。

―――――

「陛下、すげぇじゃん!」とは、もちろんのこと思うんですが、それだけじゃありません。

―――――

このエピソードは、何を物語っているでしょう。

―――――

陛下とロックフェラー氏が共に、欧米流の「笑いの文化」を身につけていたが故に意気投合した、ということか?

―――――

それは違う、と、

―――――

いや正確に言えば、「そういう解説だけでは、不充分だ」、と僕は、思っているんです。

―――――

「ゲット スマート」

―――――

60年代に製作されたテレビ番組「それ行けスマート」のリメイクです。

テレビ版のほうは大好きで、見てました。

米国トップシークレットの諜報機関「コントロール」。

アメリカの平和を陰で支え続けるこの組織にも、悩みがある。

敵対する悪の組織「カオス(テレビ版のときはケイオスと言ってた)の勢いが、増している。

世界中で、コントロールの諜報員が殺られてる。

そこでチーフ(アラン・アーキン)は、面の割れたエージェント23(ザ・ロックこと、ドウェイン・ジョンソン)を現場任務から外し、エージェント99(アン・ハサウェイ)と、もうひとりを組ませて、カオス撲滅に乗り出します。

選ばれた男こそ、マックス・スマート(スティーブ・カレル)!

―――――

一度書きましたが、アメリカで大ウケして、日本で全く当たらなかったコメディに、「ボラット」があります。

―――――

繰り出される「禁断のギャグ」たち。

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人種差別に女性差別。

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カザフスタンという国のことも、テッテ的にコケにした内容で(それは、返す刀で、米国社会を笑い飛ばす「作戦」であったわけですが)、「Newsweek」誌なんかの評価では、危険なほどオモシロイ映画のはずでした。

―――――

が、

―――――

いやー、

―――――

まったく笑えなかった。

―――――

これをもって、「欧米と日本は、“笑い”のセンスが違うんだから、仕方ないよ」、と言いますか?

―――――

だから、それでは解説として不充分だ、っつの。

―――――

だって、例えば「モンティ・パイソン」なんかの存在を、どー説明する?

―――――

「メリーに首ったけ」は?

―――――

僕は子供の頃、「チャップリンの黄金狂時代」を、なんの予備知識もなく、つまり、なんの素養も持たずに見て、爆笑したよ?

―――――

そういう例、あなたにもありませんか?

―――――

ほかにも、わたくし、ジム・キャリーの「ライアーライアー」や、「ブルース・オールマイティー」が大好きです。

―――――

神の力を授かったジム・キャリーが、スープ皿に向かって「ぬおぉ…」と念ずると、「十戒」よろしく、スープが皿の中で2つに割れる場面、あれ、ダイスキ。

―――――

…まぁ、「おまえのセンスは、その程度か」と言われれば、それまでですが、もうちょっと聞いて下さい。

―――――

日頃はなんの疑問も持たずに接している様々な事実が、「ある文脈」の中で語られると、突然可笑しくなる、という現象を、発見したことがあるんです。

―――――

10年以上前の、アカデミー賞授賞式での出来事です。

―――――

各賞の受賞の合間に、主題歌賞ノミネートの歌手が歌ったり、今、旬のコメディアンが短いトークショーやったりするじゃないですか。

―――――

で、このときには、そういうちょっとした「幕間」の「遊び」として、「アメリカ映画がどれだけ世界に売れているか」っていう「ショートショート・ドキュメンタリー」を上映したんす。

―――――

「ハリウッド映画は、どれほど多くの国々で見られているか、また、そのために“吹き替え”が、どれほど威力を発揮しているか」

―――――

…なんとなく、分かっちゃいました?

―――――

あの、例えばですが、「ドラえもん」の外国語バージョン、見たことないですか。

―――――

僕はあります。

―――――

それもテレビのバラエティのコーナーとして、だったけど、

―――――

スペイン語のドラえもんや、イタリア語で喋るのび太が出てくるだけで可笑しい! わはは!

―――――

「ドラえもん」と「日本語」は、あまりにも一心同体の存在であり、考えるまでもなく、「切っても切れない」と、思い込んでいたため、そのつながりを断ち切られ、外国語を喋るのび太、ドラえもんが出てくるだけで、「わはは、なんだ、それは!」だったのです。

―――――

で、なんと、

―――――

アカデミー賞の中継を見ていた僕に、同じことが起きたんです。

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それまで1時間半か2時間の間、たぶんビリー・クリスタルかチェビー・チェイスか、そんな誰かが司会だったと思うのですが、僕は英語を聞きながら、字幕を読んで、番組を見ておりました。

―――――

ショーも、そろそろ大詰めです。

―――――

で、そこで、件(くだん)の「アメリカ映画は、如何に、世界で見られているか」が上映された。

―――――

なんのことはない、

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それは、過去のハリウッド映画の名作を、次々つないだショート・フィルムだったんです。ただし、

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各国語バージョンで。

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…もう、分かっちゃったかな。

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ジーン・ケリーがイタリア語で「雨に唄えば」を歌い、クリント・イーストウッドがフランス語のダーティハリーになって凄む。

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それだけで、メチャクチャ可笑しい。

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会場喝采。

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そして、クライマックスです。

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「日本語を喋るダース・ベイダー」

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大爆笑ッ。

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そうして、僕も大笑いしておりました!

―――――

日本語版「スターウォーズ」は、何度も見たことがあったし、そこでは、ルークやハン・ソロが、もちろん日本語で喋ってました。

―――――

むろん、ダース・ベイダーも。

―――――

見慣れた場面のはずなのに、僕は、まるで「イタリア語を喋るのび太」を初めて見たときの「日本人のように」、「日本語を喋るダース・ベイダー」に、大ウケしちゃった!

―――――

このときの笑いの瞬間、僕は「文化の壁」を乗り越えていた。

―――――

別に自慢じゃありません。

―――――

それまで2時間、この番組の「英語という文脈」に、ふんふんとうなずいていた人ならば、たぶん、その人がドコ国人であろうと、この「日本語を話すダース・ベイダー」にウケたと思う。

―――――

このアトラクションが提示していたものというのは、「日本で通じないアメリカン・ジョーク」や、「アメリカ人に通じない、難解な日本の笑い」なんてものじゃあなかったのです。

―――――

我々は、誰しも、その人の生きる社会に沿った、「ある文脈」の中にいる。

―――――

その文脈が、外から見たら、どれほど滑稽か、考えもせずに。

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…なんて大真面目に言ってるだけでは、野暮だし、ドッチラケでありますが、もひとつ例を挙げさせて下さい。

―――――

1、2年前にB&B全盛期の漫才を見る機会がありました。

―――――

たぶん「佐賀のがばいばあちゃん」がウケたせいで、島田洋七さんの「業績」が、放送されたのだと記憶しますが、なんとね、

―――――

それが、まったく、笑えなかったんだ。

―――――

そんなアホな…

―――――

知らない人には、どれだけ面白かったかを言っても、さっぱり通じないと思いますけど、80年代のB&Bと言えば、ホントに大爆笑の連続で、ハラ痛くなるほど笑ったんだよ?

―――――

それが「ぜんぜん」だったのさ。

―――――

笑えないアメリカン・ジョークと、笑えない80年代THE MANZAI。

―――――

これは、それぞれの質が低いからじゃありません。

―――――

ただ単に、僕らが「アメリカという文脈」の中にも、「80年代という文脈」の中にも居ない、ということを示しているに過ぎないのです。

―――――

僕たちは、笑いや詩や文学に触れてある日、ある時、ある瞬間、

―――――

自分が「ある文脈」の中にいることを痛感させられ、そのとき「新鮮な意味」を与えられたものの前で、感じ入る。

―――――

陛下とロックフェラー氏は、あの瞬間、「国家を越えた新鮮な文脈」を発見したのだ。

―――――

残念ながら、今回の「ゲット スマート」で僕は、笑えませんでした。

―――――

あちらでは、7千万ドルくらいのヒットになってますので、「アメリカという文脈の、さらに「24」や「007」に熱中するという文脈にいる人にとっては、たまらなく可笑しい何か」が、ここにあるのだろうと思います。

―――――

文脈。

僕らは、社会的生き物です。

―――――

文脈。

以下は、決して大げさな話しじゃない。

笑いや芸術を通して、「自分のいる文脈」を発見したとき、僕たちは、「社会的生き物」から「人間本来」に立ち返って「世界」に触れているのです。

―――――

(「つまんなかった」って読まされるだけじゃあ、損した気になりません?

だから、つい、ここまでね、わはは)

―――――

(笑うところじゃないのかな)

―――――

Jack

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新世紀のファム・ファタール/「私がクマにキレた理由(わけ)」

「私がクマにキレた理由(わけ)」

―――――

大学で人類学を専攻し、Aクラスの成績で卒業したアニー(スカーレット・ヨハンソン)。

親の期待を担って、いい会社に就職しようといたします。

選んだのは何故か、ゴールドマン・サックス。

これが間違いの元でした。

「あなたの志望動機は、なんですか?」

どんな理由で、この会社に決めたの?

そう聞かれて、パニクります。

よく考えてなかった!

私のやりたい事って、ほんとは、何?

悩む彼女ですが、公園で偶然、幼いグレイヤー少年がケガしそうなところを助けたことから、母親のセレブ夫人に気に入られる(ローラ・リニーです。こういう「どこと言って、取り柄の無さそうな平凡なご婦人」の役は、昔、テリー・ガー、いま、ローラ・リニー)。

あなた、うちで子守り(ナニー)をやらない?

アニーをナニーと聞き間違えたがゆえのお誘いでしたが、ええい…

どうせ、いま、やることも見つからないし。

就職までの「つなぎ」のつもりで、引き受けます。

しかし、ナニーと言えば、米国社会では、アフリカンかプエルトリカン、アジア系にプア・ホワイトと、「低所得層」がやるもの、と、相場が決まってる。

有閑マダムたちは、子育てそっちのけで、「慈善活動」なんかに夢中。

いや、それには、それなりの訳がありました。

ご主人(ポール・ジアマッティ)と奥様の仲は、どうも良好ではないのです。

グレイヤー少年は、次第にアニーに打ち解けていきますが…

―――――

まず、ちょっと、脇道に逸れた話題をひとつ。

―――――

いやぁ、アリシア・キーズも、ようやっと、「自分の出演作」として人前に出せる映画に出ましたねぇ!

―――――

主人公の友人として、小さな役で出てるんですけど、なにせ、あの美貌でしょ?

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程よい程度に目立っております。

―――――

「スモーキン・エース」なんて2線級スターばっかり並べただけの、超くっだらねー作品に出て、すっかり株を落としたと思ってたけど、これで、なんとか映画界進出の足掛かりを得た、と言えそうです。

―――――

それにしても、アリシア・キーズとスカーレット・ヨハンソン。

―――――

この二人が、並んで、お酒飲んで語らってるなんて、夢のようです。

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二人とも美人で、スタイルよくて、声が色っぽい。

―――――

もう、「絶景」ですね。

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加えて言うなら、二人とも「知性美」です。

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あたま、良さそう。

―――――

これがジェシカ・アルバとか、キャメロン・ディアスとかになっちゃうと、「科学者です」だの、「仕事に生きてます。キャリアウーマンです」だの言われても、ただ、「うそぉ!!」なのですが、スカーレットやアリシアには、「近付いたらハネ跳ばされそう」な知性が顔に出ております。

―――――

いや、スカーレットのほうは違うな。

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スカーレット・ヨハンソンてねぇ、

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放っておくと、「完璧な美しさ」じゃないですか。

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それこそ、ハネ跳ばされそうな。

―――――

フェルメールの「真珠の耳飾りの少女」を題材に演じて、まるで絵から脱け出したように、一分の隙も無く綺麗でしたけど、ご本人は、「きれい、きれい」と言われるのに、あまり満足してないみたい。

―――――

「ファム・ファタール」って、ご存知ですか。

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フランス語です。
femme fatale.

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デ・パルマの映画のタイトルでもありますが、もともとは、聖書に登場する「サロメ」なんかを指しています。

―――――

ほかにも神話や騎士の英雄譚(たん)などに出てきて、男を妖しい魅力で誘惑し、堕落させ、破滅へと導くという「運命の女」、いや、「宿命の女」と言ったほうがいいでしょう。

―――――

「fatale」という一語からして、「致命的な」、「避けようがない」破滅、命取りを意味します。

―――――

19世紀の末、世紀末の退廃した空気の中で、ヨーロッパ絵画に、この「ファム・ファタール」を描くのが、ちょっとしたブームになったことがある。

―――――

代表的なところで言うと、英国ラファエル前派の画家、ロセッティって人が、好んで、いや、憑かれるようにして、これを画題にしておりました。

―――――

なんで「憑かれるように」題材にしたかと言うと、この人、婚約者のいる身でありながら、無学で美貌の、下層階級の娘に恋い焦がれちゃう、という、「ファム・ファタール」譚を地で行く体験をしてたから、なんですね、

―――――

で、晩年は酒と薬に溺れて死ぬという、まさしく「宿命の女」に憑かれた末路をたどっております。

―――――

縮めて言うと、ファム・ファタールとは、「妖婦」のことです。

―――――

で、これを、

―――――

スカーレット・ヨハンソンがやると、似合うんだなぁ!

―――――

バッド・イメージがあるせいか、ご本人は、そんな役をなかなか、やりたがらない。

―――――

僕の知ってる限りでは、ウディ・アレンの「マッチポイント」と、デ・パルマの「ブラック・ダリア」くらいのものでしょう。

―――――

アンジェリーナ・ジョリーなんか、男の子が騒ぐんなら、銃をぶっぱなす、「かっこいい女」に変身しましょか?、って、その辺、抵抗ないみたいに見えますけど、スカーレットはなぁ…

―――――

ただ、「やるなぁ」と思うのは、この人、自分の中に、ファム・ファタールとは違う、コメディエンヌとしての素質を見い出したことですね。

―――――

手を貸したのは、「タロットカード殺人事件」のときのウッディ・アレンだと思うけど、その要請に応えたのは、本人です。
で、

―――――

えーと、ですね、

―――――

突然、話し変わりますが、わたくし、これまで、社会の中で、「雇われる側」と「雇う側」と、両方の立場に回ったことがありまして(いや、面接の際に同席して、支店長にアドバイスしただけなんですけどね)、

―――――

そのときに、ですね、

―――――

「明らかにかわいいコには、注意しなくちゃ」という、一種の「判定基準」のようなものを、身に付けました。

―――――

冗談抜きで、かわいいコは、トラブルの元になる場合がある。

―――――

そのコが、例えば、見るからに素直そうで、おとなしそうな感じだったりしたら、要注意です。

―――――

まったく、男というのは、しょーもない生き物なんで、職場にひとりくらい、「手を出す」やつがいるんですよ、いや、マジで(むろん、妻子持ちで、ですよ)。

―――――

そういうアホが狙うのは、たいてい真面目そうで、「そんなこと、毛ほども感じさせない」コなんです。

―――――

で、本人、昨日まで明るく振る舞ってたと思ったら、次の日、急に、給湯室で、ひとりで泣いてたりなんかして。

―――――

「ひとりで泣いてる」なんて状態になったら、もう「アウツ!」です。

―――――

手の施しようがありません。

―――――

放っておきゃいいんですが、そーすると、ほかの女性陣が次第によそよそしくなり、果ては、職場に、ギクシャクしたムードが漂い始める。これ、最悪。

―――――

女同士の派閥がピリピリしてる職場くらい、やりにくい場所は、ありやせん(いや、派閥というのは、すぐに出来ちゃうんですけども)。

―――――

だから面接の最初で、「あ、かわいい!」と感じたら、多少イジワルな質問でもぶつけて、「はねのけられるかどうか」見るのがクセになりました。

―――――

いや、「はねのける」んじゃ、駄目なんだよな…

―――――

「サラリとかわす」

これ、理想です。

―――――

出来る人は、出来ます。

―――――

スカーレット・ヨハンソンは、たぶん、サラリとかわすのが出来るだろうな。

―――――

まだ、23、4才だと思いますけど、その年齢にして、既に芸歴の華麗なこと!

―――――

彼女は21世紀の「ファム・ファタール」と言えるでしょうか?

―――――

男たちを、ポーッとさせといて、サラリとかわすのが出来るとなれば、鬼に金棒です。

―――――

この映画でも、白人中流階級の娘が、社会の矛盾を様々に見聞して「目覚める過程」を演じ、間然するところがない。

―――――

「非の打ち所がない」コメディを、難なくこなしちゃうところに、この人のチャレンジ精神と才能と「強さ」を感じます。

―――――

マリリン・モンローになかった強さ。

―――――

男としては、恐れ入るくらいしか、出来ることはありません。

―――――

「ずるいなぁ」と思うのは、「分かってて、その気にさせて、で、サラリとかわす」ヒトの悪さを身に付けちゃってるところなんで、これは末オソロシイ才能ですよ。

―――――

「ブーリン家の姉妹」、見ようかな。

―――――

(あー、結局、ファンだ、って言ってるだけですね)

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Jack

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事件、そして告発/「宮廷画家ゴヤは見た」

炭疽菌事件を覚えてますか。

―――――

国松警察庁長官狙撃事件を覚えてますか。

―――――

三島由紀夫さんと楯の会の事件とか、

―――――

東大闘争とか、

―――――

あさま山荘事件とか、

―――――

時代を揺るがした事件というのは、数ありますけど、僕の中に、はっきりと刻印されている「事件」を探っていくと、

―――――

炭疽菌事件と国松長官狙撃事件に絞られていく感じがします。

―――――

炭疽菌事件のときは、

―――――

なんてこった…

―――――

どこに犯人が隠れていて、被害がどれだけ拡大するのか、分からない…

―――――

これからアメリカという世界は、どうなっちゃうんだ…

―――――

と、そう思ってました…

―――――

他国の事件なのに(アメリカ以外の国でも起きた)、そこまで深刻に受け止めたのは、

―――――

「アメリカという世界」の存立が、多分に楽天的と言いますか、「他人」に対する無条件の信頼という、いささか矛盾した「底辺」、前提を軸に成り立っていたからでして、

―――――

それは、村社会(つまり、ほんとの意味での「他人」が存在しない社会)が変質してアメリカ的になる過程での、日本にとっての「拠り所」となるはずの「ものの感じ方」が、脅かされている、と思ったからでありました…

―――――

同じように、社会の存立を揺るがした事件として、グリコ・森永事件がありますが、あの事件の犯人が、最終的には、企業を標的として金銭奪取を目論んだのに対し(つまり、姿は見えなくとも、なに考えてるかは、分かった気になれた)、

―――――

炭疽菌事件のほうは、狙われたのが、郵便局員などの、ほんとの一般市民であり、その目的も、ただひたすら「米国社会を不安に陥れる」ことだけではないか、と思わせたところが、とても不気味でありました…

―――――

一方、国松長官事件のほうは、地下鉄サリン事件の十日後に起きています。

―――――

のちにオウム真理教の実態が、どんどん暴かれていきますが、この時点で捜査側たる警察のトップが「暗殺」されかかる、というのも、衝撃でした…

―――――

村社会であるが故の法治国家を守ってきた日本は、これから、どうなっちゃうんだ…、

―――――

たとえ事件が解決しても、日本社会は、もう元に戻れないところへ行ってしまうのじゃないか…

―――――

そんな不安に襲われました…

―――――

いろいろ挙げましたが、これら事件に共通の点は、

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日頃、僕らが意識さえもしていない「安全」や「安心」が、

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つまるところ「社会基盤」が、

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どれだけ簡単に崩れてしまう、脆弱(ぜいじゃく)なものかを、思い起こさせたところに、その恐ろしさがあったろうと思います。

―――――

ところが、ですね、

―――――

そういう事件を、つい、わくわくしながら眺めちゃう人がいるんだな。

―――――

「宮廷画家ゴヤは見た」

―――――

1792年、

フランス革命がヨーロッパを駆け巡る直前の、スペイン。

カトリックの異端審問所長(ミシェル・ロンズデール)が、醜悪極まりないゴヤの絵を審査会にかけています。

「世の醜さ」、むごたらしさを写したその絵が、神の教えにそむくのではないか、というのです。

だが神父ロレンソ(ハビエル・バルデム)は、ゴヤが優れた才腕で描写する「世の醜さ」こそ、正すべきだとして、異端審問にかける者の数を増やそうと主張する。

恐怖の統治が、始まります。

教会に目を付けられたらおしまいです。二度と、陽の目は見られません。

やがて審問にかけられた娘イネス(ナタリー・ポートマン)は、ゴヤ(ステラン・スカルスガルド)が、天使の美しさを持つと称えて、描いたことのある少女でした…

―――――

わくわくしながら眺めちゃう人。

―――――

たとえば、ミシェル・フーコーなんて人に、そんなところがあるんですけど、

―――――

この映画の監督、ミロス・フォアマンにも、かなり、似通ったところがある。

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なぜ「事件が好き」かと言うと、常ならぬ時間の流れの中で、「裸の人間」というものが、普段は決して見られない形で、あぶり出されてくるからです。

―――――

裸の人間が見えてくる、ということは、それらの人間がうごめく「社会」というものも、統計数値やグラフなどでは表せない「生きた集合体」として、立ち現れてくる、というわけでして、
つまりは、

―――――

生きた人間たちの絡み合う、複合体としての「世間」に、関心があるんです。

―――――

映画の中に描かれるスペインは、厳格なカトリックの教えを守ろうとする「原理主義者」たちによって、恐怖の統治が行われている。

―――――

それが、ナポレオン革命の到来により、もろくも崩れる。

―――――

今までとは違う支配者。

―――――

しかし、変わらぬ、恐怖による統治。

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見ていると次第に気が付きますが、これは明らかに政情不安な「現在」を反映した、フォアマンなりの「写し絵」です。

―――――

しかも、かなり意外なことに、これは全体として、「民主党でも、共和党でも、変わりはない」と断じる「アメリカという制度・支配」に対しての、怒りに満ちた、「告発」になっています。

―――――

僕は、フォアマンという人を、時代の表層的な動きなどに左右されない、「ナマの人間」を見つめる戯作者だと思ってきましたが、それだけでは、この告発映画を語るのに不十分です。

―――――

フォアマンの怒りは、単にあいまいに、アメリカという社会全般に向けられているわけではない。

―――――

危機のとき、ただ「新しい階級」に居座って、もっともらしく発言するだけの「知」に対する苛立ちも、ここには、ある。

―――――

(思い出されるのは、90年代前半の、ビル・クリントンが登場するかしないか、という頃です。

日本はアメリカを追い越したかのような現状を謳いあげ、そのアメリカは、ソ連崩壊後の世界について、実に呑気な観測を持っておりました。

米国シンクタンクの有力な論客フランシス・フクヤマさんなんか、「歴史の終り」が近い、とまで言ってたんですよ?

コーランを唱和する広大な世界の存在を、如何に他人事のように見積もっていたか、

彼ひとりのことではないけど、確かに、その後の世界というのは、従来からの「知」の価値を、疑わせるほどに、動いたのです)

―――――

フォアマンに、話しを戻しましょう。

―――――

「カッコーの巣の上で」や「アマデウス」を思い出してくんなまし。

―――――

この監督には、生きることの瀬戸際で「事実的な生の経験(ハイデガー)」を味わう人々への、強烈な、涌き出るような関心があるのです。

―――――

「事実、生きてる」存在に、共感を込めて向ける視線が、ただただ「学究的なだけ」の「知」を軽蔑させる方向に向かうのです。

―――――

だが、今回は、そのような肉々しい強烈な視線の向け方を、脚本の段階から、監督自ら、封印しました(ジャン・クロード・カリエールとの、共同脚本)。

―――――

生き抜こうとする人々への、強い視線が、今度に関しては、「冷静沈着な批判精神」をブレさせてしまう、と考えたせいじゃないだろか。

―――――

それほどにこの映画は、巨大な不安に包まれている現実世界との「対比」を意識させる仕上がりになっています。

―――――

それについて、特記すべきこととして、この映画の「視点」の設定は、三段階になっている。

―――――

現実世界の「多発する事件」を強く連想させる「動乱の時代のスペイン」という舞台。
これが、(1)。

―――――

その舞台の中で、時代に翻弄(ほんろう)されていく娘と、狡猾に生き延びようとする男。
この二人の姿が、(2)。

―――――

そうして、この二人を見つめる「客観視」の存在としての、画家ゴヤ。
これが、(3)。

―――――

混沌としていくばかりの現実に対して、あくまでも通俗的な「ストーリーテラー」として向かい合おうとする、よく練られた、慎重な態度を感じます。

―――――

現実世界から、一定の距離を取ろうとするその姿勢は、面白いことに、芸術家ゴヤを、「現代人」的なジャーナリストとして描かせました。

―――――

そんなはずはない。

特殊な美的感覚を持つ芸術家の性格が、ジャーナリストのように、常識的な観察眼であるはずがないのですが、本作は、その点には、敢えて目をつむってる。

―――――

この監督が、この特異な画家の実像に、想像力を持って関心を払うことをしなかった理由は、分かると思います。

―――――

ひとつには、天才ゆえの苦悩の実相に迫る、というのは、「アマデウス」や「マン・オン・ザ・ムーン」で、既にやったから。

―――――

もうひとつには、大きな流れとしての「時代」と、それに巻き込まれる人間の「弱さ」をテーマとしつつ、物語の中でどんな「提言」も出さないよう、「答え」を簡単に見せたりすることはしないよう、自らに禁じたからです。

―――――

もっともらしい答えが無いときこそ、芸術家の出番です。

―――――

どんな事件、どんな「世の中のうねり」に対しても、芸術家には、「写しとる」以外、なにも、出来ることはありません。

―――――

「事実の前で、うろたえるだけ」の画家ゴヤという人の態度を、謂わば「時代の証言」として撮ることで、ストーリーテラーとして、「今、という時」への提言に代えたのではないでしょか。

―――――

ここからは、後日談です。

―――――

炭疽菌事件も国松長官事件も、うやむやのうちに、「事件」としては幕が引かれ、結局、アメリカも日本も、いま現在、国家として存続しております。

―――――

この映画に習って、この文も、ただ「うろたえたゆえの発言」で締めましょう。

―――――

「社会」というのが、いつか、その無定見・無節操ぶりを反省し、「暮らしやすい世界」に、その姿を変える日は、来るんでしょうか。

(本当に「生きる」って、たいへんなことばかりだと、思います?)

―――――

Jack

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小粋にズレてる/「次郎長三国志」

俳優・津川雅彦こと、映画監督マキノ雅彦さんについて、僕の抱く感想は、ちょっと複雑かもしれません(いつものことか)。

―――――

第一作「寝ずの番」。

―――――

たいへん面白い話なんですが、なんというか、ちょっと、お品が悪いんでないの?…

―――――

落語の師弟を軸に進む、古典落語にはよくあるような艶笑ばなしなんですが、

―――――

どうも、その、ちょっと、生々しい。

―――――

艶(いろ)ばなしと言うよりは、週刊紙的なセックス談義に見える。

―――――

中島らもさんの原作(講談社/角川文庫)でも、ほぼ同じ内容が描かれてるんですが、訥々(とつとつ)とした語り口が、ほのぼのとしたユーモアをにじませて、いやらしさはありません。

―――――

それが、映画になると、妙に色気が生臭い。

―――――

気になっていましたが、今回ニ作目を見て、氷解しました。

―――――

ああ、

―――――

これは、生々しさとか生臭さと呼んじゃ、違うな…

―――――

どこまでも人間クサイ「華」があるのだ。

―――――

「次郎長三国志」です。

―――――

映画の始まりは、祝言の場面から。

清水の次郎長(中井貴一)。

恋女房となる、お蝶(鈴木京香)

だが、祝言もそこそこに、次郎長一家は、旅に出ます。

旅がてら、仲間も増える。

気っ風のいい台詞、威勢のいい子分たちに、如何にも憎々しげな仇役に…

オールスター・キャストで贈る、三国志の、始まり始まり!

―――――

こういう映画は、配役が勝負です。

―――――

以下、順不同で並べましょう。

―――――

大野の鶴吉(木下ほうか)

おきん(真由子)

大政(岸部一徳)

小政(北村一輝)

法印の大五郎(笹野高史)

投げ節お仲(高岡早紀)

森の石松(温水洋一!)

桶屋の鬼吉(近藤芳正)

石松の(原作では、法印大五郎の)宿敵、三馬政(竹内力)。

裏切り者、久六(蛭子能収)

―――――

配役から、既に、楽しみが始まっている。

―――――

まだまだ、居ますよぉ。

―――――

黒駒の勝蔵(佐藤浩市)

ともさかりえ

とよた真帆

寺田農

いしのようこ

荻野目慶子

―――――

と、まぁすごい配役です。

―――――

しかし、マネーメーキング・スターを並べるのでなく、なんと言うんでしょうか、「通好み」。

―――――

そして、ここが面白いんですが、通好みと言っても、「渋くない」んです。枯れてるわけじゃない。

―――――

「通好みの観点」を持ち込もうとして、どこかでズレてしまったような、不思議な「しっくり来ない感じ」が、ちらちらと漂います。

―――――

これって、どういうことでしょう。

―――――

ここには、です。

「現代人が、現代的観点を離れて時代劇を描くときの、難しさ」が、端的に出ています。

―――――

まず、時代劇・時代モノとは、どういう物を指すのかを、考えましょう。

―――――

原作を読むと分かるんですが、時代モノと現代劇とでは、「虚構を作るための、第一の態度」として、

はっきりした「違い」というのがあるんです。

―――――

それは、何か。

それは、ですね、

―――――

人間の「意識」というものの不気味さについての「視線」を向けているか、どうか、です。

―――――

現代においては、「となりの住人が、どんな人間か、分からない」、これ、当たり前ですね。

―――――

すぐそばのヤツが、どんなこと考えてるか分からないので、必然的に現代小説は、人間が個々に持っている「意識」を描くことで、「キャラクター描写」に代えようと考えます。「容疑者Xの献身」なんて、まさにそうです。が、

―――――

時代劇には、そういう「意識を探ってみなければ、人間について“分かったつもり”にさえなれない」という観点は、ないんです。

―――――

では、どんなところに目を向けるか。

―――――

例えば鬢(びん = 髪)をいつも上げてるとか下ろしてるとか、どんな柄の着物を着てるとか、その上で、「女は惚れるもんじゃねぇ、惚れさせるもんだ」というキザな台詞を吐くとか…そうです。

―――――

「外面的なこと」で、いいんです。

―――――

「はじめにみんながどぎもを抜かれたのは、お仲が花札を切る手つきのあざやかさで、自分でもいうとおり、この道に相当な修行を積んだやつに違いない。

黒えりのついた荒い格子のあわせに、腹合わせ帯、薄化粧をしたお仲が、灯(ひ)あかりの中でそうやって花札を扱っている図は、今までとは違った美しさがある。

「さぁ、張った張った」

お仲の声に誘われて、六人は、かわるがわる金を張った。」
(村上元三「次郎長三国志」 : 春陽文庫)

―――――

これらの描写を「外面的なことだ」と断じて、それだけでは不十分と見なすのは、あくまでも「西欧」と接触したあとの、近代以降の視点です。

―――――

マキノ監督だって現代人ですが、数十年前の日本には、まだ「外面的なことが分かれば充分」という「大衆文化」が存在しました。

―――――

大衆文化というのは、全部、外面的なことで成立してます。

―――――

いかりや長介さんの頭の上から金だらいが落ちてきたら、それだけで、おかしいわけです。

―――――

でも、今、流行りのお笑い芸人の中で「外面的なこと」で笑わせる人は、たぶん、ほとんどいないでしょう。

―――――

僕は、ひと頃の小島よしおさんの「そんなの関係ねぇ」も、(一見パンツ一丁の「姿」に目が行きますが)、誰もが「他人の意識」に目を向ける傾向に対して「関係ねぇ」と、アジっていたのだと思っています。

―――――

で、

―――――

マキノ監督は、この映画に、かつての大衆文化が持っていた「外面だけで勝負する」考え方を持ち込もうとした(この時点で、既に「それは近代を通過した、現代人の目線である」という困った問題が起きています)。

―――――

ところが、選ばれた出演者たちは、多くの映画・テレビ・舞台の中で「内面を表現する」ことに慣れた人たちばかりだった。

―――――

ちらちらと漂う「しっくり来ない感じ」とは、どうやらこの辺にポイントがありそうです。

―――――

凡百の時代劇なら無視してかかる「外面的表現のみで堪能させる」という観点・手法にこだわったので、結果として、「大衆文化の存在した時代からズレてしまった現代」をあぶり出すことになりました。

―――――

このズレを、なんとか克服しようとして、外面的描写をサービス精神いっぱいに盛り込んでありますので、これを楽しめる人には、この映画の醍醐味が、伝わると思います。

―――――

お蝶のかんざしを、次郎長が歯でくわえてスッと引き抜く場面の気取り。

―――――

「寝ずの番」にもその萌芽があった「華」のある描写です。

―――――

ところで、生々しいのに華やかなのは、どうしてか。

―――――

それは、マキノ監督が、「肉体性というものに、華やかさを代表させようと思っている」からですね。からだというのは、単なる外面として考えるなら、艶(つや)っぽさの極みですから。

―――――

…まったく、ボクは、理屈抜きの時代劇を見終わって、何を意識の底に探りを入れるような、変人なことを言ってるんでしょう?(大衆文化華やかなりし時代には、意識の問題にことさら目を向けようとする人は、変人扱いされたでしょう)

―――――

この映画は、果たしてマキノ監督の叔父さん、マキノ雅弘監督の「次郎長三国志」のように、シリーズ化されるでしょうか。

―――――

ズレの克服を目指して作られている映画なので、出来ればシリーズ化していただいて、見事、「外面描写の結実」をさらに花開かせていただきたいと思います。

―――――

「面白がり方の立ち位置」が、ぜんぜん違う監督は、貴重な存在でらっしゃると思うので。

(天然記念物みたいなこと言ってますね。ワル口じゃあないんですよ、もちろんのこと)

―――――

Jack

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時間/「容疑者Xの献身」

ずっとテレビ番組を見続けていると、解らなくなる事が、あります。

―――――

僕は病気の間中、テレビをまったくつけませんでしたので、いま、しょっちゅう見るようになって、改めて、そのことに感じ入るようになりました。

―――――

テレビをつけてると、解らないもの。

―――――

かなり大きな問題ですが、それは、「孤独」というものです。

―――――

「容疑者Xの献身」です。

―――――

旧江戸川の堤防脇で発見された、全裸死体。

容疑者として浮かぶのは、弁当屋の女店主・花岡靖子(松雪泰子)。

怪しい存在の彼女には、だが、鉄壁のアリバイがありました。

彼女を陰で支える数学教師・石神哲哉(堤真一)。

内海刑事(柴咲コウ)が相談を持ちかけた帝都大の准教授・湯川学(福山雅治)は、靖子の身近に、石神がいると知って、驚きます。

「天才と呼べるのは、石神だけだ」

事件の真相に迫る湯川と、撹乱する石神。

二人は、互いに才能を認め合う間柄なのですが…

―――――

東京に居ると、分かりにくいでしょうが、日本の家屋では、たいていの場合、テレビは居間に置いてあります。

―――――

「タモリ倶楽部」のような例外もありますが、テレビ番組の多くは、居間に置かれたテレビの前で、家族「みんなで」見ることを前提にしている、と僕、思う。

―――――

「孤独と無縁の時間」を提供するのが、テレビというメディアであるのです。

―――――

「みんなで見る」ことが前提なので、誰もがスッと入っていける、開かれた内容を放送します。

―――――

テレビが提示するものを、「開かれた世界」と言い直してもよいでしょう。

―――――

その反対に、理解するための努力と研鑽(けんさん)を惜しまない者には、深く広い内容が開かれているが、ただ怠惰とマンネリに身を埋めるやからにとっては、えらく敷居が高いのが、「アート」、芸術の世界です。

―――――

アート…
芸術…

理解する努力が必要…

怠惰な者には、敷居が高い…

―――――

なにか連想しませんか?

―――――

「数学」や「物理学」の世界ですね。

―――――

さて。

―――――

この映画を語るにあたって、原作のことにも触れましょう。

―――――

天才数学者と、天才物理学者の絡み合い。

―――――

いやぁ!

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ここしばらく、「ミステリ」と呼べるものを読んでなかったので(まったく、信じられないことです。夢中になった時期もあったのに!)、久々に「ミステリらしいミステリ」を堪能しました!

―――――

映画→小説の順で楽しまれるのを、お薦めします。

―――――

小説の中身の濃さは、犯人とトリックを知っていても、楽しめます。

―――――

「石神は瞼(まぶた)を閉じた。数学の難問に直面した時、彼がいつもすることだった。外界からの情報をシャットアウトすれば、頭の中で数式が様々に形を変え始めるのだ。しかし今彼の脳裏にあるのは数式ではない」
(「容疑者Xの献身」東野圭吾 : 文春文庫)

―――――

原作を読むと、映画の脚本は、この小説を、かなり上手に料理する「下地」を作ったことが、分かります。

―――――

テレビ番組の「ガリレオ」が成功したのは、一にもニにも、主役に福山雅治さんをあてがったことでしょう。

―――――

読んでみると、福山さん以外の適役は、ちょっと考えられません。

―――――

一方「容疑者X…」の主人公・石神は、「ずんぐりした体型」で丸顔と書かれてますので、堤真一さんというより、高橋克実さんのようなムードです。

―――――

この、石神という男の「状態」を、厳密に科学的に記述すると「うつ」ですね。長期に渡る「うつ」。薬で治せます。ダイジョブなのにな。「あんなこと」すること、なかったのに。

―――――

と、与太ばなしは、さておきまして…

―――――

この映画、最大のポイントは、理知的に最高レベルに達している人物が、自分を不利の極みに追い込むような、犯罪の片棒を担ぐことに、果たして、のめり込んでいくものか、という点でしょう。

―――――

「天才物理学者 VS 天才数学者」という映画の惹句(じゃっく)からすると、息詰まる頭脳戦を想像しますが、そうは、なっておりません。

―――――

それより、むしろ、「メロドラマ」の感が強い。

―――――

科学や数学というものは、論理的思考には馴染むけど、「メロドラマ」の対象とはなりにくい。

―――――

そう思われてないでしょか。

―――――

原作には、さりげなく、その事についての記述があります。

―――――

「湯川とは特に友達付き合いをしたわけではなかったが、顔を合わせた時には必ずといっていいほど言葉を交わした。彼は博学で、数学や物理学以外のこともよく知っていた。石神が内心は馬鹿にしている文学や芸能についても詳しかった」
(東野圭吾 : 前掲書)

―――――

「この世のすべてを理論によって構築したいという野望は二人に共通したものだった」
(同)

―――――

つまり、石神という男が孤独をかこっているのは、天才数学者である、というまさにそのことによって、世間一般から(世間一般とは「文系の世界」である、と考えられているんですが)、浮き上がっている、というわけです。

―――――

「非難の対象が、科学的文化によって惹き起こされた全体的な懐疑であれ、科学理論によって到達した特定の結論であれ、科学がわれわれの世界の品位を落としつつあると、今日多くの人が主張している。代々ずっと喜びと感激の源泉であったものが、科学が触れると生命を失う。科学が触れるあらゆるものが人間性を奪われる」
(「混沌から秩序へ」I.プリゴジン/I.スタンジェール : 伏見康治・伏見譲・松田秀明 訳 : みすず書房)

―――――

「ニーチェの最大の関心事は、彼が生きていた時代、つまり十九世紀後半の不毛な精神的状況をいかに打開するかにあった。ドストエフスキーが一八五一年のロンドン万国博覧会の会場として鉄とガラスだけで造られた水晶宮(クリスタル・パレス)にその象徴を見た科学的合理主義によって支配された世界、その同じ世界にニーチェも生きていたのである。彼はこの世界を、もはや偉大な芸術様式が時間をかけてひそかに発酵するための物影など一つもない真昼の砂漠と見て」…
(木田元 : 「マッハとニーチェ」: 新書館)

―――――

ご覧のように、理数系の思考というのは、「ロマン」というやつを、ぶち壊しにするもの、と考えられてきました。

―――――

が、現代においては、違います。

―――――

究極の理数的思考と、極めてアーティスティックな感性とは、すぐそばにあるのです。

―――――

原作者の東野さんが、理系出身なので、理系 = ハードな文化と、文系 = ソフトでアーティスティックな文化の「対立」については、造詣が深いかもしれません。

―――――

作者は小説の中で、石神の生徒のぶっきらぼうな質問になぞらえて、「合理的思考」について、こんな風に書いている。

―――――

「微分積分なんて一体何の役に立つんだよ――(中略)あんな質問をしてきた森岡の姿勢が、石神は嫌いではなかった。なぜこんな勉強をするのか、という疑問を持つのは当然のことだ。その疑問が解消されるところから、学問に取り組む目的が生まれる。数学の本質を理解する道にも繋がる」
(東野圭吾 : 前掲書)

―――――

小説を知らずに映画を見ている最中、「面白いけど、何かが、抜けている感じだな」と、

―――――

そう思ったんですが、

―――――

この面白い映画に、どこか抜け落ちている部分があるとするなら、それは、上のような「思想」の部分ではないだろか。

―――――

「孤独」のなんたるかを、あぶり出す思想ですね。

逆の言い方をしますと、孤独がなんで重要かと言うならば、それは、「生きる意味について考えさせる思想」を生み出す機会だからです。

―――――

重要と言いましたが、「必要」とは言いたくない。

―――――

出来れば、どんな方にも、「生きている意味」なんかを追求せずに済む穏やかな毎日を、過ごしていただきたいものです。

―――――

たまたま、何かの不運で、文学や哲学、アート、数学などの敷居をくぐらざるを得なくなったら(そういう人には、生真面目で、いくぶん偏執的で、純粋な人が多いんですが)、ただひたすら「あきらめないでください」と、申し上げたい。

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映画を見て、その内容に、どこか引っかかったなら、原典をあたり、資料を徹底的に調べるのもいいでしょう。

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その作業は、あなたを孤独にさせるかもしれませんが(夢中になっているときは、そんなことに気付かぬものです)、同時に、強い「達成感」を授けてくれることでしょう。

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本来、僕は、悲劇的な結末を好みません。

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ときどき、「悲劇を面白がって、いじっている」創作などに出くわすと、腹を立てることさえある。

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それが、ときどき「許しちゃう」ことがあるのは、何故でしょう。

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クリスティやドイルにも、悲劇で終わる物語は、いっぱいある。

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この映画でも石神は、結局、逮捕されますので、明るい結末とは言い難い。

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それが何故、僕の琴線に引っかかってきたんでしょう。

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ひとつには、

悲劇には、ですね、「救いのある悲劇」と「救いようのない悲劇」があるんです。

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階段を昇るようにして乗り越えることの可能な、謂わば「次の時間があることを想起させる」悲劇と、いかようにしても乗り越えられない、つまり「時間というもののループに終始する、すなわち時間の終焉しか提示していない」悲劇と、です。

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なんのことだ?
いやいや、

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今はこれ以上、触れますまい。

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なんと言っても、この映画のキャッチコピーは、「その謎を愛そう」であるわけなんで。

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(ただいまの時点では、これ以上分かりやすい説明は、僕には出来ないわけなんです。

これも一種のヒゲキかな)

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Jack

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メッセージ/「陰日向に咲く」

僕が入院中、同室に、年の頃なら五十前後の、その年齢にしては、やけに背の高い男性が、ひとり居ました。

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肉体労働や漁師の経験もあるというその彼は、病院内だというのに、よくサングラスをかけ、袖をまくったTシャツにジーパンという姿で、あちこちの病室に顔を出し、ちょっとした「有名人」になっていました。

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懸賞で当てたらしい、どでかい「コカ・コーラ」のロゴ入りのスポーツ・バッグを愛用し、振る舞いは、はっきり言って、傍若無人。

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どこから手に入れたのか、西郷輝彦のカセットを、大音量で掛け、

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「好きなんんだけどぉぉ(チャチャチャ。手を叩く)…はなれてるぅのさ(チャチャチャ)」

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と、大声で、歌っていたものです。

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ひどいことに、彼が歌詞を参照していたカラオケ本は、別の病室の、若いお兄ちゃんから、取り上げてきた物でした。

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なぜ、こんなによく覚えているかと言いますと、僕が入ったばかりの頃、つまり、自分が国家的大陰謀に巻き込まれて、こんな所に入れられたと信じていたとき、彼が僕に向かって、大声で、言い放ったのです。

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「あんたぁ、考え過ぎなんだよ!」

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精神病患者に投げかける言葉として、これ以上のものを、僕は知りません。

―――――

その瞬間のことも、ありありと覚えています。

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驚いたことに、窓を背にしていた彼の後ろから、まるで「後光」のように陽射しが当たり、僕ら二人を照らしたのです。

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なんだか、心の闇が、一気に晴れていくような、実に爽やかな、不思議な感覚でありました。

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むろん、病気は、そんなことで、直ったりするものではありません。

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しかし、その一件をきっかけに、僕らは一気に親しくなり、一緒に過ごす時間が増えました。

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夜明け方に、まだ鍵の閉まった食堂の前で、しゃがんで二人、長々と、どうでもいいようなことをよく、語り合ったものでした。

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精神病院での、風景です。

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「陰日向に咲く」です。

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沢渡伸也(岡田准一)、

パチンコに入れ込み過ぎて、借金でクビが回らなくなっている青年。

会社員の日常から離れ、ホームレスの真似事をしようとする男(三浦友和)

その彼から、「モーゼ」とあだ名されるベテラン浮浪者(西田敏行)

売れないアイドル、武田みやこ(平山あや)

それを応援する、レンタルビデオ店の店員、雄介(塚本高史)

そして、自分の母の「思い出の人物」を探そうとする若い娘(宮崎あおい)。

無関係に見えたこれらの人々の人生が、次第に交錯してまいります…。

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ベストセラーになった劇団ひとりさんの原作を、読んでないので、出来るだけ、この映画に沿って、申し上げたい、と思います。

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まず、この作品の、いいところを。

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組み木細工のような群像劇の発想が、現代日本に、「ちょっとノスタルジック」な人間関係を持ち込むのに寄与している。いや、役に立ってる。

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演者のうち、主役と言っていいお二人について、申しましょう。

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男にも女にも当てはまる誉め言葉というか、形容詞を探したいんですが、なんと言えば、よいでしょう。

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ああ…

―――――

「素敵」と言うのは、どうでしょう。

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岡田准一さんも、宮崎あおいさんも、「素敵」ですね、これ、どうでしょう。

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演技してる姿が、チャーミングだと思う。

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それから、あんまり腑に落ちない点にも、触れましょう。

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西田敏行さんは、ホームレス暮らし数十年の役なのに、なんで、あんなに太って、恰幅(かっぷく)がいいんだ?

どこで食べ物を、調達してんの?

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三浦友和さんは、ホームレスを始めたというのに、なんで、無精ヒゲさえ、生えて来んのだ?

(あ、生えてるか、生えてるな、しかし、薄いな)

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見てるうちに、冒頭書いた、病院で出会った彼のことを、思い出してきたわけです。

―――――

この映画の、最大の「欠損」は(「欠点」ではない)、「ミジメさ」について、「どこか、ひと事のように」描いている、というところじゃないでしょか。

(そう思うのは、明らかに、僕の脳裏に焼き付いている「記憶」のせいでもありますが)

―――――

現代日本の参加者でいる限り、僕たちは、「貧しさ」や「ミジメさ」から離れて暮らしている、いや、「暮らせている」と、申せます。

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「“ミジメ”であることのリアリティを感じてくれ」と、

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「まともな」監督さんや俳優さんに、いま言っても、無理なお願いかもしんない。

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なに?
借金でクビが回らない?

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それでもネット出来てるじゃん。

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飢え死にの恐怖なんか、ないでしょう。

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「食えなくなる!…」なんて、焦ってる人は、いま、悠長に、こんな文を読んだりはしていない、と思いますよ。

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この映画の原作が書かれたとき、「格差社会という新しい風潮の中で、無視され、大きな流れの外へとこぼれていく人々の存在について伝えよう」という意図があったのかもしれない、と想像します。

―――――

映像には、その意図が「痕跡」として残ってる。

―――――

ですが、本当のミジメさというのは、例えば、こんなものだと思う。

―――――

冒頭挙げた彼ですが、あれだけでは、なぜ彼が、精神病患者として入院してたか、ちょっと分からないでしょう。

―――――

彼が、とり憑かれたように懸命にやっていたのが、バッグの中身の整理でした。

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病室(和室だった)の押し入れからバッグを取り出し、中身をぶちまけては、また、きちんとたたんで、バッグに戻し、そのバッグを押し入れに。

―――――

何故か、出し入れするたび、押し入れの、上の段に入れたり、すぐ思い直して、下の段に入れ替えたり。

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ほとんどは、着替えの服が入ってましたが、その中に、風呂敷包みにくるまれて、彼の最も大切にしているものが入ってた。

―――――

僕には分からない仏教の経典でした。

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何が書いてあるの?

―――――

と聞いても、どうやら彼自身、よくわかっていない様子でありました。

―――――

ややぼろぼろになりつつある、その、手のひらサイズの経典を、彼は、よく分からないなりに、必死に読もうとしておりました。

―――――

どういう訳か、この僕は、彼のことを、心密かに、「赤羽のおっちゃん」と呼んでいました。

―――――

別に赤羽出身だったからじゃありません。

―――――

真っ赤なコカ・コーラのロゴマークが、まぶしかったせいかもしれない。

―――――

赤羽のおっちゃんは、何度も何度も、終わらない整理を重ね、経典を開いてはたたみ、そうして、グラサンにジーパンで歩き回っておりました。

―――――

少し年齢がズレるかもしれないけど、その姿は、やってることは、まるで「団塊の世代」そのものじゃないか、と、病んだ頭で、僕などは考えたものです。

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絵を描くのも好きだった彼が、色鉛筆で描いて、僕にくれた絵があります。

―――――

山に囲まれた家を描いてあるものです。

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病んだ心で描いた、というと、ムンクやゾンネンシュターンのような人を連想しますが、残念ながら、彼には、「病んでる故の才能」なんてものはなかった。

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上手じゃありませんでした。

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絵の中に小鳥を描くと、赤羽のおっちゃんは、黒で、その絵に書き添えました。

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今日ありて

明日なお暗き毎日を

幸おおかれと祈る日々なり

―――――

十年以上、入院してるという彼を、迎えに来る家族は、いないようでした。

―――――

この「陰日向に咲く」という映画、「それでも、前向きに生きられる」という、静かなメッセージが込められてるんですが、はて。

―――――

こういう物語に、メッセージは要るだろか。

―――――

例えば「ラブ・アクチュアリー」という、ヒュー・グラントの映画の面白さは、「人生、苦しみも喜びも“いろいろあるさ”」でありました。

―――――

見終わって、思います。

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ひょっとして、おっちゃんのようになりたい人も、いるのかもしんないな…

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まだ、あの病院で、西郷輝彦を、がなったりしてるだろうか。

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Jack

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兵器ってエクスタシー/「アイアンマン」

やったーーー!!!

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かぁぁぁっっこいいぃ!!

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メチャメチャ面白ぇーじゃねぇーか、この映画!

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あとに述べるような点を、もう少し、あとチョッと掘り下げてくれていたら、傑作!と言いたかったところです。

―――――

まず、すぐにも、この面白さに影を差す、こんな批判が浮かんでくる。

―――――

国際貢献、世界の警察の名のもとに、あちこちに紛争の種を作り、何が正義なのかを曖昧にし、平和に暮らす罪もない人々の、その平和を奪っているのは、まさしく「アメリカという価値観」ではないのか?

―――――

そのアメリカが今さら、どんな悪と闘おうというのか、と。

―――――

「アイアンマン」
登場です。

―――――

巨大軍需産業「スターク・インダストリーズ」を率いる最高経営責任者、トニー・スターク(ロバート・ダウニー・Jr.)。

腹心のオバディア(ジェフ・ブリッジス)、秘書のペッパー(グウィネス・パルトロウ)を従え、ハワード・ヒューズかヒュー・ヘフナーばりの放蕩三昧。

自信家。
天才エンジニア。

ラスベガスで軍主催のパーティー出席。

親友のローズ中佐(テレンス・ハワード)から表彰され、その足で、アフガニスタンの米軍基地へ、ゲストとして視察に訪れます。

新兵器、多弾頭ミサイル・ジェリコーのデモンストレーションのためでもある。

だが、護衛の少ないところを現地のテロリストに狙われます。

心臓に深傷(ふかで)を負い、捕虜となったスタークを待っていたのは、「新型兵器を組み立てよ」という無茶苦茶な命令でした。

窮地を脱出する方法は?

スタークは、誰も予想しない兵器を作ることに専心します…

―――――

「水戸黄門」じゃないですが、配役の並びで、誰がどんな役回りか、バレちゃうのが、難と言えば難ですが…

―――――

それでもハラハラしますんで、やっぱり脚本がいいんでしょう。

―――――

「いいんでしょう」と、何やら煮え切らない言い方になるのは、ですね、

―――――

主人公の「改心」の仕方です。

―――――

人生享楽派だったのに、己れの経営する軍事企業の武器が、テロ組織に使われているのを知った途端、スタークは「新たな闘い」を決意する。

CEOとしてでなく、個人として。

―――――

うーむ…

―――――

ま、映画としては、ほかの描き方は考えられないので、ややこいケチは付けますまい。

―――――

それよりも、今回、問題としたいのは、

―――――

「闘いの道具というのは、なんで、人を魅了するのか」、ということです。

―――――

究極兵器「アイアンマン」のデザインが、ずば抜けて、いいと思う。

―――――

どっちかと言うと、そういうところに魅了されるのは、「男の子」なんですが…

―――――

例えば、プラモデルっていうと、今はガンプラが主役ですが、伝統的には、戦車とか戦艦とか。

―――――

それから、モデルガンて、あるでしょう?

―――――

これは、かなり本質的な問題ですが、「殺戮のための道具」というのは、まるでF1マシンのように、「洗練された外観」を持っています。

―――――

押井守、庵野秀明、宮崎駿といった人たちは、武器を描くとき、精緻に、ディテールにこだわった描写をする。

―――――

怪盗ルパン三世が愛用するのは、ワルサーP38。

―――――

ソ連製トカレフの部品36個に比べて、部品58個という精巧さ。

―――――

「安全装置一つを見てもそうだ。実に入念につくられている。一ヵ所を動かすだけで、ハンマーと撃針が別々にロックされ、さらに引き金とハンマーの関係も断ち切るという三重の安全装置が作動するシステムである」
(「河童が覗いたヨーロッパ」 : 妹尾河童 : 新潮社)

―――――

これは、「死の道具を、安全に使いこなそう」という、如何にも矛盾した執着です。

―――――

そうして妹尾さんも言う通り、「メカニズムに対するこだわり」が尋常でないのです。

―――――

死の用具というのは、それを持つ者に、えも言われぬエクスタシーを与えてくれる。

―――――

それは、機械・メカニズムというものが不思議と備えるエロスのほかに、

そもそも、「死」というものが生者にとって、ぞくぞくさせるエクスタシーを、本来的に持っているから、と申せます。

―――――

戦争の道具というのは、日本の戦国時代の武具であれ、西洋の甲冑であれ、どれも皆、シャープで洗練されている。

―――――

「刀」や「ナイフ」は、危険な魅力を、そもそも、備えているでしょう?

―――――

刀の手入れをする人は、それを手にするだけで、精神統一につながると言う。

―――――

それは、僕たちの住むこの社会で、手に入れ難くなった感覚です。

―――――

刀を持つ、ということは、一瞬一瞬が、緊張の連続なのです。

―――――

僕たちの住む、この現代社会は、死と隣り合わせの紛争地域のことなど、想像も出来ないほど、「生の論理」に管理された社会です。

―――――

そびえ立つビルや、延々続くショッピングモールは、死を覆い隠すが如くに、建っている。

―――――

ところで、今回のこの「アイアンマン」の監督のジョン・ファヴローは、アニメ「オープンシーズン」で、ビーバーのライリー役の声を務めたこともある俳優さんです。

―――――

彼の作ったこの映画が、結果的にそうなっている、と思うので、ここに、スーザン・ソンタグの言葉を――それが書かれた意図とは、反する文脈で――引用するとしてみましょう。

恣意的な使い方だというのを、ご理解のうえで、お読みください。

―――――

「真剣な作家のやることは精神的な死の状態と戦うことです。共同体の気楽な生活にたてつきながら毎日みずからの魂と、自己と自分の母語との関係を蘇生させることです。低俗な理想主義にもシニシズムにも対抗しなければなりません」
(「この時代に想う テロへの眼差し」: 木幡和枝訳:NTT出版)

―――――

この映画は、単純な構造ですが、劇中で展開される「生まれ変わった男の使命感」を「正義の論理」とは、ひとことも言ってない。

主人公スタークの、取りつかれたような使命感は、「兵器のエクスタシーを持つ娯楽」映画を、まさしく「単純に進める」ための「方便」に過ぎません。

―――――

「カタルシスとは、理不尽なものだ」ということを、この作品の作り手たちは、十二分に理解している、と思います。

―――――

そのうえで、この「アイアンマン」は、「管理された生の論理」の中で、いつの間にか、疲れはてていく人々に、「ハッとさせる死の用具のエクスタシー」を伝えている、と、そう思う。

(惜しい! と感じるのは、スタークの使命感が、「兵器のエクスタシー」へと昇華していく有り様が、あまり掘り下げられていない点です。ここを深く描いていたら、面白いというより、異様な傑作になっていたでしょう)

―――――

こういう作品の持つ、「バランス感覚」が、映画を離れた現実の、アメリカのテロ対策に、どれほど反映されるかは、はなはだ疑問でありますが…

―――――

「近代の巨大な喧噪は現実を噛み砕き、雑多なもののいっさいを映像として吐き出す。きわめて有力な近代の分析にしたがえば、この社会は「見せ物社会(スペクタクル)」だと言われる。ものごとは見せ物化して初めて現実となる」
(前掲書)

―――――

はいはい。

―――――

どーでもいいや、面白いんだ。

―――――

あ、いや、ソンタグは、こうも言うな。

―――――

「残忍な映像が頭を離れない、それでもいいではないか。たんなるアリバイで、そこにある現実の大部分をそっくり伝えるのは無理だとしても、それでもなお映像は重要な機能を果たす。これらの事態をわれわれの記憶に留めよ、と映像は語っている」
(前掲書)

―――――

さぁ、ご覧になりますか?

―――――

ファミリー向け映画ですから、「残忍な映像」は、ありません。本気で、おススメしてるんです。

―――――

兵器の持つエクスタシーと、世界平和を、はかりにかけて。

―――――

Jack

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ノー編集で事件のことを/「クローバーフィールド/HAKAISHA」

いつもは、多少、推敲(すいこう)して書くんですが、今回は、あとに述べるこの映画の性質に合わせて、極力、「ノー編集」で、思い付くことを並べたいと思います。

―――――

言ってることが、多少ダブったり、相前後、矛盾したりするかもしれませんが、ご容赦ください。

―――――

テレビというのが、我が国では、視聴率低下するようになって久しい。

―――――

「ロング・バケーション」
「天才たけしの元気が出るテレビ」
「北の国から」
「オレたちひょうきん族」

―――――

ちょっと考えても、僕の見てきたテレビというのは、幸せな時代を過ごしていたなぁ、と思います。

―――――

「クローバーフィールド/HAKAISHA」です。

―――――

国防総省資料の、家庭用ビデオカメラ。

日付は5/22日。

映っているのは、セントラルパークに程近いアパートの様子です。

ジェイソン、ロブの兄弟、ジェイソンの恋人ベス、友人のハッド、ハッドの憧れのマリーナ。

どうやらロブが日本へ転勤となるため、それを送るサプライズ・パーティーの様子を撮ったらしい。

ですが、なぜ、そんなビデオが、暗号名「クローバーフィールド」と銘打たれて、保管されているんでしょう。

パーティーは、突然の衝撃音と共に、中断される。

カメラは起こったことを写している。

外では、恐ろしい光景が…

―――――

え、と、ですね…

―――――

よく出来ているけども、「家庭用のハンディカメラで撮影する」という発想が、既に「映画ではない」と思う。

―――――

「珍奇な企画が売りどころ」になっているからです。

―――――

「それだけしかない!」と、申し上げても、いいでしょう。

―――――

以前に取り上げた「デート・ウィズ・ドリュー」も、目の付け所の上手い、テレビ的作品だった。

―――――

映画とテレビの違い、ってなんでしょう。

―――――

予算の桁ですか?

―――――

それ以外に、なにか、思い付きますか?

―――――

「24」にしても、「HEROES」にしても、「SEX AND THE CITY」にしても、どう考えても、「テレビならでは」の作品です。あのね、

―――――

「企画がすべてに先行している」ということ以外に、

―――――

「あらゆる方面に気を配ってる」というのが、テレビ的だと思う。

―――――

ジョン・マクレーンやジャック・スパロウは、ラブシーンなんて、そっちのけでアクションに邁進しますが、ジャック・バウアーは、国家的大陰謀を追ってる最中に、女と甘いシーンがあったりするんですね、

―――――

女性視聴者の目を意識してる。

―――――

この映画でも、不気味な何者かに襲われてるというのに、死んだ人のことを思って涙する、なんて場面が出てきます。

―――――

さすがJ・J・エイブラムス(制作)。

―――――

テレビ屋さんです。

「テレビ界のアーティスト」ではないところが、この人の持ち味です。

―――――

出来るだけいろんな要素を盛り込もうとするのも、テレビ慣れした、「いろんな視聴者に対応する」というところから来てるのでは。

―――――

別の角度から言いますと、どんなに予算をかけようと、「枠」や「縛り」を意識して、どっか不自由なのが、テレビではないだろか。

―――――

この「クローバーフィールド」の面白さは、「不自由さ」を逆手に取ったところにあります。

―――――

パーティーを写していたら、偶然、目の前で大事件が起こって…

―――――

という辺りが、企画の面白さ。ハンディカムしか持ってないから、すべて同じ撮影者の、同じ視点で進行する、というのが、「テレビ的発想」。

―――――

「テレビ的発想」というのは、不思議とスケール感がないんですが(描いている対象との「距離感」、物語が「小さな心のひだ」を描くことに執着していくところ)、本作では、それも道理。

―――――

くどいですが、「偶然、シロウトが撮影したハンディカムの映像」である、ということが、超巨大な事件の、パーソナルな記録であることの、上手な、言い訳になっています。

―――――

語りたいテーマに、特に深みがあるでもない。

―――――

それも「ノー編集の事件記録だから」ということで決着です。

―――――

「事件の記録」と言いましたが、もうひとつ、テレビ的であることの、重要な面白さのひとつとして、「どこまで“事件性”に迫れるか」ということがあると思う。

―――――

どこまで事件性を「作り出せるか」と言ってもいい。

―――――

映画とは、ドラマを描くものですが、テレビは、限りなくドラマを感じさせる「事件」を問題にするのです。

―――――

この映画の背景には、むろん、9.11の記憶がある。

―――――

あの記憶を下地にして、虚構の事件を「再現」しようという意図です。

―――――

その意図は、底が浅い、と言えるでしょうか。

―――――

むろんです。

―――――

深く突っ込んで考えたら、こんな安手なSF映画(1950年代頃は、こういう生きのいい、チープSFが、一杯あったんですよ。その再現の目論見とも言えるので、浅薄であるとの指摘は、決して悪口ではありません)は出来ないでしょう。

―――――

新聞の批評なんかでは、手法が斬新だ、と書いてあったけど、斬新さという点では、かつての「ブレア・ウィッチ・プロジェクト」に及ばない、と、ぼか、思う。

―――――

それよりも、なんといっても、テレビの持つ「事件性」が鮮やかに、きめ細かく「再構築」されている点が(9.11に対しての再構築です)、この映画の持つ魅力であり、安っぽさの理由である、と申せます。ただし、

―――――

「ブレア・ウィッチ…」が、あっという間にブームとなり、忘れ去られていったように、この映画も、あくまで「事件性」にこだわった以上、もてはやされる「寿命」は、短いのではないでしょか。

―――――

なに? 「ブレア・ウィッチ…」にも、続編が出来たって?

―――――

ろくにヒットしなかったでしょ?

―――――

「9.11事件」のことを、映画がこうして、「虚構をでっち上げて考察の対象にした」、ということが、アダム・サンドラーの「再会の街で」や、オリバー・ストーン、ニコラス・ケイジの「ワールド・トレード・センター」、ポール・グリーングラスの「ユナイテッド93」などの真面目な映画との、著しい対照です。

そう。

―――――

これ、フマジメな映画だと思うんだ。

―――――

(ごめんなさい、結局、手直ししつつ、書いちゃいました。

ノー編集なんて、出来たら凄いけど、ちょこちょこいじっちゃうのが、人間の業ですね)

―――――

Jack

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